『誕生日会』

 惑星アデムメデスの公転周期は、およそ368日である。
 閏年は三年に一度。閏日は9月に31日として挿入され、計369日となる。
 さて、「それでは、9月31日と言えば?」――現在のアデムメデスでそう問えば、まず間違いなくこのように返ってくる――「ティディア様の二日目の誕生日!」
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。
 現ロディアーナ朝第一王位継承者である彼女は、9月30日から31日にかけて産まれた。
 そう、彼女が『誕生』したのは、まさに日の変わらんとする瞬間であったのだ。
 とはいえ、『日の変わらんとする瞬間』といっても、両日のどちらかに産まれたと判定することは当然可能である。23時59分59秒であれば30日であるし、0時00分00秒であれば31日とするのが道理というものだ。では、正確にどちらの日に彼女が誕生したとどうやって判じよう? 産道を抜けた瞬間か、産声を上げた瞬間か――アデムメデスではその基準が“どちらでも良い”とされているために彼女を取り上げた医師団は真っ二つに意見を分けた。データを照合すれば産道を抜けた瞬間は30日内だった。ティディアは医師に取り上げられるとすぐに産声を上げた。その時には31日になっていた。
 それは、まるで計ったかのように。
 当時は一種の奇跡と語られたものだが、現在の彼女を鑑みれば当時から人をおちょくっているかのようでもあろう。実際、おちょくっていたのかもしれない。もちろん、それはティディアがその頃から確かな自我を得ていて、出産時間までも自らコントロールしていたら――ではあるが。
 ところで、それではティディアの誕生日をどう記載したか、ということについて、ここで一つの逸話がある。といっても、これはティディアの逸話としては数えられず、珍しく現王の逸話として語られているものだ。
 現王ロウキル・王妃カディの第四児の誕生日は、公文書である王系譜において30日と31日が同列に表記され、また記録されているのである。
 これは、娘の誕生日を31日とすれば、30日に行う誕生日のお祝いは『みなし』となり、30日となれば31日は失われる。我が子は『みなし』ではなく祝いたい、誕生した日をなかったことにするのは可哀想だ、祝いの日が一日増えるならむしろ良きことであろう、という君主夫妻の強い希望のためであった。法的にはありえぬ事だが、それでも王権を行使してまで承認されたのである。無論『公式に誕生日が二日に渡って存在する』という者は空前のことであり、おそらくは、絶後ともなるだろう。後にも先にも、これはティディアのみに許されたものであり、皮肉にも、後年においては彼女の特異性を表現する手助けともなってしまった。
 そして、今年こそが、その三年に一度の閏年である。
 三年に一度、彼女の誕生日会が、30日から31日に移る0時の鐘を以て最大の盛り上がりを見せる年。
 王都にて残暑も薄れ豊穣の秋の吐息がちゃくちゃくと木々の化粧直しをしていく中、驚くほどの快晴にして天は高く、神もが希代の王女を祝福しているよう、吹く風も快い、穏やかで温かな日であった。
 良くも悪くも世を騒がせる第一王位継承者の特別な誕生日が、アデムメデスに訪れたのである。

 ティディアの誕生日会は、ロディアーナ宮殿敷地内にある薔薇ロザ宮を会場としていた。
 ロザ宮はロディアーナ宮殿本殿から見て中庭の先にあり、その周囲は四季に渡って様々な薔薇の咲き誇る小さな花園に囲まれている。花園も見事ながら建築自体も美術史に語られるその宮は、覇王が王妃の慰めに舞踏会を開くため、そのためだけに作らせたものだ。そして竣工の当時から現在まで、何百何千の宴の中、時には歴史的な出来事シーンの舞台となった宮でもある。
 今宵もまた、歴史的なワンシーンが生まれるのであろうか。いや、生まれるであろう!
