薔薇とサクランボ

(『第二部 第五話』の後、『第四部』のおおよそ一年前)

 快い暑気が風の吹く度に若返る。空には薄い山吹色に染まるすじ雲が浮かび、天上には天上の風があるのだろう、地に吹く風とは違うリズムで緩慢に形を変えていく。その悠々と雲の変わりゆく様は、天上の風が、我こそが星を巡る風の王であると鷹揚に宣言しているようである。しかし天上の風は知るまい、地を覆う、この馥郁ふくいくたる薔薇の香りを。
 そのそのに足を踏み入れたヴィタは我にもなく感動していた。
 息を飲む。
 胸が詰まる。
 静かに息を吐き、ゆっくりと息を吸う。平均的な人のレベルに落とした嗅覚へ一杯に空気を送り込むと、彼女の脳裡には繚乱たる薔薇の姿が蘇り、鮮やかに花開く。彼女は目の前に咲き誇る花々と記憶の内に咲き乱れる花々とを同時に見て、身も心も花園に埋もれた。ロディアーナ宮殿の中庭から蔓性の低木を編んで作られた薄暗いトンネルを抜けて、狭い出口から世に名高いロザ宮の薔薇園に足を踏み入れたその場所で、彼女はしばし時を忘れて風に吹かれていた。そして風が吹く度に、新鮮な香りが何度も彼女を恍惚とさせるのであった。
「素晴らしい」
 ややあって、第一王位継承者の新しい執事はつぶやいた。
 四季を通じて一時も花の絶えることのなく、夢のような花園の中に在って美しさを増す瀟洒なロザ宮を飾ることにより、また自らの美しさをも増す悠久の薔薇園。
 現在におけるアデムメデスの薔薇の歴史はこの小さな庭園から始まった。覇王が王妃の慰めにと造った宮を常に飾るために品種改良を国家事業として進めたことが、その起源。各地から最高の専門家が最良の種苗と共に集められ、以降、様々な薔薇がこの庭のために生み出されてはアデムメデスの各地へと還流されていったのである。
 冬にこそ最盛期を迎える品種が生まれたのもここだ。
 わずかに青い色素を持つ希少種から鮮やかな青薔薇も作り出された。
 黒薔薇も実現された。
 ロイヤルカラーである黒紫の薔薇が実現したのは、ちょうど18代目の生まれた年だった。
(『アエテルヌム』)
 その黒紫の薔薇が可憐な白薔薇をはべらして、ヴィタの前に一輪咲いている。顔を寄せると、神秘的ながらも強い印象を与える色からは想像もつかないほど脆く優美な香りが鼻腔を愛撫する。
 ヴィタは顔を上げ、今一度庭園を見渡した。
 日に照る緑の葉を瑞々しい絨毯にして、白から真紅にかけてのグラデーションが複雑に、しかし秩序だって波打っている。黒紫は景色を引き締めるためにアクセントとして配置されていて、されどそのロイヤルカラーはこの全景を際立たせるかなめでもあり、それによってこの色は脇役である一方で景観の全てを支配していた。
 ヴィタは一歩踏み出す。
 この庭園は季節、あるいは企画によって彩りを変えるため、薔薇も地植えにされたものだけでなく、鉢植えのものも主として使われている。その鉢にしても花壇の装飾として演出されているものもあれば、一見鉢植えと知られぬよう地中に埋められているものもある。それらの技巧も見事だ。庭の形式・手法としては造園当時と変わらないのに、いささかなりとも古臭さを感じさせることはない。それどころか普遍を感じさせた。そしてそれを助けているのが、葉の色である。主役たる花色の下地となり、日を受け栄養を作り出して花株を力づける緑の葉。花の色を活かすための青なす敷布も光り輝き、その生命力は栄える花々よりもなお深く、深いが故に、色めく花々をまた際立たせる。
(『ピュアパール』『ルイレル』『シーロタヘ』『ローザ・アルブス』『ビアンペスカ』――)
 園を歩き、目についた花の名を思い浮かべてヴィタは歩く。同じ白でも複数の品種が植えられ、その花形かけいが受ける光の差異によって同色の中にも微妙な変化を豊かに生じさせている。時には陰性のミニバラが大輪の薔薇の根元に顔を覗かせて、多く人の見過ごす影の中にも遊び心が忍んでいる。
 石造りのロザ宮の足元に、小さなベンチがあった。舞踏会が開かれる際には華やかな光をこぼす大きな窓も今は暗い。ベンチは大窓の死角に置かれていて、例えば窓が開かれている時、ダンスに疲れた人がホールから内廊へ抜け出て夜風に休む時、窓際で交わされるその会話はこのベンチに座る者に筒抜けとなろう。まさに盗み聞きのための特等席である。このような空間を設けた人間はきっと底意地が悪かったに違いない。ヴィタはベンチに腰を下ろした。そしてこのベンチの設置者の悪さをさらに知る。ちょうど左右にある少し背の高い薔薇の木立と、庭に地植えされた品種の配置の妙で、ここは庭園内の多くからも死角になっているのだ。
 しかし、ただ盗み聞きの機会を生むためだけにここにベンチがあるわけではなかった。
「――」
 眼前の風景を見てヴィタは思わず微笑む。
 このベンチから正面を眺めると、左右の木立のために景色が切り取られる。この庭をロディアーナ宮殿の中庭と区切るための緑木の壁が真正面にそびえ、逆光のために深い暗緑色をとなったそれを背景にした薔薇の色は明るく映えて実に美しい。もっと日が傾けば木の壁の上には金色の後光が差し、緑の壁を飾る蔓薔薇――『マルツァリノ』の黄に白の絞りの入る無数の小輪はロザ宮の壁から跳ね返る陽光を受けて星のように輝くだろう。それは何と素晴らしいことだろう。
