ティディアの胸中

 王立放送の24時間情報チャンネルは、ちょうど王都から星の裏側に当たる都市で開かれている、大規模なファッションショーの様子を伝えていた。
 いくつもの会場で様々なジャンル、有名無名のデザイナー達のコレクションが行われ、冬の寒気が一般入場客の熱で沸騰している様子が画面に映り変わる。
 録画映像の中のレポーターは興奮する客の輪を背に、開催二日目の夜――こちらの時間からすれば今朝に行われた、ティディアがモデルとして参加したショーについて話していた。
 無視できる話ではなく、ニトロは顔を上げてテレビモニターに目をやった。
 映像が切り替わり、妊婦体験装具をけ、やけに派手なマタニティドレスに身を包んだ王女が映りこんだ。
 彼女はインタビューを受けていた。
『姫様、今日はなぜこのマタニティ部門に御参加なされたのですか?』
『決まっているじゃない。いつニトロに子どもが欲しいって言われてもいいように――』
 そこでぶつんとテレビが消えた。
 命令を待つまでもなく、芍薬が映像を切ったのだ。
「主様、気ニシナイ気ニシナイ」
「……っくぉぉぉ」
 ニトロは手の中のタッチペンを折らんばかりに握り締め、うめいた。
 その拍子に板晶画面ボードスクリーンに表示された書類の上に、ミミズが怒りに任せてのたくったような線が引かれる。
 はっと気がついたニトロは、描画機能の筆圧検知が異常に濃く表したド太い線を見て、なんとなく虚しくなって息をついた。
 『やり直し』のキーを押して線を消す。
「あれって虚偽表示とか虚偽報告とか偽証とか、なんでもいいから訴えられないかなぁ」
「無理ダヨ。別ニ嘘ツイテルワケジャナイカラネ」
「名誉毀損とか侮辱罪とか」
「無理ダヨ」
「だよなー」
 まあ言ってみただけだ。
 テレビがまた映像を映し出す。壁に開いた過去と現在の世界への窓は、連日大きく取り扱われている、密輸か闇市場から流れたらしい戦闘用アンドロイドを用いた強盗事件を報せていた。とうとう昨日で三件目の事件が起き、それに関する情報を伝えている。画面の右下に『さらに詳細を望む方は』と、同時刻にこの事件を取り扱っているニュース番組へのリンクが表示されている。
 ややあって次に映像が切り替わると、王座洋スロウンに沈む太陽と海水浴客で賑わう砂浜の生中継ライブが届けられた。
 年中温暖で過ごしやすいこの地域でも、最も平均気温が高くなる――夏。
 南国のように灼熱の太陽は顔を出さないまでも、風も海水も温かくなり、ウォーターレジャーで楽しむには最適な季節だ。
 この情報チャンネルは、事件や出来事を短くまとめたフラッシュニュースの間に、定期的に気軽な話題を差し込んでくる。テレビに映る生中継は、ちょうどその何も考えずに観ることのできる、骨休めのプログラムだった。
 カメラの前には水着姿の、見覚えのある女性レポーターがいる。画面の隅には、JCBSジスカルラ放送局の提供マークが印されていた。
 女性レポーター……ジョシュリー・クライネットは新しいウォータースポーツを紹介していた。やや大きめのサンダルにも見えるアイテムを片手に、真っ黒に日焼けしたインストラクターに説明を求めている。しかし絶妙に話がかみ合っていない。
 インストラクターが暴走でもしているのか、ジョシュリーの顔には『打ち合わせと違う!』と言いたいのを懸命に堪えている色が差している。それが夕焼けの朱に混じって画面の雰囲気をちぐはぐに演出していた。
 ニトロは失笑したくなる映像から板晶画面ボードスクリーンに目を戻し、それから残っていた最後の空白に文字を書き込んだ。
「記入漏れとかあるかな?」
「大丈夫ダヨ」
 ニトロが書いていた書類はパスポート申請のためのものだった。
 今朝のホームルームで、後期にある修学旅行のためにパスポートを持っていない者は、明々後日に学校に来る出張所で、もしくは個人で取得するよう言われた。
 子どもの頃に両親と一度だけ星間旅行をしたことがあったが、その時のものは期限が切れていたため、今こうして新しいものを準備している。