 太陽が西に沈んでからもう数時間。日を股にかけて開かれる誕生日会のため、国中の注目を集める宮には、開始時間を一時間も前にして既に招待客らが皆々集まっている。
 未だロザ宮に姿を現していないのは、主役であるティディア姫。それから、彼女の弟君と、今や『英雄』とまで称される恋人――『ニトロ・ポルカト』だけであった。
 そのニトロ・ポルカトは、現在、ロディアーナ宮殿の『談唱の間』にいた。
 ニトロがこの部屋にいるのは、パトネトが待ち合わせ場所として(同時にニトロの控え室として)ここを指定してきたためだ。歴史的な価値のある貴重なグランドピアノが鎮座する部屋で彼は王子を待ちながら、眼前に表示した宙映画面エア・モニターを通して『東大陸の大騒動』を見つめていた。
 画面には、強い怒りを隠さぬ姿で記者に応じている王女がいる。
 三日前からニトロも見飽きるほどに見たその映像が終わると、王立放送局アナウンサーがこれまでの状況の推移を改めて整理し、本日の各方面の動向を視聴者に聞かせ始める。
 ……王女ティディアが、激怒した。
 発端は、一昨日、東大陸で開かれた領主会議ラウンド・テーブルであった。
 事の次第は、簡単である。
 東大陸は、現在アデムメデス五大陸の中で最も弱い。経済も、将来的な見通しも。それは長年の懸案であり、今回の会議でもそれは当然議題として出てきた。が、今回の会議でも大した議論にはならなかった。五十五人の領主の語るものは揃いも揃ってほぼただの現状報告に過ぎず、改善案もどこかで聞いた事のある案をろくな咀嚼もせずにただ口にしただけ。進歩もなければ停滞でもない、むしろ後退しているような会議。それなのに、ティディアがこれまで行ってきた立て直しの手腕――実際、それは効果を見せている――を誉め称える言葉にだけは大変な熱があった。
 そこで業を煮やした王女は、己を讃えるセリフに続けてこう言った。
【あとは民に頑張ってもらわないとね】
 返って来たのは笑いと同意と太鼓持ちの修辞の嵐であった。そう、我々は努力した。全く姫様の仰る通り、これは民の努力が足りないのです。
 そして次の瞬間、媚びた笑いが温くかき混ぜていた議場の空気は一変したのである。
【痴れ者どもが。黙れ、耳障りだ】
 と、王女が急に人が変わったように、静かに、簡潔ながら強烈な罵倒を口にしたために。
 三日前、このニュースを知り、それから『議事録』を見たニトロは苦笑したものだった。
 ティディアの問題のセリフは、実に簡単な皮肉に他ならない。その裏には「ならば貴様達は用無しでいいのだな?」という意味が含まれている。それを円卓に並ぶ五十五人の領主らは、老いも若きも、腹芸巧みな狸も従順な犬も、非凡平凡男女も問わずに反論しなかったのだ。ティディアが怒るのも理解できる。あいつは反論を期待していた。自分の真意を暴く反論を。反論がきたならばぽんと打ち返し、また反論させ、そこから議論の糸口と緊張感を与えるつもりもあったはずだ。
 だが、領主らはそれをしなかった。できなかったのではないだろう、しなかったのだ。
 ニトロには、ティディアの意図を理解する一方、『しなかった』領主らのその意図も理解できた。
 全星系連星ユニオリスタ加盟国の内、現在最も“ホットなくに”と語られる我がアデムメデス。そこには必ず『ティディア』という名がセットでついてくる。現在のみならず、次代を見据えて銀河の展望を語る際においてもその名の存在感は増す一方である。その次代の女王たる姫君に、今、貴族らが少しでも悪く覚えられたくないと画策するのはごく自然な成り行きであろう。東大陸の領主らに内心では同情を寄せる他大陸の領主も多いはずだ。
 畏れ多くなるほどに『ティディア』の勢いは国内に留まることなく激しい。
 さらに言えば、アデムメデスの貴族らは(また国民は)現状何もせずとも自動的に勝ち馬に乗っている状態である。
 なのに、そこから自ら降りようというのはよほどの変わり者か、あるいはただの愚か者でしかない。勝ち馬の行く先が崖であると言うならまだしも、希代の王女の手綱は破滅の道に向けられてはいないのだ。アデムメデスの『次代』は、未来を待つまでもなく既に黄金色に輝いている! それなのに、才気溢れる第一王位継承者に少しでも悪く覚えられたくないと画策しない貴族がどこにいよう。
 が、もちろん、彼女の恩恵に預かろうというのが悪いのではない。
 ただ、自らの目で黄金を鑑定し続けながら益を享受するのと、盲目的に黄金を“黄金色だから”と益を享受するのとでは意味合いが明らかに違う。領主という立場に居るものならば、その意味合いの違いこそが民にも増してことさら重要となろう。
 ……議事録から見る円卓には、ただ“黄金色の輝き”に目を奪われ盲目となっている者ばかりがいた。そして己らの着る『貴族という衣』を輝かせることを、王女の威光に頼る者ばかりしかいなかった。
 しかし、一方でティディアのセリフが『危険な皮肉』であることを理解している者も間違いなくいたはずだとニトロは思っている。
 そして、彼はまた思うのだ。
 ティディアには、むしろ“理解している者”までもが畏縮し、才を自ら無下にし、ひたすら周囲に同調して『ことなかれ』に溺していることが我慢ならなかったのだろう、と。
 それを示すように、この会議のあった一昨日の夜、電映話ビデ-フォンを通した漫才の稽古であのバカは呆れるくらいにボケ倒してきてこちらを辟易させたものだ。ニトロはそのボケ倒しに付き合ってやった。普段なら止めるレベルであったのだが、ティディアの様子に何かしらフラストレーションを感じたために。彼女はそれに甘えるように遠慮なくボケ散らかしていた。その副産物で漫才が一本仕上がった。内容は権力者を哂う風刺物。それでなくても公務で何かあったのだろうとニトロは思っていたから、練習後に芍薬に心当たりを訊ね(彼は受験勉強をしていたためにそれまで知らなかった)、そして該当のニュースを見た際、彼の頬に浮かんだ苦笑は一入ひとしおであったものだった。
 次に議事録は語る。
【議長】
 ティディアは言った。
【はい!】
 王女の呼び掛けに応えたのはまだ若い女領主だった。その声はほとんど金切り声であり、その顔は半ば泣き顔であったらしい。年頭に父が病に伏せたため、急遽籍を継いだ女領主は、今回不運にも『持ち回り』の当番で議長を務めていた。彼女にとっては“まさか”の連続であっただろう。プライベートでは『ティディア・マニア』でもある彼女は二の句が継げず、おかしな沈黙が議場をさらに凍りつかせた。
 ティディアは、立ち上がった。椅子の引かれる音が皆の心に爪を立てる。
【閉会にしましょう】
 その言葉は、口調としては提案の形に寄っていたが、実際には命令だった。
【ハイ!】
 もはや超音波の域で――と議事録には注釈があった。
 それにしてもその『議事録』は、一挙手一投足に至るまで詳細に描写されていた。形式も通常のものからまるで外れていて、ルポタージュ、あるいはノンフィクション小説とでも言うべきものだった。
【『宿題』を出す】
 王女には厳しい王威、いや、覇王の威があった。
【議事録を吟味せよ。私の意をただしてみせよ】
 次代の女王は円卓に揃う血の気の引いた雁首をざっと巡り見て、
【さもなくば、ここにある家は皆消えるだろう】
 それはつまり、領地の剥奪のみならず、爵位までをも奪う宣言……!
