1−序 へ

 自宅は最寄りの地下駅から王都ジスカルラセンターターミナルに出て、そこから西のビネトス領へ延びる線に乗り、鈍行で三十八、急行で七つ目の駅――スライレンド。
 王都中心地ほど栄えた摩天楼とまではいかないが、それなりに高層ビルの立ち並ぶ賑やかな小都市。近くに王都の中で最も大きく植生豊かな王立公園があることから緑を町の特色とし、無機質なビル街にも並木道や緑地帯が数多く見られる。
 人工物と植物が織り成す景観は融和的であり、その景観を活かした都市設計は評判がいい。王都の中で住みたい所はと問うアンケートでは必ず名前が挙がってくる町で、確かにここの並木道を歩けば、高い評価を受けていることを素直に納得できる。
「……うん、もうちょっとここにいる」
 ニトロは、並木道に面したカフェでカプチーノを飲みながら、芍薬に電話をかけていた。
 前後期で学習した内容確認の授業と試験が続く総括期を無事に耐え抜き、二年目の高校生活もつい昨日修め終え、現在待ちに待った高校生活二度目の春休みの真っ最中。
 彼がここスライレンドにやって来たのは、受験や進路だと忙しくなる三年目を前に遊んでおこうぜとクラスの友人に誘われたためだった。
「ああ、皆とはさっき別れた」
 ――思えば、あの『映画』からもう一年……
 ティディアの茶番劇に無理矢理付き合わされた挙げ句、夫婦漫才の相方として指名された最悪の春休み。それからの月日で激変した環境、人生。
 中でも最も変化したのは、やはり人間関係だと思う。
 ハラキリ・ジジという親友を得られたことは素直に嬉しいが、その対価に、少なからず友人を失った。いや、失ったというよりも……友人とは言えるだろうが『友』とは言い切れない……切ない関係が増えてしまった。
 あのバカの策略で『ティディアの恋人』として祭り上げられてからというもの、一時期凄まじい取材攻勢を仕掛けてきたマスメディアを嫌煙し、その中心にいる自分から自然と離れてしまった者がいる。
 あるいは、ニトロ・ポルカトという友人を見るのではなく、『あの有名なニトロ・ポルカト』を見るようになってしまった者もいる。
 それを実感と共に知らしめられたのは、『ニトロ・ポルカト』の情報が開示されてからの騒ぎもようやく落ち着きを見せた頃――遊びに誘われてアミューズメントパークに大勢で行った折、声をかけてくれた友人が皆から金を集めてチケットをまとめ買いしてくると言ったその際、中学から同じ学校だった友人に『あれ? ニトロの奢りじゃないの?』と言われた時だった。
 さすがにショックだった。
 彼だけでなく同じことを望む目はいくつもあり、それは本当にこたえた。
 奢りたくないとか、金が勿体無いとか、そういう問題ではない。さも当然と、金を稼いでいるのだろう『ニトロ・ポルカト』が出すのが当たり前だと言う、その視線と空気がたまらなかった。
 それをハラキリに話したら、彼は散々吐き出した愚痴を最後まで黙って聞いてくれて、そして別れ際に「そのうち落ち着く形に落ち着きますよ」と、慰めなんだか諦めを推奨しているんだか分からない言葉をかけてくれた。
 だけど実際、その通りだった。
 結局やるはめになってしまったティディアとの『漫才』――クレイジー・プリンセスを遠慮なくドツキまくる姿が受けたのか『ニトロ・ポルカト』単体でも変な人気がついてしまった現在。
 相変わらず『有名人のニトロ』を目当てに声をかけてくる『友人』達はいて、それは増えることはあっても減ることはない。
 しかし一方で、ティディアとの漫才が軌道に乗ってしまってからも、それでも以前と変わりなく接してくれる友人はちゃんと残ってくれた。
 今日、声をかけてくれたのはそんな本当の友人の一人だった。
 それも素晴らしいグッドタイミングで!
