初夏の空。
青空。
春のように柔らかくはなく、秋のように高くもなく、冬のように澄んでもいない、といって夏のように濃くもない、もしそこに飛ぶことができたなら何て気持ち良さそうな雲一つない大空。
つま先で二度地面を叩く。
硬く、しかし地表のすぐ下から弾き返る力がシューズの皮革を通して感じられる。
一度目を閉じる。
開く。
茶色い道がしばらく真っ直ぐ延びていて、やがて左へと弧を描いている。
道には数本の白線が真っ直ぐ等間隔に引かれていて、やはり道なりに曲線を描いている。
所々、その白線と垂直に交わる短い白線が、一定の距離で刻まれている。
そしてすぐ目の前にはこの道を真っ直ぐに横断する長い白線があり、今の平穏と、これからの戦いを静かに区切っている。
彼女は息を吐いた。息を吸った。
己の呼吸音が風のない大気を驚くほど揺らしているような気持ちになる。
周囲にも聞こえる呼吸音を通じて、これから共に240秒の壁を目指す競走相手達の心音までもが聞こえる気がする。
耳元に聞こえる鼓動は、自分のもの。
高く早く響いているのに、不思議と落ち着いている。
それに他の七音が重なる。
八つの心臓が調和することはない。
それぞれのリズムで、これからトラックにただ一つの凱歌を刻もうとしている。
目を閉じている者がいる。
聖句を呟く者がいる。
深呼吸をする者がいる。
ミーシャは空を見上げる。
雲一つない空は、どこか寂しい。
空を見上げると死にたくなる――そう言った詩人は誰だったろう。国語のテストで間違えた人……忘れてしまった。だけど気持ちは少し解る。こんな空を見上げていると、なんだか泣きたくなってくる。
ここから1マイル。
それが高校時代の陸上競技生活最後の距離となるのか。
それとも初めて都大会に進むための滑走路となるのか。
上位三名だけが、次の空を見ることができる。
――オンユアマーク
少女達は一斉に身構える。
乾いた音が弾けた。
ミーシャは一番に飛び出した。
それは意図したものではなかった。
中距離走においてスタート直後のポジション争いは極めて重要である。しかし彼女は普段その争いに加わらず、集団の最後方に控え、400mトラックを3周する間はひたすら力を温存し、ラスト1周でロングスパートを仕掛ける戦法を取っていた。極端で、正攻法ではなく、コーチにも何度か戦略の変更を促されたが、結局これが性に合っていたし、実際、一番良いタイムを出せていた。
それが今、彼女はスタート直後から先頭に立っていた。
小さなスタンドを備える区民競技場の一角からどよめきが上がった。
特にミーシャの仲間が驚いていた。
選手達も動揺した。この段階で前方にあるはずのない『23』のナンバーカードを誰もが意外な気持ちで見つめ、しかしすぐに気持ちを切り換えた。これは23番の心理戦だ。慣れない戦法で彼女は自滅するに決まっている。付き合う必要はない、自分のベストを尽くすのみ。そうして集団を形成した七人は23番を無視して互いに激しく牽制しあった。
だが、誰が知ろう?
