夜の美術館にて

(おみくじ2015『大吉』の数日後)

 ニトロはぽかんと口を開けていた。
 彼の見つめる先には大きな絵がある。
 縦3m、横およそ5m。
 そこに切り出されているのは、おぞましい地獄だ。画面の左辺下部から右辺中程へ、さらに上辺中央へと歪な弧を描いて下る峻険な尾根があり、その山肌のあちらこちらには朽ちた屍が埋まっている。死してなお苦悶に苛まされている屍の顔、顔、顔、その黒々と開いた眼窩や口の中には鬼火が見える。画面上部に広がる裾野には数多の亡者が群がり、慟哭に歪む不気味な群は砂時計のように幅をすぼめながらこちらへ向かってきている。さながら釘のように尖った石に覆われる尾根には魑魅魍魎を宿した蟲が無数に這う。遠景では餓えた畜生が亡者を食い千切る。尾根の中頃では病的に痩せた女が先を行く肥満の男に縋ろうとその背中に爪を立てていて、爪を立てられた男は女に対して恫喝の眼を剥き、振り上げたその手には棍棒代わりに拾い上げた屍の腕がある。絵の前に立つとこの恐ろしい尾根を少し浮き上がった位置から見下ろす形となり、すると尾根を登ろうという亡者の群は、まるで吹き上がってくる竜巻のように見る者を圧倒的な力で飲み込まんと押し迫ってくる。
 見る者は思わず目をそらす。
 すると目をそらした先でこの絵の主眼と出合う。
 それは亡者の先頭に立って尾根を登る男であった。
 彼の体は絵の中にあってただ一人筋骨逞しい。波打つ黒髪が肩に落ち、不潔な鋭い石が食い込み腐り出した足でなお地を踏みしめ、苦悶に体を歪めながらも歯を食いしばって頂上を目指している。彼の頬には涙があった。だがその色は赤い。双眸から流れ落ちるのは滂沱の血であった。彼は両目をくり貫かれているのだ。にもかかわらず彼は奪われた眼をまっすぐ前に向けている。なぜ彼は己の行くべき方角が判るのか。それは彼の背後に飛ぶ、花の冠を戴く女神のためである。悲嘆に満ちた眼差しを男に向ける花の女神はそっと彼に囁きかけるようにして彼を導く。しかし彼がその声を聞くことはない。長い髪によって隠されているが、その耳は焼き塞がれているのだ。それなのに彼は女神の声が聞こえているかのように進む。女神の右手は天を示し、その左手は彼の肩に触れようとして、されど決して触れることはない。何故なら彼に触れることは固く禁じられているために。それなのに、どうして彼は己の行くべき方角が判っているのか。愛のためである。
 アデムメデス神話、その一場面。
 だが、これは本当に神話の世界なのだろうか?
 薄暗いフロアの中、計算され尽くした照明が浮かび上がらせるのは、それが非現実的な絵であることは間違いないのに、しかし絵画というにはあまりに現実的な景色である。
 手を伸ばせば尾根を登る盲人の髪に触れられるように思えてならない。
 耳を澄ませば男の荒い息遣いと涙に濡れる女神の声が聞こえる気がしてならない。
 体を寄せれば、あるいは自分は男のすぐ後ろで手を伸ばしている亡者に掴まれ尾根の下へと引きずり落とされてしまうのではないだろうか。
「アルカノ・ミジェール、『咎山を登るオトロ』」
 その声に、ニトロははっと我に返った。
 動揺を抑えて背後へ振り向くと少し離れた暗がりにティディアが佇んでいた。
 彼女の身を包む黒いドレスのエレガントなシルエットが暗がりに馴染み、足首まで届く裾からはシックなパンプスを履いた足の甲が白く覗いている。視点を上に移していくとふと出し抜けに現れるむき出しの肩が光を集めて輝いていた。鎖骨の作る陰影が彼女の肌に魅力を与えている。暗みの中にあっても艶を失わぬ黒紫の髪の内に流れる顎のラインは、すぅと上向いている。
「アデムメデスの至宝ね」
 ティディアの瞳はまっすぐ国史に名を刻む名画に向いていた。この作品は代々王の所有物であり、今回、十二年に一度の展示が行われているものである。そのため王立王都古典美術館には連日長蛇の列が伸び、閉館後でなければこの大傑作をこうしてじっくり眺めることなどできはしない。
「ずっとここにいたの?」
 ニトロは、うなずいた。
「気持ちは解るわ」
 言いながらティディアはニトロの横に並ぶ。花のような香りがほのかに漂う。彼女のヒールの音はフロアの吸音機能によって響くことなくすっと消えるが、近くではやはり鋭い音が耳に当たった。ニトロはその足音にも気づかないほど引き込まれていたのかと我ながら驚き、そこで一度気を引き締めた。再び絵に目を戻す。と、写真や仮想現実ヴァーチャルで見た時とは違い、実物だけが持つ本物の質感とでも言うのだろうか、他では得られぬ不思議な力が絵画の中から直接目に触れてくる。気を引き締めてなお魅入られる。彼は少し間を置いてから、訊ねた。
「コンクールは?」
「また一人『天才』をあらわして、王女様としては嬉しいところ」
「妙な言い方だな。下馬評通りってわけにはいかなかったのは判るけど……」
