厄介な障害は――三つある。
一つ目は、芍薬。
ニトロのオリジナルA.I.であり、『A.I.の鑑』というに相応しいほど忠実かつ献身的。さらに、場合によっては『犯罪行為』の独断専行も辞さぬ覚悟を持っている。いかな自律思考を持つオリジナルA.I.とて、それを行えば己が消去される可能性があることを厭わぬものは稀だ。それはつまり、そのA.I.がマスターに多大な信頼と愛着を寄せている証左に他ならない。
また、元々は『裏』で王女にも名が知られるジジ家の息子、そのA.I.である撫子のサポートチームの一員だった。育ての親とでも言うべき撫子は王家、あるいは軍の上位A.I.にも比肩するほどであり、そのため芍薬も一般のA.I.とは比べ物にならない性能を誇る。
言うなれば芍薬は、命を賭して主に忠誠を誓う一騎当千の戦乙女だ。もしマスターに危害を加えようとするものがあれば、強い力と頑健な覚悟を携え眼前に立ちはだかってくる。
しかし、弱点がないわけではない。
いくら一騎当千の戦乙女とはいえ、芍薬はA.I.だ。
ニトロが芍薬に連絡を取れない場合、連絡が取れたとしても彼の近くに乗っ取れるコンピューターがない場合は途端に無力となる。
行動制限。
それが芍薬の最大の弱点。
であれば対策は――『場』の選択、それに尽きる。
二つ目の障害は、ハラキリ・ジジ。
ニトロが親友と思う人物で、ニトロに様々なサポートを与える心強い助っ人。
撫子、そのサポートA.I.チーム『三人官女』、車両操作に特化した韋駄天という強力なA.I.チームを持ち、加えて
敵に回せば行動に制限のある芍薬よりも厄介だが、しかし彼は『完全なるニトロの味方』というわけではない。基本はニトロの味方に軸を置きながらも、それは彼が彼なりの線引きでニトロの味方をしているだけで、本質的には中立の存在だ。
そのためハラキリ・ジジは、条件さえ合えば味方にもなってくれる、ニトロ側にありながらも同時に優秀な手駒の一つでもあった。
だが、自分としては彼の基準を超えてニトロに手を出したい。
となるとやはり彼も抑えねばならないのだが、困ったことに彼にはこれといった弱点がない。『彼なりの線引き』は『プロとしての流儀』に等しく、地位にも金にも女にも彼の心が揺らぐことはない。では力ずくで抑えようというなら、その時は手加減無しでヴィタをぶつけるか、それとも軍や警察を本気で動かして潰すしかないだろう。
されど、それでは『友達』に対して悪すぎる。
そこまでしてはニトロにも憎まれてしまう。
そうなればもう対策が無いようにも思えるが、とはいえ、見方を変えれば彼を相手にしなければいい――要はそれだけのことだ。
ハラキリ・ジジは、芍薬ほど勤勉で熱心なニトロの守護者ではない。
ひどく強引に、彼が知る状況でニトロに仕掛けなければ積極的に関わってこない。だったらニトロに、彼へのSOSを送らせなければいいだけのこと。
実際、これまでもそうやって惜しいところまで持っていけた。
そう。
これまでも、芍薬を行動制限の中に封じ込め、ハラキリへのSOSも断って、ニトロを追い込んだことは何度かあるのだ。いや、何度もあったというべきか。チャンスは、何度も。
それなのに自分の腕の中にニトロはいない。
一度でもチャンスがあれば落としているはずだった。
それなのに……彼と漫才コンビを組んだ今になっても、成し遂げられていない。
特にコンビを組んでからは、彼と二人きりになれるチャンスはいくらでもあった。
毎日の
――いつもは会おうとするだけで逃げるニトロも、練習する時はちゃんと傍にきてくれる。
練習場、そして放送局の楽屋、そこでなら彼と二人きりになれた。
