「んー」
ティディアはさほど困っていないように唸り、
「解ったらきっと私も自殺しなきゃならなくなるだろうから、解らないでおくわ」
「うまく逃げたなあ」
ニトロはそこで女神に置いていた目を現身の女に移した。彼女はニトロの嫌味半分感心半分の言葉に微笑み、すっと左手を差し上げ、絵画の女神と似た調子で先を指差した。
「さ、他のも観ましょう?」
と言ってティディアは返事を待たずに歩き出す。ニトロは一瞬惑い、それから足を踏み出した。実際、特別展示がなくとも人の絶えない美術館をこうして巡れるのは滅多にない機会だ。が、
「それで、ここのどこで『漫才』の練習をするんだ?」
ティディアの横に並んだところで問う。
「むしろコンサートホールの方が良かったように思うんだけど」
この美術館からすぐ近くのクイーンズホール――
「さっきから練習は始まっているわ」
「は?」
「今夜の主題はね、気分転換」
「どういうことだ?」
戸惑うニトロを横目にティディアはくすくすと笑い、
「最近ちょっと根を詰めすぎていたからね。だから今夜は『練習』はお休み。でも何もしないでいられるほど時間はないから、これが練習。こうして素晴らしい芸術に触れることで心に刺激を与えて、同時にこうして私とお喋りをして『息』をより良く合わせる。今でも十分息は合っていると思うけれど、私達はもっともっと馴染むはずだから」
「俺はお前と馴染みたくなんかないんだけどなあ。それに……なんか、うまく言いくるめられてるような気がするぞ? つまり実は美術館でデートしたかっただけ、とかそういうことじゃあないわけだよな?」
「んー? んー、そうねー」
「おい」
「刺激にはなっていない? さっきの様子は、そうは見えなかったけれど」
僅かに角度のついた短い通路を抜けると、程好い広さのフロアに出た。そのフロアは六角形をしていて、通路の出口は
フロアに出た瞬間、ニトロの目に飛び込んできたのは中央に置かれた大きな石柱である。柱の周囲には『川神の牛を駆り
ティディアは地盤沈下によって崩壊した神殿から運ばれてきたその大古典時代の傑作を一瞥しただけで、フロアの六面の壁に掛かる作品の一つへと真っ直ぐ向かった。ニトロは石柱に強い興味を引かれたものの、彼女を追うことにした。ある絵の前で立ち止まった彼女に並び、彼が目をやると、それもまたアデムメデス神話に関係するものであった。
素晴らしい神馬。鬣は今にも燃え上がりそうであり、青い瞳は神性を湛え、今にもその黄金の蹄がカンバスを突き破って眼前に飛び出てきそうだ。彼は神馬に見惚れながら、少し眉をひそめて言った。
「でも、どうせ刺激っていうのなら、もっとエンターテインメント的なものの方がいいんじゃないのか? 近場でコメディショーだってやってるだろう」
ティディアは軽く肩をすくめ、
「人によってはそっちの方がいいわね。だけどニトロの場合は、今は観察眼とか、感性とか、知識とか、そういったものを磨いておいた方がいいと思うの。――ね? 芍薬ちゃんもそう思わない? 場合によってはこういう方面への造詣も必要になるかもしれないんだし」
すると二人の離れた背後から声が聞こえた。
「コレガ主様ノタメニナルコトニハ異論ハナイ。ケド、オ望ミノ『場合』ハ来ナイヨ」
「本気でそう予測している?」
芍薬は、答えなかった。ニトロもティディアに抗弁できない。何しろ今後このバカ姫様の『相方』として活動すればどこでどんな知識が必要になるか解ったものではないのだ。知識がない故にツッコミ所を逃して窮地に追いやられるようなことがあってはまずい。それこそ基礎教育の範囲外の教養が必要になることもあるだろう。観察眼は罠を見抜くにも必要だ。感性もその助けになるかもしれない。
「さて」
と、二人からの“同意”を得たと確信したティディアが満足気な顔でニトロの腕を取る。ニトロは反射的にそれを振り払った。と、
「えええ? その態度はちょっと酷くなあい?」
満足気だった顔を瞬時に不満に歪めてティディアが抗議する。しかしニトロはじとりと彼女を睨み、
「別に酷くないだろ。これは練習、デートじゃないんだ」
ティディアはなおも抵抗しようとしたが、ニトロの眼の硬さに肩を落として首を振る。それから一つ息をつき、言った。
「それじゃあ、いいわ。でもちゃんとついてきてね」
「ついて来い?」
立ち止まったままのセリフにニトロが怪訝に問い返す。ティディアはうなずき、
「言ったでしょ? 観察眼、感性、知識、そういうものを磨いておいた方がいい」