この状況に最も驚いていたのは、ミサミニアナ・ジェード――ミーシャ――23番の当人であることを、彼女以外に誰が知ろう。
何故、逃げることにしたのか。
ミーシャは自分自身に説明がつかなかった。
最初のコーナーに差し掛かったところではペースを落としていつものポジションに下がろうかとも考えた。
しかし、彼女はむしろペースを上げた。
それを見た後続勢は23番の自滅を一層確信した。
ミーシャは初めて誰の足音も聞かずに走っていた。いつもは幾つも目の前にちらつく数字がない。風を遮ってくれる背中もない。規則正しく動く無数のシューズの影もない。
気持ち良かった。
子供の頃、南大陸に住んでいた幼少の季節、野原を走り回っていた頃の気持ちが不思議と胸をかすめる。その胸は、空気を不思議なほど滑らかに循環させている。
レースを観る者達の上げるどよめきはまだ続いていた。それどころか声は高まっていた。
いつしか23番の大逃げとなっていた。
一人だけポツンと独り先頭を行き、しばらくしてから団子状態の集団が続く。前と後で別のレースをしているようであった。
初めに最有力候補と目される選手の仲間が気づいた。初期のペースはともかく、現在の23番のペースは悪くない。遊ぶように軽やかに、何のプレッシャーもなく楽に逃げている。
にわかにトラックの周囲が騒がしくなった。
そこに至って選手達も異変に気がついた。牽制しあうことにかまけて自分達のペースがおかしくなっていた。23番に幻惑された部分があるにしても、それは失態であった。だが、誰も動けない。ここで逃亡者を追いかければ、最後までもたない。
一方でミーシャの心も変化していた。幼い思い出はもはや消え、これは真剣勝負なのだと思い出し、彼女は急に不安になった。今になって、あまりに普段と違う光景にパニックになりそうになる。しかし、彼女は即座に腹を括った。
こうなったらとことん逃げてやる。4周、ずっとロングスパートだ。息が止まっても走り続けてやる。全力で、全てを振り絞って、後悔だけは残らないよう走り切ってやる。
予想外のレース展開に応援の声も熱くなりだした。
3周目に入っても先頭は23番だった。
後続との距離はじわりと縮んだものの、まだまだ離れている。
選手の中には明らかに焦り出した者もいたが、集団の中の実力者が冷静に機を伺っている姿に抜け出しを図る危険を感じ、かといって抜け出さねば23番の逃げ切りを許してしまうであろうジレンマに苦しんでいた。
ミーシャも苦しくなってきていた。
普段なら浴びることのない風が、柔らかくていつまでも突き破れない壁のように感じられる。透明な水草が足を絡め取ろうとしてくる。その本数が一歩ごとに増えてくる。心臓の形が喉元にはっきりと感じられた。さっきはあれほど滑らかに空気を吸えていたはずの胸が空虚に重さを増して、軋み、息苦しい。腕を振ることによって無理矢理推進力を保ち、何とか息を整えようとして、かえって息が荒くなっていく。
ミーシャは頭に霞がかかってくることを感じた。目の端に、なついてくれている後輩が腕を回して何か叫んでいる姿が見える。何だろう?――そうだ、あと1周だ。あと1周でこの苦しい時間は終わる。……苦しい時間? 確かに苦しい、けれどそれだけじゃない、苦しみの底から得体の知れない気持ちが湧き上がってくる。
ミーシャは、青空を思い出した。
「間に合った!」
陸上トラックのホームストレッチを臨むスタンドに駆け込んできた少年は、各学校の部活関係者以外には観客のない閑散とした席に座る一組の少年少女の傍にやって来るや荒い息を吐いた。
「ありがとう」
口早に眼鏡をかけたニトロが言うと、カメラを構えてレースを見守るハラキリは小さくうなずいた。そのカメラの映像は、つい今までニトロの眼鏡に中継されていた。その時から、今も、まだミーシャは先頭にいる。しかし後続集団からスパートを開始した二人の優勝候補がみるみる彼女との距離を縮めていた。さらにもう一人が懸命に追いかけてきている。残りの者は足に力がない。ハラキリの隣では麦わら帽子を被ったクオリア・カルテジアが祈るように手を組み合わせて固唾を飲んでいた。
大きな歓声が、応援が、トラックへ投げかけられている。
ミーシャは逃げる。
必死に逃げる。
もつれそうな足を全力で前に出し、トレードマークの黄色いシューズで初夏の光に色濃く映えるトラックを前進している。張り裂けそうな胸で懸命に息をして、歯を食い縛り、泣きそうな顔で走り続けている。
コーナーを抜け、ホームストレッチに一番に入ったのもミーシャだった。
しかし、そこで彼女に2番と15番が襲いかかった。
ミーシャは捕まった。
あっという間に抜かれそうになる。
が、彼女は抵抗した。
三人並んで走る。
競り合う。
競り合う。
競り合う!