もちろん、策を弄さねば練習場や楽屋に乗り込んでくる芍薬に邪魔されるから簡単には二人になれなかった。しかし厳しい芍薬の監視下でもこつこつアプローチを続け、何度策を失敗しても挫けず諦めず、すぐにでも一気に落としにかかりたい衝動を抑えて虎視眈々と機会を窺い、そして芍薬を出し抜きニトロをだまくらかしては何度も二人きりの空間を作り出してきたのだ。
だけどそれなのに、ニトロの胸の中に自分はいない。
ようやく、さあ、いよいよニトロを食らっちゃろうという段になると――
最後にして、最大の障害が現れるために。
三つ目の障害――それはニトロ。
彼の、馬鹿力。
時に
弱点は出現がランダムであることと、ニトロ自身がコントロールできていないこと。
だが、逆にそうであるがために対策を講じることができない。
例えば、彼を押し倒すことに成功することもあれば、押し倒そうとした瞬間に恐ろしい勢いでぶん投げられることもある。
例えば抱き締めた時、暴れて脱出されるだけの時もあれば、メガトンクラスはあるんじゃないかって力で地獄を味わわされちゃう時もある。
それじゃあ馬鹿力が出ると決め打ちで対策を用意していくと、馬鹿力を予想して襲いかかる手を止めた隙にニトロに逃げられてしまう。
普通に――
全力ダッシュで逃げられてしまう。
あれは切ない。あの瞬間はものすっご切ない。
もう一つ弱点だと言えることに、その力は彼がおよそ『ツッコミ』か『怒髪天を衝く憤激』に駆られた状況の中ばかりに出現しているという事実があるが……
じゃあたっぷり時間をかけてツッコませず怒らせず彼の心を
畜生こうなったら媚薬とか使ってやる。
しかし、ニトロがそれ系の知識を異常なほど身につけたせいで飲ませることも嗅がせることもできやしない。
かといって無防備に攻めれば馬鹿力発動→返り討ち。
……正直、手に詰まっていた。
つくづく失敗したなー、と思う。
あの『映画』のネタバラシ。そこで混乱していたニトロを勢い任せに押し切っておけば良かったと。
だがある日、ふと思った。
それなら、ニトロから馬鹿力を取り除けりゃこっちのもんじゃん――と。
一度、彼の馬鹿力についてはハラキリとじっくり話したことがある。その時互いの経験から導いた結論は『あれはよく分からない力』だったが、いやいやそれで終えてしまうのは自分らしくなかった。
ニトロの馬鹿力を徹底的に分析してみよう。
それで排除できるものなら排除してくれよう。
ハラキリも興味を持っていたから全面協力してくれた。彼にニトロを人間ドックに放り込んでもらい、全身くまなく調べてみた。
まず、ニトロの遺伝子に異常はなかった。
神経系、細胞、脳波、ホルモンバランスその他諸々全て正常な健康体。
遺伝的にも生粋のアデムメデス人で、ヴィタのような混血による潜在能力もない。
ではアデムメデス人に彼のような力を発揮する種族固有の能力があるか、どうか。
答えは、否。
イレギュラーとしてアデムメデスには過去、異常な筋力と奇怪な性質を持つ細胞を有した
念のため銀河中の『
しかし『ニトロの馬鹿力』研究を進める中で、彼の力に最も近しいと思われるものは他に存在した。
それは誰もが潜在的に発揮することが可能である力。
火事場の馬鹿力。
確かに自分も、ハラキリも、ニトロの力はそれじゃないかとは疑っていた。だが、『火事場の馬鹿力』がそう簡単に、それも高頻度で現れるものだろうか。生命の危機に直面する本物の火事場でもそのような力を発揮できるとは限らないのに。
そこで疑いの目を向けたのが『天使』だった。
『映画』を見返してみると、『天使』以前にもその片鱗を見せているニトロの馬鹿力が『天使』以降には驚異的な成長を
いや……もしかしたら、本当に別物なのかもしれない。『天使』以前ではまだ理解の範疇にあった力だが、以降では非常識極まりない力となっているのだから。『片鱗』そのものはニトロの力でも、今彼が発揮する馬鹿力は『何か』が加わり彼の力を増幅させたためのものなのかもしれない。
もしやあれは『天使』の後遺症なのではないか?