 悲鳴じみたざわめきの中、ティディアは一人議場を後にした。
 その後の大騒ぎは、王立放送局のアナウンサーが読む原稿に無論到底収まり切らぬものである。今日一日だけでも凄まじい情報量の原稿を読み終えたアナウンサーは早速解説員に話を振った。
 と、そこで、宙映画面エア・モニターを見ていたニトロの視界にひょこりと淑やかなキモノ姿の芍薬が入ってきた。
「チョット顎ヲ上ゲテクレルカイ」
 芍薬に言われ、ニトロは顎を上向けた。すると芍薬はマスターのシャツの襟を立て、素早く純白の蝶ネクタイを結びつけていった。
 タイが締められたことでニトロの心が一つ引き締まる。
 もうすぐ……『そこ』に踏み込む。
 感慨とも後悔とも言えぬ心境に浸りながら、ニトロは顎を下ろす。
 芍薬は蝶ネクタイの位置を微調整し、それから襟を立てる際にずれた上着の位置を直すためにニトロの背後へと回る。
 芍薬が移動したことで、ニトロの目に再び宙映画面が戻ってきた。
 画面は、スタジオから現地の様子を語るアナウンサーに中継が移っていた。東副王都イスカルラの議事堂前にいる若いアナウンサーは、関係者の談話として王女の横暴への不満を臭わせる発言を紹介している。が……ニトロは、その内容に首を傾げた。
 ――【議事録を吟味せよ。私の意を質してみせよ】
 これは、恐怖のクレイジー・プリンセスからすれば非常に甘い言葉だ。
 ヒント、というより『答え』そのもの。
 なのに、解答集を見ながら問題集を解いて良いと言われているというのに、その“関係者”は一体何を言っているのだろう。王女の横暴への不満? もちろん、それは“関係者”という曖昧な影を、さらにメディアを用いることでより曖昧にした存在を介した政治的な駆け引きなのかもしれない。それとも観測気球的な発言だろうか? とはいえ、事ここに及んでまで割れやすい風船を飛ばして風向きを見る必要はあるのだろうか。風が「こっちだよ!」と自ら手を振っているというのに、そんな馬鹿げたリスクを取るなど。
(首、切られちゃうだろうなぁ)
 東大陸の領名がいくつか変わる事態は避けられない。そう思う。
 若いアナウンサーは、さらに伝えた。
 別の関係者の話として、曰く、
<『ニトロ・ポルカトの取り成しがあるのではないか』それを期待する声も聞かれたということです>
「おっと」
 その発言に、ニトロは胸にざわめくものを感じた。
「トウトウ『明言』ガキタネ」
 ニトロの姿を近場から遠場から、爪先立ちになったりしゃがみ込んだりしながら何度も確認していた芍薬が、明らかに不愉快を示して言った。
 ニトロはうなずくしかない。
 彼は『そのような空気』が三日前からずっと流れ出していたことを、知っていた。東大陸の領主連の動向からも、アデムメデスの一部からも。だが、その空気は、これまでは明確に言語化はされていなかった。もちろんネットコミュニティ内やテレビのコメンテーターなど、あくまで私的な意見としてならばいくらでも言語化されていたが、しかし、公的・政治的な意見として表明する個人・団体は存在していなかったのである。
 そこには、いくらなんでも“まだ”未成年である『ニトロ・ポルカト』にいきなり助け舟を期待するのは『公』としてどうか、という遠慮があったのだろう。
 だが、このタイミングで明言がきた。――ということは、それはすなわち、ニトロがティディアの誕生日会に参加することにより、“もう言ってもいいだろうという情勢”が生まれたことを意味する。また、同時に、彼が、これからは『公人』としてあからさまに扱われていくことをも、その“関係者”の言葉は意味していた。
「意味……ないんだけどねぇ」
 ニトロは、胸にある小さな動揺を潰しながら、言った。
「ていうか自分からそんなことを明言したらトドメだったのに」
「御意」
 芍薬はニトロの燕尾服を、どこか形が崩れているところがないかと、まるで過保護に我が子の世話を焼く母親のように何度も何度も確認しながら、
