けたたましい音を立て、二人は重なり合って転倒した。
ティディアはニトロの体重をもろに浴びて椅子ごとひっくり返り、後頭部をセラミックの床に打ちつけた。
ニトロはニトロで飛び込んだ勢いでティディアの上に圧し掛かるように倒れ、そこに椅子ごとひっくり返った彼女の膝が無防備な腹にしこたまめり込んできた。
「ふんぐぅぅぅぅぅぅ……!?」
頭を抱え、腹を抱え、二人揃ってのた打ち回り――しばらくしてニトロが痛みを堪えて床にあぐらをかき、やがて赤茶けた毛のカツラを外して後頭部をさするティディアも体を起こしてあぐらをかいた。
ティディアは不満そうに頬を膨らせてそっぽを向いていた。
ニトロは腹の鈍痛と怒りを鎮めるために一度深呼吸をし、二人を遮る倒れた椅子をどかしてから腕を組んだ。
「で?」
「…………」
ティディアは沈黙している。その顔には赤いモノがそこかしこに付着したままで、垢が擦り寄っているような、それともひどく無数にミミズ腫れしているかのようだった。
ニトロは、初めは受付だった行員の顔の皮下組織だと思っていたそれが、特殊メイクの一部だと気づいた。
だがその残骸はメイクと気づいた後でもそう思えぬほど生々しく、光の反射が体液の照り返しのようでもあって、見ていて落ち着くものではなかった。
ニトロはずいとティディアに近づき、手を伸ばした。
「?」
彼にはたかれるかと思い、反射的にティディアは頭を差し出した。
まるで漫才のボケがツッコミに叩かれやすいようにしている風だったが、
「違う」
ニトロは一言否定して、ティディアの顔につく汚れをつまんではがした。
「ほれ、こっち向いて」
「……むー」
特殊メイクの残骸は、ニトロの手に懐かしい感触を与えた。そういえば『映画』の折、ハラキリがニトロに別人の顔を用意した時、被された特殊メイクのマスクにこんな接着剤が使われていた。
もっともあの時はマスクを剥がした時こんなカスが残らなかったものだが……少し粘りが緩いから、まだ乾ききっていないのかもしれない。だとすればよっぽど急ぎでメイクを施してきたのだろう。
「――それで?」
「『単純接触の原理』ってのがあるの」
ニトロに顔を綺麗にしてもらえて機嫌を良くし、ティディアが口を開いた。
「……何?」
「心理学でそういうのがあるのよ」
「ほう」
「簡単に言えば、『単純に接触する回数が増えるほど親密さが増す』ってやつなんだけどね。
これだ! って思ったのよ」
「……それ、本当か? 結構、俺、お前との接触回数多いと思うけど、まったく親しみ増してないぞ」
「う。わりと効いた」
沈痛に眉を垂れながらも、ティディアは続けた。
「まあ、私も変だなーと思ってさ。それじゃあ単純に私と接触する回数を増やしてやろうと思ったのさ。でも今まで以上に会うのは物理的に無理でしょ? 時間とか、距離とか。私の体は一つしかないし、忙しいお姫様だし」
段々と核心に近づいてきた。ニトロはティディアが何と言うかなんとなく察しながら、ふと視線を感じてそちらに目をやった。
四体のティディアの顔を持ったアンドロイドが、二体は相変わらず窓口の仕切りの上に立ち、ニトロに鼻柱をぶん殴られた二体は血色のオイルを鼻の両穴からぼったぼた垂らしながらカウンターの向こうに佇み、じっと見つめてきていた。ちょっと、いや、かなり不気味だった。
気がつけば他の客達が窓口の外に、行員たちが窓口の中で、人だかりを作ってこちらを見物している。
ニトロと目が合うと誰もが眼を逸らす。どうやら見物はするが関わり合いにはなりたくないと、誰もが思っているようだ。
とても正しい。
「……それで? お姫様はどう考えたのかな?」
「だったら物理的に接触回数を増やしてやろうと。私と接する回数を、私の数を増やして一気に数を稼いでやろうと」