 ニトロの胸は期待で一杯だった。
 しかしそれは修学旅行へのものではない。
 あと六日もすれば学校は前期長期休暇に入る。彼はパスポートを作れと言われて、『そうだ、いっちょ他星たこくに逃げとこう』と思い立ったのだ。
 それに、ああ、あの家族旅行は楽しかった。
 あどけなく過ごせた日々。
 釣りが好きな父と深夜の大海原で、その星にしかいない虹色に輝く大魚を吊り上げた時の興奮は、記憶の片隅で未だに熱を帯びた思い出となっている。
(ティディアもまさか他星にまで追いかけてはこないだろうし)
 公務があるから、ちょちょいとちょっかいをかけてくるには遠すぎる。
 星間旅行もあれ以来だから、ちょっと胸が躍っていた。
「さて、と」
 あとはこの書類を、最寄りの金融機関から申請すれば完了だ。
 板晶画面からメモリーカードを取り出して立ち上がったニトロに、芍薬が多目的掃除機マルチクリーナーを操作し、ロボットアームを使ってコンタクトケースを渡してくる。
 その中から赤いカラーコンタクトを取り、玄関のシューズボックスに立てかけた小さな鏡の前で瞳に着ける。着け終えてケースを鏡の脇に置くと、ロボットアームがメガネケースを差し出してきた。
 今では視力回復医療と社会保険の充実により視力に問題のある者はほとんどおらず、度の入ったメガネはほとんど売っていない。ニトロのそれも例に漏れずファッションメガネで、自分の顔の骨格に合うものを芍薬に照合してもらった、細いフレームがちょっと知的な雰囲気を醸すものだ。
 あの『サバト』以来、面が国中に、それも強烈に印象付けられてしまったニトロはどこに行っても『ニトロ・ポルカト』とばれてしまい、困った末にハラキリに星間電話で相談したところ、それならとにかく多くの人に焼きついた『ニトロ・ポルカト』の印象から逃れてみたらどうかと言われて新調したコンタクトレンズとメガネだった。
 面白いもので、瞳の色を変えメガネで顔面の印象を変えると『ニトロ・ポルカト』だと指摘されることは少なくなった。
 『トレイの狂戦士』である『ニトロ・ポルカト』の姿があまりに印象強すぎて、強すぎるが故にそれに少しでも合わなければ似ていないと判断されるらしい。
 メガネをかけて、赤い瞳の自分の姿を確かめていると、多目的掃除機マルチクリーナーが携帯電話と財布を持ってきた。
「それじゃ、行ってくるよ」
「イッテラッシャイ」
 芍薬の声を背に、ニトロは扉を開くと夕暮れの街へと向かっていった。

 マンションを出て、輝くオレンジのヴェールが東の夜から蒼と紫を吸い上げる西空へ向けて自転車を走らせる。穏やかな、しかし暖かい風に肌に汗が滲む。
 ティディアが出ていたファッションショーの会場がある地域は、確か夏になると地形の関係で高温多湿になり、外に立つだけで汗が流れるって聞いたなと、ニトロは漠然と思い出していた。
 逆に冬……今はとても過ごしやすいそうだが、もしあのファッションショーが夏季に行われていたら、会場の気温湿度は凄まじいものとなるだろう。あのティディアでさえ熱にやられてへばるはずだ。その姿はちょっと見てみたいかもしれない。
「どうせ、今ごろ美味いもんでも食ってんだろーけどなぁ」
 ティディア・マニアの獣人ビースターの一件で、手荒な扱いをしてもカゴがたわんだくらいだった頑丈な愛車。ギアは中速に、路地を縫いながらのんびりとペダルを踏み続け、十分もしたところで人の往来も多い大通りに入った。
 それは最寄りの駅、二路線の地下鉄と一路線の地上線が交差する中規模の駅のロータリーから伸びる道で、ポプラ並木を衣装にした両脇には大小さまざまな店舗が軒を連ねていた。
 すぐに来る夜闇を前に煌々と店の灯りは焚かれて、光は夕暮れの薄日に、影は夕暮れの薄闇に溶け込んで、陰陽が交じり合い物陰がぼんやりと滲んで目を戸惑わせる。
 幻惑の時間の大通りには帰宅中か、それとも夕食の準備のためか人も多く、飲食店からはかきいれ時に向けた戦闘準備の匂いがこぼれ出している。
