その時がやってきたのは、二人の間でそんなやり取りがあったことをニトロが記憶の
やっぱり不本意ながらも『ティディア&ニトロ』としてデビューを果たし、真冬を越え、春に魔女と交戦し、年度も替わってそろそろ梢に新緑が盛る頃。
「ミーシャって、スーミア君のことが好きよね」
ふいに、クオリア・カルテジアがそう言った。
ニトロは彼女の大きな目からふいと視線をそらした。
彼女の背後には画架に掛かったスケッチブックがある。卒業制作のための素描をしているのだと彼女は言っていた。画面の中には弦のない竪琴を携える女神が一柱あり、その周囲には様々な植物が萌え出でて、花を咲かせると同時に実を
――と、その絵を眺めて心を落ち着けた後、彼は頬のこけた少女に目を戻した。彼女は鉛筆の粉で汚れた指を洗うことなく、紙ナプキンを包装紙代わりにしてストロベリー&生クリームサンドイッチを持っている。そうしてニトロの反応を待っている。彼は訊ねた。
「なんでそう思う?」
クオリアは笑った。
「なんでそう思わないと思う?」
ニトロは苦笑した。
彼女の隣ではダレイが、小食な美術部員が食べ切れないからと渡したストロベリー&生クリームサンドの片割れを黙々と齧っている。こちらの隣では既に食事を終えたハラキリがぼんやりとしていた。皆のゴミを放り込んだ購買部の袋の中で、役目を負えた包装フィルムがくちゃくちゃになっている。
ニトロは最後のライスボールを食べ、間を取ってから、応えた。
「本人がそう言ったのを聞いたことはないよ」
「でも、バレバレよね」
「まあ、バレバレだけどね」
クオリアは満足気にうなずいて、サンドイッチを齧る。
「それで理解できないのは、何故それがスーミア君には分からないのかということなの」
彼女の目には強い好奇心があった。しかしその好奇心は恋への関心というよりも、難解な事態に対する疑念そのものでもあるようだ。
「だって露骨とまでは言わないけど……それでも、判りやすいでしょう?」
ニトロは苦笑するしかない。ミーシャと交友を持ってまだ日の浅いクオリアが断言できるほどのことである。――いや、ここは情熱的な芸術家の観察眼を誉めるところだろうか?
「それなのにスーミア君が判らないはずがないと思うんだ。彼は気遣いのできる人だし、それだけ人の気持ちを理解できる人でしょう? いつも誰かに声をかけられていて、楽しそうにお喋りしてるのを見ててもそれが分かるもの。なのに何故彼はミーシャの気持ちだけは解らないのか。それとも、解らない振りをしているだけなのか」
そう言うクオリアの好奇心に満ちた目の陰に、怒りに似たものがあることをニトロは見て取った。それは無論、彼女がミーシャの『友達』であるがためのものだろう。クレイグ・スーミアも彼女と交友を持った“友達”ではあるが、共通の本への思い出から距離を縮めたミーシャと比べては贔屓も偏る。彼女は一つ息をつき、
「もし解らない振りをしているんだとしたら、それは残酷だと思う。だけど私はまだスーミア君のことをよく知らないから、勝手にこんな風に思われて彼はいい迷惑だとも思うの」
ニトロはまた笑った。そしてグリーンティーを一口含んで少し考え、言う。
「ご期待に沿えず悪いんだけど、それは俺もよくわからないんだよ」
「そうなの?」
「このことに関しちゃ俺もクオリアと同程度の理解しかないと思う。俺もミーシャはクレイグのことが好きだと思うし、てか、てっきり二人がくっつくもんだと決め付けてたところもあるから……」
そこでニトロは言葉を止めた。クオリアはうなずき、
「君は驚愕、私は困惑」
「そういうことかな」
「じゃあ、謎解きは無理かしら」
「少なくとも俺にはね」
そう言いながら、ニトロはほとんど無意識にダレイに視線を移していた。クレイグの親友であり、ミーシャとも付き合いの長い彼なら何か事情を知っているだろう。
――が、彼はそれを話すまい。
よっぽど話さねばならない状況であれば別であろうが、彼はそのようなことを簡単に喋るような人間ではない。それを、クオリアも知っている。だから彼女は最も親しい彼に聞くのではなく、この話をこちらに振ってきたのだ。
彼女はサンドイッチを齧り、口元についたクリームを指で拭って舐めようとして――指の汚れを思い出してやめる。ダレイが差し出したウェットティッシュで指を拭きながら、彼女は白旗を上げたニトロからハラキリへ目を移した。その視線につられてニトロも隣に目をやる。相変わらずぼんやりしている親友は、ほとんど自動的にグリーンティーを飲んでいる。
「ハラキリはどう思う?」
クオリアが問うと、ハラキリは緩慢にカップを置き、
「はあ」
その生返事に動じることなくクオリアは再度問う。
「ミーシャとスーミア君のこと。ハラキリはどうしてスーミア君が気づかないのか、おかしいと思わない?」
「ボンクラだからでしょう」
ざっくりとした返答にクオリアは面食らった。ニトロも面食らった。ダレイは一瞬どこか吹き出しそうな顔をして、ハラキリを見た。
「そうかしら」
気勢を取り戻してクオリアが反論する。
「私は彼がボンクラだとは思わない」
「はあ」
またも生返事だけを残してハラキリはグリーンティーを飲む。しかしクオリアは引かない。その大きな目でじっと彼を見つめて、じっと応答を待つ。