 ヴィタは持ってきたバスケットを傍らに置き、中から水筒を取り出した。蓋を開け、その蓋に中身を注ぐ。白湯であった。
 それから彼女はタッパーを取り出した。蓋を開けて、艶のある赤い実を一つ取り出し口に放り込む。薄い皮を歯で押し潰すと、ほんの少しの抵抗の後、甘い果汁が口の中に弾けた。爽やかな香りが広がり鼻腔の中で庭園の芳香と馴染むように混ざり合う。
「うん」
 ほころぶ唇から吐息が漏れる。
 主人に休憩を命じられた後、ロディアーナ宮殿の厨房で詰めてきたサクランボをまた一つ摘んで頬張る。ヴィタはまた微笑む。種がなく、肉厚で、美味なるようにと作られてきたこの品種も素晴らしい。とても甘いのに後味は爽やかで、飽きも来ないからいくらでも食べられる。軸はあらかじめ取ってきてあるから、次の一つも摘んですぐに放り込む。
 希代の王女の執事に任ぜられてから、もう二月ふたつきが経った。
 楽しい時間は速く過ぎるものだとヴィタは思う。任を負って以降、いや、我が姫君と初めて目を合わせた瞬間から一秒たりとも退屈を感じたことはない。主人にして同志の『クレイジー・プリンセス』、彼女の提供してくれる私の立場は実に素敵な景色ばかりをみることができる。この素晴らしい薔薇園をこうして満喫できるのも特権的な立場の賜物。そして何より『ニトロ・ポルカト』である。彼と親愛なるバカ姫様の作ってくださるメインディッシュはこのサクランボ以上に飽きがこない。時々曲者がスパイスをもたらしてもくれるし、以前の『隊長』のようなイレギュラーがアクセントを加えてくれるのも実に良い。もちろん第一王位継承者の執事として退屈な人間を相手にしなければないことも多々あり、そのような時には“退屈”ではあるが、実はそのような時にも心の裏側は期待に満ちている。一瞬後には何をしでかすか解らぬティディア様は、瞬きの直後、一体何をしているだろうか、どんな言葉を暴れさせているだろうか。それを思えば仮初かりそめの“退屈”も一種の口直しとして楽しめる。
「ふふ」
 休憩に入る直前に届いた報告を思い返し、ヴィタは笑む。その映像の中でニトロ様は実に素っ頓狂に驚いていた。それがあまりに素っ頓狂な驚き方だったから、ニトロ様を狙ってマンションのエントランスに侵入してきた『ティディア・マニア』も逆に驚き目を剥いて飛び上がり、すると両者の奇妙なにらめっこが始まり、ああ、監視カメラという存在の何とありがたいことか、その録画された実に滑稽な邂逅にはどうにも吹き出さざるを得なかったものである。数秒後、本分を思い出した暴漢が切り落とされたばかりの街路樹の枝を振り回す姿は狂気を滲ませながらもどこか間抜けで、その男を取り押さえるためにニトロ様が居合わせた隣人と繰り出したコンビネーションはちょっとしたコントのようであった。隣人は溌剌と老いた男性で、腕っ節よりも声や位置取りで暴漢を圧倒する。その援護を受けてニトロ様は買い物袋から咄嗟に取り出したトウモロコシで暴漢を牽制する。白眉は二人に敵わぬと見て取った暴漢がエントランスから脱走を試みた時、芍薬が自動ドアを閉めたことだ。よく練られたコントでもあのタイミング、あの衝突っぷり、壊れたバネ仕掛けの人形のようなあのひっくり返りっぷりはなかなか拝めない。ニトロ様自身「コントか!」とツッコンでいた。老人も思わず笑っていた。暴漢は頭を打って目を回していた。それからはその元警視の隣人と、ちょうどエントランスにやってきた非番の現役警察官が的確に処理していたので、こちらは安心して大満足である。
 それにしてもニトロ様を助けた老人の暴漢に対する態度は堂々としたもので、ニトロ様もその覇気に助けられた所は少なくないだろう。あのような隣人がいることは何より頼もしいことであるはずだ。
 となると、報告を受けたティディア様は何も言ってはいなかったが、
(これで懸念が一つ、消えましたね)
 それと同時に我が同志の企ての一つも消えてしまった。
 ぬるめの白湯を飲みつつヴィタは思う。
 その二つを天秤に掛けると、まあ、懸念の消えることの方が重いだろう。自分としては見られるかもしれなかった“引越し屋さんコント”がなくなるのは惜しいが、それが消えたらまた別の企てが生まれるだけのこと。それは例えば先日の銀行のようなもの。ニトロ様のフライングクロスチョップは、目をつむるまでもなく薔薇の花園に重ねて思い描ける。あのようなものがまた見たい。そして見られるだろう。あの少年は、きっとどのような試練ボケにも答えてくれるはずだから。
 サクランボを二つ放り込み、それぞれを左右の奥歯で噛み潰す。ヴィタは微笑み、そして真顔となった。生来人間より鋭い聴覚に意識を集中する。
 歌声が聞こえた。
 聞く者の心を柔らかに慰撫するかのような声が、風に乗ってやってくる。素朴なことばが、ミディアム・テンポのメロディに甘やかにも切ない想いを託して芳しい香りの中を麗しく漂う。
 それは五百年前のラブソング。
 およそ三月みつき前、春、ある老婆が、初めて恋を知った曾孫娘のためにこの曲を歌った。その歌は亡き夫がプロポーズの際に彼女へ贈ったもので、ピアノの弾き語り用にアレンジされたもの。その歌を聴いて感激した曾孫娘が友人に自慢するために曾祖母の映像をインターネットに載せたところ、何の悪戯か、世の注目を一気に集めたのである。
