「お前が言えたことか?」
「少なくとも私は獣姦に興味はないわ」
「どうだかね」
「あ、それは本当に酷い」
「『クレイジー・プリンセス』が何をしたところで“クレイジー”だろう?」
「そこは否定しないけど、私の貞操はニトロだけのものだから」
「……」
「流石に、何か言って欲しいわ」
 本当に傷ついたかのようにティディアがうなだれる。
 閉館後の美術館は、静かだ。すぐ近くに芍薬の駆る警備アンドロイドが、そしてきっとヴィタがどこかに忍んでいると解っていながらも、作品にのみスポットを当てられた薄暗い静寂の中に二人きり、こうして語らっていると段々この館内には自分達だけしかいないように思えてくる。
 ニトロは、流石に言いすぎたかと思い、ティディアに目を移した。それと同時に彼女も彼に目を移していた。瞳が交わる。良心の呵責を抱いていた彼は彼女の双眸の内に熱を認めて一瞬どきりとし、しかし次いで湧き上がった警戒心に理性が冴え渡り、すると彼は彼女の眼の周囲、表情の裏に慌てて隠れようとする演技の影をも認めた。
 その瞬間、ティディアの双眸から熱が消えた。
 変わって彼女の瞳は悪戯っぽく閃く。それは己が演技していたことを相手に知られたことを悪びれもなく喜んでいるようであった。いや、喜んでいた。
 ニトロは、しかしそれは咎めず、言った。
「次はどんなことを教えてくれるんだ?」
 その対応にティディアは不満気な気配を見せたが、すぐに気を取り直すや踵を返した。
「その半人半馬マァゼホーンを退治したガルソニアスの絵がそこにあるわ。それについて話してもいいし、ニトロが興味を持った絵を言ってくれればそれについて話してあげる」
「どんな絵でも?」
「ええ、ここにある絵の話は全部ここに入っているから」
 ティディアはトンと頭を指差す。
「本当か?」
 苦笑しながらニトロは言った。それが嘘ではないと判っていながらも、それでも信じられない思いは湧き上がる。ティディアは自信に満ちている。試しにニトロは大きな英雄の絵の脇で所在無げにしている小ぶりな絵を指差した。
「何で、そのお婆さんは泣いているんだ?」
「そうね、まずはじっくり観てみて? それから話すから」
 ニトロは一瞬目を丸くした。軽い気持ちで指定しただけのこちらに対して、ティディアはそれが試しだとしても作品にしっかり向き合うことを促している。先刻から彼女の作る変拍子に流石にリズムが狂いそうになるのを、しかし彼はすぐに修正した。一人歩を進め、年古としふりた拳を胸に押し当て皺くちゃの顔に涙を伝わせている老婆の前に立ち、しばし見つめる。
 ――ややあって、まどろむ幼子を起こすようにティディアが言った。
「自分の感想を持った?」
 ニトロがうなずくと、ティディアは乾涸ひからびた田へ水を流し込むように語り出す。まずは画家の名を口にして、次に元徒刑囚であった彼が改悛後に名声を得ていく過程を粗描し、そこから作品の世界へとニトロを誘う。
「老婆が泣いているのは、神に対して不遜を働き続けた息子が石に変えられたから。そして自分は最愛の一人息子を救うことができなかったから。取材は『ブスペとハートーマ』で、これは暗い話だし、英雄ガルソニアスの冒険譚をまとめる時にはオミットされがちだからマイナーだけど、実はこの半人半馬の話にも大きな関係のあるものなのよ。
 ……そう。
 あなたの考えていることは正しい。
 画家がこのモチーフを選んだのは、ついに報いることのできなかった亡き母への想いを塗り込めているから。元々は国教会から改悛を説くための材料として依頼されて、題材も別のものを指定されていたんだけど、彼は内密にこの絵を描き上げた。それを知った依頼者は当然激怒したけれど実際目にした絵の素晴らしさに喜んで受け取ったと伝えられているわ。そしてまた、画家が親友に吐露した言葉も残っている。助祭に絵を渡し、笑顔と握手で別れた夜、彼は筆を折り、言った。
『だが、母はどうすれば救われる』」
 その言葉によって、ニトロは一気に思索の淵へと突き落とされた。それと同時に彼の目の中から涙に暮れる老婆がいなくなる。いや、老婆はいる。しかしその老婆は先ほどまで彼の見ていた老婆ではなくなっていた。その淵の中からは絵画の表層を見ることはできない。そこに描かれたものの意味的内奥を覗き込もうとしなければ何も見えない。そして何かを見ようとしても容易に視野は開けない。視野が開けたとしても、さらに様々な角度を試さなければ己の目で見たことにはならないだろう。先にも増して、心を凝らし、彼は絵画との距離を縮めて向き合った。
 彼が思索と鑑賞に耽っている間、彼女はひたすら沈黙していた。
 そして頃合を見計らい、ティディアは口を開いた。
 ちょうどニトロの目が開き、耳は語り手に引きつけられる。
 ティディアは神話と絵を対照しながら話を広げていく。やがては画家の人生に立ち返り、時代背景も含めて作品を別角度から掘り下げていく。無論技法に関しても抜かりない。彼女にとってはまだ浅いところを泳いでいても、それらは常に彼にとっては深い解説であり、しかも耳に親しむ語り口。いずれは展示物の何割かを受け継ぐ王女は聞き手が何かを問うやすぐ声が壁に響くように答え、さらに答えた上に相手が知っている――正確に言えば中学までの義務教育に含まれる知識を用いて話をより身近に感じさせ、巧みに好奇心を刺激する。万事が万事この調子で、続けて四点ほどの絵を新たな視座から鑑賞したところで、ニトロは思わず言った。
