悪趣味な。
 奴の声を予期し、その声を聞いた瞬間、それを目視したニトロはそう思った。
 しかし何より悪趣味であるのはバカ姫の格好である。人のシャツを無断借用してくれたのはまだ良い。許せぬのはどうせその下は全裸ということだ。水を浴びればスケスケだ。そうして奴はこちらにその悪趣味なパンツも簡単には渡すまい。となれば自然パンツを求める丸出しの少年は、全裸に“恋人のシャツ”一枚の王女とプールの中で鬼ごっこ。きっとその最中にヴィタの案内で撮影隊は現れることだろう。さすればそれは他人の目にはさだめし奔放な恋の戯れと映ることだろう。
「さあ、取れるものなら取ってごらんなさい!」
 予想通りのその台詞を、ニトロは途中から聞いていなかった。
 潜水したのである。
「あれっ?」
 てっきり大慌てでゴールしてくると思っていたティディアは当てが外れた上に意表を突かれた。
 ゴールの上から覗き込めば、波に歪んで水底にうずくまる影が見える。その影の色はまずは黒、それは水泳キャップの色。他は肌色。彼の肌の色。少しばかり“水着”の紺が揺れるが、ふふ、それは本来の用途にはもはや足るまい!
 ティディアの胸は高鳴った。彼は判断を誤った。その潜水、そして意味をなさないその潜伏は致命傷に他ならない。状況をモニタしているヴィタは最高のタイミングで証人を引き連れてくるだろう。彼女は期待に顔を赤らめた。
 しかし、本当に判断を誤ったのはニトロではない、ティディアであった。
 彼女が期待に身を委ねた瞬間、そこに油断が生まれ、彼女が瞬きをした次の瞬間、ゴーグルを着けたニトロの顔が彼女の鼻の先にあった。
「――」
 彼女の視界一杯を彼の暗い顔が覆い尽くしていた。
「!?」
 ティディアがそれを視認し、驚愕し、身をのけ反らせることまで出来たのは、ひとえに天賦の才のなせる技だろう。
 しかも彼女は理解していた。
 何故、刹那の後に水底にあったはずの顔がそこにあったのか。
 彼はさながらカモメを狙って海中から飛ぶ鮫のごとく食らいついてきたのだ。
 それを彼女は宙に浮きながら理解していた。
 緩慢に落下しつつある逆さまになった世界の中心に、ティディアは見る。
 鍛えられ、鍛え上げられつつある少年の逞しい背中、裏腿――お尻にパチンとフィットするブーメランパンツ。
(嗚呼……)
 彼の噴き上げた水飛沫が私と一緒に逆さまの天へ昇っていく。
 その一粒一粒が美しく煌めいている。
 絶えず崩れながら、崩れながら絶えず球となろうとしながら、無数に散らばる水玉は星のようで、それらが全てスローモーションに見えて、その向こうに彼がいる。
(なんて綺麗)
 ティディアは微笑み、危険なクラゲ型ゴーレムの満ちるプールにその身を落とした。


 この世のものとは思えぬ王女の悲鳴をハラキリは背中で聞いた。
(久々に……ッ)
 戦慄が彼の口元を歪ませる。
 何度見ても驚嘆させられる彼の『馬鹿力』。水中からの跳躍はまだしも、どうやって彼が彼女を投げ飛ばしたのか……見えなかった、遠目にしていてなお理解できなかった。
 ハラキリはプール室の非常口に行き着いていた。
 扉に手を掛け、開き、身を滑り込ませ、締める。
 それは非常に洗練された動作で、締め切るまでに二秒とかからず、彼と同時に誰か一緒にドアをすり抜けることなどできるはずもない。
 しかし、ドアを閉めたところで彼は思わず笑った。
「ま、仕方ありませんかね」
 振り返ると、そこには鬼がいた。黄金の太陽が登る夜色のブーメランパンツをぴっちり穿きこなし、非常通路の頼りない電灯にゴーグルを光らせてポタポタと水を滴らせる激怒の化身がそこに佇んでいた。
 ハラキリの記憶は、そこで途切れた。