「バカハ、ソレコソヲ嫌ウヨ」
 そう、自ら解決しようというのではなく、最初からそれを当て込むことこそをアイツは嫌う。
 ニトロは息をつき、
「どれくらい取り潰されるかな」
「コノママダト全滅ハ確実カナ」
「領民の反応は?」
 画面はスタジオに戻り、アナウンサーは解説員に東大陸経済界の動向を聞いている。
「領ゴトニ様子ガ違ウネ。目立ツ実績ヲ出セテイナイ家バカリダケド、反面現状維持ニハ成功シテイル所モ多イカラ。ソウイウ大キナ不可ノナイ領主ノトコロガ“戸惑イ”多数。ソレ以外ハ賛成多数デ、反対ハ消極的。ケレド……不満モ多イノモ事実ダカラ、“戸惑イ”モドチラカト言エバ賛成寄リノ情勢カナ。ソレニ加エテ『ティディア様ノオヤリニナルコト』ダカラネ、盲目的ナノハ民ニモ多イサ。ムシロ政治家モ切ッテホシイナンテ意見モ出テイルヨ」
 ニトロは芍薬の情報と分析になるほどとうなずき、
「でも、政治家に対するのは国民こっちの仕事だねぇ」
 受験のためにちょうどアデムメデス史を勉強していたニトロは、苦笑する。
 そして、その情勢を踏まえた上で、先ほどの『横暴』を臭わす発言や『ニトロ・ポルカト』に関する発言と、そういう発言を出してしまう貴族連中への民の心情がどう動くかを考慮すれば、
(となると、そこらはやっぱりクビだろうな)
 他人事のように――努めて他人事のように、ニトロは思う。そして、
「領主連が押し返してくる目はあると思う?」
「御意」
 再びニトロの襟を直しながら、芍薬はうなずく。ニトロは少し驚き、
「あるんだ」
「レド・ハイアン――アノ『議長』ガ頑張ッテル。“敵”カラ会議デ議長ダッタコトヘノ責任追及ヲ受ケナガラ、ウマク立チ回ッテ“仲間”ヲ増ヤシテルヨウダヨ。ポロポロ余計ナコトヲコボシテル“関係者”ガイルノハ別ノ派閥カ、ソレトモ流レノ読メナイ野心家メダチタガリアタリサ。ソレニ彼女ノ領地ニハ、幸イ妹姫ガ滞在シテイル。配下ノルッド・ヒューラン卿ヲ通ジテ助言ヲ求メテモイルヨ」
 ニトロは感嘆の吐息を漏らした。
「ああ、そりゃあ、正解だ」
 この件において助力を頼むのならば、『ニトロ・ポルカト』よりも『王女ミリュウ』こそが最高の人選だ。元より調停役に向いた妹姫である。そして今の彼女なら姉の意に反する可能性があったとしても、自分で協力すると決めたなら、きっと尽力することだろう。
 ……となれば。
(てことは、その流れでこの件が上手く落とし込まれた暁には……)
 東大陸において、第二王位継承者はきっとその存在感を増すことだろう。今回における彼女の活動が表沙汰にはならなくとも、間違いなく、救われた領主は恩義を感じざるを得まい。
 思えば、ティディアには、貴族に対しても(国民へと同様に)特異な“カリスマによる忠義の獲得”がある。
 その一方で彼女は今回の件のように……いや、今回の件など可愛いくらいの暴れっぷりで処分を科した者も多くあるために、面従腹背の『敵』も数多く獲得している。
 それでもクレイジー・プリンセスが表立って攻撃されないのは、無論熱狂的な信奉に守られているためもあるが、何より大きな理由として“利害による忠義の獲得”があるためだ。とにかく彼女を敵に回すことこそが最大の『不利益』なのである。“王”と“貴族”の力関係は往々にしてその上下を逆転させることがあるものだが、現在のアデムメデスにおいては、民の支持により王権が強力であることに加え、その『不利益』が存在する以上、法や国の仕組みとして明文化されたもの以外の“事実上の権力”までもが絶対的に安定しているのだ。
 と、そこに、妹姫への“恩義による忠義”が重なればどうだろうか。『劣り姫の変』により少なからず傷ついた妹の立場が改善されると同時に、王位という“絶対的な基礎”にまた新たな固い忠義の柱が別角度から増えるともなれば、王家にとってそれこそ非常に都合が良いのではないか。
(……まさか、ここら辺も目論んで『怒った』のか?)