「お前、王女をやるよりここでガイドをした方がいいんじゃないか?」
「それもいいわねー。美術系の支援プログラムで何か出来ないかっていう話もあったし、中学生くらいのを集めて一度やってみようかしら」
「あれ? 乗り気?」
「文化のパトロンになるのも、王侯富貴の役目の一つ」
「……今夜のお前はやけに真面目だな」
「ま、私は私を楽しませてくれる人間が増えればいいだけだけどね」
「で、楽しませてくれなくなったら『さよなら』か」
 ティディアは意味ありげにニトロを一瞥し、
「そういうものじゃない? 今夜も最も素晴らしい演奏をした者だけが、ゴールドを得た」
「まあ……それはそうだけども」
 歯切れの悪いニトロの様子にティディアは微笑み、『花園』を眺めながら言う。
「とはいえ育てるとなると確かに“一番だけ”を囲っておけばいいってものではないわね。知らぬ間に自生して花実をつけるものは別として、それまで下位であった者の中から今夜のような主役が現れることもある。だから誰を支援し、誰を切り捨てるかの見極めに関してはむしろこちらの資質が問われることになる。もちろんその見極めはとても難しい。だけど素晴らしいものを得ようというのならそれくらいの難題は当然だし、何より難しいからこそ勝ち得たものはさらに素晴らしいものとなる。その“素晴らしいもの”を実利とするか、名誉とするか、虚栄心の糧とするか、それともただ楽しむかは人それぞれだとしてもね」
 世間話のような、それとも教示のような、どこか掴み所のない調子で語ったティディアはまた意味ありげにニトロを一瞥する。その視線に彼はからかわれているのか幻惑されているのか判断がつきかねたが、一つ理解できるのは、
「本当に、おかしなくらい今夜のお前は真面目だなあ」
「私はいつだって大真面目よー」
「ああ、ああ、そうだった。クソ真面目にバカをやってくれるから性質が悪いんだ」
「そんな私を叱ってくれる貴方が大好き」
「そんなお前が俺は大嫌いだ」
「いけずー」
 美々しい『花園』の絵を離れ、二人は次のフロアへ向かった。そしてフロア間の短い通路を抜ける寸前、はたとニトロは足を止めた。
 そのフロアの中央には美の女神像が据え置かれていた。古典時代の代表的な彫刻で、一度盗難に遭い、その時折れた左腕が不思議と作品の魅力を増す結果となって、以来修復もされず人の関心を惹き続けているものである。
 だが、ニトロが足を止めたのはその傑作のためではない。
 フロアの壁を埋める絵画の全てに、裸婦がいた。
 直前のフロアには神話に示された様々な景色があった。その美麗壮観とは扉も隔てず地続きなのに、ニトロには周囲の空気が大きく変わったように感じられた。
「『人は本能的に女の美の秘密を知りたいのだ、男も、女であっても』」
 詩を詠むように、ティディアが言った。
 ニトロは彼女を見ずに問う。
「誰の言葉?」
「デグムート。知っているわよね?」
「小古典時代ロマン主義の代表的な作家」
「代表作は?」
「『ねむの木と乙女』」
「合格。ちなみにフルネームは?」
「ニトロ・デグムート。だからよく覚えてるんだ。でもその言葉は知らなかった」
 ティディアは吐息を漏らして笑い、
「彼の絵は残念ながらここにはないけれど、その彼が多大な影響を受けた大古典時代の最高傑作があるわ」
 そう言って、右手の壁中央に掛けられている大作に向かう。ニトロは背後を一瞥し、そこに絵画鑑賞の邪魔にならないよう足を忍ばせている影を確認してから歩を進めた。裸婦画ばかりの中にティディアと二人というのはどうにもむず痒い思いがこみ上げる。が、それよりも今は絵に対する新鮮な興味が強い。
 隣に並んでくるニトロの様子を視野の隅に得たティディアは、笑む。
 二人が見つめる絵は100号と大きいだけでなく、異様なまでに迫力があった。描かれる乙女は一糸纏わぬ身を今にも倒れそうなほどに傾けてつま先だけで頼りなく立ち、その曲線美が際立つようよじられた白い肢体を背後に立つ男に委ねている。場所は鬱蒼と茂る森陰。足元には数片の羽根が散っている。女を怖がらせないよう鶴に変身してやってきた背後の男が姿を戻す際に落としたものだ。その男も全裸であるが全体的に黄金色を帯びていて、豊かな頭髪には時折稲光のように輝く箇所がある。男は雷神である。主題は『ソーニア』――アデムメデス神話の代表的な英雄、ガルソニアスの母となる処女おとめだ。
 ティディアはしばし黙した。
 その間にニトロは絵にまつわる前知識なく、自由に鑑賞する。
 しばし眺めていて、少年は、自然と手に汗が滲むのを感じた。
 金泥に塗られた厳粛な趣のがくの内に、確かに絵具で描かれているのに、もしや触れたら指に吸い付いてくるのではと思える柔肌の質感。あまりに妖しく、あまりに挑発的でありながら、あまりに純粋できよらかなその裸体。腰回りの肉付きや乳房などは限りなく理想化されているようなのに、一方ではどこまでも生々しいその女。
 彼は隣にティディアが立っていることを意識しないよう努める。
 そして彼女に自分がこの絵に魅了されていることを知られたくないと望む。
 だが、きっとこの感動は既に悟られてしまっているだろう。どこかに隠れたくなるほど気恥ずかしくなってくる。それほどに、この絵は――
「この“エロス”に満ちた部屋で」
 ふいにティディアが声を出し、ニトロはどきりと我に返った。彼女は続ける。

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