 カビ臭いほど古くもまっさらに新しい流行歌は次第にヴィタへと近づいてくる。左方、ロザ宮正面の薔薇園入り口からこちらへ歩いてくる。時折立ち止まる。歌は途切れない。花を愛でながら、彼女は歩いてくる。その歩調は舞い上がるかのように軽い。
 やがて、白薔薇の揺れる中に女子高生が現れた。
 穏やかな風に長く美しい黒紫の髪がさらとなびいていた。
 夏用の白い長袖シャツの上に、ボタン留めのクラシカルなデザインのベストを着るミリュウ姫が、歌いながら、ロゼット咲きの白薔薇へ口づけをするように唇を寄せている。
 香りを楽しみほころぶ王女の顔に、ヴィタの心が自然と和む。その我が心の動きを彼女は不思議に思い、また非常に興味深く感じた。姉姫とは全く違う空気を纏う妹姫を、真っ直ぐに見つめ続ける。
 微風に崩れた髪を整えるよう耳にかけながら、ミリュウは歌う。
 愛を謳い君を想うリフレインを口ずさみながら、彼女は軽やかに歩を進める。
 ふと、重みのない糸に触れたかのように彼女の歩みが止まった。
 活き活きとした黒紫の瞳が、涼やかなマリンブルーの瞳の中で硬直した。
 歌を紡いでいた唇がゆっくりと息を止める。
 第二王位継承者の、どの姉よりも劣るとはいえ醇美なる面が一瞬、薔薇よりも白くなる。
 直後、どの姉弟よりも両親に似るその尊顔が薔薇よりも紅く染まった。
 同時、ヴィタは激しく胸を高鳴らせながら、思わず緩みそうになる頬を懸命に固めながら、少女の紅顔こそ合図とばかりに起立した。胸に手を当てサッと頭を垂れ、
「ミリュウ様がいらっしゃいましたこととは露にも知らず、誠に失礼致しました」
 手早く、手短に、女執事は軽々と大声で大嘘をつき、そして続ける。
「座したるままご挨拶も遅れました非礼、賢慮並ぶ者なき姫様の天にも勝る寛大なる御心によって平にご容赦頂けますよう、卑しくも我が忠心より何卒なにとぞ御願おんねがい申し上げ奉ります」
 伝統と古い習慣を極めて重んじる一部の上流社会のパーティーでなら聞けるかもしれない大仰にして芝居がかった言い回しにミリュウはしばらくぽかんとし、場合によってはむしろ慇懃無礼となるであろう謝罪の文句をやっと飲み込むや、次第に、笑い出した。
 ころころと転がるような笑い声を聞きながら、ヴィタは頭を下げ続ける。垂れた藍銀色の髪に隠れた顔には笑みがある。
「頭を上げて」
 朗らかにミリュウが言った。
 ヴィタは顔を上げた。その顔も瞳と同じく涼しげで、そこに怯えは微塵もない。先ほどの文句を既に忘れたかのような趣すら存在している。これを本物の忘却の顔と見るか、王女に罰を与えられたとしても異論はないという忠臣の覚悟の顔と見るか、はたまた命知らずの役者の度胸そのものと見るかは人それぞれだろう。ミリュウは『クレイジー・プリンセスの執事』へ感嘆と納得の入り混じった微笑を贈り、
「赦します。ヴィタ・スロンドラード・クォフォ、この美しい薔薇の園をそのようにして眺めるものではありません。楽になさい」
 こちらも明らかに芝居がかった調子で言う。するとヴィタは突如感無量とばかりに顔を上向け、
「太陽を仰ぎ神梁しんりょうの深きより無上の感謝を捧げます、うるわしの君、きよらかなるミリュウ様」
 大古典時代の演劇に出てくる一句を呼び名だけ変じて詠じ、ヴィタは今一度深く頭を垂れる。そして頭を挙げると、ミリュウがこちらへと歩み寄ってきていた。その顔に人知れずの歌を目撃された恥はもはや一筋の影もない。
「こんにちは」
 ヴィタが改めて挨拶を述べようとした寸前、今度はミリュウが先んじた。ほのかに見開かれたマリンブルーの目を黒紫の瞳が悪戯っぽく覗き込む。その眼差しにも「楽にして」という意志がある。
「こんにちは、ミリュウ様。お帰りなさいませ」
「ただいま。
 今日はいい天気ね」
「はい、とても好い日和です」
「休憩中?」
「はい」
「お姉様はどうされているの?」
 ミリュウの目には期待があった。着崩すことなくボタンのしっかり留められた紺のベストの下に高鳴る心臓が見えるようだ。もし姉も休憩中だと答えれば、この妹君は挨拶をするため脇目も振らず飛んでいくことだろう。だが、ヴィタは言う。
「お手紙を読み、返事を書くと。その後は書類を片付けると仰っていました」
「そう」
 あからさまにミリュウは失望し、うなだれる。とはいえ姉の仕事を自分の挨拶ごときで邪魔することはそれこそ論外であると気を取り直し、それからまるで長らく離れている恋人の安否を尋ねるように、
「お姉様のご機嫌はいかがかしら」
 ヴィタは苦笑しそうになった。しかし相手の望む答えを速やかに言う。
「非常に麗しく存じ上げます」
 その一言で全てを察したようにミリュウは心底嬉しそうに笑う。
「そう、良かった」
 柔らかに微笑む彼女は小首を傾げるようにしてヴィタへ問いかける。
「隣に座ってもいい?」
「もちろんです」
 ヴィタはバスケットをベンチの端に移し、席を空けた。ベストと同じ紺色のスカートを押さえ、ミリュウは品良く腰を下ろす。彼女の目に従ってヴィタも腰を下ろした。涼やかなマリンブルーの瞳を見つめ、妹姫は言う。