 いつ何時バカが出現するか分からないからハラキリ以外と遊びに出ることには慎重にならざるを得ないのだが、今日のティディアの予定は朝からびっしり、休憩といえば食事とわずかなティータイムだけ、キャンセルできるような仕事は一つもなく、今頃楽しんでいるであろうミリュウ姫との食事以外に『王女』の威を外せる時間も皆無と仕事で埋まっていた。
 当然ニトロは即了解を返した。
 そして今、久々に友達と遊んだ後の充足感を味わっている。
 誘ってくれた友人にはハラキリにも声をかけてみてと頼まれ、残念ながらハラキリには断られてしまったのだが、思えば無理にでも彼を引っ張ってくれば良かったと思う。
「楽しかったよ。うん。本当に」
 まとめ役は、人の多い王都中心地を避けて計画を立ててくれた。
 メンバーは自分を含めて六人。男子・四に対し女子・二。内、カップル二組。
 それを知った時にはシェルリントン・タワーのある摩天楼やミッドサファー・ストリートなど、デートコースで有名な場所に行くことも――そして最悪『騒ぎ』になることも――覚悟していたから、まとめ役の気遣いはありがたかった。
 まずはスライレンド駅前のシネマ・コンプレックスで映画を観て、その後、王立公園近くにあるアウトレットモールで買い物をした。
「――あー、それはまあ大変だったかな。女子の買い物は、やっぱ長いや」
 特に恋人にあれは似合うかこれはどうだと質問攻めに会う彼女持ちの二人は荷物持ちもさせられ、その時点でヘロヘロとなっていた。されど二組のうち片方の彼女は彼氏に荷は持たせても会計は自分で出していて、もう片方は荷も会計も彼氏に持たせているものだから、両者のヘロヘロ度合いには断然の差があった。
 全額奢らせている方が平気な顔で「男に出させなよ」とレジに並ぶ一方の女子に言う横で、財布内残高が激減していく彼氏が浮かべていた引きつり笑顔はしばらく忘れられそうにない。
 なんだか哀れになって、ドリンク奢っちゃったし。
 途中で買い物に熱中するカップル組に付き合いきれなくなったから、独り身組の友人とそこから離れ、チェーンのティーハウスで色々話した。彼は進路を専門学校に定めていて、それだけでなくおぼろげながらも就職先のことまで考えていて驚かされた。ちゃくちゃくと将来へ歩みを進める同級生の姿はニトロにはとても眩しくて、また羨ましいものだった。
 彼には逆に「お前も羨ましいよなあ」と恋人がいること含みで言われたが、それには苦笑いするしかなく。一応否定を返しておいたが「まだそんなこと言っているのか」と一笑にふされてしまった。
 だが、これはもう仕方がない。
 ティディアとの真の関係は面倒ごとが多過ぎる。それに、真実を知ることでバカの被害を受けることがないよう、これに関しての応答は彼らに対しても世間一般と同程度にしている。恋人関係は否定しているが核心には――それを明かせばハラキリに巨大な迷惑がかかることもあって――触れずにいるため、否定の言はどうしても『照れ隠し』以上にはならないのだ。
「ん、美味しかったよ。ちょっと悔しい気もするけどね、まああいつが作ってるわけじゃないし」
 買い物をした後は王立公園の中で王家が経営するレストランに入った。
 そこで遅めの昼食をとり、それから公園をしばらくぶらついた後、町に戻り日が沈むまでカラオケを楽しんだ。
「夕食も食べて帰ろうかって話になったけど、一人門限があってさ。予定通り現地解散」
 ニトロはきめ細やかな泡が立つカプチーノを一口喉に通した。
 受話口から、帰宅時間を問う芍薬の言葉が返ってくる。
「そうだなあ、夕食を食べていくから……どれくらいになるかな。ちょっと分からないけど、そんなに遅くはならないよ。うん――それじゃあ、何かあったら連絡してね。よろしく」
 通話を切り、ニトロは携帯電話をジャケットの内ポケットにしまうと、手を頭上で組みうんと伸びをした。
 久々に充実しながらも肩の力の抜けた一日だった。
 それにその締めを、穏やかにこの町で味わえるのがまた良い。
 この町――スライレンドは、ニトロの好きな町だった。
 子どもの頃から何度となく両親に連れてこられた町なのだ、ここは。
 別に聞かせろと言ったわけでもないのに語り聞かされた話によれば、父と母はスライレンドのカフェで出会ったという。