「その下馬評本命の噛ませ犬――万年シルバーコレクターが、とうとう化けた」
「そりゃ凄い。盛り上がっただろ」
「素晴らしかったわ。あの二人が鎬を削ればもっと高いところへ行けるでしょうね」
「なるほど。王女様としては、嬉しいところか」
 ちらりとティディアのドレスを見て、また絵に目を戻してニトロは言う。
「今日は『相応』だったんだな」
「いつもキワモノだと早々に飽きられるからねー。それとも際限なく次を求められるか」
「そして最後には素っ裸か」
「そしてそれもいつかは通過点。ところで、見たい?」
「見たくない」
「ちぇー」
 ティディアが身を少し寄せてくる。しかしニトロの足は絵の真正面から動かない。
「天才、か……」
「ええ、正真正銘の天才。そして謎の人物」
「あんまり謎だから異星人説もあったな」
「遺骸の検証結果から完全に否定されているけどね」
「アルカノ・ミジェールって名前も偽名だっけ?」
「そう。絵にサインも残していかなかった」
 ニトロは目を凝らして絵の隅、よく作家のサインがある場所を見た。それから別の隅にも目を移すが確かに見当たらない。そして絵を見つめたまま、彼は美術館のガイドA.I.に訊ねるようにティディアに問うた。
「今一番有力な説は何だったかな」
「どこかの大貴族か富豪の落胤説」
「どこか、かあ」
「それくらいしか言いようがないのよねー。町で彼を知らない者はいないってくらい顔も広かったのに、その正体を知る者はどこにもいなかった。膨大な証言に共通するのは彼が好人物で、ただ暇さえあれば周りの人間を捕まえて下手くそな似顔絵を描こうとするのが玉に瑕だったこと。町外れに家を借りて、視力の弱い下女と用がなければ一日中聖典を読み続ける下男と質素に暮らし、一方では知人のみならず初対面の人間にも気前よく振舞うお大尽でもあったことだけ」
「ああ、生活には困ってなかったって聞いたけど、そんなにだったのか」
「それで当時にもどこかの大貴族か富豪のご落胤だと思われていたんだけれど、誰かがそれを確かめようとしてもうまくはぐらかされていた。同時に実は犯罪者なんじゃないかとも噂されながら出自を厳しく追及されなかったのは、やっぱり彼の人品が上流を窺わせたからだそうよ」
「中学の先生が言ってたけど、彼の死の直後は凄い騒ぎになったんだろ? 『アルカノ・ミジェールは誰だったのか』って」
「ええ。王家の記録にも残るくらいの大事件だもの、そりゃくにを挙げての大騒ぎよ」
 そこで話を切ろうとしていたティディアは、ちらりとこちらを一瞥してきたニトロの瞳に好奇心を認め、喜んで続けた。
「事件の盛り上がりに一役買ったのが、もちろんアトリエに遺されていたこの絵よ。この傑出した芸術品によって騒ぎはいつまでも燃え続け、やがて東大陸の一地方の事件に時の王までをも引き込んだ。『アルカノ・ミジェール』が犯罪者だったかどうかの捜査の過程で、彼の犯罪だと疑われた未解決事件の真犯人が捕まるという事も何度も起きたわ。それなのに彼の正体に関してだけは一向に手がかりが掴めない。途絶えないガセネタや自称親族を調査することに大量の人員が消費される、のみならず巷に溢れ出た“アルカノ・ミジェール作品”に鑑定人が浪費される、方々ほうぼうの裁判所には騙された人間が溢れ返って怒号を上げる。贋作や詐欺に類する混乱は例の描き散らかした“下手くそな似顔絵”が主な原因だった。そこで王は選り抜きの専門家達にアルカノ・ミジェールの真作リストの作成を命じ、国費まで投じた調査によって定まったのは確証の得られる“似顔絵”が129点と、この絵と、この絵の部分的な習作が8点、それとクロッキー帳一冊のみ。それらを参考に誰か名のある画家が変名していたのではって調査もされたけど該当するような人物はなし。事件が沈静化したのは王の崩御が一つの区切りになったのと、ひとえに皆が“娯楽”に疲れたから、それに尽きるでしょうね。それでも落ち着くまでには当地と他大陸でタイムラグがあったし、落ち着いた後でも現在に至るまで、否定されてなお異星人説をどうしても諦められない人間がいる程に求心力は残っている。――ところで、下女が聞いた最期の言葉は知っている?」
 有名な話だ。未来の女王に問われた少年はうなずき、どこに出かけるのかと訊ねた老女に礼拝堂の高い尖塔を眺めながら答えた青年の言葉を口にする。
「『私に絵の才能をお与えにならなかった神に、その理由を問いに行くのです』」
「こんな絵を描かれて、それで“才能がない”なんて言われたらほとんどの画家は立つ瀬がないわよねー」
「どれだけ理想が高かったんだろうなあ」
「さあ? それこそ『天才』にしか解らない領域でしょうね」
「お前には? 才気溢れる王女様」

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