「こうして話すのは初めてね」
 二人きりになったのもこれが初めてだった。
「どう? この庭は。気に入ってくれたら嬉しいのだけど」
「気に入らぬはずがありません。実に素晴らしい。これまでにいくつもの薔薇園を見てきましたが、間違いなく最高のものであると断言できます」
「そう言ってもらえて良かった。お姉様からお預かりしている身でこう言うのは思い上がりだけど――」
 笑顔で、小首を傾げてミリュウは言う。
「でもね、自慢なんだ。皆、とても愛情を込めてお世話してくれているのよ」
「ええ、それは我が子への愛情にも並ぶことでしょう。見事な仕事です」
「どうもありがとう」
 庭師への賛辞を我がことのようにミリュウは喜ぶ。そして、
「あなたも育てているの?」
「はい。五株ほど」
「何?」
「『グランデマーテル』『ミステリアス・ミストレス』『ロマン・ロマンス』『ブルーブルー』『プティ・マルツァリノ』です」
「『ロマン・ロマンス』はわたしも大好き」
 ミリュウの目が輝いた。
「個人的にね、お姉様に一番お似合いになる薔薇だと思っているの」
 半剣弁高芯咲きのその薔薇は、中心にかけては純白で、花弁の端にかけて品の良い山吹色へと変化していく。うっとりするような香りが名の由来であるが、ヴィタには少し意外だった。
 もし、自分が挙げた五種を提示して道行く人に選ばせたら、おそらく『ミステリアス・ミストレス』が最もティディア姫に相応しいと支持を集めるだろう。こちらは剣弁高芯咲き、中心は鮮やかな赤で、花弁の端に向けて黒紫へと変化していき、最後にふちは僅かに青みを帯びる。そのグラデーションは妖しげな魅力を伴い、酔わせるような甘い香りもあってファンも非常に多い。その意味でも蠱惑の美女に似合うものだろう。
 ヴィタの顔に疑念を読み取ったミリュウはどこか誇らしげに言う。
「『ロマン・ロマンス』は他の何よりお姉様の御瞳おめ御髪おぐしを際立たせるわ」
 なるほど、と、ヴィタはうなずいた。確かに『ロマン・ロマンス』は『ミステリアス・ミストレス』と並べると後者を活かす。そう考えると『伝説のティディア・マニア』の言い分は的確だ。
「ヴィタには『ミステリアス・ミストレス』が似合いそう」
「そうですか?」
 それもまた意外である。むしろ真紅の大輪『グランデマーテル』が無難だろうに。
「うん。あなたの目はとても澄んでいて綺麗だから、『グランデマーテル』もいいけど、それより『ミステリアス・ミストレス』みたいな存在感の方がお互いに引き立て合うんじゃないかな」
 なるほど、と、ヴィタはまたうなずいた。意識しているかどうかは判らないが、その構図は“蠱惑の美女と藍銀色の麗人”――まさに彼女の姉が狙った効果に即している。流石は妹様、といったところだろう。ヴィタは賛辞の代わりに言う。
「ミリュウ様には『ピュアパール』ですね」
 それは丸弁の優しい香りの純白の薔薇。小ぶりだが非常に丈夫で四季を通じて人の目を癒し続ける。冬にも咲く代表種でもあり、この庭園にも欠かせぬ花だ。
 ヴィタの言葉にミリュウは嬉しげにうなずき、その拍子にヴィタの向こうに視線を止め、気づいてはいたが話題にしていなかったバスケットを覗き見るようにして、
「何を食べていたの?」
「サクランボです。ミリュウ様もお召し上がりになりますか?」
「うん。その水筒は、お茶?」
 ヴィタの差し出したタッパーからサクランボを一つ摘んで口に入れ、ミリュウは目を細めて美味しそうに唸る。ヴィタは少女が果実を飲み込むタイミングを見計らい、
「白湯です」
「ただのお湯?」
「はい。ここでは例えリストリー・メイでも満足することはできないでしょう」
 リストリー・メイは紅茶の代表的な最高級銘柄である。
 ミリュウはヴィタの意図をすぐに理解し、目を輝かせた。
「あなたは美食家ね」
「お褒め頂き、光栄です」
「わたしにも一杯くれる?」
「コップがありませんので……」
「あなたの使ったものでいいわ」
「よろしいのですか?」
「確実に毒が入ってないでしょ?」
 その物言いに、ヴィタは不意を突かれて思わず笑った。姉の執事を破顔させたミリュウは頬を赤らめて喜ぶ。
「あ、そうか」
「どうなさいましたか」
 ヴィタから程よい温度の白湯の入ったコップを受け取り、ミリュウは答える。
「サクランボも、バラ科ね」
 ヴィタは目を細めた。
 ミリュウも目を細め、そしてコップを両手で持ち、口を寄せて熱を確かめるように少し息を吹きかける。その所作は上品な作法からは外れるが、それこそヴィタへ心を許している証拠でもあった。
「ルッド・ヒューラン様は、今はどうされているのですか?」
 途切れた会話を接いだヴィタの問いに、ミリュウはまた目を細める。己の執事の名を忘れないでいてくれたのが――それは当然ではあるのだが――嬉しいのだ。
「セイラはお茶を用意してくれてる。中庭でって話してあるんだけど……ヴィタもご一緒しない? ルッドランティーがお嫌いでなければ、だけど」
「喜んで招待されたく存じます」
「良かった。あ、でも、お姉様から頂いた休憩時間は、どれくらいあるの?」
「18時までです」
「長いのね」