 怒りの原因が会議の“流れ”の中にあるとしても、眼前に現れた“流れ”をどのように扱うかは別の話だ。
 さらに穿てば、あの議長を務めた若い女領主の発言力も非常に強くなるだろう。
 ――そうだ、『ティディア・マニア』である上に、次代を担う若い領主が力を得るのだ。
 これまでの経緯からして、困難を乗り越えた臣下に対して第一王位継承者は実に懐深い態度を示す。男女問わず身を縮めるクレイジー・プリンセスによる恐怖の後の、男女問わず虜にする蠱惑の美女がもたらす安堵。その唇が紡ぐ誉れの言葉は、それまでの困難が厳しければ厳しいほどに相手の心を癒し、心の底までを掌握する。あの『ミリュウの記憶』で見たように、それは一種の麻薬だ。これまでにそうして信奉者を増やしてきたように――相手が元々信奉者であったならば狂信者とまでしてきたように、今回もそうなることは予測に易い。ただでさえ議長であった責任を負っている女領主は、どれほど涙を流してティディアの言葉を胸に抱くだろう。
 自らが即位した後を見据えれば、それもまたティディアにとって実に都合が良い
 ……この件をもっと掘り返せば、『激怒』の仮面の下からさらなる“都合が良い”が出てきそうである。
 と、そこまで考えたところで、ニトロは推察をぴたりと止めた。
 きっとあいつは全て――あの激怒は本物ではあったが、それを含めて全て折り込み済みで行動しているに決まっている。そうだ、あいつは、どれほどの激情に駆られていようが諸々損得込みでイカれるヤツなのだから。
 これ以上深読みする必要はない。
 これ以上はそれこそ政の深みだ。俺がそこまで踏み込む必要はない。
 ニトロはエア・モニターを操作し、王立放送局からATVアデムメデステレビにチャンネルを変えた。
 画面に、ロディアーナ宮殿正門前の広場が現れる。
 ニトロは、驚いた。
 宮殿に入る前にもその人数に驚いたが、ほんの一時間も経たないうちに、広場はさらに人でごった返していた。
 希代の王女の誕生日を祝いに駆けつけた民衆が起こす喧騒の中、ATVの売れっ子女性アナウンサー、フェムリー・ポルカトが大声でカメラに向かってレポートをしている。
 と、横から大きな板晶画面ボードスクリーンを持った一般人がカメラに入り込んできた。そのスクリーンには、今月の定例会見において、自身の誕生日会について語る王女の『至福の笑み』がある。その横には『笑顔のニトロ』があり、両者はピンク色のハートマークで囲まれていた。
<おめでとーございまーす!>
 目立ちたがりな若い男性の声がフェムリー・ポルカトのマイクに拾われる。アドリブの利く彼女は早速その男性にインタビューを始めた。何故ティディアのその写真を選んだのかと訊ねると、男性は力強く返す。
<この時のティディア様を見ていて、私も幸せな気持ちになったからです!>
 それはどうやらフェムリーの欲しかったコメントであるらしかった。彼女は得意な顔でスタジオのキャスターに向けて次の『展開』に向けた一言を送る。するとスタジオのキャスターがそれを受け、画面が件の会見の映像に切り替わった。
 ニトロは今でもその会見をよくよく覚えている。
 今月の定例会見の場で、ティディアは心から嬉しそうに、至福の笑みを浮かべ、誕生日会に弟と『恋人』が参加することを明らかにした。
 ――あの“照れ屋の”ニトロ・ポルカトがとうとう社交界に現れる!
 ――しかも、あの“人見知り”のパトネト王子を引き連れて!!
 その一大ニュースが明かされた時の会見場は、取材陣の驚きと歓迎と質問を許されようとする呼びかけと……もうとにかく無茶苦茶な騒ぎっぷりであった。が、そのお祭り騒ぎは三分も続かなかった。直後にティディアが言ったのだ。誕生日会は“シークレット”にすると。会見場は水を打ったように静まり返った。そのあまりの落差に、ニトロは笑ってしまった。
 まあ、無理もないことではある。元々、王の子女の誕生日会にマスメディアの取材はなかなか入れない。その様子は基本的に王家広報から提供される映像でしか見られぬものだ。しかしティディアだけはわりとメディアにも門を開いており、これまでも毎回幸運な数社が――もちろん様々な条件付だが――カメラを持ち込むことが出来ていた。
 それなのにティディアは今回に限ってメディアの参加を一切禁止したのである。一瞬にして膨張していた期待感が一瞬にして萎んだ後、我に返ったように“シークレット”の撤回を要求し出した取材陣のセリフはほとんど嘆き節であった。
 翌日からのメディアの騒ぎ方も、会見場の取材陣の感情を抽出したようなものだった。
 驚きと歓迎、そしてそれを自らの声で報じられない失望。
 ゴシップを扱うワイドショーの中でも随一の人気キャスターが、番組中に何十回ものため息をつき、つられてコメンテーター達も何度もため息をついていたことが話題になった。そのあまりにもあからさまな落胆振りはネットでも話題となり、今やそれを元にした『映像作品』はWebの中にごまんと溢れている。
 そして、ニトロが会見をよくよく覚えているのには、もう一つ理由があった。
 彼は、いや、彼もてっきりティディアが大手を振ってマスメディアの目を会場に引き入れると思っていたのだ。何しろ『恋人』を社交界の人間としてアピールする絶好の機会である。パトネトの存在感をより増すためにもメディアは大いに利用できるだろう。
