「ぅ……おおお?」
ティディアの突拍子もない登場は、これまで何度も経験してきた。
そしてこれまでの登場を考えれば、このバカ女がこんな現れ方をしても何らおかしくはないとは思う。
奇妙に動きを止めている店員、客――カフェ一つにスタッフを仕込むことくらい造作もないだろう。もしかしたら直前に電話をかけてきたハラキリ、彼も今回はあちら側に協力しているのかもしれない。そう考えることはできる。
だが……おかしい。仮にも一年。こいつにつきまとわれた経験が、この事態は異様だとざわめいている。
これまでに、こんな感覚を味わったことはなかった。
ティディアは先ほどまでそこにあった『顔』とは打って変わって微笑すら浮かべていない。どういうわけか、いつもならにこやかに、それとも千変万化にころころ演じ分けてくる表情を皮下組織にまで固定剤を塗りこんできたように無で固め続け、ただただジッとこちらを凝視している。
ニトロは、べったりと張り付くティディアの視線に、その目に、心震えていた。
――怖い。
その瞳孔は開き切り、まさかこの世の向こうを覗いているというのか。それは素晴らしいほどトんでいる眼。
ヤバイ薬でも
光を失ったティディアの双眸。
――マジで怖い。
「……ティディア?」
ティディアはテーブルに両肘を突いた。たおやかな指を絡ませて手を組み、その上に顎を置く。そして、
普段のティディアなら、そこで微笑を浮かべていただろう。
だが、そこにいるティディアは表情の掻き消えた中にゾッとする瞳を見せるだけ。緩やかな弧を描き、男を挑発する笑みを刻むはずの唇は真一文字に結ばれて微動だにしない。まるで千年に一度の天才彫刻家が彫り上げた精巧な
「お前、ミリュウ姫と食事をしているんじゃなかったのか?」
声が震えているのが、自分でも分かった。それでもニトロはとにかく状況を掴み、こちらに向かっているというハラキリを――そしておそらくは彼から連絡を受け、どこかしらでアンドロイドでも調達しているだろう芍薬が来るまでの時間を稼ごうと、ティディアに話しかけた。
「妹が用意した晩餐だろう? 力を入れて準備していたと思うぞ、きっと」
会話を投げれば嬉々として応えてくるはずのティディアは、しかしニトロの言葉に応じることはなかった。聞き流しているのか、聞こえていないのか、ジッと彼を見つめるだけで沈黙を続ける。
「…………」
不気味だった。額に冷汗が滲んだ。自分の知るティディアとあまりに違う様子に固唾を飲んでいると、ややあって、彼女が口を開いた。
「ニトロ」
「何だよ」
頬もほとんど動かさず、口唇だけが動きティディアの言葉を作り出す。表情だけでなく体ごと放り込んでくるようないつもの口振りまで、影もなく消え失せている。
本当に、こいつはあのバカ姫なのだろうか。
先ほどまでそこにあった掴み所のない顔。もしかしたらそれが本当の顔で、今見ているティディアの顔は
「エッチして」
「ぶ」
唐突かつストレートな要求にニトロは吹いた。
「いきなり何を言うんだお前は!」
「愛してるの」
「だからどうした答えになってねぇ!」
「愛して欲しいの」
「そーんなことも聞いてねぇ!」
ニトロは、これはティディアだと思い直した。
こんな身も蓋もないやり取りをしてくるのは、間違いなくこいつしかいない。
「駄目?」
しかし、小首を傾げながらも無表情を崩さないのはどうしたことか。瞳もトんだまま。思えばずっと
「駄目だ」
「いじわるしないで」
「いじわるなんかじゃない」
「じゃあ……」
「じゃあ、何だよ」
「その気にさせてあげる」
「――――ぃ!?」
その声は、背後から聞こえた。
「ぅうおあ!?」
ずっと見続けていたはずなのに、テーブルの向かいで上目遣いにこちらを見つめていたはずなのに、ティディアがそこから掻き消え、なぜか今、背後から肩を越えて白い袖に包まれた腕が首に巻きついていた。
「な……な、なな!?」
椅子を蹴り立ち上がろうとするが、ティディアに押し込められて立ち上がることができない。辛うじて上半身をひねり、首を回し背後へ振り返る。恐ろしいほど近くに彼女の無表情があり、全身を這いずりまわる悪寒にニトロは総毛立った。
「なんだ!?」
率直極まりない驚愕がニトロの口をつく。
ティディアから目は一瞬たりとて離していなかった。彼女が何をしてきても対応できるよう、気の一つだって抜いていなかった。
なのに、一体これはどういうことだ。
もし視線が途切れたと言うならば、それは唯一
それなのになぜティディアは後ろにいる。
どうして背後からこの身を抱き締めている!?
