「関係が知られたのは、ブールドの死後、つまりこの絵が世に出てから137年後のこと。現在の区分で言えば大古典時代から小古典時代に移っていて、この絵は前時代の最高傑作の一つとして時の王フヴェルに献上された。そして献上された際、そのフヴェル王が暴挙に出た」
「暴挙?」
「この絵には本来特別な額があった」
 言って、ティディアは絵の下方に向けて小さく何事かを言う。すると絵に重なるようにして立体映像ホログラフが表れた。
「おわ」
 思わず、ニトロは声を出した。
 その額縁は非常に幅の大きく、かつ非常に精緻な細工の施されたものであった。正直に言えば、その存在感は絵の味を大分殺してしまっている。
「ご先祖様は自信家でねー」
 ティディアは苦笑するように言った。
「自分は学問に秀で、芸術が解ると自負していたのよ。お陰で十数点おかしな修正を加えさせられた名画があって、後代の学芸員が修復に苦労することになったんだけど……この絵の場合は、この大きすぎる額のサイズを調節しようと、画家自らが作った額の保存を訴える周囲の制止を振り切り自らノコギリの刃を当てた」
「それで?」
「額の内部に隠されていた大量の手紙――妹との往復書簡が発見された。書簡には二人の関係が赤裸々に書かれていたわ。それは当然大スキャンダルになって、学会も画壇も大騒ぎ、子孫はとばっちりを受けて身を潜め、ご先祖様は絵を焼かんばかりに大激怒。でも芸術が解るっていう自負心が今度は良い方向に働いてくれて、この大傑作は倉庫に封印されるだけで済んだのよ。
 一つ先に言っておくと、その書簡から推測される限りは兄妹に肉体関係はなかったようね。二人共に熱心な国教徒で、理性も倫理感も強かった。まあそうは言っても兄は派手に女遊びをする男だったんだけれど、それももしかしたら妹への愛情を紛らわせるか、誤魔化すためだったみたい。二人は愛し合いながら、それを互いに伝え合いながら、それでも相手を愛するあまりに現実の世界では一線を越えられなかった――いえ、越えなかった」
「だから、絵の中で?」
 うなずき、ティディアはかすかに熱を漂わせて語る。
「絵の中で、そして、絵を描くという行為の中で。妹は兄の前で服を脱ぎ捨て、ポーズを取り、男は筆や指で女の肉体をカンバスに移していく。その場面だけでも誰かに知られれば一巻の終わり、だから数少ない機会に濃密な時間を凝縮して、互いに互いの破滅を恐れながら――もしかしたらそれをどこかで期待しながら、二人でこの絵に命を塗り込めていった。妹は兄の手に、筆に、指に、それがカンバスに触れる度に直接愛撫を感じ、兄は妹の吐息を聞き、汗ばむ肌を目にする度に直接体温を感じた。目が合うことは唇を重ねること。見つめ合うことは交じり合うこと。そして絵を描き上げることは絶頂に達すること。完成のその瞬間、二人は共に失神してしまったというわ。兄は完成の合図を出すこともなく、妹も絵を見ることはなく、それでも最後の一筆が走り終わった瞬間、二人は大いなる“光”を見た。それは神秘的で素晴らしい体験だったと二人して熱っぽく書き残している。オーガズムを神に至る道とする復興新宗教もあるから、その見地からこの二人を裁いたらどんな意見が出てくるのか興味のあるところだけど……まあ、それは別問題ね。
 ところで、書簡が発見されたことで、当時長年議論の的だったことに一つの解答が与えられたわ。ニトロ、この絵には一ヶ所、明らかに不自然なところがあるわね?」
「雷神の左手だろ?」
 うなずき、ティディアは熱を込めて語る。
「そう、タッチは似ているけれど、この左手は明らかに出来が悪い。全体の中で幾分ぼやけてさえいる。その理由が判るまで色々な説があったわ。これは乙女が子を宿すことを示唆しているとか、既に乙女の身篭る我が子に力を分け与えているのだとか、ブールド本人が左手で描いたのだとか、描いたのは別人だとか。……事実はその別人説、この神の左手はブールドの妹が描いたものだった。兄の左手をじっと見つめながら、兄に手ずから指導を受けながら。ここに手を置かせたのも妹の意思。そうすることで彼女はこう言っているのよ――『私は誰と子を成そうとも、あなたとの子を生むのです』」
「……凄いな」
 思わず、ニトロはつぶやいた。実際の肉体関係がなくとも近親相姦のメタファーとなれば、この絵を自分は諸手を挙げて賞賛することはできない。だが、一つの美としては、これは確かにその危うい情念すらも一つの要素として飲み込む『芸術』なのだ。
「書簡の発見でもう一つ判明したことがあるわ。ニトロは疑問に思わない? 何故、この絵が発見された“当時”に騒ぎにならなかったのか」
「――ああ、言われてみればそうだな。何で彼の妹だって身近な人に解らなかったの?」
 ニトロは素直に問うた。それがあまりに素直だから、ティディアは笑った。
「それはこの絵の顔が描き換えられているから。真の顔は、この顔の下にあるのよ。人間の目で見ることはできないけれど」