 ニトロは、大通りの中、いかにも威風堂々とした門構えを誇る王立銀行の前でブレーキを握った。
 門の脇を固める女性型の守衛アンドロイドが、ニトロを客だと察して近づいてくる。
 ニトロはアンドロイドが示す位置に自転車を持っていき、言われるまでもなく入口の脇にあるわだちにタイヤをはめた。するとトラバサミのような固定装置が現れて前後輪を挟み、フレームを挟むよう伸び上がってきた二つの支柱が車体をゴムの歯で噛み止める。しっかり固定されたのを確認してニトロがその場から退くと、わだちの下に穴が開き、底へと自転車は吸い込まれていった。
「コチラヲオ持チ下サイ」
 アンドロイドが言うのに合わせて携帯電話を取り出す。
 携帯に赤外線を使って入庫照明が送られてきて、ニトロは画面にデータ受理のアイコンが現れたのを見ながら銀行の中に入った。自動ドアがスライドすると、外気より二・三度低い空気が内から逃げ出して、彼の肌を撫でるようにすり抜けていった。
 危険物探知機と筋骨たくましい男の姿のガードアンドロイドが守るゲートをくぐり、中に入ると二階まで吹き抜けの広間がニトロを迎えた。
 入口の両脇――手前の壁には二十台ほどATMが並んでいて、どの前にも人が立ち、短い行列の最後尾には女性行員姿のアンドロイドが案内として佇んでいる。
 数十人の客がいるにも関わらず広々としたフロアは無駄な声もなく静かで、金融機関独特の緊張感が支配権を得ていた。高級感を与える大理石を模したセラミックの床材が、さらにひんやりとした印象をここに加えている。
 無駄なものは置かれておらず、業務に必要なものだけがここにあり、奥で行員が粛々と仕事をこなしている受付窓口の向こう側も、実に整然としたものだった。
 ニトロは真っ直ぐ正面奥の窓口へ向かった。
 途中で順番待ちの発券機に立ち寄り、と、近くに巡回してきたアンドロイドが声をかけてきた。
「御必要デアレバ、御案内致シマス」
「パスポートなんだけど」
「コチラヲ。5〜8番ノ窓口ニナリマス」
「ありがとう」
 アンドロイドが渡してきた手触りのいいプラスチックのカードを持って、言われた番号の窓口に向かう。
 手中のカードの、トランプのマーク然と隅に記されている王立銀行のエンブレムに触れると、中央に『3』と表示された。
(ちょっと待つ……かな)
 パスポート、その他証明書の発行手続きには時間がかかる。
 ニトロはレザーソファの空いているところに腰を下ろして、一息をついた。
 同じソファの逆端に座っているスーツ姿の若い男性が、腕時計をいじりながら独り言のように言葉を発していた。その耳には無線式のイヤホンがある。それは骨伝導マイクも兼ねた、腕時計型携帯電話に標準的なイヤホンだった。
 男性は電話先の相手と、バカンスの間にどこに行こうかと相談しているようだった。
(……そっか)
 この時間は空いていると思っていたのだが、よく考えてみればもうすぐ教育機関は長期休暇に入り、企業もバカンスを社員に提供する。自分と同じように駆け込みで旅券を取る人が多くいる時期だ。6番の窓口から、仕事帰りらしい母親に連れられた獣人ビースターの少女がまさにパスポートの受け取りを終えて引き上げてきている。
 一瞬少女と目が合い、どこか知人を見るような表情が彼女に浮かんだ。
 まさか『ニトロ・ポルカト』だと気づかれたかと内心焦ったが、結局少女は母親と夕飯に何を食べようかと相談しながら背後へと去っていった。
 安堵の息を胸中にこぼし、カードの待ち人数を見ると『2』と表示された。電話をしていた男性が通話を切り、6番窓口に向かう。それからすぐに、カードの数値が『1』と変わった。
「お」
 意外に早く順番が回ってきそうだと、ニトロは窓口を改めた。
 6番とほぼ同時に8番の人間が入れ替わり、5番は何か話し込んでいるようだ。7番には、どうやら手続きを終える気配がある。