「ニトロ」
耳に唇をかすめて、ティディアが囁いた。
「ほら、皆が祝福している」
「はあ!?」
訳の分からない状況で訳の分からないセリフを吐かれ、ニトロは反射的に沸き起こった怒りを込めて彼女を睨んだ。
「皆が何を祝福してるってんだ!?」
「私たちの結婚を」
「お前またそんな妄想――」
「オメデトウ、主様」
「……?」
訳の解らないことを言い続けるならこっちもそれなりの対応に出ようとした瞬間、耳に飛び込んできた声にニトロは眉をひそめた。
ねじっていた体を正面に戻し、視線も振り戻す。
「?」
そして、ニトロは混乱した。
「???」
頭の中がこの上なく『?』に占領される。
確か、自分はスライレンドのカフェにいるはずだった。
だが、ここは名物の『並木道のカフェ』などではなかった。
足下は姿が映るほどに磨きこまれた床、頭上には幾千の星を散りばめたシャンデリア。中央に広いスペースを空け並べられたテーブルには豪勢な食事が並び、ここは絢爛たるダンスホールであった。
周囲には見知った顔から見知らぬ顔まで種族も様々に人々が立ち並び、一様に笑顔を浮かべて自分を見ている。皆々身なりも麗しく、男性は紳士に、女性は華やかに、祝いの席に相応しい姿で祝福の眼差しを向けている。
ああ、そこにいるのは両親だ。二人して涙を流し、二人して手をつなぐ代わりにモバイルコンピューターを持ち、その画面には酔っ払ったメルトンの姿。
両親の隣ではまだ直接会ったことのないティディアの家族が微笑んでいる。現王、王妃、妹のミリュウ姫に弟のパトネト王子。さすがは王族といった装いで、数多い人々の中でも抜きん出て目立つ大輪の華だ。
「オメデトウ、ティディア」
そして、眼前にも凛として立つ花が一輪。
――芍薬。
「主様ト幸セニ」
「??????」
振り向くと傍らには、ウェディングドレスを着たティディアがいた。彼女は目の端に涙を浮かべてうなずいている。
「サア、何ヲシテルンダイ? 拍手!」
芍薬の音頭を受け周囲の皆が一斉に手を打った。空気そのものがそこかしこで弾けているような轟音がダンスホールを埋め尽くす。鼓膜が痛むほどの祝賀の音に顔をしかめると、芍薬がそれに気づいて両腕を振り上げた。
「コラ! 主様ガ嫌ガッテルジャナイカ!」
叱責を受けた皆が一斉に手を止め、ダンスホールが静寂に包まれる。
「御免ヨ、主様。教育不足デ」
「……いや、えっと……」
芍薬に頭を下げられたニトロは困惑するしかなった。
まずこの状況が一体全体どういうことなのか把握できていないというのに、その上芍薬の芍薬らしからぬ行動を見せられては戸惑いが折り重なる。どこから考えればいいのか分からなくなる。
そもそも何でダンスホールなのだ?
なぜティディアがウェディングドレスを着て隣にいる?
ていうか何で芍薬がそこにいて、しかもティディアとの結婚を祝っているのだ?