 民放各社の代表者で構成された撮影隊は、プール内への立ち入りを決して許されなかった。待機場にも届いた凄まじい悲鳴に誰もが動揺し、かつスクープへの期待に誰もが浮き足だったのだが、それを王女の執事の毅然とした態度が押し留めたのである。――いや、正確には、騒ぎ立てる一同の前に立ち塞がるように現れたヴィタの顔には毅然とせざるを得ない何かしら張り詰めたものが表れており、それが撮影隊の心を凍りつかせたのだ。
 警備アンドロイドと共にその場に残された撮影隊の何人かは、落ち着いた足取りでプールへと向かう麗人の後ろ姿に奇妙な印象を持った。その足取りは鷹揚ですらあるにも関わらず、彼女はまるで飢えた猛獣の檻に武器も持たずに単身乗り込もうとしているかのようだ――と。
 実際には、ヴィタはそれ以上の覚悟でプールに赴いていた。
 ……静かであった。
 静かすぎた。
 わずかに水の擦れる音が静寂に花を添えて、ヴィタの鋭い聴覚を不気味に愛撫する。
 彼女は内履きを静かに脱いだ。それと同時に足をネコ科のものに変え、柔らかな肉球で湿り気のある床を音もなく踏む。視力を全開にして首を巡らせ、ピンと立てた耳を常に動かしてどんな些細な音をも探り、殺菌された水の匂いを鋭敏な嗅覚にむせ返りそうなほど送り込み、『彼』の動向を探る。
 しかし、影はない。
 今一度、持てる感覚の全てで探索する。
 しかし影もない。
 ヴィタはいくらか安堵した。そこで初めて目をある一点に留め、そして思わず吹き出した。
 我が姫君が素晴らしい姿勢で水にプカプカと浮いている。プールサイドの程近く、半ば浮き半ば沈み水面に真っ直ぐ身を横たえるその様は、ヴィタの脳裏に恋に破れて神の泉に身を投げた乙女――その神話の一節を元に描かれた暗く美しい絵画を思い起こさせた。ふわふわと波になぶられる白衣しらぎぬもそっくりだ。違うのはその白を透かして乳房が卑猥に突き上がっていることと、何より、こちらは白目を剥いて口から泡を吹いていること。いやはや実にひどい顔である。
 ヴィタは指先を水につけてクラゲ型ゴーレムが停止していることを確認し、プールに入った。失神した主人の体をひょいと持ち上げて水中みずなかからプールサイドに移動させ、人目に晒すには勿体無いほど愉快な御尊顔をうっとり眺めながら考える。
 さて、これからいかにすることがティディア様の望みとなるだろう?
 ヴィタは迷うことなく行動に移った。もう一時いっときバカ姫様の美しくひどい顔を網膜に焼きつけてから、それを少しだらしない美顔に作り変えていく。気つけはしない。もし主人が作業中に気を取り戻したとしても、こちらの意図を悟れば何を言うこともなくそのまま気絶しておいてくれるだろう。そうしてやがて出来上がったのは、うっすら白目を剥いたまま、締まりのない口元は悦楽にとろけて緩んだ恍惚の顔。
 作業が終わってすぐ医療用ロボットが二台やって来た。一台には王女を担架ストレッチャーに載せて医務室へ運ばせる。もう一台には、非常通路でエビのようにそっくり返って気絶しているハラキリを――彼の居場所はモニタしてあった――地下駐車場の彼の車に送るよう指示を出す。
 ニトロの居場所が分かった。
 彼は更衣室にいた。既に着替えも終えている。
 携帯モバイル殴りこんできた芍薬からの激しい抗議を真顔で受け取りながら、ヴィタはその一方で顔色を全く変えずに医療用ロボットを操作していた。医務室への最短距離をキャンセルし、遠回りをするようコマンドを入力する。そうして慌てず騒がず芍薬に怒られ続けていると、いつしか主犯が気絶中と知ってからは芍薬も次第に勢いを失い始め……どうやら怒りながらも相手にそれだけの罰が下ったことに満足を隠せないでいるらしい。それをヴィタは愛らしいと思う。
「――問題ありません。これほどの体験はティディア様も初めてでしょうが、それだけに天国を見たことでしょう」