 案の定、7番の窓口の椅子に座っていた中年の男が立ち上がった。ビザを取得したのか、開いたパスポートを眺めながら歩いてくる。ちょうど彼が横を通った時、手の中のカードが細かく震えた。
 さっきまで数字が表示されていた場所に『7番窓口へ』との案内が浮かび上がっている。
 ニトロは窓口にやってくると、促されるまま椅子に座った。両隣の窓口との仕切り板は大きく、声は聞こえても何をしているのかは全く見えない。
「本日はどのような御用件でしょうか」
 窓口には人間の女性行員がいた。アンドロイドを受付に置かない銀行はさほど珍しくはないが、本店のみならず、全支店でもそうしてあるのは王立銀行くらいのものだった。
 受付の行員は赤茶けた髪を肩甲骨の辺りまで流し、髪の色にメイクを合わせた顔に品の良い笑顔を乗せている。
 左胸のネームプレートに書かれている『〜〜・ポルカロ』と、自分の姓がそれとよく間違えられる、アデムメデスではメジャーなファミリーネームが目についた。
 ニトロは行員に笑顔を返した。
「パスポートの申請をお願いします」
「かしこまりました。書類はもうご記入済みですか?」
「はい」
 書類のデータが入ったメモリーカードを取り出し、銀色の受け皿に乗せる。行員はそれを傍らの専用端末のカードリーダーに差し込むと、ニトロからは見えない手元のディスプレイに目を落として、はっとして彼を見直した。
 ディスプレイには氏名と、ニトロの本当の顔写真が表示されているはずだ。彼があのニトロだと知った行員は、しかし即座に品の良い笑顔に戻って手続きに入った。
 よく教育されている。
 色々と世間の注目を集めるようになってから、ニトロはこの銀行を好んで使っていた。
 王立銀行員は――本来の取締役会会長とその補佐は現王と王妃なれども――ティディア姫に雇用されている身であるため、最も信頼できる金融関係者だからだ。
 ティディアが絡んでいる以上不安がないわけではないが、それでも面倒がティディア相手に限定されるからまだいい。自分で対処できない問題の方が今は怖いし、その点この銀行であれば、そのような問題を起こすことは絶対にしないでくれる。
 受付の女性行員は顔色一つ変えず、誰にでもそうするように、てきぱきと作業を進めている。
 顎の付け根辺りを掻きながら、行員が手元に向けていた顔を上げた。
身分証明情報証アイデンティティ・カードをこちらに差し込み、手をパネルの上にお置き下さい」
 窓口のカウンターに置かれた箱型の端末のスロットへ、財布から取り出したカードを送り込み、左手をその上部にある『複合認証』用のパネルに乗せる。
「それではこちらのゴーグルを、あ、メガネはお預かりします」
 行員にメガネを預け、手渡されたゴーグルをつける。
 左手の指紋・掌紋・静脈の情報、虹彩の情報が読み取られる。ゴーグルを外してメガネをかけ直し、ニトロはディスプレイを見つめる行員がオーケーを返してくるのを待った。
 行員が、また顎の付け根を掻いた。虫に刺された痕や炎症の様子はないから癖なのかもしれない。
身分証明情報アイデンティティとの照合完了しました。最後にこちらにサインをお願いします」
 スロットから戻ってきた身分証明情報証アイデンティティ・カードを財布に戻しているニトロの前に、パスポートに使用される専用用紙が差し出された。高級な本物の紙でできていて、添えられた筆も今ではめったに見かけないインクペンだ。
 用紙にサインを書き込み、行員に返す。行員はニトロのサインを待つ間、顎の付け根を掻き続けていた。
「ありがとうございます」
 行員が専用用紙を丁寧にファイルを収め、それを手の開いている行員に渡す。
 後はパスポート取得申請が受理されれば完了だった。しかしパスポートの発行は厳しい管理下で行われるため、申請受理の応答がくるまでやや時間がかかる。
 ふと、待ち時間を持て余す沈黙を破って、行員が話しかけてきた。
「どちらに行かれるんですか?」
 顎の付け根辺りを激しく掻きながら、少し口を急いで言う。