「ニトロ」
呼ばれて目を向けると、幸福に頬を赤らめたティディアがそっと腕を組んできた。腕に触れるティディアの柔らかな肉体は、幸せに火照っているのか布越しにも熱い。
「ニトロ君」
今度は、ハラキリの声。
「何をしているんです?」
「な、何って……」
自分達を取り囲む集団の中に潜んでいたらしいハラキリが、人の間を割ってこちらに歩み寄ってきていた。似合わないタキシードを着こんだ肩には小さな撫子がちょこんと座っている。
彼に道を譲った人の背後でさっと動く影があったが、それは……ヴィタだろうか。だとしたらもうすぐ何らかの企てが実行されるのかもしれない。
「ティディア様ガオ待チデスヨ?」
警戒心に身を固めていると、ハラキリの肩の上から撫子がたしなめるように言った。
ニトロは怪訝に眉をひそめた。
「お待ちと言われても、あいつはここに――ってあれ!?」
指し示した隣にいるはずのティディアは、いつの間にか、どこに行ったのか、影も形もそこになかった。
いや、それどころではない。また景色が変わっていた。煌々と照らし上げられていたダンスホールは形をなくし、今は薄暗い部屋の中に一人立ち尽くしていた。
「あまり焦らしては良くありません。さあ」
背後からハラキリに言われて慌てて振り向くが、すでに親友は姿を消していた。彼だけではない。撫子も、芍薬も、両親もメルトンもティディアの家族も誰もいなくなっていた。ただ視線の先にあるのは、スタンドライトの頼りない光がぼやかす壁にかかる、踊りに興じる貴族達を描いた絵画一つだけ。
「…………」
不可思議の連続に、ニトロは呆然とするしかなかった。
どうしようもなく現実離れした展開に完全に思考が置いていかれている。落ち着いて冷静に状況判断をしようと思っても、
「ニトロ」
(ほぅら来た)
次から次へと畳み掛けられる事柄に邪魔をされてしまう。
「ニトロ」
「何だよっ」
苛立ちに声を荒げて正面に向き直ると、そこにはタオル一枚で体を隠したティディアがいた。シャワーでも浴びてきたのか石鹸の香りを漂わせ、潤んだ瞳を瞼の向こうに隠しながら顔を近づけてくる。
「!」
反射的に、それこそ脊髄反射の域にまで達した反応速度でニトロはそれを避けようとした。
のけぞり顔を背け、腕を突っぱねティディアを突き飛ばして口づけから身を守ろうとした。
「!?」
だが、その体は金縛りにあったかのように、身じろぎ一つできなかった。
「な――!?」
唯一動いた口をティディアの唇が柔らかに塞ぐ。無抵抗にキスを受け止める体を彼女の腕が包み込み、温かな掌が優しく後頭部を撫で、口づけを深めてくる。
「――……?」
不思議と――ニトロは、不思議と快感を得ている自分に気がついた。
差し込まれてくるティディアの舌に、これまでにない愛おしさを感じる。彼女が求めてくれることに胸の奥が震え、切ない痺れが首筋から下腹へと走っていく。
拒否感も、嫌悪感も、穏やかに
上気する彼女を隠していたタオルが落ち、双丘が胸に押し当てられる。乱暴にすれば儚く崩れていきそうな弾力、その先から鼓動が伝わってくる。
高鳴る自分の心臓の音。
それに合わせるように熱く脈打つ彼女の心。
伝わってくる。
どれほど彼女が自分のことを思ってくれているのか。
一つに溶け合おうとする鼓動が、ニトロの心から一つ、一つ脈打つたびにまた一つ、彼が自己を守ろうとする殻を甘い痛みとともに剥ぎ落としていく。
名残惜しげに唇を離し、ティディアは彼の肩に顔を埋めた。
「ニトロ」
熱い吐息が首筋を噛む。ニトロの体が、震えた。堪えきれぬ衝動が目の奥で弾けて彼の肉体を突き動かした。
「――!」
次の瞬間、ニトロはティディアを抱き締め、ベッドに倒れこんでいた。
服を脱ぎ捨て、素肌に女の柔肌を吸い付かせ、ティディアを押し倒していた。
「ニトロ」
ティディアははだけた胸を腕で隠し、己を組み敷く男の名を繰り返し呼んだ。
零れ出しそうなほどに涙満ちる瞳が、スタンドライトの薄光を受けてきらきらと輝いている。燃え上がりそうなほど赤らむ頬に、恥じらいではもう抑えられない情欲が溢れ出している。
「きて――」
少年の脳幹を雷撃が襲った。
理性を砕く官能への誘い。愛しい女性を胸に抱き悦楽を与えたいという気持ちが堰を割る。純粋な愛情の影を追って、求められるままにティディアをこの手で汚したいという欲望が爆発する。
ニトロはもう何も考えられなかった。
(ヤれ)
この声は本能だろうか。
頭に血が昇りきり、目の前が真っ白になっていく。
(ヤれ!)
もはや正常な判断もつかない。
ただ、どこからか聞こえてくるその声が正しいのだと、その声に掻き立てられるものこそが正しいのだと、それだけは判った。
ニトロは従った。
頬にティディアの熱い掌が触れる。頬を撫で、耳に触れ、うなじへ伸びる。優しく首筋を愛撫し、彼女の中へニトロを引き寄せようとする。
囁きが聞こえた。
(ヤれ!!)
「さあ、私を……」
彼は従った。
(そのクソ痴女をヤるんだ!)
ニトロは頭を振り上げ、叫んだ!
「フざけんなあああああああああああああああああああ!!!」