「さて――
 それではオムレツを作りましょう」
 ニトロがハラキリに顔を向けて他人行儀な口調で言う。ハラキリは自分が客に見立てられていることに気がついた。それならと、彼は気分を客観的に整える。
「用意するのは、一人前で卵を3個。それから塩コショウ少々、バターを大さじ1、牛乳を大さじ1。これだけです。量が多いから卵を2つ、という場合にはバターと牛乳の分量を少し減らしてくださいね。では、まず卵を割りましょう。ティディア?」
 営業用の柔らかな口調でニトロが言うや否や、バットに置かれた卵を手に取ったティディアが、
 ゴツ
 と、ニトロの額で卵を割った。それは見事な割り方であった。ニトロの額を汚すことなく、また卵の中身をニトロの額に触れることなく、殻に決定的なヒビだけを入れる絶妙な力加減。そのままティディアは片手で器用に卵をカパッと割り切って、ボウルに黄身と卵白を落とす。
「今、このバカは」
 ゴツ カパッ
「僕の額で割りやがってますが」
 ゴツ カパッ
「皆さんはちゃんと台などに当てて割ってくださいね。失敗すると大変なことになりますから……面白いか? これ」
 急に首を捻ってニトロに問われたハラキリは肩をすくめ、
「ノリしだいに思えますが――進行はニトロ君で、ずっとこの調子?」
「うん」
「途中でダレませんかね。もっとキャラを……そうですね、単品で出演依頼が来るようなキャラを演じていけるなら面白くなるかもしれませんが」
「……うん」
「キャラ、作れます?」
「そんな器用に見える?」
「君は努力家です」
「ありがとう。でも今ここで『ウケるキャラ』を急遽作れるのは努力家と違って天才だと思うな」
「ならば――先にアラビアータを作るのでしょう? 初めは好意的に迎えられても反応は段々萎むでしょうね。となると今のは萎んだ後にやることになるでしょう? となれば、お客の反応は」
「……うん……かなり……こわいね」
 ティディアから受け取ったボウルの中身をかき混ぜながらニトロが消え入るように言うと、ティディアは口を尖らせ、
「ほらー、やっぱりそうじゃない。ニトロが反対したのよ? 俺が進行する、お前は大人しくアシスタントしてろって」
「……悪かったよ」
「それじゃあ私の提案で」
「……」
 ニトロは渋い顔をしている。
 ハラキリが、そこに問うた。
「お姫さんが進行ということは、お客を飽きさせないよう盛り上げながら?」
「得意分野ね」
「それで、ニトロ君の仕事も邪魔しない?」
「頻繁に邪魔するわよー。どうせレシピはWebで公開するもの」
「邪魔は実演部分にも? 例えばオムレツを作る時とか」
「肝心なところはちゃんと魅せてこそのエンターテインメントね」
「ふむ。それならそちらの方が安定では?」
 ニトロは依然、渋い顔をしている。するとティディアが息を一つ大きく吸い、
「さあ、私がアシスタント兼進行役。そのくせフリーダムに動き回り、オムレツの準備をアシスタントのくせにニトロに任せっきりで、挙句暇そうに客を捕まえて下世話な世間話なんかをしていたら?」
「――おおぃ、アシスタントしろや! てか進行! もう準備できたよ!」
「こんなこと偉そうに言っているけどね、この人うちじゃいっつも優しいのよ。料理も丁寧だけれどセックスも丁寧「うおいお前いきなり何抜かしてんだっ! てか料理中にそういう「はいはい卵ね、割るのね? 割らなきゃ始まらないものね、はいおでこ」
「でこ?」
「ほい」
「ぉ痛ぃ!」
 ゴツ カパッ
「何すんだ!」
「卵を割った」
「普通に割れよ! いいですか皆さん、今のは悪い割り方ですよー? 真似しちゃいけませんよー? 台の角やまな板の上など固いところでコツンとやって割ってくださいね? 卵は意外に固いので、3つもやったら3つ分痛いですからね?」
「そりゃそうね。それでバターは何だっけ?」
「大さじ1」
「大さじ?」
「さっきも使ったろ? これ、この大きいお匙」
「何か書いてあるわねー。えっと……
 15CC!」
「いきなり叫ぶな! その通りだけど!」
「重さならバター大さじ1は13グラム!」
「よく知ってるね!?――
 ……」
「うん。やっぱりこっちのノリのが、しっくり」
 ティディアはにっこりと笑った。