 確かに主人が仕事をしているというのに、それを助ける役目も負う執事が取るには長い休憩だ。妹の疑念に対してヴィタはうなずき、
「ティディア様のお計らいです」
 そう言って、薔薇園へ目をやる。それを見て、姉の意図を悟り、ミリュウは涙ぐむように目を輝かせた。
 穏やかな風が吹く。
 快い暑気が洗われて、流れる。
 ミリュウはゆっくりと白湯を口に含み、馥郁たる薔薇の香りを吸い、そして飲み込む。はあと息を吐いた妹姫は姉の執事に目を向け、
「やっぱり、あなたは美食家ね」
「お気に召されたようで何よりです」
 ヴィタはサクランボを差し出した。
 ミリュウが摘み、ヴィタも摘み、互いに口に放り込んで瑞々しい果汁に舌鼓を打つ。
 少し間が開き、その間にまた一粒ずつ食べる。
 やがて、ミリュウが真っ直ぐ前方を見つめたまま、コップを回すように揺らしながら、言った。
「聞いてもいい?」
「お答えできることなら」
「『変身』できるって話だけど」
「そういえばまだご覧にいれていませんでしたね」
「うん――わあ!」
 振り返ったミリュウが驚きの声を上げた。その驚きはヴィタの思わぬほど大きく、その驚きのために激しく揺れたコップからは白湯がこぼれてスカートの端にかかる。
「あッ」
「! これは失礼致しました」
 急いでハンカチを取り出した猫顔のヴィタにミリュウは首を振る。スカートの濡れた箇所を軽く摘み上げながら、
「大丈夫、もう大分だいぶ温くなっているし、あまり当たっていないから」
「しかし」
「これはわたしの失敗。ううん、自分から言い出しておきながら驚いちゃって、わたしこそ失礼しちゃった」
「いえ……」
 素直にそう言われてはヴィタも流石に戸惑い、しかし気を取り直し、
「驚かせようとしたのですから、驚いてくださって失礼なことなどありません。それよりもお手にまだ湯のあることを失念していました。わたくしの失態です」
「ううん、いいの、本当に大丈夫。――でも……」
「はい」
「……」
 ミリュウはうつむき、上目遣いに、躊躇いがちに、されど期待を込めて言った。
「触ってみてもいい?」
 ヴィタは目をまさしく猫のように細めた。
「ご遠慮なく。しかし、その前に、おみ足に触れる非礼を承知で申し上げますが、拭かせていただけますでしょうか」
 ミリュウは少し間を置いてから、うなずく。
 ヴィタは一度席を立ち、姫君の前に回った。跪き、濡れているのがスカートの横側、直接太腿に触れるかどうかといった場所であるのを確認して内心安堵した。実際温かったにしても反省しなくてはならない。すっかり驚かせることへ意識が行き過ぎてしまった。
 王女たれば側仕えに世話されることも茶飯事であろうに、それでも恥ずかしそうにしている少女を楽にするため、ヴィタは、
「失礼致します」
 と、スカートを手にし、濡れた箇所を二つ折りにしたハンカチでクリップのように挟んだ。ぐっと力を一度入れる。それだけで水はスカートから吸水力の強い生地に移った。
「失礼致しました」
 辞儀をし、ベンチに座り直す。
「ありがとう」
 ヴィタは会釈を返し、そして期待の目を向ける姫君に頬を差し出した。
 チャコールグレイの和毛にこげの生えた頬に、少女の細い指がそっと触れる。するとその目がまたも輝いた。思わずといったように彼女は言う。
「素敵な毛触りね」
「お気をつけ下さい、ミリュウ様」
 堪えられずヴィタは苦笑する。
「もちろん文化にもよりますが、多くの獣人ビースターにとってそのセリフは“睦言むつごと”です」
「ごめんなさい!」
 慌てて手を離したミリュウの顔は再び紅潮していた。ヴィタは相手を無闇に刺激しないよう落ち着いた調子で言う。
「大変嬉しい誉め言葉でもあるのですが、せめて『毛並み』と仰っていただけたら“色合い”も変わりますので」
「うん、気をつける……でも、大変なところで失敗しなくて良かった」
「はい」
「お姉様にもっとご指導頂かないと……」
「このことは、よほど親しい間でもなければ話題に出ないと思いますが」
「ラミラスは獣人ビースターの多い星だもの。これからのことを考えたら、見過ごせない。どんな拍子にぶつかるか判らないわ」
 それは確かなこと。反論もない。ヴィタはうなずき、それから、
「他にお聞きになりたいことはありますか?」
 次第に元の顔に戻りながら訊ねる。ミリュウは猫から猿孫人ヒューマンに戻っていく麗人の様子に口をぽかんと開けていたが、やおらはっと気がつき、ふと目を暗くした。
「――ファルド・ネグスト・リードラムについて」
「お答えできることなら」
「このまま刑務所長を続けさせる可能性は、ある?」
「ありません」
「そうよね」
 ミリュウはもう熱さのない白湯を飲み干す。ヴィタがコップを受け取り、水筒に被せて軽く閉める。サクランボを一つ、また一つと食べてヴィタはミリュウの次の言葉を待った。もちろん妹姫の意図は既に理解している。件のネグスト・リードラムは代々ガレンツァル領ディストレクト刑務所のおさを務めてきた貴族の当主で、その先代は国王陛下のご友人。……父に相談を受けた親思いの娘がその力になりたいと思うのは自然なことだろう、それが誰よりも崇拝する姉に意見するという板ばさみに合うことであったとしても。王の三女は苦しげに言う。