 二人が大学生であった時のことだ。たまたま遊びに来ていたこの町のカフェで相席になり、話弾み、一度はその場で別れたものの帰りの電車で再び一緒になり、何のネタなのか降りる駅も通う大学も二人は同じだった。しかも進路まで『地方公務員を考えている』と一致していたからには運命を感じたのも不思議ではないだろう。同じキャンパスですれ違っていたかもしれない父と母が手をつなぎ合うのは、それから間もなくのことだったそうだ。
 息子としては、両親の馴れ初めなど聞いていてもくすぐったいだけで嬉しいものではなかったが、あまりにも幸せそうに二人して語るから、何度も聞かされた内容だと分かっていながらも何度でも聞いていた。
 ……その度に毎回出会ったカフェの名前が変わることにはしっかりツッコンでおいたけれども。
 …………恥ずかしげもなく何年間も望んでいた子をようやく授かったのはここで仕込んだ後だとレストランで食事をしている最中に告白された時にゃあ、そりゃもうきっつくツッコンでおいたけれども。
 それを思い出すと微妙な気持ちになってしまうが、それでも幾度となく両親に思い出の町に連れてこられる内――幼い頃は二人と手をつないで、それなりに歳を経てからは何年経っても仲の良い二人から少し離れた位置でスライレンドの街を歩く内に、彼と彼女の一人息子にもこの町への格別の思いが育まれていったのは必然に等しいことだった。
(次は早くから来て、芍薬を案内してやろうかな)
 カプチーノを飲みながら、思う。
 昨夜、芍薬はスライレンドの思い出を嬉しそうに聞いていた。貸し機械人形レンタドロイドでも借りて直接町を歩きながら話し聞かせれば、もっと喜ぶだろう。
 さすがに一緒に食事ができる相手ではないが、名物の『並木道のカフェ』も味わってもらいたい。
 いつもとても世話になっているから、それが礼になるかは解らないけれど、芍薬はきっと楽しんでくれるだろう。
 ふいに風が吹き、木々の枝葉がさらさらとそよいだ。
 ニトロが居る店は、『並木道のカフェ』の一つだった。ビル街の谷間にあり、周囲より暗がり深い並木道にある。等間隔に並ぶガス灯を模した街灯に照らされる道を行く人はまばらで、一方通行の車道を抜ける車も少ない。それでも道には幾つもの店が並び、それぞれの軒先へ色とりどりの光を差し出している。
 ここには寂しいというよりも、落ち着いた雰囲気が満ちていた。
 何という名前だったか、白い幹に青々とした葉を頂く樹木。
 『並木道のカフェ』の特徴の、オープンカフェ然と広い歩道にせり出して並べられたカフェテーブルに座るニトロは、道側の壁を大きく開かれた店内で賑やかに笑い語らう客らの声をBGMに風波に揺れる幅広の葉を見上げていた。
 風が止み、次第に葉の揺れも止まり、目を落とす。
 ダークカラーの人工石材の天板に置かれた白いコーヒーカップは黒い水面に浮かんでいるようで、街灯に艶めく磁器の肌がしっとりと流れる時に花を添えている。
「お待たせしました」
 隣席で板晶画面ボードスクリーンを眺めている初老の男性へ、ウェイターが注文を届けにきた。
 銀色に輝くトレイの上にはタンブラーを褐色に満たす液体がある。ホットウイスキーに蜂蜜を落とした、ウイスキートディ。スライレンドのカフェ定番の酒で、この町に来れば父も必ず頼んでいたものだった。
『酒が飲める歳になったら一緒に飲もう』
 そう言っていた父の顔が、脳裏に浮かぶ。
(あと半年とちょっと……か)
 今年の十月十日。
 ニトロは、被選挙権といくつかの税を除き成人と同等の権利を得る。
 その日から選挙権を持ち、飲酒や喫煙、マニュアル運転免許取得を許可され、各種契約や十六から認められている婚姻なども保護者の許可なく自分の裁量で決められるようになる。
(早いなあ……)
 被選挙権を認められ、先に控除された税にくわえて様々な社会的義務の全ても負うことになるのは二十歳になってからだが、それでも己の生きる社会の重要な構成員なのだと自覚を求められることになる一つの区切り。
(…………そうだ)
 ウェイターがテーブルに置くウイスキートディをぼんやりと横目に眺め、誕生日にはこの町に両親を誘おうと思う。芍薬をアンドロイドに乗せて、メルトンは留守番でいいや。親孝行というわけじゃないが、自分の将来、アレのお陰で本当にどうなるか分からないから父との約束を果たしておこう。
 きびきびとした動きでウェイターが頭を垂れ、トレイを脇に店内へと戻っていく。
 隣席の男性がタンブラーの取っ手に指を通した拍子に、板晶画面ボードスクリーンの映像がニトロの目に飛び込んできた。新聞を表示しているらしいそのモニター面には、女性の笑顔が記事の横に大きく添えられている。