 だが、ティディアはあっさりと、かつはっきりと『当日の映像は、王家広報からのみ提供します』と断言した。
 もしかしたら、星の中で最も驚いたのはニトロであったかもしれない。彼はしきりに首を捻り、芍薬も釈然としないでいたが、これについてはハラキリが有力な説を二つ与えてくれた。
 一つは、ニトロと弟が出るからこそ“閉じた”ということ。それは彼女なりの感謝と誠意として、かつホストとして混乱を未然に防ぐべく当然の処置として。特に弟が出てきやすいための整備としても考えれば筋は通る。
 もう一つは……ハラキリは言った。
 ――「秘するが花ですよ」
 そう、隠すことによる事実の増幅。王家広報からの映像だけでは語られぬ部分を、人は想像で華美に彩ることだろう。招待客の口を閉ざすこともできないから、彼ら彼女らはメディア渇望の情報源となり、そこで語られることは尾ひれのみならず背びれも胸びれも巨大化することだろう。そうして彩られ、過大となるほどに、ティディアにとっては都合が良いこととなろう。
「……」
 ニトロはATVからJBCSジスカルラ放送局等主要局を確認した後――王立放送局以外は全てロディアーナ宮殿か『至福の笑み』を浮かべる姫君を流していた――宙映画面を消した。
 息を一つつき、彼は芍薬に目をやった。
「他に頭に入れておくことはあったっけ」
「政経分野デハ、ヤッパリ、『クロノウォレス』関係ガ一番ダネ。『セスカニアン』トノ関連モ重要ダケド、直近ノ“急所”トスルナラ『ラミラス』トノ交渉ガ最重要。アト国内デ言ウナラ西大陸ノ展望ダケド、コレハ“ウマク行ク”デ通シテオイテイインジャナイカナ。東大陸ニツイテハ」
「“ノーコメント”」
「御意」
「了解」
 ニトロは、『パトネト王子の付き添い』として会に参加する。であれば、自分が恥をかけばそれは王子の恥となる。話しかけてくる相手がどんな話題を振ってくるかは判らないが、少なくとも時事的に常識である事にはある程度的確に対応せねばならない。こういう会のマナーとしてA.I.を傍に置くのは不可であるらしいので、芍薬に――芍薬は『警備を兼ねた給仕』として会場内のどこかにいるものの――頼ることは出来ないのだ。
 が、
「それで対処できなかったらハラキリに頼ればいいか」
「御意」
 ハラキリは、ティディアの非公式な招待状に参加と返していた(ちなみにニトロは招待状を受け取りから拒否していた)。あの曲者な親友は、学校での猫被りが見事なほどに博識だ。他国の王女とも対等にやり合える彼がいれば怖いものはない。
「デモ……主様ダケデ、十分平気ダト思ウケドネ」
 改めて見て、蝶ネクタイの形が気に食わなかったらしい。一度解き、結び直しながら芍薬が言う。
 ネクタイを直されるために少し上向きながらニトロは笑み、
「ただ、気になるのは例の『サプライズ』だね」
 ティディアのことだ。何にしても九割がた面倒事であろう。残り一割では穏健な企画も想定できるが、だからといって油断はできない。平和の中に毒を仕込むのも、あいつの得意技だ。
「イザトナッタラあたしモ出ルヨ。マナーナンテ知ッタコトカ」
 ニトロは笑った。
「よろしくね」
 芍薬は、ようやくニトロの“形”に納得がいったらしく、近くで眺めてうなずき、遠くで眺めてうなずいた。
 ニトロが纏うのは、王家御用達のテーラーに急ぎ作ってもらった燕尾服だ。靴もオーダーメイドの特注品。全て芍薬が渾身の力で選定し、交渉し、作り上げてもらったものである。経費は“向こう持ち”ということで糸目もつけておらず、その出来栄えときたら自国はおろか他国の王侯諸侯政治家資産家――あらゆる相手にも引けをとらない。今日は髪もワックスでスタイルを整えてある。ニトロ本人は燕尾服など似合わないと思っているが、いいや、平和なアデムメデスにあって数々の危難困難艱難辛苦を乗り越えてきた彼には年齢相応の若さに年齢不相応の熟成が伴い、一頃に比べて精悍さを増した顔つきは、熟練の職人の手による服飾品びじゅつひんにも負けることはない。
 品の良い落ち着きと、人柄を忍ばせる調和。
 似合う、ということは、きっとこういうことだ。
「バッチリダヨ、主様」
 嬉しく、誇らしく、喜ばしく芍薬が胸を張る。
 芍薬にそう言ってもらえるのならば、ニトロにも自信が湧く。
「ありがとう、芍薬」
 ニトロの笑顔は、一年前、半年前、三ヶ月前のものともわけが違う。芍薬はマスターの成長に堪らない歓喜を感じ、何度もうなずいた。そう、今日は――ティディアの誕生日会というのが癪ではあるが――ともかくマスターの晴れ舞台なのである。
 と、そこに飛んできた通信を受けて、芍薬はニトロに目配せをした。
 ニトロはうなずき、この部屋から『僥倖の間』につながる扉に目をやった。
 扉がノックされる。
「どうぞ」
 ニトロが応えるや否や扉が開き、すると、燕尾服に身を包んだパトネトが飛び込んできた。その様は、どこか男装の美少女と言う方が正しいだろう。しかし、以前に比べて随分と様になった走り方は男子の力強さを見せ始めている。
「ニトロ君!」
 パトネトは目を輝かせてニトロに走り寄り、飛びついた。
 ニトロは自分に懐いてくれる王子を抱き止め、
「こんばんは、パトネト王子」
 と、言った。――瞬間、パトネトが、ニトロを突き放すようにして離れた。
「……王子?」
 思わぬ反応にニトロが戸惑いの声を上げる。が、パトネトはむすっと頬を膨らませて応えない。
「パトネト様?」