「何か落ち度があったの? 真面目な人だって聞いているけど」
「真面目です。が、愚鈍です」
「辛辣ね」
「申し訳ありません」
「……愚鈍だと、駄目?」
 そう問うた後、ミリュウは伏し目がちに、付け足す。
「生きる価値はない?」
「?」
 ヴィタは眉をひそめた。そこまで言ったつもりはないが……この第二王位継承者はこちらへ何か試験でも課してきているのだろうか。本当に『お姉様』に相応しいのかどうか、と試してきているのであろうか。あり得ない話ではないが、とはいえ強いてそのようなことをしてくる人間のようにも思えない。
 それともこの少女は最早こちらと心を開いて語り合おうというのか。――あり得ない話ではないが、それでも少し早過ぎる。いかに『姉の執事』という立場が彼女から全幅の信頼を置かれるものであったとしても、彼女は、これほど急に、しかも人を驚かせるような距離の詰め方をするような人間ではない。
 それではこれはその距離を縮めていくための語りかけであろうか。語るということは、それが虚偽にしろ真実にしろ、心の幾ばくかをさらけ出すことに他ならない。もし相手に「お前から先に心の幾ばくかを見せろ」と言われれば不快にもなろうが、逆にそれをそっと無防備に開示されたら悪い気はしない。ならば何かしら応えてみせようという気にもさせてくれる。そう、させてくれる――これはミリュウ姫の平和的ながらも実に戦略的な天性だ。そして天性ながらも彼女自身は無自覚で、しかも彼女が意図的には操れない武器によってこの『劣り姫』は何度も『恐ろしいティディア姫』のフォローを成功させてきている。だからこそ、姉も重宝している。
(――あるいは)
 と、ヴィタはもう一つ、可能性を探る。
 もしかしたら、学校でそのような話題を耳にでもしたのかもしれない。
 姫君の通うその私立高校は王家の運営であり、約2000年の歴史を持つ由緒正しき小中高一貫校だ。それは当時の王が子女のために中央、及び東西南北大陸の副王都に作った学び舎で、国教会の式典を含め公務で出席日数を削られがちな子女が卒業しやすいよう都合良く制度が整えられ、故に各地の副王都に住まう歴代の王子女は大抵その学校に通っている。設立の動機はいささか教育において不純と言うべきところがあるものの、それでも学校には王子女に相応しいよう優秀な教師が集められ、いつの時代も学力レベルは常に高い。さらに王子女と同じ学び舎に学ぶという副次的なステータスも2000年に渡って上流社会の垂涎の的であり続けている。そしてそのようなステータスのある場所には往々にしてエリート意識が芽吹くものであり、そこで伸びゆく若木には刺々しくなるものもまた往々にしてあるものだ。もしこの優しい姫君がその棘に触れたとしたら……
 ヴィタは、非礼を承知で逆に問いかけてみる。
「ミリュウ様はどう思われますか?」
「わたしはそうは思えない」
 それだけを言って少女は口をつぐむ。その声には信念があった。どこか悲憤にも近い感情も垣間見えた。ヴィタはうなずき、
「生きる価値とまでは言いませんが、私にとっては愚鈍であっても面白ければ価値があります。逆に鋭敏であっても、面白くなければ価値がありません。しかし私にとって価値のない人間でも私とは違う視点を持つ誰かからは価値を見出されることでしょう。ただ、そもそも私は“価値”というものが生死を左右するほどのものとまでは思わないのですが」
 ミリュウの目が好奇心に染まる。
「それなら、何が生死を左右すると思っているの?」
「生命力」
 言い切られ、ミリュウは目を見張った。ヴィタは微笑み、
「それ以外に何がありましょう? 生命力が尽きた時にのみ、それは死ぬのです。でなければ生きますし、死にません」
 非常にシンプルな道理である。あまりにシンプルすぎて揺らぎようがない。ヴィタは薔薇を見つめる。ミリュウも薔薇を見つめる。花盛りである。人によって選別されてきた花々ではあるが、それが咲くのは人の価値のためではない。咲くが故に咲く。生殺与奪を人に握られてなお価値に踊らされるのは誰ぞとばかりに咲き誇っている。
 ミリュウは、背筋を伸ばして座るヴィタに目を戻した。
「もちろんミリュウ様の仰る話と、私の言葉には齟齬があるでしょう。複雑な事をシンプルに語る時には欺瞞が生じるものです。それに、私もまた、花実を良くするために他の草や虫を駆除します。が、それは私が重きをなす花実の価値そのものが現実的物理的な力を有したからではなく、私の駆除という行為が草や虫から生命力を失わせるだけに過ぎません」
「『命は価値によって奪われるのではなく、価値に拠り行為する者によって奪われる』?」
「国教会ではそのようにおしえていますね」
「ええ、原罪の一因として。人間はただ生きるだけで罪を免れない」
「私の申し上げることをそれと同じに受け取ってくださっても構いませんが、付け加えるなら、私は“生きる価値”という物言いは好みません。何故なら大前提として“生きる価値”のあるものなど一つとしてないからです」
 ミリュウはぐっとヴィタを覗き込む。ある面では暴言とも言える『王女の執事』の意見を責めるのではなく、むしろ相手の意図をしっかり掴もうと真摯に相手に心を差し向けて、そうして真剣に考えてから、