「――」
 ニトロは目をそらした。
(あー、そうだ。将来はここで養蜂家を営むのもいいかもしれないなー)
 気分転換に、そんなことを思う。
 緑豊かなスライレンド。王立公園には一年中花々が立ち代り咲き乱れ、法律でビルの屋上には必ず緑地を作るよう定められている町中には緩やかながらも四季のあるこの地方折々の花が咲き誇る。
 ウイスキートディがカフェの定番となったのも、王都というアデムメデス最大の都市の中にありながらそれら豊富な花を礎にした養蜂が盛んなためだ。採蜜を終えた養蜂家が馴染みのカフェに差し入れに持ってきて、そのお返しにカフェのオーナーがお疲れ様とホットウイスキーに蜂蜜を少し落として差し出す……そんなやりとりが始まりだったという。
 名産の蜂蜜は確かに美味しくて、気に入った母が自宅の花壇でも蜂蜜を作れないかと言い出したことを思い出す。父も乗り気だった。もちろん即座に却下した。無理だと。それだけの花で蜂蜜作れ言われたら働き蜂も途方に暮れるわと。
 息子にがっつり言われてしまってしゅんとする両親が瞼に浮かび、頬が緩んだ。
(蜂蜜、土産に買っていこうかな)
 スライレンドの蜂蜜には、ブランド戦略の一環で直接来なければ買うことのできない商品がある。ちょっと値は張るが、それを買っていってやろう。
「――お」
 ふと、内ポケットの中で携帯電話が震えた。取り出して着信画面を見る。
「?」
 ハラキリだった。
 彼から電話をしてくるのはなかなか珍しい。用があっても簡潔にメールを送ってくることがほとんどなのに……
「――もしもし?」
 不思議に思いながらも、親友と思う相手からかかってきた電話に出るニトロの声は明るかった。
「どうしたんだ?」
[ニトロ君、今誰かといますか?]
 受話口から聞こえてきたハラキリの声に、ニトロは背筋を撫で上げてくる悪寒を感じた。
 本当に珍しい。
 ハラキリが、慌てている。
「いや、一人だよ」
 質問に短く必要十分な答えを返し、そしてすぐさま質問を投げ返す。
「一体どうしたんだ? 何かあったのか?」
[今そちらに向かっています。ニトロ君がいる場所は『アランデール』で間違いないですね?]
 携帯電話の位置測定機能を使って調べたのだろうハラキリの確認に、ニトロは彼がそこまでしてくる緊急性を感じた。気に留めていなかったカフェの名を確かめようと看板を一瞥する。
「そう、アランデール。それで一体どうしたんだよ」
 ニトロはハラキリが答えやすいよう自分が『事態』に気づいていることを示した。
ティディアが何をしたんだ?」
[おひいさん、て]
 そこで、突如として電話が切れた。
「――?」
 それは不自然な切れ方だった。あちらが通話を切ったという感じでもなく、もちろんこちらは何も切断していない。大昔ならともかく今時こんな開けた場所で電波が途切れでもしたのかとモニターを見てみると、
「?」
 電波ではなく、電源そのものが落ちていた。
 故障……でもしたのだろうか。
 怪訝に思いながら電源を入れると問題なくコンピューターは再起動し、モニターには携帯にデフォルトで設定されていた待ち受け画面が映った。ニトロは早速短縮ナンバーからハラキリにかけ直そうと指を動かし――
「!?」
 また、電源が落ちた。
 手動で電源を落とした時と同じく、モニターに終了画面が映り、そして画面が暗転した。
 自分の指は電源を落とすボタンにはかかっていない。誤操作はありえないし、誤動作というにはあまりにおかしすぎる。
 目を丸くしてニトロが再度携帯電話の電源を入れようとしていると、ふいに、うつむきモニターを見つめる彼の額に声がかかった。
「ニトロ」
「っ!?」
 ニトロはじわりと背に冷たい汗が滲むのを感じた。
 今日は友人達に迷惑をかけぬよう、念入りに変装してきた。髪も眉も色を変え、付毛ウィッグで髪型も変え、瞳もカラーコンタクトで変色させている。服装だって普段は着ないファッション誌で取り上げられるようなブランドのカジュアルウェア。芍薬コーディネートの取っておき。
 これで自分が『ニトロ・ポルカト』だと気づける者は経験上いないはずだった。骨格を照合されたらそりゃ判るだろうが、そんな芸当はコンピューターにしかできない。スライレンド駅で待ち合わせていた友人達にだって名乗らなければ理解されなかったくらいだ。
 なのに、テーブルの向こう側からかけられた声。
 確信を持って、『ニトロ・ポルカト』を呼んだその女の声
 聞き違えようもない……声!