 ニトロは声をかけた。しかしパトネトはそっぽを向いて応えない。それどころかますます不機嫌に頬を膨らませる。
「殿下」
 呼びかけを変えてみるが、応えはない。
「……」
 ニトロは芍薬を見た。芍薬は軽く肩をすくめる。
 ニトロはパトネトの後を追って入ってきた近衛兵の制服に身を包むアンドロイド――フレアを見た。フレアは、うなずいた。貴方の推測は正しい、と。
「本日は……私は貴方様の付き添いとして来たのです」
 しかし、それでも頑固にニトロは呼びかけた。
 しかし、それでも頑固にパトネトは応えない。もはや完全に拒絶を体全体で表している。
 ニトロは黙ってパトネトを見つめ続けたが、やおら根負けした。
 そう言えば初めて自宅に彼が来たときもそうだった。その時も、パトネト様、王子、殿下、太子……敬称の全てが拒否されたものだ。
パティ
 呼びかけると、パトネトがニトロへ振り返った。表情は明るく、満面の笑顔である。
「ニトロ君、格好いいよ!」
 そう言いながら、すっかり機嫌を直してニトロに再び飛びついてくる。
 ニトロはパトネトを再び抱き止め、
「本当は、俺は君に対して従わなけりゃいけないんだよ?」
「うん、知ってる」
 パトネトは無邪気にうなずく。
 ニトロは苦笑し、
「それなら……」
「でもね、ニトロ君は、いつだって『パティ』って呼ばないとだめなの」
「……駄目なの?」
「うん。だめなの」
「そうかー」
 無愛想なフレアの表情は変わらないが、困り顔のニトロを見て芍薬は笑っていた。ニトロが芍薬と目配せすると、芍薬は笑ったまま『意のままに』と首を傾げた。
 ――ニトロは、納得した。
 曲がりなりにも王女の誕生日会だ。ここは『公』に相応しく対応するつもりだったのだが、しかし『駄目』だというのなら仕方がない。
「時間は?」
 ニトロは芍薬に問うた。
「9時22分」
 芍薬が答える。
 会場は既に開いている。本番は10時からだが、
「ハラキリは?」
「既ニ」
『師匠』のことだ。何が起こっても対処できるよう、物の配置や、それによる人の流れのパターンなどを確認しているのだろう。彼もドレスコードに従って燕尾服だというから、それを見るのも楽しみである。
 それからニトロはパトネトに訊いた。
「ティディアは何か言っていた?」
 主役のティディアは、今は同じロディアーナ宮殿内にいる。が、これまでニトロは彼女と一度も顔を合わせてはいない。それどころかニトロはヴィタにも会っていなかった。
 宮殿にやってきた彼を出迎えたのはティディアの側仕えの中でも有名な一人――麻薬所持・使用の前歴があり、ティディアの気まぐれで採用された後に立派に更生し現在も働いている――であり、彼女からはただ「会場で会いましょう」とだけ伝言を受けていた。おそらく『サプライズ』のために秘密主義を決め込んでいるのだろう。それもあって、ニトロのその問いかけは『サプライズ』への探りを兼ねたものであったのだが、
「後でねって」
 パトネトが答える。
 ニトロは、今度はストレートに訊いてみた。
「サプライズってどんなのだろう」
「後でねって」
「……」
 パトネトの即答は、まずティディアの仕込みだろう。
 ニトロはふむと鼻を鳴らし、自分に抱きついている王子の肩を優しく叩き、
「それじゃあ、パティ……行こうか?」
 するとパトネトは、いくらかの逡巡を見せた。ゆっくりとニトロから離れ、何度も躊躇いの視線をニトロへ、あるいは他所へと流し――やがて、強い決意を込めてうなずいた。
 ニトロは笑みを浮かべ、手を差し出す。
「大丈夫だよ」
 差し出されたニトロの手と彼の顔を交互に見、パトネトは、おずおずと自らも手を伸ばした。
「……」
 ニトロは、手を握ってきた王子の手が既に汗に滲んでいることを知った。
「パティ」
 しゃがみこみ、パトネトと同じ視線に目を落とし、幼い『弟』の頭を撫でながらニトロは言う。
「辛くなったら、いつでも言うんだよ?」
 パトネトはニトロを見つめ、その頼もしい『兄』の姿に唇を尖らせ、弱々しさを懸命に隠すように言う。
「平気。だって、僕は男の子だもん」
 この際、男も女もないと思うが……ここでパトネトがそう言うのは、きっとそれだけの理由があるのだろう。それは、ひょっとしたら『王子として』――という自覚からきている言葉なのかもしれない。だとしたら、王子としての自分を強く意識し出したからこそ、彼はこの場に出ることを決意したのかもしれない。
 パトネトは大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐き、ニトロを見つめ、
「ニトロ君」
「ん?」
「頑張ろうね」
“頑張ろう”とは妙な言い方ではあるが。
「そうだね」
 実際、ニトロも避け続けてきた場所にとうとう踏み出すのである。その点ではパトネトと自分はよく似ている。
 彼は目を細めてうなずくと、パトネトの手をしっかりと握ったまま立ち上がった。
「頑張ろう」
 自らの決意の外に促しも込めて言うと、パトネトが微笑む。
 そしてニトロとパトネトは部屋を出た。
 ロディアーナ宮殿から薔薇ロザ宮に向かうには、大きく分けて二つのルートがある。
 一つは、竣工当時の様式を今も守る中庭を通っていく方法。
 もう一つは、宮殿から続く地下道を通っていく方法。