「逆に言うと」
 彼女は伺うように言った。
「皆が生きる価値のないのなら、全ての者が生きていい――ということ?」
「この庭を夏の間、一月ひとつき放っておいてごらんなさいませ。そうすれば、一月後、ミリュウ様はこの薔薇園で一度も見たことのない景色をご覧になれることになるでしょう。あるいは足元の“雑草の花”にお目を奪われるかもしれません、それは実に可憐であると、お手を伸ばして花瓶に飾られるかもしれません。差し出がましくも、それもまた一興かと存じます」
 明確な答えの代わりに非現実的な提案を持ち出され、ミリュウは笑った。実に姉の好みに合う女性ひとだと感心する。一方で、暑気の中で暑さを感じさせぬヴィタは種無しサクランボをまた一つ食べ、
「ただ価値があろうとなかろうと、害になる愚鈍を放っておくわけにはいきません」
 ふいに話が戻り、ミリュウの頬が引き締まる。その瞳に“王女”が現れる。執事は続ける。
「しかも彼の愚鈍は性質が悪い。善良であり、職務にも忠実であり、それが能力の低さを補えるとしても、残念ながらそれ以上に女が絡むと救い難い」
「どういうこと?」
「彼の刑務所に、昨年“大物”が入りました。その男の組織が女を使って彼の操縦を企み、その目論見は既に成功を約束しています。おそらく財産もむしられるでしょう。それを防ぐことは、友の境遇にお心をお痛めになる王陛下への何よりのご孝心に……いえ、少し喋りすぎました。私の信用に関わりますので、このことはどうぞお忘れください。しかし、もしミリュウ様が情状をお求めになったとしたら、ティディア様はきっともっとお詳しくご指導下さることでしょう」
 ヴィタは嘘をついた。その嘘をミリュウは見抜いた。喋りすぎたなどということはない。答えられること以外、きっと話していない。それでもそう言ったのは――
「ありがとう、ヴィタ」
「何のことでしょうか」
 サクランボをまた食べて、執事は早くもすっとぼける。ミリュウは肩を揺らした。アデムメデスの中・高等学校の多くが制服を採用しているのは姫君の通う学校を模倣したためで、当初女子のものは修道服、男子のものは軍服を基にデザインされたという。制服は時代によってデザインを変えてきたが、その中で一つだけ変わらなかったものが女子のループタイだ。修道女が首にかけていた象徴イコンを模した名残は今、第二王位継承者の胸で小さく踊っている。
「ちょっと心配だったけど、あなたと仲良くやっていけそうで嬉しいわ」
 例え仲良くやっていけないと思っても仲良くするであろうミリュウの言葉に、ヴィタはありったけの親愛を込めて目礼を返す。そして、サクランボを食べる。
「……たくさん食べるのね」
「どうぞ」
「いただきます」
「『変身』すると特にお腹が空くのです」
「ああ、そうなんだ。それじゃあ悪いお願いをしちゃったね」
「いいえ、元々私は大食家ですのでお気遣いなく。便利な体に生まれつきましたが、燃費の悪いのが難点です」
 ヴィタは、ミリュウが微笑むか気を和らげることを期待していた。そして実際、ミリュウは微笑んだ。しかしその微笑みには罰の悪さが裏貼りされていた。
「――ところで」
 そこでヴィタはこの流れを切り替えるため、元より聞くつもりのなかった話題をあえて持ち出した。
「先ほど、とても上機嫌でいらっしゃいましたが、何か良いことがあったのですか?」
 効果覿面。ミリュウの頬の裏にある罰の悪さが、思い出された恥ずかしさによって焼き消される。とはいえその恥も時を経たことで彼女を上気させるほどの熱量はない。それでも少女の頬は僅かに赤く染まり、恥を蒸し返した相手へ少しばかりの――とても可愛らしい――抗議の色を瞳に浮かべた。が、その蘇った恥も長続きすることはない。ヴィタの言葉に含まれていたキーワードに彼女が気を回した時、そのような恥など簡単に吹き飛ばしてしまったのだ。
 何か良いこと。
 それは素晴らしく良いことである。
「だって、今夜はお姉様とずっとご一緒できるんだもの。歌ぐらい歌っちゃう、ううん、歌わずにはいられない」
 そう言うミリュウはもはや満面の笑みである。瞳はこれまでになく輝き、頬には純粋な情熱が漏れ出している。
 なるほどと、ヴィタは感嘆していた。
 ミリュウの言う通り、妹姫は18時からずっと姉姫様と同じ時を過ごす。その時間はまず語学の勉強から始まる。次にスピーチのレッスン、すぐさま音楽・音楽史の試験及びピアノの訓練、式典での立ち居振る舞いの確認、各大陸の政局の読解、他星たこくの動静についての“雑談”、途中で夕食やティータイムも挟むがその間も姉姫の目は妹姫の作法を厳しくチェックする。日付が変わっても特訓は続き、予定通りに進めば二人がベッドに入るのは夜明けの二時間前だ。普通なら、それを前にしてこんなにも期待に胸を焦がすことなどできはしまい。
「そうだ、あなたはクロノウォレス語を話せる?」
 名案を思いついたとばかりにミリュウが問うてくる。ヴィタは小さく首を振り、
「お恥ずかしながら。勉強中ではありますが、まだ日常会話がやっとというところです」
「『花を一輪いただけますか』って、言える?」
 ヴィタはミリュウの狙いが解った。言われた通り、その一言をクロノウォレス語で口にする。と、ミリュウは実に満足気にうなずき、