「だからあれか」
「そう!」
ティディア・アンドロイズを指差すニトロに、ティディアは拳を握って瞳を輝かせた。まるで新しく買ってもらった玩具を自慢する子どもの瞳だった。
「
「お前は科学の進歩の活用法をも一度検討しなおせぃ。
てかさ、『単純接触の原理』? その実践も間違ってるだろ。
『五人で会えば一度で五回』なんて話じゃないだろうし、『本物が都合悪い時に代わりに会わせる』なりすりゃ確かに接触回数も稼げるかもしれないけどさ、意味なくないかな。単純に不気味でホラーなだけじゃないか。ティディアがいないはずのところにティディアがいるなんて、怖いだけだよ」
「それが結局難点だったわ!」
「あ、気がついてはいたんだ」
「でもそれならそれで、ニトロの怯える顔が見たくて堪らないじゃない!」
「いやそれ本末転倒……っつーか何その願望」
「そしてどうせやるんだったら思いっきり怖がらせたくて堪らないじゃない!? ちびるくらいに震わせたいじゃない! 脇目もふらず
「…………」
「ああ……あの、ニトロの壊れかけたあの表情! 思い出すだけでとーろけちゃうぐらい最っ高だったぁあ痛たひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃびゃ!!」
ティディアは悲鳴を上げた。
ニトロに頬をつねられ、というか頬肉を引きちぎらんばかりにねじ上げられ、悲鳴を上げた。
「あれー? おっかしいなぁ。この特殊メイクのカス、はがれないや」
引きつり笑顔でニトロが言う。だが目は笑っていない。酷く闇色に落ち窪んでいる。ティディアは焦った。
「ひょっおまっちぇニヒョリョ!」
「いやー、うまいこと造られてるよなー。このカス」
「きょへはわちゃひにょギャオゥ!」
放し際の瞬間的な最大激痛に、ティディアは絶叫した。
ひりひりと痛む頬をさすり涙目で抗議する。
「サ、サディスティックー」
「そりゃお前だ。悪趣味なことしてくれやがって」
ニトロはティディアから、ティディア・アンドロイズに目を移した。
鼻が潰れた二体の血色のオイルは流れを止めかけていた。その様子まで人間そっくりだった。子どもが興味を引かれて近づきでもしたのか、彼には見えない死角から母親の叱り声が聞こえた。
「それにしても、見れば見るほど見分けがつかないなあ」
ぼんやりと、ニトロは感嘆の声を漏らした。
「そうでしょ、凄いでしょ」
ティディアが胸を張る。
ニトロは嘆息しながら、ティディアの顔に残っていた特殊メイクの最後の残骸を取り、片手にためていたゴミを受付の席の下にあるクズカゴに捨てた。
「凄いけどさ。これだと、犯罪に使われたらアリバイとか崩すの難しそうだな」
「あ、それは今のところ大丈夫よ。生産難しいから最近騒ぎの戦闘用みたいに横流しできないし、目茶苦茶高いし」
「……どれくらいのお値段?」
「んー、一体で全国平均年収の三十倍くらいかな」
「お……お前、そんな高価なものをこんなことに……?」
「テスト兼ねてるから無料よ」
「え、また実験?」
「やー、ニトロがいてくれて助かるわー」
「ぶっとばーすっ」
「きゃーーーーっ」
明るい声を上げて、ティディアがあぐらをかいたまま、後方にでんぐり返って転がり逃げていく。
「…………ぁぁ」
なんだか馬鹿らしくなって、ニトロはため息をついた。
「それにしても納得がいかないのはこのことよ」
ニトロから怒気が霧散したのを見てとって、今度は前方にでんぐり返りを繰り返してティディアが戻ってくる。
ちょっとムカついたが、ニトロはそのまま彼女を待った。
「何が納得いかないんだよ」
戻ってきたところに即問われてティディアは、不満一杯に頬を膨らせた。
「ヴィタにも妹にも見破られなかったのに……」
