ニトロはぐったりしていた。
ぐったりと、テーブルに突っ伏していた。
不本意ながらやることになってしまったティディアとの『漫才』――そのために練習せねばならないことはやっぱり不本意ながらも納得しているが、それで舞台俳優ばりの発声や滑舌のトレーニングまで課されるとは思わなかった。いや、それらが不必要だとは言わない。しかし劇場の最後方にまでマイクを使わずはっきりくっきり言葉を届ける技術とまでは別に要らないのではないか? だってマイクを使えばいいじゃない。
それでもティディアは聞く耳を持たない。
「必要」
の一点張りで非常に真剣に、かつ非情に厳しく指導してくる。
ああ、喉が痛い。
だが簡単に喉が痛くなるようでは駄目だと奴は言う。実際、同じ時間、同じように大声を張り上げているのに奴の声は最後までひとっつもかすれやしなかった。美声である。おのれ腹立たしい。腹立たしいが、この腹立たしさを外にぶつけたところで八つ当たりである。となれば内で消化するしかあるまい。
「芍薬」
体を起こしたニトロのかすれた声に応じて壁掛けのテレビモニターが点き、オリジナルA.I.が
「ゴ飯カイ?」
無地の白いユカタに、夕空を雲がたなびくような薄紅色の帯を締めた芍薬が問う。ニトロは眼だけをそちらへ向けた。
「うん、頼むよ」
ポニーテールを揺らして芍薬がうなずくと、キッチンから
電子レンジの扉の開閉音。
食器の用意される音。
ニトロは、言った。
「芍薬」
「ナンダイ?」
「何かあった?」
体を背もたれに預け、痛む喉を触りながら、彼は芍薬を見つめる。
キッチンの作業音が一瞬、途切れて即座に再開する。
マスターは疲労困憊である。
しかし彼は、促している。
「アノサ、主様」
「うん」
芍薬はそこで黙った。その顔には今は逡巡がありありと反映していた。気づかれた以上、それを隠す方がきっと良くない。ならばちゃんと聞くほうが良い。
「あたし、フルニエ殿ニ何カ失礼ナコトヲシタカナ」
なるほど、と、ニトロは内心うなずいた。その友人から特訓中に連絡があったことは聞いている。それに芍薬が応対し、遊びへの誘いに丁重に断りを入れたことも聞いている。その対応はもちろん申し分ない。だからそれで芍薬が相手にどんな態度を取られたとしても気に病むことはないし、芍薬も気に病むことはないだろう。
――おそらく、問題は、きっと今日のことだけには限るまい。
これまでにも芍薬がフルニエを応対したことは何度かある。
だから、
「前から気になってた? それで今回、確信した?」
「……御意」
ニトロは眉を垂れた。
「すぐに聞いてくれれば良かったのに」
「デモネ、ドウ
「だからどう聞けばいいかも判らない?」
芍薬は無念そうに、うなずく。
ニトロはまた苦笑し、電子レンジの調理終了音を聞きながら、
「こっちは思い当たることがあるよ」
「本当カイ?」
マルチクリーナーのロボットアームがキッチンカウンターの向こうに伸び上がる。電子レンジの扉が開かれて、とても美味しそうな匂いが濃厚に漂ってくる。
「芍薬がどうって問題じゃないんだ。フルニエは『オリジナルA.I.』がどうも苦手みたいなんだよ」
「『オリジナル』――全般ガ?」
「うん。まあ、実は本人がそう言ったわけじゃないから確実なことは言えないんだけどね、でもクレイグも『フルニエはオリジナルA.I.が苦手みたいだ』って言ってた」
そのクレイグもオリジナルA.I.を持っている。旧式のロボットの
「クレイグ殿モソウ言ウノナラ、ソウナンダロウネ」
「こういうことは伝えておくべきことだったね。うっかりしてたよ、ごめん」
「謝ルヨウナコトジャナイヨ。ソレヨリソノ可能性ニ思イ至ラナカッタあたしモ“ウッカリ”シテタモンダ」
理由が判ったことで芍薬の顔には安堵が浮かんだ。声も明るい。が、一方でその声にはどこか寂しげな気配が感じられた。
それもそうだろう。
自身の不安が的外れだったとしても、悪感情の対象が『オリジナルA.I.』となればそこには自分も含まれる。これが全く無関係な者からのものであれば芍薬は意に介さないだろうが、マスターの友人にそう思われるのは、そう、きっと寂しいのだ。
「デモ、ドウシテダロウ?」
何気なく漏らしたような芍薬の疑問に、ニトロも首を傾げる。
「さあ。でも――」
ごほ、と咳をしたニトロを芍薬が心配そうに見つめる。ニトロは喉を落ち着かせ、改めて言う。
「でも、俺も実は気になってたからさ、機会があったら聞いてみるよ」
「デモ聞カレタクナイコトナンジャナイカイ?」
と、芍薬が急いて言った。ニトロは目を細め、
「うん、だから、機会があったらね」
マルチクリーナーがキッチンから出てきた。ロボットアームが器用に動いてテーブルに皿が置かれる。湯気の立つ薄く赤茶けたスープの中に、蕩けるようなマトンの肉と野菜がごろごろ入っている。ニトロの口に自然と唾が溢れる。
「そういうわけだから、フルニエのことは気にせず相手してよ。気を遣わないように、でないとかえって気を悪くするだろうから。――芍薬には悪いけどさ」
「ソンナコトナイヨ」
ロボットアームを操りスプーンとフォークをニトロに渡しながら、芍薬は微笑んだ。
「色ンナ人ガイルカラネ。ソウイウコトナラ、あたしニハ何デモナイノサ」
つまり、己の失態がマスターに泥を塗ったのでなければ、それでいい。
ニトロは芍薬の言葉の底にある意識を察して、微笑を返した。正直に言えば常にマスター本位の『オリジナルA.I.』のその思想には思うところもあるのだが、とはいえそれを否定することには違和感があり、もちろん矯正しようなどとはとても思えない。だから彼は、微笑みだけを返した。
「それじゃ、いただきます」
「御意、オアガリ下サイナ」
しかし、ニトロがフルニエにそのことを聞く機会は、長らくやってこなかった。