「俺もクレイグがボンクラってのとは違うと思う」
と、ニトロもクオリアに加勢した。自分もこの件についてハラキリのまとまった見解を聞いたことがないから、ミーシャとクレイグの関係性よりも、こうなればこちらの方が興味深い。さらにはダレイまでも興味深そうにハラキリを窺っている。
皆に注目されながらもハラキリは変わらずぼんやりとグリーンティーを飲み、何やら催眠術でも掛けてくるかのように肩をすくめ、
「ミーシャさんに関しては全くボンクラですよ。事実、そうでしょう?」
問い返されたクオリアは、今度は反論できなかった。が、
「ミーシャに関しては?」
タイミングよくニトロがツッコむ。話を打ち切る機を奪われたハラキリは横目にニトロを見た。ハラキリの掌握していた場が転じ、逆にハラキリが掌握される。今や確かに答えねばその先の問答で確実に窮する状況に追いやられた彼は軽く息をつき、
「クレイグ君は、ミーシャさんの自分に対する態度をそれが“当たり前”だと思っているようです」
どうやら腹を決めたらしく、彼は続けた。
「何も悪い意味で言っているわけじゃありませんよ? 毎日激辛料理を食べている人が今日も激辛料理を食べるのを見たところで何の不自然もないということです。逆にミーシャさんの方から見れば、やはりクレイグ君の自分に対する態度もまた“当たり前”であるのでしょう」
「どういうこと?」
眉をひそめて首を傾げるクオリアに、ハラキリは腕を組み、
「クレイグ君がキャシーさんと恋人になった時、それはちょっとしたニュースになったでしょう? クレイグ君とキャシーさんの仲を知っている者は納得し、また一部は激しく嫉妬していました。一方でクレイグ君とミーシャさんの仲の方をよく知っている者は、概ね驚いていました」
ニトロはうなずく。クオリアはまだ交友のない頃の話に加えて、学生間の噂に疎いためにハラキリの報告が新鮮なようだ。話についていけていることを示すために彼女もうなずくのを見て、ハラキリは続ける。
「しかし『クレイグ君とミーシャさんの仲の方をよく知っている者』の中にもその展開に驚かず、むしろ納得している人々がいました。それは一様にクレイグ君とミーシャさんと同じ中学の出身者で、何よりミーシャさん自身がそうです」
ニトロとクオリアはダレイを一瞥した。しかしダレイが表情を変えずただ黙して聞いているのを認めると、すぐにハラキリへ目を戻した。彼はマイペースに続ける。
「ということは、二人のことを高校からよく知った者は『ミーシャさんとクレイグ君はいずれくっつく』と思っていたのに、二人を中学からよく知る者は必ずしもそうではなかったということになります。おそらく拙者らが『ミーシャさんはクレイグ君が好きだ』と思うような関係は中学の頃からずっと続いていて、しかしそれは拙者らの認識とは逆に、昔馴染みの間では、やはり中学の頃から『だけどミーシャさんはクレイグ君に特別な思いを寄せているわけじゃない』ということになっていたのでしょう。つまりミーシャさんがクレイグ君をそっと見つめた時、クオリアさんがそれを“特別な視線”と見て取ったとしても、中学からの知り合いには同じそれが“当たり前な視線”としか映らない。そしてそれはクレイグ君にとっても同じことで、だから彼はミーシャさんのその態度を“当たり前”だと思っているのだし、彼女も同様だと拙者は考えるんです」
ハラキリの説には力があるように思えた。ニトロは考え込み、クオリアは何か異論を探そうとしている。その中で二人はちらちらとダレイを窺っていた。
しかしダレイは黙し続けている。
そのダレイを無視するように、ハラキリが言葉を連ねる。
「おそらくは、もちろんそうなるだけの事情があったのでしょう。クレイグ君がキャシーさんと付き合い始めてからは、ミーシャさんの二人を見つめる眼差しには羨望が混じったように思われます。それなのに彼女には不思議と嫉妬は見当たらず、反面どこか自分を責めるような態度が加わったようにも感じられました。もしかしたら――中学の時に一度くらい、クレイグ君とミーシャさんは恋仲になりかけたんじゃないんですかね。先ほどはクレイグ君のことをミーシャさんに対してボンクラだとは言いましたが、流石にそうなる前には彼女の態度に特別な意味があると意識したはずですから。だけど、おそらく、ミーシャさんが怯んだ。そうでなかったとしても不恰好な行き違いがあって……そうですねえ、ミーシャさんが自分の本当の気持ちに無自覚だったからうっかり別の男子の告白を受けたとか、クレイグ君に告白したいという友人を応援してしまったとか、逆にクレイグ君が告白されたことを試しにミーシャさんに相談してしまったとか、そういうようなことがあって恋仲にはなれず、しかしそれまでの関係はそれからも崩したくなくて、そのせいでミーシャさんの“本当は特別な視線”はクレイグ君にとって“本当に特別でない視線”となってしまい、いつしか周囲にとってさえも“当たり前”にしかならなくなって、それが未だに、そして現に今もまた続けられているんじゃないか、と」
流れるように、畳み掛けるように、そして最後に押し付けるように発した一音と共に、ハラキリはそこで初めてダレイを見た。つられてニトロとクオリアも振り返る。
――ダレイは、苦笑した。