昼下がりから降り出した雨は、放課後には土砂降りとなっていた。
「またひどくなったな」
教室棟と特別教室棟に挟まれた中庭を叩く雨音は、窓の締め切られた部屋の中では聞こえない。しかし、その音は目に見えた。窓から見える花壇の草花も、ベンチの傍に控える
外は初夏の夕、まだ五時にもならないのに驚くほど暗い。
「そうだな、また酷くなった」
窓辺で分厚い雨雲を仰ぎ見ていた少年は、その大きな背中を揺するようにして振り返った。太陽光に近い光を降らせる電灯の下、広い机に突っ伏している少女が、軽く重ねた腕の上に顎を載せ、物憂げな目を少年に投げかけている。彼女は会話を求めていた。それを察して彼は言う。
「これじゃあ傘も役に立たないだろう」
「靴下もすぐにぐっしょりだろうなあ」
ぼやく少女に少年はうなずき、
「風邪を引くなよ」
「ダレイも」
「こっちはもう終わっている。風邪を引いても問題はない」
「問題ないって、土日は家族旅行だろ?」
「姪と甥の子守だ。仕事だよ」
「仕事か」
「それもタダ働きだ。
「……。結果、残念だったな」
「
「ダレイだって頑張ってたじゃないか」
窓辺の少年はまた雨雲を仰ぎ見た。少女は体を起こして、机に両肘を突く。
「明日の朝には晴れるそうだな」
「うん、それから大会の日まで晴れだって」
「雨が今日で良かった」
「うん」
少女――ミーシャは微笑を浮かべた。彼女は今週末の大会に向けて調整中で、今日は幸いにして休養日であった。つい先刻まで同じく休養している部活仲間と
今、美術室には四人の生徒がいた。
その中で、この時間、この部屋を主な活動場所とする美術部員は一人だけ。
彼女はミーシャの隣で一心不乱に本を読んでいる。
タブレットの文章が切り替わる速度はミーシャには信じられないほどであり、さらにミーシャの信じられないことには、読書中の友人は自分が教室にやってきたことにも、それどころかこうして隣に座ったことにも気づいていないらしい。文字を追う彼女の瞳は燃えている。その額は内側から輝いている。
彼女以外の美術部員は、三人いる二年生の一人が“セファ雨景派”とやらが好きだとかで、そのため新入部員の一年生二人を含めて顧問の引率で写生に行ったという。もちろん野外写生ではなく、どこかの飲食店でレクチャーをしているそうだ。もう一人いるはずの三年生は最近人生観に大変革があったとかで猛勉強を始めたらしく、部に籍は置いてはいるものの、完全に引退状態であるとのこと。人づてに聞いたその大変革には読書に耽るこのクオリア・カルテジアが大きく関係しているようだが、それについて彼女が話すことはない。そしてミーシャも、それを彼女に聞いてはいけないと思う。
クオリア、ダレイ、ミーシャ、さて、美術室にいるもう一人はハラキリ・ジジであった。
ミーシャは隣の机で一人座る、息をしているのかしていないのか、信じられないほど気配を薄くしているクラスメートに目をやった。彼は昨日、一昨日と二日続けて学校を休んでいた。だからてっきり風邪でも引いたのかと思っていたら、どうやらサボり癖が出ただけであったらしい。本日、彼はピンピンと登校してきて、しかも今もひっそりとしながら実に気楽である。
「ハラキリはいつまでここにいるんだ?」
壁に掛けられている絵を眺めていたハラキリ・ジジは、いつも笑っているような目をミーシャに移し、
「お邪魔でしょうか」
「邪魔じゃないけど、あっちを手伝わないのかよ」
「必要ありませんから」
ミーシャは唇を固め、目を細めた。
「だけど、お前が言い出したんじゃないか」
「ええ」
「
「ええ」
「それでニトロに作らせておいて、そうやって怠けてるのか?」
「手厳しいですねえ」
「あたり前だろ」
ハラキリは小さく笑う。その笑みがミーシャには気に入らなかったが、一方で彼の眼差しには何か妙に文句を言わせない迫力――そう、迫力のようなものを感じて心が
「……まあ、そう言うあたしも、おんなじで、待ってるだけだけどさ」
腕を組み、ミーシャがたどたどしく言うと、ハラキリはまた小さく笑った。その笑みにまた彼女はどぎまぎしてしまう。迫力――そうだ、それは彼にこちらの心を見透かされているように思えてならないから、そう感じてしまうのだ。
「実際、手伝いは必要ないんですよ」
負けん気を奮い起こしてミーシャはハラキリを見つめた。彼は肩をすくめ、続ける。
「人手は余るほどあります。行ってもやることがないのなら、何用か呼び出しがあるまで待っていた方がいい」
「余る? キャシーとフルニエと、クレイグがいるだけだろ? 言うほど余るか?」
「それに園芸部が三人」
「園芸部? なんで?」
「朝、収穫している時、部長さんに会いました」
「う?――うん」
「昨年、ニトロ君が『レモンカード』を作ったの、覚えています?」
「あー、屋上のレモンのやつな。意外に美味しかったよ」
「それを作ったことがちょっと話題になったでしょう」
「うん。なんでかネットニュースでも見た」
「部長さんは勘の働く方のようでしてね、拙者が夏みかんを収穫しているのは、ニトロ君が校内の果実を使ってまた何か作るからだろうと察したようです。まあ、それは誤解だったわけですが」
「作るからじゃなくて作らされるから、のが正解だけど、結果的には同じだな」
「おやまた手厳しい」
「いいだろ?」
「いいですよ。
それで彼女はしきりにニトロ君が何を作るのかを知りたがりまして」
「なんで?」
「何で彼女が収穫の場に居合わせたと思います?」
「――あ。園芸部でも収穫しようとしてたのか」
「数がなければあちらに譲るべきでしょうが、それは問題ありませんでした。というより、むしろもっと持っていくように勧めてくれました」
「うん、で?」
「ニトロ君が何か作ります。それを園芸部でも作ります。それを宣伝材料に園芸部をアピールします。今年はまだ一年が入っていないようですからね。二年も一人しかいない」
「ああ……なるほど……大変だよな、それじゃ。でもそうか、それはいい宣伝になるよな」
「しかも『ニトロ・ポルカト』が関わるのが実に良い」
「……どういうこと?」
彼女の質問に少々
「園芸趣味は、結構“上”で活かせるんですよ。マナーとダンスほど必須というわけではありませんが、まあ、一種の
「
「ドレスコードの文化版みたいなものです」
「例えば?」
「――
よくあるでしょう? ある集団で前提となる知識。陸上好きならディクセン・バーンを知らないはずがない、
「ヤなこと思い出した」
「はあ」
「あたしもハブられたことある」
「大変でしたね」
「……。それで? 園芸が例えばどんな風に活かせるんだ?」
「例えば花言葉も知らずに花を贈れば教養無しというレッテルを頂戴します。逆にそれを
「うん、で?」
「……邸宅内の温室が
「そうなんだ」
「そうみたいですよ」
「それから?」
「――……暇に飽かせた貴族や
「……」
「……」
「……」
「……」
「……あのさ、先生」
「……はあ、先生ではないですが、何でしょう」