 と言って、またティディアは口早に美術館のシステムに命じる。すると乙女の顔に別の顔が重なり現れた。始めに灰色の線画、次に表面とは若干輪郭の違う白い顔。それぞれ撮影方法を変えた二つの画像が合成され、そこからコマ送りで工程が進み、最後に再現された顔に鮮やかに色がつけられる。その真の顔は偽の顔よりもいくらか顎がシャープで、いくらか鼻が高かった。瞳に変化はないが目の形は少しばかり丸みを帯びて描き直されている。偽の面にはいとけなさが残り、真には意志の強さが現れていた。比較を見て思うのは最小限の筆で違和感なく最大限の差異を生むブールドの技巧の凄まじさである。一定時間を経て、比較画像は薄れて消えた。
「書簡の研究から隠された顔の存在が判った時、もちろんそれを見ようという動きはあった。けれどまだレントゲンもなかった時代だから、見るとなると加筆分を除くしかない。しかも王が523年の封印を厳命していたから結局諦められて、諦めと封印のためにこの絵はやがて歴史からも忘れられていった」
 長い時の断絶を感じさせるようにティディアは間を置き、そして語る。
「だからやっと妹の顔が判ったのは、封印が解けた、美術史的には『再発見』の時。往時の“書簡の研究”も蘇り、忘れられていた『最高傑作』の真実が耳目を集める物語と共に広く知られ、そうして再解釈と再受容が行われると同時にこの絵を元の顔にするかどうかも議論されたわ。でも、この上描きはブールドの手によるものに違いはなく、書簡にもその理由が書かれていた。全ては妹のため。そして“私たち”の子どものため。万一人の目に触れた時のための“覆い”があろうとも、画家にも妹にも見えているのは常に“真の愛”の形なのだから。――結局、作者の意志を汲んで、この絵は経年劣化に対する修復をするだけに止められ、今、こうして私達の前にある。ただ形を変えた近親相姦とも言えるこの絵の美的価値観についての議論は置き去りにされたままだけどね。この絵が未だに『最高傑作』の座に戻らないのは、そのためよ」
「はぁ」
 ニトロが吐き出したのは感嘆だったろうか、あるいは呆れにも似た感情だったろうか。
 ティディアはもう何も言わない。
 ニトロは改めて『雷神ガルツとソーニア』を観た。
 特異にしてインモラルな背景を聞いた後にもなお、この絵画の魅力は減じていない。
 ニトロは思う。
 おそらく、兄妹がこの題材を選んだのは神話の中に近親相姦を受容し得る土壌を求めたからだろう。雷神ガルツも兄妹神の契りによって生まれた存在に他ならない。それなのに二人が神話に語られる直接的なエピソードを避けてこの話を選んだのは、きっと、直接的なエピソードではただ神話の中の行為に二人を重ねてしまうだけだからだろう。これは、あくまで二人だけの秘密の営みなのだ。乙女の美しい裸体の圧倒的な存在感。それに比して背後から彼女を抱く雷神の存在感は不思議だ。雷神の体の大部分は、まるで破戒を恥じるように半ば陰に飲まれている。だが、乙女に触れている両手と、乙女に抱かれようという頭部はまさに神秘的な光を放ち、確固とした力強さを湛えている。まるで彼女と触れ合わねばそのまま生命を失うと言わんばかりの切実な存在感が雷神をようやく生かしている。そしてその切実さこそが、近親相姦という禁忌を超えたところで禁忌を覗き観る者の心を飲み込もうと覆い被さってくる。
 ニトロの瞳は画面に吸い付けられる。
 ここでしか生きられない命。
 魂。
 心は強迫観念にも似た官能の渦に飲み込まれそうになる。
 彼の脳裡から倫理の枠組は次第に薄れていき、代わって、ゆっくりと、しかし激烈に、ただ一人の男の魂と女の魂とが奔流となって色濃く差し込めてくる。
 雷神の右手は何故そんなにも恐る恐る乙女を抱くのか。もっと体に引き寄せ抱き締めることもできるだろうに。そして何故“彼”は彼女の乳房に手を触れられないのか。まるで触れたが最後、永久に失ってしまうたおやかな泡を相手にしているように、ただ人差し指の先だけを乳房にそっと触れさせて。しかもその指は少し不自然な向きをしていて、指の先には彼女の心臓が、さらには雷神の左胸がある。もしや、いっそ稲妻をはたたき、共に死ねたらどんなに悦ばしいかと考えているのかもしれない。だが、それはできない。彼に彼女を殺すことはできない。苦悩が伝わってくる。薄れた倫理の欠片が問う、果たして禁忌を規定するのは肉体における関係のみなのか、心にも関わる倫理は精神における関係をも規定するのではないのか、ならばこの睦言も、やはり愛に汚穢おわいを被せるものに過ぎないのではないのか。私達は愛しているのか、愛を穢しているのか――こんなにも愛し合っているのに!――苦悩が伝わってくる! だが、苦悩するが故にとうとう結ばれた二人の歓喜はより強いものとなり、交じり合う二つの魂は無上の悦楽にむせび泣いていた。この官能の渦には様々な情念が、苦楽の吐息が、快不快の痛みが共にある。何もかもがある。なのに、何故だろう、まるで何もかもが失われていくようだ。不安に揺れ、愛に揺れ、至福に揺れ、揺れながら一つに溶け合い、やがて至る、渦の中を、絶頂に向かう。絶頂に向かい、絶頂に迫る。さし迫る。せり上がる、せり上がる。せり上がる!
甘い女の吐息が、耳元で聞こえた。
「ッ」

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