「素敵な発音。ね、ヴィタ、休憩中に悪いんだけど、コツを教えてくれない? どうしてもうまく発音できないの」
 ミリュウを困らせている発音は『花を一輪』の箇所で連続して出てくる三重母音で、現在のクロノウォレス星ではこれを『不滅の音』と呼んでいる。
 何故『不滅の音』であるのか――
 それは以前、その星を支配していた最後の絶対君主が、自分が上手く発音できないからと廃止、及び禁止したからであった。その行為は、アデムメデス語で、強いて、かつ無理を承知で例えるなら『愛多い』を『あいうぉーい』と、あるいは『ワイヤー』を『ワイや』と言うよう変更するようなものである。しかも元の発音を使うのは王を冒涜することとして重い罰則も科された。
 確かに難しい発音ではあった。当時からこれを正確に美しく発音できる者がそういたわけではない。専門家から言わせれば、上手く発音できなかったのはその王だけでは決してないのだ。だが、それでも良かった。『花を一輪』は古くから愛の合図として定着していた言い回しで、例え発音が不味かろうが、それが理解できて、その想いが通じさえすれば誰も気にしていなかった。王は表面上の発音だけを気にしていたが、結局、その最後の王が禁じたのは人々の情の交感そのものですらあったのだ。
 さらにそれを契機として母語を君主の親しむ他星たこくの言葉に変更していくことも検討され、部分的には義務付けられもした。後の革命に至る火種の一つであり、それは王朝を打倒したと同時に国民が取り戻した“我らの言葉”である。
 故に『不滅の音』。
 ――皮肉なことに、現在のクロノウォレスは禁止された以前よりも『不滅の音』に厳しくなっている。発音できないことが悪いわけではない。が、これを音声学的に正確に美しく発音できることが一種のステータスとなってしまっているのだ。いわんや外の人間がこの音を正確に美しく発音すれば、それはクロノウォレス星の人間の好感を瞬く間に得る魔法となるだろう。
「しかし、私は講師には向いていません」
 食べ尽くしたサクランボのタッパーに蓋をしながら、ヴィタは言った。
「私の発声方法は『反則』ですから」
「どういうこと?」
「その言語を話すために最適化できるからです」
 と、藍銀色の麗人はほっそりとした首を軽く反らしてみせる。
「場合によっては現地の方より適した喉を私はいつでも得られるのです。もちろんそれを得るための訓練は必要ですが、しかし、『反則』ですよね?」
 悪戯っぽく問いかけられてうなずくミリュウは、うなずきながら心から感嘆しているようだった。『変身』と言えば先ほどのようにおもてを変えることばかりに注目し、そのような応用ができるとは考えていなかったらしい。感嘆のために顔を輝かせながら、ミリュウはヴィタの手に手を添えた。驚くヴィタに彼女は言う。
「素敵、素敵よヴィタ。素晴らしいわ。それならあなたは他の誰よりも発音の仕方が解っているってことじゃない。アデムメデス人にとってその発音がどうして難しいのか、両方の喉で実際に比べられるなんて! 向いていないどころかあなた以上の先生はいないわ」
 言われてみればその通りではあるが、とはいえ発音自体は“アデムメデス人の喉”で全く行っていないのだからやはり講師としてはいかがと思う。しかし、ヴィタは悪い気はしなかった。あの姉姫も人を乗せるのがうまいが、この妹姫はそれとは違う角度で人を乗せるのがうまい。あえて言うなら、『劣り姫』のその性質は、彼に似ている。
「ところでミリュウ様、ルッド・ヒューラン様はもうお茶の用意を終えてらっしゃるのではありませんか?」
「え? そうね、もういつでもお茶ができると思う」
 内ポケットから小さな携帯を取り出し、確認する。ミリュウはうなずいた。
「頼めばすぐに」
「では、ルッドランティーを味わいながら、拙い講義でお耳を汚させていただいてもよろしいでしょうか」
「――ありがとう!」
 その発音をマスターすれば姉に誉めてもらえると固く信じている少女に、ヴィタは頭を垂れる。澄んだ西日に藍銀色の髪がきらめいて、それをミリュウは美しいと思った。姉の執事が立ち上がり、すらりとした手を差し伸べてくる。その手を取って、妹姫は立ち上がる。
 ヴィタは手早くバスケットにタッパーと水筒をしまいこんだ。
 そしてバスケットを手に、ロディアーナ宮殿の中庭に移動するため振り返る。と、山吹色に輝く雲のたなびく青空と、御伽噺の世界のごとき花園を背にした姫君の、慈愛と親愛とを融かし合わせた愛らしい笑顔がヴィタの目に真っ直ぐ飛び込んでくる。
 夜風の先触れが微かに流れた。
 少女の背に流れる黒紫の髪が天の雲よりも優雅に揺れる。そうしていればただ可愛らしい高校生としか思えぬ少女は、花も知るまい、その純朴な唇をたおやかにほころばせる。
「改めて、これからよろしくね。一緒にお姉様のお力になっていきましょう」
 ヴィタは微笑み、優美に、深く辞儀をした。

← 約二ヶ月前 第二部 第二話

← 数日前 第二部 第五話

→ 約八ヶ月後 第三部 ティディアの誤算

→ およそ一年後 第四部

→ およそ一年と二ヶ月後(ロザ宮) 第五部『誕生日会』

メニューへ