 ボウルに新たに加わった卵も念入りに混ぜ、牛乳を少量加え、軽く塩コショウしながらニトロは酷く苦い顔をしていた。彼もこちらの方が良いと理解しているのだろう。しかし、それに賛同すると、どうしてもティディアに『恋人エピソード』を好き勝手に捏造されてしまう。今まさに実演されたように。そのため、ひどく葛藤しているのだろう。
(別に面白くない方を選んでもいいと思うんですけれどねぇ)
 ハラキリはそう思うが、しかし、真面目でお人好しなニトロである。凄まじい人出の中、わざわざやってきてくれたお客さん達をちゃんともてなしたいと思ってしまうニトロ・ポルカトである。
「やっぱり……こっちで」
 ややあって、歯噛むようにして、ニトロは言った。
「でもやっぱり今みたいな『普段からいちゃいちゃしてます』アピールはどうかと「了解。自由にやるから、舵取りしっかりよろしくね」
 ティディアはにんまり笑ってそう言った。ニトロはフライパンをクッキングヒーターに乗せて……深く、ため息をついた。
 ハラキリは親友の“馬鹿な姿”に心地良く笑いながら、
「とりあえず、どっちにしたって一度は額で割るんですね」
 ニトロはしなだれた様子で言う。
「まあ、やっぱり定番だからね」
「本当は一度ゴベチャ! ってやりたいんだけどねー」
「食べ物を粗末にしちゃいけません!」
「って、ニトロが。
 綺麗に美味しく舐め取るから粗末になんかしないのにさ」
「どんな刑罰だドアホウ!」
「って、ニトロが」
「はあ、なるほど」
 ティディアは席に戻り、ニトロはフライパンが温まった頃合でバターを落とす。熱せられたバターが溶ける。塊の半ば頃までバターが溶けたところでニトロがボウルの卵液をフライパンに流し込んだ。
 シュウ、と、音が立った。
 それからのニトロの手際は早かった。
 左手でフライパンを揺らしながら、右手の料理箸で熱を受けて凝固していく卵液を素早くかき混ぜる。外から内へ、半ば固まった卵を内へ寄せ、寄せることで生まれた空間へまだ液体のままの卵を広げる。それを繰り返し、やがて全体が濃い黄色から薄い黄色へ変わりゆき――その時には、ニトロはフライパンを火から遠ざけていた。液体と固体の狭間で揺れる卵をフライパンの先端に寄せ、トントンと右手で左手首を叩きながらフライパンを小さくあおり、あおる度に焼き固められた卵の層で半熟の層を包み込んでいく。
 ハラキリは、手馴れたニトロの動作を惚れ惚れと眺めていた。ティディアもヴィタも実に楽しげに見つめている。なるほど、先ほど宣言していた通り、これをティディアが邪魔するわけがない。焼かれた卵がフライパンの上であっという間に木の葉型へと整形されていく……ついさっきまで溶き卵だったものが見る見るオムレツとなっていく……これは、ただこれだけでも立派なエンターテインメントだ。
「ありゃ」
 と、ニトロがうめきながら、フライパンを逆手に持ち替え、料理箸を置いて皿を手に取り、
「ちょっと焼き過ぎた」
 皿に移し変えられたオムレツは、ほのかな焼き色のつく見事なものだった。その出来栄えと料理人の言葉に齟齬を感じてハラキリは、世辞もなく素直に、
「そんなことはないでしょう。お見事です」
「焼き色はつけたくなかったんだよ。四つだからって火に置きすぎちゃった」
 皿を持ったままニトロは言う。少し何かを迷うようにして、芍薬を見る。芍薬はちょうどハラキリへフォークを届けているところだった。芍薬は、首を振る。
「これでいっか」
 ニトロは、脇に置いてあった鍋に手を伸ばした。まだ湯気の立つアラビアータソースをオムレツに帯するようにかけて、そうしてハラキリへと差し出す。
「『良いオムレツは黄金に輝く』――ってのが、父さんの持論。外も中も全部一色。俺は焼き色をつけても別にいいとは思うけどね、でも、それが理想なんだとさ」
「そういうものですか」
「そういうものらしいよ」
 ハラキリは眼前に置かれた、卵の黄にトマトの赤の映える一皿を眺めた。
 思わずよだれが口に広がる。
 と、そこでハラキリは不意に殺気を感じて体を固めた。
 凄まじい殺気、いや、違う、それは殺気にも思えるほどの羨望の視線であった。
 ハラキリは振り返った。
 やはり、そこには今にも牙を剥きそうな形相のヴィタがいた。それこそまさに腹を空かせた狼の顔であった!