そして尖らせた唇の先から不満をため息と吐き出して、落胆混じりにぼやく。
「なーんでこんなに早くばれちゃったのかしら。もっと追い詰めて心神喪失のニトロに婚姻届に血判押させる予定が台無しだわ」
「ティディア、お前余計な一言わざと言っているだろ」
「いやぁん、またばれちゃった」
ニトロが手を振り上げる。
ティディアがどうぞと頭を差し出す。
スナップ効かせて振り下ろされた掌が、的確な位置にある頭から快音を弾かせる。
ツボにはまったのか、ぷっと吹き出す音がどこからか聞こえた。ティディアの顔が喜色ばんだ。
(し、しまった――)
ニトロは自己嫌悪に駆られた。なぜティディアに誘導されていると解りながら、こうしてしまうのか。己の芯に染み付いたこの『癖』を恨めしく思った。
「でも本当になんで解っちゃったのかしら。ニトロ、後学のために教えてくれない?」
唇を噛み締めたい気分だったが、ティディアのペースはそれを許さない。それになにより、彼女が口にした単語をニトロは無視できなかった。
「……後学?」
不信と不審に満ちた目に、ティディアはからからと笑った。
「『科学の進歩』のためよ。他意はないわ。ね、何で?」
「う〜ん……
と、言われてもなあ」
問われて、ニトロはなぜ本物のティディアを見抜けたのか、はっきりとした理由を答えられないことに初めて気づいた。
(なんでだろう……)
あの時はとにかく異常状況を打破すべく、本体を叩くことに必死だった。だから強いて理由を挙げるならば、『必死だったから』だろうか。それでなければ他に思い当たるのは『直感』くらいしかない。
まあ男性型の一体は簡単に除外できるとしても、それでも四分の一の確率だ。そこから正確に解答を拾い上げられた公式はなんだったのだろう。
「? ? ?」
ニトロは首を傾げた。言いよどむこともできない。具体的な理由が全く見当つかない。
その様子にティディアはじれったそうに身悶えていたが、急に、はっと何かに――それも誰もが目を奪われる財宝の在り処に気づいたように、頬を硬直させた。
「?」
ティディアの変化にニトロは戸惑った。彼女は真剣な思案顔で床を一点見つめている。
まさか新たに企てを思いついたかと身構えたが、そんな様子は感じられない。
今度はどんなことを言い出しやがるのか。
警戒してティディアを見つめていると、彼女はまたも急に、ばっと音がするかの勢いで紅潮した顔を振り上げた。
「!?」
その瞳が異様な光で爛々として、ニトロはぎょっと身を引いた。
「愛ね!」
ティディアが、叫んだ。
「……何?」
いまいち彼女が言いたいことが理解できず、ニトロは眉間に皺を浮かべた。
だがティディアはニトロの疑念には取り合わず、立ち上がり、両拳を目一杯握りこんで叫んだ。
「愛よ!」
「だから何が!」
「ニトロが『私』を見つけられた理由、それは愛!」
ティディアの顔はこれでもかとばかりに
最も愛する男から歯が全て抜け落ちるような甘い言葉をかけられたとしてもこうはなるまい。
幸せ絶頂を叫ぶ王女の声は、朗々と銀行内に響き渡った。
「どんなに科学が進歩しようとも、人の愛には敵わない……私は今日、それをニトロに教えてもらったわ!」
「コラ待てなんだその自己完結の我田引水!」
慌ててニトロがティディアを止めようと立ち上がろうとするが、ティディアの手が彼の頭を押さえ込んでそれを封じ込めた。
「ああ、なんて私は幸せなのかしら……愛するニトロが、こんなにも私を愛してくれているなんて! 他の誰もが見破れなかったのに、一目見ただけでニトロはすぐに判ってくれた……。コンピューターで解析しても時間がかかるのに、家族でさえ判らなかったのに、ニトロは瞬時に見分けてくれた!」
感極まり、ティディアの声が潤んだ。
「これぞ愛の力!