「……」
 思わず肩をすくめながら、ニトロはそろそろと顔を上げ――小首を傾げた。
「……?」
 テーブルを挟んだ対面に、いつの間にか一人の女性が座っていた。
 彼女は白いタイトな服に身を包み、赤と青にまだらな頭髪……いや、一体どうやって染めたのか、髪の一本一本をばらばらに赤と青に染めているらしい髪の下に、満足気な微笑を浮かべてこちらを見つめている。
「あの……どなたでしょう」
 思わず、ニトロの口から問いがこぼれた。
 声を聞いた時は間違いなくバカだと思ったのに、しかしそこに座る女性はティディアではなかった。
 得てして掴み所のない顔……とでもいうのだろうか。
 全体的には整っているが、その全体でパーツ個々の魅力を潰しあっているような顔。目は大きく愛らしさを感じるのに、すらりとした眉にはクールな印象を受ける。すっと通る鼻筋は清廉な表情を見せるが、ぷくりと膨らむ唇は淫猥さを帯びている。
 奇妙な、人工的な作為も感じる顔。
 ティディアではない。
 ティディアの顔ではない。
「ニトロ」
 だが、再び彼女が自分の名を呼んだ声はティディアそのものだった。
 声質はあのバカで間違いないのに、顔が違う。その違和感に心がざわめく。落ち着かない心を鎮めようと、携帯電話をポケットにしまいながらニトロは一度眼前の女性から目を離し――そして、気づいた。
(なんだ?)
 周囲の様子がおかしい。誰もが動きを止めている。
 店の奥の席で食事をしている固太りの男性は、豪快にサンドイッチに齧りついた格好で両目を閉じている。
 その手前のテーブルに座る四人組の男女の一人は互いに向き合い、今でも言葉を交わしているような姿で目をつぶっている。
 カウンターの先にいるオーナーは立ち尽くして身じろぎ一つしない。四人組のテーブルへ歩み寄っていたのであろうウェイターに至っては、片手に掲げたトレイに料理を載せたままだ。
 誰もが瞬間冷凍されたように直前の姿を保ち、そのまま動きを止めている。
(何だ?)
 ついさっきまで賑やかだったカフェが不気味に静まり返っていた。
 まるで皆、死んでいるかのようだ。だが違う、死んでいるというわけではない。いずれの肩も静かにゆっくりとだが上下している。息はある。ただ、これは、
(寝て、いる?)
 にわかに信じられぬ結論が、ニトロの脳裡に現れた。
「ふああ」
 隣のテーブルに座る男性が、急にあくびを発した。驚き見れば彼は飲みかけのウイスキートディを手に、板晶画面ボードスクリーンの新聞を読み続ける体勢で――明らかに、どう考えても睡眠をとるには相応しくない姿勢で、瞼を落とすとすぐに安らかな寝息を立て始めた。
「ニトロ」
 三度名を呼ばれ、今このカフェで意識を保っているのは自分と、自分と相席する謎の女性だけだとニトロは悟った。
「ニトロ」
 声。
 ティディアの呼び声。
 眠りに落ちた隣の男に顔を向けたまま、ニトロは恐る恐る瞳を動かした。
「      っ!?」
 視界に戻した女性の姿を見た瞬間、声にならない悲鳴が彼の唇を割った。全身が引き攣り上がり椅子から転げ落ちそうになる。辛うじて背もたれに腕をかけ体を留めるが、驚愕のあまり目の前で起きている現象に息をすることもできない。あんぐりと開かれた彼の口は、叫びたいのか、それとも酸素を求めたいのか、無意味に開閉し空気を噛むしかなかった。
 そこにいる、赤と青の髪の、白装束の女。
 いつの間にかニトロのコーヒーカップを手元に引き寄せ、飲みかけのカプチーノを口にしている彼女の顔が、変化している
 掴み所のない造りをしていたはず顔が次第に形を変えて――否、まるで対象を隠すモザイクが取れていくようにそのパーツ一つ一つが、段々と、段々と、姿を変えてその顔へと入れ替わっていく!
「――ティディア!!」
 彼女はカップをソーサーに置き、我が名を呼んだ少年を見つめた。
「……ニトロ」
 そこに現れた相貌は、見間違えようもない。
 新聞の中で笑顔を弾けさせていた、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。この星を統べる王朝が第一王位継承者。
 その、尊顔だった。

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