 王城もそうであるのだが、この宮殿を建造した覇王は、自身の拠点ともなる場所には必ず避難用の『隠し通路』を病的なまでに複数作っていた。これは覇王の用心深さ・疑心暗鬼の強さの表れとも語られ、あるいは地上を征服した覇王は地下も征服するつもりだったのだとも語られる(実際、王城地下の『天啓の間』や、かの『霊廟』を始め、アデムメデス統一期〜統一後の建築には地下を重視するものが多い)。
 ロディアーナ宮殿には、公表されているものだけで五本の地下通路があった。内一本が、ロディアーナ宮殿とロザ宮を繋ぐ通路である。当時からロザ宮で催しがある際に使用人の“導線”としても併用されていたその路を通れば、人目につかず二つの宮を移動することが出来る。
 ニトロは、しかし、中庭を通っていく道を選んだ。
 パトネトは、地下通路を行くものだと思い込んでいたのだろう。己の手を引くニトロの足が中庭に向かっているのを悟るや大きな動揺を見せていた。
 それでもニトロは、パトネトの手の熱さが増していくのを感じながら、脳裏に描いた地図をまっすぐ進んだ。途中で芍薬が消え、代わって、その先で仕立ての良い給仕服を着たウェイトレス・アンドロイドが合流してくる。芍薬が機体を乗り換えてきたのだ。芍薬の操作する給仕アンドロイドは先導するように歩きつつ、一度肩越しに振り返ってウィンクをした。そのつむられた左目の傍には小さな泣きボクロがあった。分かり易い『目印』である。
 そうしている内に一行は中庭に通じる部屋に辿り着き、そこでニトロは立ち止まった。
 足を重くしていた王子がこっそりと――ニトロに気づかれないようにしたつもりであったのだろうが――息をつく。
 二人の下にはすぐにそれぞれのA.I.が近寄ってきた。
 芍薬が今一度ニトロの“形”を確認する。既に登録してある完璧なデータと照合し、ものの数秒で直し終える。フレアも同じく、主人の服装を直し終えていた。
「中庭にはどれくらい人がいる?」
「19人」
 ニトロの問いに答えたのはフレアであった。芍薬は答えようともしていない。ここでは『客』であるために、必要時以外は控えるつもりなのだ。
「『空』からは?」
「何者モ進入ヲ許シテイマセン」
 ロディアーナ宮殿の敷地上空は、現在王軍と警察が厳重に警備している。いかな札付きのパパラッチでも侵入は諦めるだろう。何しろ許可なく“領空”に入ろうとした瞬間、それが誰であろうと本気で警告無しに撃墜されてしまうために。
 だが、ニトロもそれは分かっている。
 つい芍薬に問うつもりで言ってしまったため、質問の仕方が悪かったと思いながら、
「カメラはどこら辺を捉えているかな」
 そう、撃墜されに敷地上空に入らずとも、遠方から望遠で覗くことは可能である。
 もちろん本番の時間になればそうはいかない。その時には虫型ロボットが上空を雲霞のごとく舞い、不規則に飛ぶように見せながらもそれらは隊列をなし、そこにはまるで星か宝石かで作られた“ドーム”が現れ幻想的な演出を兼ねた目くらましで宮殿を覆い隠す。
 されど、現在はまだ素通しなのだ。
 質問の意図を悟ったフレアは得心がいったようにうなずき、
「全体的ニ捉エラレテイマスガ、ロザ宮周辺、及ビ庭園中心部ガ主ニ」
 ニトロは微笑んだ。
「ありがとう。
 それじゃあ、また後でね
 その時、フレアは一切の動きを止めた。どうやらひどく驚いたために、動き方を忘れてしまったらしい。
 ニトロはこのオリジナルA.I.が大きな“情動”を見せたのを、初めて見た。
 ようやく一時停止から復帰したようにぴくりと動き、フレアが何かを言いかけようとするが、
「承諾」
 先に、芍薬が言った。
 機先を制されたフレアは言葉を飲み込んだように見えた。もしかしたら通信で芍薬に何かを言われたのかもしれない。結局、フレアは引いた。ニトロが言外に含めた『王子にも付き添い不要』の主張に従ったのである。
 しかし、フレアが引いても、一方のパトネトが承服しかねる顔をしていた。
 彼は抗議の目でニトロを見上げる。それでも何も言わないのはせめてものプライドであるのだろうが、ニトロの手を握る力は必要以上に強い。
 そこでニトロは、パトネトへ“男っぽく”笑いかけた。
「パティ、お父さんとお母さんにも『いいところ』を見せて、驚かせてやらないか?」
 その問いかけに、その笑顔に、パトネトは新鮮な衝撃を味わった。二人の姉からは与えられたことのない感覚が、彼の胸に溢れていた。
 アデムメデスの君主、王子の愛する両親は、先週から外遊に出ている。最初はクロノウォレスを訪問し、次にセスカニアンで歓待を受け、最後にラミラスを歴訪して今頃は帰途についたばかりだ。
 娘の誕生日を、今年は直接祝えない両親は、きっとリアルタイムで配信されているアデムメデスの放送を見ている。そこで『人見知り』でなかなか外に出ようとしない息子が衆目の中で堂々と庭を歩いている姿を見たら、一体どれほど驚き、一体どれほど感激するだろう!
「――うんっ」
 うなずくパトネトにはニトロの“企み”に乗る勢いと人目が怖い弱気がブレンドされている。しかし、男と男のやり取り、ニトロという兄貴分の期待に応えようと胸は精一杯に張られていた。
 ニトロは微笑み、パトネトの手を握り直す。
「さあ、行こう」
「うん!」
 ニトロは中庭へ通じる扉を開いた。
 そして二人のA.I.に見送られ、大きく一歩を踏み出した。

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