一人、先に抜け出した。
赤い髪の15番。さらに最有力と目されていた2番が続く。
ミーシャは脱落してしまった。
だが、このレースの上位三名は都大会に進める。彼女はまだその切符を手に入れることの可能な場所にいる。そのままゴールへ駆け込めれば彼女の最後の夏はまだ続くのだ。
同じ最後の切符を賭けて、7番がミーシャの背後に迫っていた。
一度捕まったミーシャは何か糸が切れたかのように急激に速度を落としていた。顎が上がりかけ、腕は力を失い、歩幅も小さくなっていく。
15番がゴールを切った。
悔しそうに2番がゴールする。
三着争いに歓声が集まっていた。
23番に7番が迫る、迫る、ゴールまであとわずか――とうとう7番が23番を捕えた!
「ああっ」
クオリアが小さな悲鳴を上げた、その時、
「頑張れミーシャ!!」
歓声の中にあって一際大きな声が轟いた。
意識の朦朧としかけたミーシャは、その声に、確かに背中を叩かれた気がした。はっと集中力を取り戻した時、彼女は身内にまだ残っているエネルギーを感じた。
少年の大声に一瞬呆気に取られていた歓声が、爆発した。
23番が7番に食らいつく。
それはほんの五歩の間の攻防だった。
一度7番に抜かれた23番が盛り返し、再び抜き返した――そう見えた瞬間がゴールだった。
人の目には正確な勝敗が判明し得ない。
しかしゴールに設置された複数のカメラは
そのレースが終わる前から、競技場はそわそわとし始めていた。最後の選手がゴールする前からスタンドにきょろきょろと視線を送る者も多くあった。
先ほどの大きな声、聞き覚えのある有名人の声。
そのレースに選手を送り込んでいなかった学校の人間ほど関心を引かれて、ほどなく、スタンドの中に立つ『ニトロ・ポルカト』が発見された。
「じゃあ、俺は戻るよ」
「拙者も参りましょう」
撮影を終えたハラキリも立ち上がり、カメラをしまいながら付け加える。
「着は残念でしたが、自己ベストを更新しています」
ニトロはトラックの上を精魂尽き果てたように歩く友達を見た。部活仲間が駆け寄っている。ミーシャはまだ結果を振り返っていない。振り返る必要を感じていないかのようでもあった。
「走り切ったんだな」
ニトロがつぶやくと、クオリアが言った。
「だからって、悔しいわよ」
その声は震えていた。頬骨を涙が伝っていた。
「……うん」
ニトロは、うなずいた。
自分には得られぬ青春を過ごす少女達の姿。憧憬が胸を突く。それでも今、同じ時間を過ごしているのだとふいに感じて、彼は今一度ミーシャを見た。
彼女はスタンドへ振り返っていた。
しかしまだこちらの位置は掴めていないらしい。
「ミーシャによろしく」
クオリアはうなずいた。
ニトロはハラキリと共に、大騒ぎになる前にその場を立ち去った。
ミーシャがやっと友達の姿を見つけたのは、二人が背中を向けた直後だった。その近くに居残るクオリアも見つけて、ミーシャは驚いた。
(来てくれてたのか)
知らなかった。観に来るとも言っていなかった、彼に至っては仕事が入っていたはずなのに。自分のレースの行われていない間は同期や後輩のレースに集中していたから、スタンドに誰がいるかなんて気にもしていなかった。――それなら、最後に聞こえた声は、やはりあの努力家のものだったのか。
倒れこみたくなるほどの疲労が、ああ、なんて清々しい。
「……」
ミーシャは思い出したように掲示板を見た。
「負けちゃったな」
つぶやくと、タオルを持って駆け寄ってきていた後輩が何かを言った。それは涙に濡れて言葉になっていなかった。
「お前が泣いてどうすんだよ」
ミーシャは自分より背の高い少女の頭を撫でた。タオルを受け取って、頭に被る。息を整えながら、彼女はふと空を見上げた。
空は相変わらずの青空で、もしそこに飛べるなら本当に気持ちが良いだろう。
(あれ?)
ミーシャは戸惑った。
突然胸に生まれた感情が湧き上ってきて、止める間もなく涙が溢れた。
彼女は後輩と共に泣いた。
それをクオリアが、じっと見守っていた。
終