 ニトロは、さすがに彼女の様子が気にかかった。気にかかったが、それ以上にプライベートなことを聞いてくることの方が気になった。
 世間話をしてくるのがいけないとか、そういうわけではない。
 パスポートの申請に際して親しく旅先を訊くのに大きな問題があるというわけでもない。
 ただ凄まじく痒そうに顎の付け根を掻いているのに、それよりも重要だとばかりに、早口で訊ねてくるのはどう考えても違和感がある。
 ニトロは腹の底に危機を感じて腰を浮かした。
「いや、まだ決めてないんですよ」
 とりあえず答えると、行員は品の良い笑顔を崩さず、しかし凄まじく顎の付け根を掻きながらまたも言った。
「どちらに行こうと考えているんですか?」
 いよいよおかしい。
 ニトロは疑念と警戒の色を明らかに、すぐにでも立ち上がれるよう腿に力を込めながら行員に訊き返した。
「あの、どうなさったんですか?」
「どちらに行かれるおつもりですか?」
「……いや、えっと……」
 怒るべきか、他の行員にクレームを出すべきか迷ったその時――
「どこに行くつもり?」
「うわ!?」
 突然背後からかけられたに、ニトロは悲鳴を上げた。思わぬことに腿から力が抜け、浮いていた腰が椅子に落ちる。
「ねえ、どこに行くの?」
 肩越しに背後へ振り返ると、そこには、王立銀行の制服を来た女性型のアンドロイドがいた。ATMコーナーで列の整理を行っていたものだった。
「教えてよ」
 それがティディアの声でニトロに迫る。その手を自分の顎にかけて、ばりばりと音を立てて顔面の人工皮膚を剥がしながら、問い続ける。
「え……えええ!?」
「ねえ、どこに行くの?」
 背後から、また声。
 向き直ると受付の女性行員の声が、ティディアのものに変化していた。顎の付け根を激しく掻きむしり、その皮膚がげても掻きむしり。
「ねえ、どこに行くのよ?」
「いぃっ!?」
 ぬっと、ニトロの左肩を越えてアンドロイドが顔を突き出してきた。アンドロイドの顔は、人工皮膚がはがされたその後には、ティディアそのものの顔があった。
「わ! うわ!? うおおおおあ!?」
 ニトロが絶叫する前で、行員はめくり返った皮膚を苛立たしげに掴むと、生皮を力任せに剥がし始めた。アンドロイドと同じように。そのアンドロイドはニトロの肩に顎を乗せて
「ねえ、どこに行くの?」
 壊れたように繰り返す。
「ねえ、どこに行くの?」
 また別のところから、声。
 6番と8番の窓口、両隣とここを分ける仕切りの上に、アンドロイドが一体ずつ立っていた。
 あの門の前にいた守衛の女性型。
 あのゲートで警備していた筋骨隆々の男性型。
 ティディアの声で!
「教えてよ、ニトロ」
 そして鏡に映った姿のように、揃った動きで顔面を剥がしにかかる。
「!? !?」
 ぬっと、また、今度は右肩に別の女性型アンドロイドが顔を突き出してきた。
「教えて」
 そこで、肩の上で、耳の傍で、顔面の皮膚をめくり上げていく。目の端に皮の下から現れたティディアの目尻が見えた。瞳はじっと彼を見つめていた。
「――――〜〜〜〜!!」
 ニトロはもう悲鳴を上げることもできなかった。引きる喉。肺まで痙攣しているのかうまく呼吸ができない。息を吸う度に喉が鳴り、空気を吸いきる前に吐いてしまう。
 悪夢のような光景の中心で、あまりの恐怖に彼の目は限界まで見開かれ、双眸から赤いカラーコンタクトがこぼれた。それはまるで、二滴ふたしずくの血涙だった。
「ニトロ」
 行員は痛みに震えていた。
「ねえ、どこに行くの?」
 生皮の下にはまたもティディアの顔があった。彼女はまばらに赤い皮下組織がこびりついた顔に涙を滲ませ、繰り返す。
「ねえ、どこに行くの?」
 両肩のティディアが頬をより寄せてくる。嫌に生々しい感触。これはアンドロイドのものではない。人間のものだ。紛うことなく、人間の生肌だった。
 人間の。
 アンドロイドではない――
「ねえ」「ねえ」「ねえ、ニトロ」
 ティディアが三人いる!
 左肩に右肩に真正面に!
 ティディアが三人いる!?