ニトロ・ポルカトの、私への愛の深さ故!」
「やーめて〜」
ここぞ重大な転機と渾身の力で押さえ込んでくるティディアの体を這い登るように、いや、彼女に縋りついてニトロは懇願した。
なんとかじりじりと立ち上がっていってはいるが、口を塞ぐにはほど遠い。
脚を刈って倒してみようと試みるが、足裏から根が生えているのかびくともしない。
どちらか一方に集中すれば目的を果たせるだろうが――
「今日この場に居合わせたあなた達は、この上なく運がいい!」
ティディアの演説に気を取られて正常な判断ができやしない。
彼女はもうニトロに語りかけてはいなかった。
彼女が言葉をぶつけるのは王女とその恋人の奇妙なやり取りを観劇し続ける銀行の客、銀行員達。
王気を放ち立つ彼女を息をこらして見つめる皆々に慈愛の眼差しを注ぎ、身振りは大仰に、オペラ演者のごとく堂々と謳いあげる。
「その目に、その耳に、その心に、鮮やかに焼き付けておきなさい。この良き日はきっと後世に語り継がれるでしょう。ニトロ・ポルカトが、ロディアーナ朝第129代王位継承権保有者の心に決「わあああああああああああああ!!」」
いよいよ重要な言葉を口にしたティディアの声を、ニトロの絶叫が覆い隠した。
「…………」
ティディアが腹の辺りにあるニトロの顔に目を落とすと、彼は、壮絶な眼でにやりと笑った。
口を塞げないなら、倒せないなら、止められないなら、そう。
塗り潰す。
「……ニトロ・ポルカトが! ロディアーナ朝第129代王位継承権ほ「ぅわあああああああああああああああああ!!!」」
「ニトロ! ポルカトが!! ロディアーナ朝第12き「わうわあああああああああああああああああああああああ!!!!」」
「…………」
ティディアが胸下にあるニトロの顔に目を落とすと、彼は裂けた口の端から一筋の血を垂らしながらにやりと笑った。
「……ちょーっと姑息じゃない?」
「そっくりそのまま返したらぁ」
ティディアは笑った。
ニトロも笑った。
両者の顔には、殴り合っているかの凄絶さがあった。
ニトロは頬の下で、彼女の腹が大きく大きく膨れていくのを感じて心音を高鳴らせた。
ティディアはこれまでになく息を吸い込んでいた。腹の底、その奥底から声を張り上げようと準備していた。
そうはいくかとニトロも応じて息を大きく吸い込んだ。
と、その時だった。
「?」
ニトロは頭骨を押さえ込もうとするティディア力が緩んだことに、不意を突かれた。ひたすら浮上しようとしていたベクトルが巧みに動かされ、彼女に振りほどかれ……いや、そうはさせないと彼が足を前方に出した瞬間――
「んぅ!?」
突然顔面を覆いこんできた思いもよらぬ柔らかな感触に、ニトロは息を飲んだ。
「! ? !?」
不測のさらに外から襲い掛かってきた展開に彼は目を回した。
一体何が起こっている? ティディアは一体何を!?
彼女に叫ばせてはならないと解っているのに、現状を理解すらできず、焦燥に脳細胞が
ただはっきりと理解できるのは、後頭部には腕の感触。それが二つということだけ。
前には、弾力があるのに触れれば溶けてしまいそうに柔らかなもの。
後ろには腕が二つ。多分、前腕。
「――っ!」
ティディアの胸に顔を埋められている!
ニトロはひどく動揺した。
鼻も口も空気に触れられない。
乳房の感触がどうのこうのというよりも、メガネのパッドが両目頭に食い込んで、フレームと、さらにティディアのネームプレートが皮膚にめり込んできてとても痛い。
てかマズイ!