あるいはその
もしそうであれば、それを取り除けばニトロの馬鹿力の出現を抑えられるだろう。少なくとも威力は大幅に減るはずだ。
ハラキリに頼んで『天使』について新しい情報はないかと調べてもらった。するとニトロのデータを含めた最近の事例から、
元々『天使』の効果には――例えば医薬品の効き目に個人差が見られるように――使用者との相性が影響していることは判っていたが、中には相性が『良過ぎる』事例があるというのだ。
そしてその条件には肉体的、人格的、精神的など複雑な要因に加え、『天使』が気に入るかどうかというひどく不安定な要素が関係している。
ニトロほど驚天動地の『変身』は相性が良過ぎた賜物で、それは極稀なことであり、他にはわずか二例の報告があるのみだという。
他の二例の者達にニトロと同様の『馬鹿力』やそれに近い現象は欠片すら出現していないとのことだから、そうなると『天使』が原因とは言い難い。
しかしそれでも諦めきれず、ハラキリに『天使』を実際に使ってもらってデータをこちらでも取ってみた。軍からも治験者を出し、必要なデータを揃えた。
中にはニトロには遠いまでも驚きの変身をする者もいたが、大抵は面白変身第一形態で打ち止め。
では、使用後にニトロのような『馬鹿力』でなくてもいい、何か影響はあったか。
答えは、これも皆無。
至極安全人畜無害。
使用前使用後に変化は何もなく、抜群の効果を謳ったダイエット食品ならクレーム殺到の代物だった。
……結局のところ。
どうやらあの力はニトロの個性が輝く『火事場の馬鹿力っぽい力』であると、そう納得するしかないらしい。
『天使』の影響は――ニトロが時々『天使』と同じ絶叫をしていたから――皆無だとは思えないが……まあ、彼はあれを経験したことで、通常あのような力を抑制しているリミッターが少々緩んでしまったのだろう。
堂々巡りの果てに結論は少しばかりの発展をみせたが、実際は何も変わらなかった。
というか、むしろ絶望だった。
あれが『火事場の馬鹿力』に属するというなら排除は不可能だ。よほど強力な筋弛緩剤でもぶち込めば何とかなるかもしれないが、それでは命に関わってしまう。前後不覚になるほど脳をやっちゃえば出ないかもしれないが、それでは記憶も残らずそもそもニトロを自分に惚れさせるという最大の目的が果たせない。
「ちぇー」
ティディアは口を尖らせて、
「やっぱり、これまで通りいくしかなさそうねー」
研究データ、その最終報告を見終えたティディアは
「はい。それが最善のようです」
「しかも、唯一、か」
「はい」
ティディアはため息をついた。
「しょうがない。馬鹿力は我慢するか」
「はい」
テーブルを挟んで座る
ティディアはヴィタがカップを下ろすまでを眺め、それから目をアンプルに落とした。
『天使』。
『映画』ではニトロを窮地から救った、使用者に凄まじい能力を付与する
「…………」
ティディアはアンプルを掌の上で転がして、波打つ液体を恨めしそうに見つめていた。
そして――
見つめているうち、思った。
(あ、そうだ)
ニトロは『映画』でコレを使っている。自分もコレを使えば、共通の話題が得られるではないか。
何だかんだで接点の少ない彼と全く同じと言ってもいい経験と、話題が。
「ヴィタ」
それに気がついてじっとしていられるティディアではなかった。
「
「かしこまりました」
早速連絡をしようと手を動かしたヴィタをティディアは制した。
「ああ、いいわ。ミリュウには私から言っておくから。それより研究所にまた施設を借りるって連絡しておいて」
笑ってアンプルを示す主人の言葉に、執事はその意図を理解した。かしこまりましたと頭を垂れ、呼び出した
ティディアはヴィタに応じる所長の声を耳にしながら、それをもう聞いてはいなかった。彼女の心はすでにここになく、思いはこの夜きっと味わえるであろうニトロと同じ経験に馳せられて、その瞳は期待一杯にきらきらと輝いていた。