「ちょうど異性への抑えられない好奇心に切羽詰り出した中学生相手に女体美について講義して、すると男子は隣の女子の体を見ざるを得ず、女子は男子の視線に嫌悪を感じながらも一方でどぎまぎしちゃう――そんな様子を眺めるのは実に甘美なことでしょうね」
 ニトロは毒づくように息をついた。横目にティディアを見、
「悪趣味な」
「でも私は別に意図して性欲を喚起するわけじゃなく、芸術について講釈を垂れるだけよ? 実際の目的はあくまで芸術への接触を深めることだもの」
「だとしてもやっぱり悪趣味だ」
「それなら芸術そのものが悪趣味なのよ」
「いきなりそんな風に責任転嫁されたら芸術さんもビックリだろうさ。大体、お前がここまで説明してきたものには必ず悪趣味なところがあったか?」
「どうかしら」
「どうかしらって――『花園』は善良な者だけを迎え入れる楽園だし、『父殺しのステロ』だって父を殺さねばならない息子の決意と悲嘆を描き出している。あの老婆ブスペについては言わずもがな。それらを表現する筆のどこに悪趣味があったって言うんだ」
 そこまで言ってから、ふと、ニトロは緩慢に口をつぐんだ。目を伏せて考えを巡らせるが、その自問は容易に答えの出ないことが明白である。そのため彼は思索を早々と切り上げ目前の芸術に意識を向けた。その価値観を揺さぶられる者の横顔にまた、ティディアは笑む。そして、
「女体の美を語る上において全て“エロス”がなければならない、なんてことはないと思うし、逆に何事も性に結び付けて解釈するのも馬鹿馬鹿しいことだと思うけど」
 と、ティディアは切り出した。が、次の言葉にまで隙間がある。ニトロは聡く勘付き、
「今さっきの悪趣味な駄弁は、つまり“話の枕”か」
 するとティディアはそれには応えぬまま、しかし満足気に続けた。
「かといって全く“エロス”と無関係、とするのは愚劣の極みね。例え純粋に女体のフォルムのみを追求したと作品だとしても、それが美であるならば“エロス”を排除することはできない。美はそれだけで快を生み、快は官能を導く。そして官能には、性愛、少なくとも恋慕に類する情動が常について回る。そして、もしそうであるとするならば、逆に恋慕や性愛から官能へ、官能から快へ、快から美へと遡及的に“美”へ向かう事も一つの道として成立し得る」
 ティディアの眼差しはニトロへ問うている。彼は彼女の台詞回しに中学で習った哲学の入門知識を刺激され、思い出し、
「……確か、“美への志向”そのものを“エロス”っていう説もあったかな?」
「ええ。そしてもし、美を善し、とするなら、それに通じる“エロス”を排除しようということは無理筋ということになるでしょう。美を理解するにおいて“エロス”の排除が無理筋なら、“エロス”に密接に関係する官能や性愛の排除も問題になるでしょう。そしてここがまた別の角度から問題を持ち込んでくる。何しろ一般的には“異常性愛”と括られる嗜好だって、それも一つの美への志向だと捉えるなら何ら異常ではない“愛”と言うことだって可能になるのだから」
「そりゃ論が飛躍してないか? 特に性愛から“性”を抜く過程はどこにあった?」
 ティディアは笑う、実に満足気に。
「訂正するわ。何ら異常ではない性愛ね。もちろん性愛それそのものを異常とするなら話は別だけど――「それも論がぶっ飛んでるな。ていうかそれについちゃ“性愛とは何ぞや”ってことを考える、芸術っていうより哲学の領域だろ。そっからじゃないと“性愛から通じる美、その美を表す芸術”って筋を追って行けないと思うぞ? 異常か正常かってところには哲学に加えて倫理や道徳も関わってくるだろうし」
 ティディアはうんうんとうなずき、
「そうね。でも、とすると、ある種の芸術は、その哲学、あるいは倫理や道徳に対して非常に重要な問いを投げかけることになる」
「それは理解できる。過去に物議を醸した芸術作品も数え切れないって習ったし、前にもお前が芸術にこじつけて阿呆なことをしようとしたこともあるしな」
「あの時の『トレイ』は痛かったわー、ニトロったら凄すぎちゃってそれはそれで別の芸術になった気もするけども」
 ニトロは眉間の皺を指でトンと叩き、
「芸術ってのは便利な言葉でもあるんだって改めて思い知ったよ。――で? その流れからするとこの作品はそういう作品ってことだな?」
「その通り。この絵は知っているでしょ?」
「見覚えはある。でも『最高傑作』と言われるほど有名じゃあなかったと思うけどな、最高傑作って言うなら、確か今は西大陸にある……」
「フキの『横臥する美の女神』」
「そう、そっちが大古典時代の最高傑作の呼び声高い作として学校でも習った、はずだ」
「うん、間違ってない。でもね、ある時までは、大古典時代最高の裸婦画と言えば間違いなくこのブールドの『雷神ガルツとソーニア』だったのよ」
「『ある時』?」
「ええ」
 ティディアは、そこでにやりと気味悪く笑った。ニトロはぞくりとする。それは不吉な笑みだ。彼が重心を遠ざけたのを認めながら、彼女は絵をよく見るよう目で促した。
「ニトロはこの絵を、どう思う?」
「どうって……」
 そこでニトロは言葉に詰まった。しかしティディアは平静に言う。
「美しい?」
「――ああ、美しい、と、思う」