「ああ」
「まあ、何だかいつの間にかニトロはやたらと観察眼が鋭くなっているから――」
そう言いながらティディアは
「それに関しては磨くっていうより幅を広げるっていう感じなんだけど。
では、この絵の作者は誰でしょう」
ニトロは答えられなかった。思わず絵の下のプレートを一瞥する、と、
「リアンヌ・フィーブ・ディゴン」
ティディアが答えようとするニトロを制して言った。はっとして彼が彼女に目を転じると、彼女は別に怒るわけでもなく、ただし彼に集中して絵を観るよう厳然とした一瞥を送る。カンニングをしかけてしまった彼は罰の悪さにも押されて指示に素直に従った。そうして彼がたっぷり鑑賞する時間を置いた後、王女は落ち着いた声で語り始める。
「リアンヌ・フィーブ・ディゴンは西大陸において大古典時代唯一の女流画家よ。もちろん当時の貴族で職業画家はあり得ないから、手習いが高じて評判を呼び、それが美術史にまで名を残した極めて珍しいケース。しかも画家が“彼”ではなく“彼女”だったと判ったのは彼女の死後およそ300年が経ってからのこと。跡継ぎをなくしたフィーブ・ディゴン家が消滅することになり、そこで記録が検められた際に判明した驚くべき事実だった。――と、これは
ニトロが言われた通り携帯のカメラをプレートに向けると画面に説明文が現れた。ティディアの
「ちなみに現在も『フィーブ・ディゴン』という貴族はいるわ。南大陸のギュフィ領スランブドラ市で
それは画面に出ている説明文にはない。関連項目のリンクを辿れば知ることもできるだろうが、逆に言えばそれを知るには幾つかの資料を読む必要がある。
「さあ、ニトロ、この神馬はどこか性的だとは思わない?」
言われてみれば、この神馬はどこか性的にも思える。――だが、それは言われたから、なのだろうか? いや、確かにどこかなまめかしく感じる。古来より馬と美女の組み合わせは有名だ。それは一つのカテゴリを形成すると中学の美術の授業でそんなことを聞いた気もする。だがその話は先生が豆知識として話した持論だったろうか。そして先生はそれを性的な隠喩としても語っていたろうか? 神馬の盛り上がる筋肉は男性的で、顔つきは神々しくも美しい。
「よく観て? ほら、この馬には一ヶ所、明らかに人体がある」
ティディアの指摘を受けてくまなく神馬の体を見回すが、判らない。ただその筆致が実に滑らかで、筆というよりも指でなぞっているかのようにも思え、するとこの神馬を慈しみ愛撫する女の手が視界をかすめたような気がしてくる。
「瞳よ」
ニトロは神馬の瞳を見た。そこには確かに人間の瞳があった。虹彩まで細かに描かれている。その水晶体には人影が入り込んでいた。
「確かにリアンヌ以外にも馬の瞳を人間のように描く者は存在するわ。だけど、後の写実主義の大家にも勝るほど写実的に馬を描きながら、一部にだけ人体を移植したかのように描くのは、彼女だけ。では何故彼女はあえてこう描いたのか。様々な暗示を伺うこともできるけれど、彼女に関しては定説がある。馬狂い――それは彼女が馬を恋していたから。それも異常なほどに。彼女には獣姦の疑惑もあったそうよ? 馬に嫁ぎたいと真剣に語っていたという話も残っている」
その語りに、ニトロは眉をひそめた。
「……後世の創作じゃなくて?」
主題としている絵の周りに補足するように掛けられている幾つかの小さな絵に目を走らせ、確信を得てからさらに言う。
「この絵の取材は『ファーシャンのオブラン』だろう? そっから連想して、とか」
それはアデムメデス神話の中で、馬に化けた神と交わり、人・半人半馬・馬の三神を生んだ乙女のエピソードだ。ティディアはうなずく。
「取材はね、その通り。でもエピソードとして引っ張るんならこの場合は『カリュカイエの魔亜人』の方が相応しいでしょうね――こっちも知っている?」
「名前は忘れたけど、どっかの国の王女が魔女の呪いで馬に恋して、丸剥ぎにした牝馬の皮を纏って交わり、それによって忌まわしい
「よくできました」
今にもニトロの頭を撫でそうな笑顔を浮かべ、ティディアは続ける。
「でもまあ、疑惑についての真偽は不明よ。けれど後者は事実。公爵夫人の日記にそう書かれていたわ。娘の自画像には逆に馬の瞳が埋め込まれていて、それがあまりに恐ろしいから焼き捨てたって話もある。どうも娘の教育にひどく苦悩していたみたいねー」
ティディアはくすくすと笑う。ニトロはじとりと半眼を向ける。