(これは――)
 やばい。
 ハラキリはそう思うと同時、一つ、違和も感じていた。
 ティディアは……ティディアも羨ましそうにこちらを見てはいるが、そこに必死さはなかったのである。彼女は確かに羨ましそうにこちらを見つめながら、しかし、その意識の半分は別の方向に向けていた。
「ああ、ヴィタさんにも作るから」
 ピン、と、普段は髪の中にうまく隠されているヴィタのイヌ耳が立ち上がった。
「初めからそのつもりだったよ」
 フライパンをクッキングペーパーで拭き改め、今度は自分で卵を割りながらニトロが言うと、ヴィタは直前までの迫力は何処へやら、居住まいを正してにこりと笑った。
「大盛りでお願いいたします」
「オムレツで大盛りって」
 ニトロは苦笑する。
「二つに分けるよ?」
「はい」
 ヴィタがうなずいた時には、芍薬がワゴンに向かっていた。足りない卵を取りにいったのだ。ニトロはそれが解っているから、気兼ねなく残り二つの卵でオムレツを作り出す。卵を割り、混ぜ、先ほどよりやや少ないバターを温まったフライパンへ……
 ハラキリは、さらに熟練を増してきたニトロと芍薬のコンビネーションを心の底で嬉しく思いながら、目をティディアに移した。彼女はやはりニトロをじっと見つめている。ただそれだけでも、彼女の全身には大きな喜びが迸っている。
(本当に、随分可愛らしくなったもので)
 頬に浮かびそうなニヤケを押し殺しつつ、ハラキリはフォークを手に取った。まずはプレーンの味をと、アラビアータソースのかかっていない部分にフォークを通す。すると、ほんのわずかな抵抗の後、フォークはすとんと皿に到達した。
 柔らかい。
 オムレツの断面は、なるほど、ニトロの言う通り山吹色一色であった。ムラはない。それはニトロの素材への火の通し方が均一であるということの証左でもあった。
 ハラキリは、一口大に切り取ったオムレツを口に運んだ。
 思わず、ハラキリはほころんだ。ほころんでしまった。
 薄焼き卵のような表面が舌に触れた時、絶妙な塩気に引き立てられた卵黄のコクが味蕾を包み込んだ。焼かれた卵とバターの香ばしさが調和も素晴らしく鼻腔をくすぐる。舌を動かすと、それだけで半熟の中身がほわりととろける。焼き固められた表層は弾力を持ち容易には崩れないが、しかし歯の上ではふわりとほどける。とろけてほどけた卵の二層それぞれの香味が舌の上で混ざり合い、どこまでもまろやかな旨味が味覚を楽しませ、そこに、ほんの少しの隠れた胡椒のスパイシーさが現れては消える度に卵の味を新鮮に立ち戻らせてくれる。シンプルでありながら全く飽きの来ない味わい。それどころか後を引き、早く次をと思わせる力強さ。飲み込んだ瞬間にも芳しい滋味!
「美味い」

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