 ヴィタが話の流れで芍薬へ洒落を返したちょうどその時、ロボットに牽かれるストレッチャーが撮影隊の視界に偶然入り込んだ。その内の幾人かは執事の言葉を耳にし、そして気絶した王女のその顔を確かに目撃した。ヴィタはちらりとその幾人かの様子を確認して内心微笑んだ。目撃者の中にはゴシップ関連に強いコネクションを持つスタッフもいた。彼はすぐにも急に体調を崩した部下の女性を医務室に送り込んで来るだろう。その時、我々は王女がプールでどれ程ふしだらな格好をしていたかを運悪く知られてしまうだろう。
 そしてゲスの勘繰りは、往々にして一直線であるものだ。
 ヴィタは芍薬に言った。
「かしこまりました。ニトロ様のご意見も当然です。本日の撮影は中止せざるを得ないでしょう」
 その言葉を芍薬から伝え聞いたニトロは消えぬ憤りを抱えたまま、一方で撮影中止の喜びを抱いて一人帰宅した。

 それから五日後のことであった。
 ある“関係者の語るところの”ゴシップネタが、世間の関心を一手に集めたのである。
 それは明らかにあのプールでの出来事が元になっていた。
 しかもそれは完璧なまでに猥談と化していた。
 いつの世も上品な話題よりも下品な話題の方がよく燃える。涙で濡れたパンよりもよだれを誘う肉の方が喉の通りも良いものだ。
 それは野火の広まるがごとく猛烈な勢いで世間の口を渡った。
 止める間もなく、また止めようとする者もなかった。唯一抵抗したオリジナルA.I.も、そのゴシップによって潤う出版社の“正当性”と、幾何級数的に人口に膾炙かいしゃされる話題という圧倒的な物量の前には戦いようがなかった。
 その状況を口惜しそうな芍薬から聞いた時、そこでニトロも初めて、あの時、気のつかぬ間に己が失態を犯していたことに気がついたのである。
 その奔放かつ卑猥な話の流布は彼を心底辟易とさせた。
 ピーク時には周囲の、特に同級生の女子の視線が痛くてならなかった。ある仲の良い陸上部員などは変に顔を赤くしてよそよそしくしてくれたものである。もちろん彼女に悪気はなく、ただただ羞恥心が彼女にその態度を取らせたのだろう。それが判っていても、しかし流石に心に堪えた。
 されどそのゴシップ渦の最中、その件のことを否応なく省みることになったニトロはふと不思議なことにも気がついたのである。
 そういえば、あれ以降、トレーニング風景を撮影させろとティディアは一度も言ってこない。少なくとも中止分の撮り直しくらいは要求してきてしかるべきはずなのに、その気配すらない。もしや今後二度と自分からは企画を持ちかけてくることはないのではないか……ニトロにはそんな予感すらあった。
 そこで彼は、それとなくハラキリにその疑念を匂わせた。
 すると、
「あのベタな水着ネタを聞いた時に、これは行けると思いましてね。副作用もまあ、ありそうだとは思いましたが」
 そう言って笑うハラキリが顔を赤くしてもじもじしているクラスメイトの様子を思い出しているのは明白だったが、同時にそれで『師匠』が王女に求めた報酬が何だったのかもニトロには明白となった。
 となるとニトロは困惑するやら良心が痛むやら。
 とはいえ親友が騙し討ちを仕掛けてきたことには違いなく、こちらが感謝しても相手にはそれを受け取るつもりが毛頭ないであろうから、結局、苦笑するしかない。
「なあハラキリ。今日はこの後、暇か?」
 ただそれだけでは気が済まないので、ニトロはあの日食べるはずだった庶民的なディナーを奢ろうとした。だが、ハラキリはその申し出を一言の下に断った。
「え、何で?」
 あまりに無下に断られたためにショックを受けた様子のニトロへ、ハラキリはニヤリと笑って言った。
「ですからね? ニトロ君。拙者は、ただ目立つのが嫌いなだけなんですよ」





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