凶 /2013

(第三部『行き先迷って未来に願って』あたり)

 王都の夜、道を華やかな繁栄の光が照らす中、ヴィタは悲喜こもごもに人生を謳歌する人びとの間を足早に進んでいた。時に不機嫌を隠さず肩を怒らせて歩く青年を追い抜き、時に腕を組み幸せを見せ付けるように歩くカップルとすれ違い、はたまた何やら訳の分からぬことを楽しげに言い合い道を塞ぐように広がっている酔っ払い連中の隙間を躊躇なく鮮やかに通り抜け、彼女はなおも歩を早めて進んでいた。
 先を急ぐ彼女の姿は今、常なる彼女のものではない。
 生来の変身能力で顔を変え、服装も平均的なオフィスレディのものに変え、低いヒールで軽やかに、しかし力強くアスファルトを突く。
 カッカッとヒールが音を立てる度、うなじで一括りにした茶色い髪が尾のように揺れていた。
 カッカッとヒールの音を立て、ヴィタは、やがて明るい繁華街のメインストリートから路地へ入り、さらに暗い路地裏へと切り込んでいった。
 彼女は急いでいた。とにかく急いでいた。
 時は23時。
 本日の仕事はもっと早く終わるはずだった。しかし突如湧いた問題に対応するために時間を食われ、解放されたのはつい三十分前……
 その時、ヴィタの主人であるこのくにの第一王位継承者は、彼女にすぐに「休むように」と指示を出した。公式なスケジュールに記載されるような王女としての仕事は終わっていたが、それのみを補助することがヴィタの仕事ではない。王女の身の回りの世話も任されている身として、本来ならば、今も何か雑事を片付けているであろう主人の要望に即座に対応できるよう控えていなければならないはずだった。だが、王女と執事という表面上のつながりはともかく、根深いところでは『同士』として通じ合う二人である。主人は部下の抱く楽しみがどれほど大きいかを理解していたのだ。
 ヴィタはもはや走っていた。
 彼女が向かうは、日付の変わる時間に開店する店。
 形態としては大衆食堂である。
 それは深夜に働く労働者のための『夜のランチ』を置く一方で、酒飲みのための肴も豊富に揃える店。知る人ぞ知る――このご時世にあって、自らはマスメディアにもインターネットにも一切情報を発信しないというのに“知る人ぞ知る”という確固とした評価を得ている名店。
 特に絶品だと耳にするのは月に一度だけ出される『肉々煮込み』である。限定25皿のその名物料理は、牛・豚・羊・鶏等々とにかく色々な肉を、部位を、どんな肉にも合うと店主が豪語するオリジナルソースで煮込んだものだ。野菜などは入れない。野菜などは邪道。どうしても野菜が欲しいならサラダを別に取ればいいじゃない! その一皿を食べた者は言う、舌でほろほろと押し潰せるほどに柔らかく、それなのに噛み締めることのできる絶妙極まる煮加減、その肉をぐっと噛み締めるとそれぞれの本来の味が滲み出て、とろける脂の旨味は口全体に広がり、溢れた肉の香味は舌の上で今一度複雑なコクの凝縮したソースと混然一体となって絡み合い……嗚呼、この一皿には、肉食のエデンがある!
 とある有名レストランの総料理長が何度頭を下げても教えてもらえなかったという奇跡のソースのレシピを知る者は、店主以外にない。子もなく弟子もない店主は、これは俺が死んだら完全に失われる料理なのだと嘯いてさえいるらしい。
 ――ヴィタは、チャンスがあるならば、是非そのエデンを食してみたかった。
 そしてそのチャンスがとうとう訪れたのだ。まさに、この日、今夜こそ!
 実は、月に一度だけ出されるとはいえ、『肉々煮込み』がいつ出されるかは誰も知らなかった。いつも不意打ちで出されるために、知るのは店主その人だけなのである。
 そのためヴィタは、まるで自分の幸運を試すかのような心持ちで、既に何度かその店を訪れていた。
 だが、いずれの時にもエデンには辿り着けなかった。
 それでも、その際に店で頂いたレギュラーメニューは間違いなくどれも美味しく、だからこそヴィタは、今では以前にも増して『肉々煮込み』が食べたくて仕方がなくなってしまっていた。もう、こうなったら主を利用してでもどうにか食べられるようにしてみようかとまで思うほどに。そうやって食べることがお店巡りに対する自分の信条に反することであり、本当の意味では満腹を得られないことであったとしても、そう思わずにはいられないほどに。
 ――そんな時、彼女は聞いたのだ。
 猿孫人ヒューマンよりずっと優れた聴覚で、厨房で店主が食材を管理させている汎用A.I.にその料理のための準備を指示していたことを、確かに聞いたのだ!
 元よりの人気店。
 開店前から人が並ぶ。
 ヴィタは夢中で走った。
 あの角を曲がれば!
 自分が他の人間になっていることも忘れて、人目もはばからず能力全開全力で、トップアスリートもかくやという速度、見事なターンで角を曲がる。
「!」
 そして、ヴィタは見た。
「!!」
 優れた視力でその店に明かりが灯っていないことを。
!?
 そして……ヴィタは、見た。
「――」
 店の扉にある小さな看板――その板晶画面ボードスクリーンに洒落たフォントで描かれた店名の下、いつもなら『営業中』と書かれるはずの場所にパッと文字が浮かび『店主急病のため、本日休業』と、そう示された瞬間を。
「……」
 ヴィタは、足を止めていた。
「………………」
 ヴィタは足を止めたつもりはなかった。だが、彼女の両脚は、自然と、止まっていた。
「………………………………」
 店の前にいた先客が、自分と同じように看板に表れたインフォメーションを見て、先頭にいた一人は舌打ちし、次の二人連れは苦笑いしながら去っていく。残りの十数人の他の客達もそれぞれに去っていく。
「……………………………………………………………………」
 ヴィタは暗く狭い道の真ん中で立ちすくんだまま、やおら、携帯電話を取り出した。
 緩慢な動作でコールする。
「――ティディア様、今から戻ります。はい、何かありました。つきましてはお願いがあるのですが――いえ、泣いていません。はい、ティディア様、どうか、ヤケ酒に付き合ってください」




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