「むーーー!」
ニトロは首から上を完全に固定されたまま、暴れ出した。
頭を捕らえる腕を引きはがそうと試みても、ここぞとばかりのティディアの全力に邪魔される。
手を伸ばして口を塞ごうとしても、華麗に唇が逃げていく。
「んむーーーーー!」
必死に叫ぼうとしてもいかんせん口が彼女の胸に密着させられていて声を出せない。
なんとか位置をずらそうとしても、絶妙な力の入れ具合でコントロールされて叶わない。
こぉのクソ女、この魔の抱擁、絶対訓練してきやがったな!
「いい!? もう一度言うわ! 皆、その目に、その耳に、その心に、鮮やかに焼き付けておきなさい!」
ティディアが叫んだ。その声帯の振動が、彼女の骨身を通してニトロに伝わりその心臓を揺らした。
いよいよ危機が迫る。
呼吸もできないから意識もぼうっとしてきた。
動揺治まらぬ心までがつられてぼやけていく。
しかし酸素欠乏の脳味噌で、ニトロは必死に考えた。
こんな傍目から見たら『お熱い』だの『羨ましい』だの言われる状態で愛を叫ばれれば、これまでのティディアが単独で口にしていた
銀行内にはたくさんカメラがある。きっときっちり撮られてる。ここだけ映像で流されてみろ。
素晴らしき『愛の共同宣言』だ!
これまでは頑なにティディアとの交際を否定していたニトロ・ポルカトが、とうとう交際を公に認めたなんて言われてしまう。
(断固阻止!)
それだけは断固阻止!
「この良き日はきっと後世に語り継がれるでしょう。ニトロ・ポルカトが、ロディアーナ朝第129代王位継承権保有者の心に決意を! そう!」
「むうううう!!」
ニトロは肺に残る酸素全てを筋細胞に動員させ、力を振り絞った。
ティディアの背に腕を回し、両足はぎゅっと踏ん張り、背筋を爆発させる。
こうなったらその口が動くのを、意識ごと止めてやる!
「ニトロの永遠の愛おぉぉぉぉお!?」
ティディアの声が悲鳴に変わった。
物凄い力で堪える間もなく抱え上げられ、ニトロが反り返り、そのまま彼の後方へ投げられそうになったティディアは反射的に足を彼の体に絡めた。
それは――ティディアにとってはニトロが自分を投げ切れないよう、ただ動作を途中で止めようとしただけだった。
だが今にもブリッヂをしようと背を反らしていたニトロの腰は、足を絡みつけてきたティディアの体重を、放り投げるはずだったのにしがみつかれた想定外の負荷を、受け止めきれなかった。
グキッと。
「もぅ!?」
腰が、砕けた。
足腰の力が抜ける、二人分の体重を支えられず膝が折れる。しかしニトロがティディアを投げようとした勢いだけは生き残り――彼はもう、そのまま後ろに勢いよく、背泳ぎのスタートのごとくなだらかな弧を描いてダイブするしかなかった。
床へ。
セラミックの床へ。
「むもぉぉ!」「あれれ!?」
ニトロの悲鳴とティディアの戸惑いが重なり、倒れまいと空を掻いたティディアの手はしかし虚しく何をも掴めず、ならばニトロの脳はせめて守ろうと胸に抱えなおそうとしたその瞬間――
鈍く、
されど派手な激突音が王立銀行内に響き渡った。
硬い頭蓋骨と石床が衝突する身の毛もよだつ鈍い音に、周囲の誰もが眉をひそめた。
冷たい床に硬いものと柔らかいものが同時にキスした生々しい音に、周囲の誰もが肝を冷やした。
ニトロもティディアもろくに受身なんか取れもせず、この場で二人をみつめる全員の目に、その耳に、その心に、鮮やかな共同自爆をしかと焼き付けた。
「――――…………ぉー?」
酸欠と、後頭部をしこたま床に打ちつけた衝撃で朦朧として、ニトロはうめいた。
両目の上で、歪んだメガネのフレームが、記憶している形状に戻ろうと緩慢に動いている。
さっきまで顔を覆っていたティディアの胸はもうそこにはない。
しかし腰がなにやらすごく痛い。
やけに遠くからティディアの苦悶が聞こえるが、彼女がなんで苦しんでいるのか分からない。
意識が混濁している。視界に霞がかかっている。
ニトロは手が独りでに動いているのを感じた。本能だとでもいうのか、彼の手は携帯電話を探り、力が抜けていく指先に命綱を辛うじて掴んだ。
携帯をポケットから取り出した手は震えていた。最後の力を振り絞ってボタンを一押しした指からプラスチックの塊が滑り落ち、固い床に当たってかつんと泣いた。
「ニ、ニトロ……」
痛みを堪えているのか震える声で呼ばれたニトロは、体は仰向けに倒したまま、そちらに首を回した。
顔をむけた先には正座をして、鼻を押さえた手の下から血をぽったぽた垂らしているティディアがいた。
(……鼻血?)