 ああ、しかしひたりと見据えてくるあの瞳は、間違いなくティディアの瞳だ!
 二人のティディアの温かな頬に挟まれて、頭を左右に動かすことができない。行員であったティディアの眼差しから逃れたいと辛うじて顔を上向ければ、仕切りの上、アンドロイド二体の顔も――ティディア。
 ティディアが……五人も――
「……あは」
「ねえ、どこに行くの?」
 多重に重なるティディアの声。
 どこを見てもティディア。どこからもティディア。
「教えてよ、ニトロ」
「あははは」
 ティディアが見おろしているティディアが肩で囁いているティディアが見おろしているティディアが肩で囁いているティディアが、見つめてくる。
「あはははは」
 恐怖の頂点、混乱の境地を貫き、腹底から噴き上がってくる、狂乱。
「教えてよ、ニトロ」
「教えてよ、ニトロ」
「教えてよ、ニトロ!」
「あはははははははははははははははははははははははははは!!」
 ニトロの瞳から、光が失われた。
 霞んでいく意識。周縁から中央に向けて収束していく視界。
 脳と網膜が闇の中に落ちていく。快楽にも近いものがニトロの芯に流れ込んだ。正気が脳髄の奥へと吸い込まれていく感覚。心地よく、気持ちよく、全身から力が抜けていく解放の恍惚。
 ニトロはぼんやりと思い出した。
 そういえば、これに似た境地を、以前、体験したことが、あった。
『絞められて気持ち良くなってきたら、それは失神おちる前兆なので気をつけてくださいね』
 護身術の訓練中、気をつけるも何もスリーパーホールドで首を絞められ気持ち良ーくなってきた時に、ハラキリに言われたこと。
失神おちたら色んな意味で、死、ですから』
 その言葉。
(――――……そ…だ)
 死だ。
 きゅっとニトロの体に緊張が戻った。
(――そうだ)
 気絶すれば何をされるか分からない。
 何かされたら致命的な絶対状況に追い込まれる。
 絶対追い込まれる。
 安直な手でくるなら絶対ベッドの上で目覚めることになって、朝の光の中で裸のティディアが頬を赤らめ「子どもの名前を考えましょう」なんて絶対言ってくる。
 待てよ? そうか奴はそれが狙いか? ならこの異常な状況は奴の仕業か? いやいやそんなの考えるまでもなくバカの仕業に決まっているじゃねぇか。だったら何もかにも『異常』などではない。これはありうることだ。惑わされるな、ニトロ・ポルカト!
「モガンパ!!」
 ニトロは絶叫した。
 とにかく意識を引き戻そうと、とにかく全力で叫んだ。
 己の声に耳を打たれ、目を覚ました理性が急速に脳裡に染み渡る。彼は咄嗟にこれから何をすべきか思考し、即座に理解し、全身に生気を漲らせるや瞳をぐるりと回して五人のティディアを確認した。
 そして、窓口カウンターの向こう、受付の行員だったものを睨みつける。
 『彼女』がびっくと震えた。
「ティディア!」
 ニトロの前腕が小さなバンザイをする形に、バネ仕掛けごとく跳ね上がった。
「ぶきゃぁ!」「ぶきゃぁ!」
 その両裏拳が、彼の両肩を押さえつけていたティディア二人の鼻っ面をぶち抜いた。彼女らはその威力に打ち飛ばされ背中から倒れこんだ。
「あ、あれれ?」
 受付ティディアは泡を食った。
 血走るニトロの瞳は尋常ならざる。
 二人の分身を殴り飛ばしたあの拳、分身が倒れる時に見えた顔面の陥没っぷりがその威力を雄弁に物語る。彼女はひとまず逃げるべきだと判断した。だが、その心が、彼女が行動を起こすより速くニトロの研ぎ澄まされた超感覚に伝わった。
「逃がすかこんチクショーーーー!!」
 ニトロは椅子に座った状態から、跳んだ。
「ひぃ!」
 水泳の飛び込みのさまに両手を真っ直ぐ突き出し、椅子を蹴って立ち上がろうとしているティディアへ放たれた槍とばかりに飛翔する。突き出された彼の手が×字を作る。
「ぽぐぇ!!」
 ティディアの喉に、見事なフライングクロスチョップが突き刺さった。

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