 たどたどしく言って、ニトロは頬に熱が浮かぶのを自覚した。おかしな笑みを挟んだとはいえティディアは女体美をアカデミックに語っている。それなのにこちらは女体を過剰に意識している。この状態はかえって恥ずかしい。そしてそれを恥ずかしいと思うことがまた恥ずかしくてならない。
「それだけ?」
 ティディアはあくまで自然に問う。
「……」
 それでもニトロはなかなか素直に口に出せなかった。“かえって恥ずかしい”と自覚したとしても、やはり羞恥の壁を乗り越えるのは難しいものである。しかもティディアが聞き出そうとしているのは先ほど自分がこの絵に対して抱いた最も大きな情動であり、それを先ほどは彼女に悟られたくないと思っていたのだ。ティディアは黙している。ただ待っている。ある意味において“そういうプレイ”を楽しまれているようにも思えてくる。と、そう思った途端、彼の胸に激しい負けん気が励起された。するとその負けん気が、彼の口からその感想をするりと押し出す。
「官能的だよ」
 一度言ってしまえば後は楽だった。
「とても美しくて、そしてとても“エロ”い。彼女は既に虜だ。構図通り神に身だけでなく心も全て委ねている。その無防備さも、彼女の美を引き立てているのかな」
 しかし段々と、ニトロの声からは力が失われていった。美や芸術を語るということには不慣れであるし、元より自信のない分野である。それでも彼は半ば意地になって続けた。
「それに、なんて言うか、何だかこう、いけないものを観ているような……」
「背徳感?」
「言葉にするなら、そうかな」
 するとティディアはニトロが喪失した力を全て投げ返すように力強く、それも半ば感嘆すらをも面に浮かべてうなずき、
「そう、彼女はすでに雷神の虜になっている。委ねているのもそう、無防備なのもそう、そこには無と忘我からの純粋さもあるわ。そして純粋に、彼女は溺れている」
「溺れている?」
「彼女の頬は上気しているでしょう? よじられた体は絵画的なポーズでもあるけれど、むしろそれは快感に身悶えているからこその姿」
「ああ」
「でも彼女は溺れているだけじゃない。潤んだ瞳は恍惚として、神を仰ぎ、無限の愛を捧げているけれど、同時に神を見ず、神の肉体を超えてその奥の魂を確認しようとしている、そこにある彼の愛を求めている。その求める心が無と忘我と無限の愛を捧げようという心と対立して彼女の内奥で凄まじい緊張を生んでいる。その緊張がまた、彼女を内側から輝かせている」
 ニトロはじっと絵を見つめた。少しの間を置いて、ティディアは言った。
「彼女はね、今、既に、そして永遠にセックスをしているの」
 唐突な単語の現れに、ニトロは驚いてティディアを見た。からかわれているかと思ったが、彼女の横顔にふざけたところは欠片もない。
「でも彼女は神とセックスをしているんじゃない。では、誰と?」
「……画家?」
 ティディアはニトロを慈しむように見た。鷹揚にうなずき、
「そうよ。これはね、ニトロ、この絵を描いた男とモデルのセックスそのものなのよ」
 乙女の背後に立つ雷神の右手は乙女の右脇を支え、その人差し指は僅かに乳房に触れている。左手は乙女の下腹部、ちょうど子宮の上に添えられている。乙女は両腕を大きく振り上げ、今にも口づけをしようという男神を迎えながらその御頭を抱こうとしている。森の陰の中に浮かび上がる両者、その全身がこれから始まる愛の営みを予感させる。しかしティディアはそれが既に行われており、しかもそれは画面外の存在の行為であると言う。ニトロには容易に理解できないように思えたが、不思議なことに、一度聞いただけで納得することができた。
「……さっき、物議を醸す作品だって言ったよな」
「ええ」
「それは、つまり画家とモデルの関係が問題ってことか?」
 背徳感、という単語がニトロの脳裏に蘇り、その意味が彼の目を裏側から圧する。ティディアは微笑み、
「察しが良くて嬉しいわ。そう、この絵のモデルは、ブールドの実妹よ」
「おっと」
 ニトロのその反応に、半ば知っていたことを改めて確認したかのような驚きに、ティディアはくすくすと笑った。そして、
「ブールドと妹の関係は、二人が生きている時には誰にも知られていなかった。兄のブールドは成功した画家として知られ、ついに結婚はしなかったけれど顧客の上流社会で様々な浮名を流した伊達男だったわ。逆に妹は貞淑な女性として知られる非常な美人で、ある伯爵に嫁いでからは子にも恵まれた。二人の実家は裕福な商家で、何不自由なく育ち、もちろん、おかしな様子も何も無かった。周囲にはただ仲の良い兄妹と思われていたみたいね。妹の結婚を祝って兄が描いた伯爵夫妻の肖像画は、当時の社交界に大きな嫉妬を呼んだそうよ。そしてその伯爵も生涯その絵を宝としていた。伯爵はとても長生きをしてね、妻の死の翌朝、妹を追いかけるように突然死した義兄の家で発見されたこの絵――もしその死がそんなにも早くなければ画家の手で焼かれていたかもしれない――この『雷神ガルツとソーニア』がまた義兄の名誉を高めたものだから、当時の庶民の落書きにも残るぐらい滑稽なほど自慢していたそうよ」
「それが何で関係を知られることになったんだ?」
 俄然興味を引かれたニトロの問いに、ティディアは一つ息を挟んだ。彼の表情を深く見通し、刹那の内に方針を切り替え、応える。

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