ニトロはおかしいな、と思った。
なんでそこに鼻面殴り飛ばしたティディア・アンドロイドが一体だけいるんだろう……彼はそう不思議がりながら彼女を見つめていたが、やがてそれが本物のティディアだということに気がついて、鼻で笑った。
「なーんで、こうなったんだっけ?」
頭の中に花火が上がっていてよく分からない。
ティディアは焦点の定まらないニトロの瞳に、腕組みしてどう答えたものか思案し、ふと窓口の受付用のモニターに表示されている画面を見てうなずいた。
「ニトロのパスポート、申請受理されたわよ。三日後に受け取りにきてね」
ぴっと人差し指を立て、鼻血を垂らしたままニコリとティディアが笑う。
ニトロはため息をついた。
「そっか」
こちらを観守っているだけだった銀行員達が急にわめき出した。どよめきと乱れる無数の足音を耳鳴りの向こうに聞きながら、ニトロは力なく笑った。
「パスポート取るのって、大変だなー」
そう言ったきり、ニトロは白目をむいた。
「あれ? ニトロ?」
ティディアが近寄り声をかけるが、彼はぴくりともしない。
完全に、気絶していた。
「ニトロ!」
ティディアは立ち上がった。
「誰か!」
フロアの客達は、窓口カウンターの下へ恋人と消えた王女が再び姿を現したと思ったら、彼女が鼻から血しぶきを吹いて叫び出したことにひたすらに驚いた。
だが彼女が助けを必要としていることは、その強張った表情、必死の眼から痛いほど理解できた。
きっと愛しい恋人が、彼女よりも酷いことになってしまったのだ。
それならばすぐにでも救急車を手配しなければ――
「ナース服! ナース服をこれへ!」
その時、ティディア以外の全ての人間が一様に眉をひそめた。
今、姫様何てった?
「ナース服はないの!? ありえないくらいミニスカートなの推奨!」
ティディアが必死の形相で、きょとんと彼女を見つめる銀行員に、はたまた呆然と耳を疑っている客達に呼びかける。
だが誰も応えない。応えられるはずもない。
救急車を呼ぼうと携帯電話に手をかけていた何人かが、ティディアの注文に自分達は的外れなことをしようとしているのかと行動を止めた。
「ああもう、ナース服がないんだったら白衣でもいいわ!」
じれったそうにティディアが怒声を上げる。
ニトロが意識を失った今、彼女を止められるものはここにはなかった。その中で、ティディア・アンドロイズの一体、鼻を潰された片割れが窓口を乗り越えてきた。
「あれ?」
何も命じていないのに動き出した分身を見てティディアが首を傾げる。
鼻から下が赤く染まった王女、その同じ顔が二つ、しばし鏡を合わせたように見つめ合あった。
シュールというか現実離れした滑稽な光景に沈黙がおり、次に何が起こるのかと誰もが固唾を呑んでいると、アンドロイドは倒れているニトロをそっと担ぎ上げ、近くに落ちていた彼の携帯電話を拾うと、窓口を飛び越え一目散に逃げ出した。
「――あ」
ティディアは理解した。
「芍薬ちゃん!」
彼女は慌てて声を張り上げた。
「乗っ取りはわりと重罪よ!」
「ウルサイ、バカ!」
窓口を乗り越え追いかけるティディアに、何が起こっているのか理解できずに驚愕しながらも道を開ける客達の間を駆け抜けて、逃げる『ティディア』が怒声を返す。
「人命及ビ心身ノ保護ノタメノ緊急避難、適用状況ダ!」
「そんなわけないわこれから私が懇切丁寧に看護するのに!」
「ソレガ暴行傷害ダッテ言ッテルンダヨ!」
「うわ、ひどい言い草!」
言い合ううちにも芍薬が乗っ取ったアンドロイドは疾走し、出入り口の防弾ガラス製の自動ドアが開くのはもどかしそうにちょっと待って、また脱兎のごとく逃げていく。
生身の人間ではおよそ追いつけない速度。ティディアはフロアの半ばも過ぎたところで足を止め、肩を落とした。
「あ〜あ」
これはもうどうしようもない。
袖で鼻血を拭い、適当な監視カメラに体を向ける。
「ヴィタ、ちゃんと撮れてた?」
「ばっちりです」
行内放送で応えてきた執事に監視カメラ越しに笑顔を――血糊のせいで壮絶に、かつ間抜けに見える微笑みを返して、ティディアはうーんと伸びをした。
「それじゃ、生データと編集版はいつも通りにね」
「かしこまりました。鼻はいかがでしょうか」
「痛いけど骨は大丈夫。血も止まってきた。あ、ニトロの家に医者を回しといて」
「そのように。これからそちらに参ります」
「よろしくー」
頭の上で組んでいた手を解いて息をつく。
完全に予想外だった展開を思い返すと、ティディアの肩は自然と揺れた。
「ま、ニトロを抱き締められたからいっか」
欲を言えばもっと攻め込みたくもあったが、彼のことを考えればここらが潮時だ。彼女は満面に笑みを刻んでいた。
十分楽しめた。
今日は『ニトロとの映像日記』も更新できる。
そして何より、彼をこの胸に埋めさせてやった興奮が満腹中枢を充足させている。
心臓はまだ高鳴っていた。ニトロを抱いていた時の感触が熱となり全身を駆けていた。もしニトロにこの音が聞こえていたら、この熱が伝わっていたら、嬉しいのだが――
いや、さすがにあの状況ではそこまでは叶わないだろう。
(でもいつか……ね。ニトロ、楽しみにしておきなさい)
芍薬にハッキングされた『私』に担がれ去っていったニトロは今、どんな顔をしているだろうか。相変わらず白目をむいたままか、それとも意識を取り戻し、『私』が目の前にいることに慌てふためいているだろうか。
治療セットを手にヴィタがやってきた。彼女の顔も満足げで、撮れた画が上出来なものであることが窺い知れた。
差し出された点鼻用容器――医療用
ティディアは点鼻薬をヴィタに返し、換わりに濡れタオルを手に取ると、執事の構える手鏡を見ながら口周りに流れた血を拭い取っていった。
「……ん?」
顔を綺麗にし、一息ついたところで、ティディアは居心地悪そうに佇んでいる銀行員と客達の視線を一身に浴びていることに気がついた。
「ああ」
そういえば、フォローを忘れていた。
ティディアはタオルをヴィタに返して皆に向き直り姿勢を正すと、演技を終えたアクトレスのように美しく、優雅に辞儀をした。
「お楽しみ頂けましたらこれ幸い」
顔を上げた王女は、片目をつむり微笑んでいた。
「本日はこれまで。続きはまた今度ね」
終