ニトロは息を吸った。
 知らぬ間に息を止めていた。
 今までに体験し得ぬほどに芸術に触れ、脳が崩れかけているようだった。
 そしてを取り戻した彼は、胸をそっと愛撫する手を感じた。初めは錯覚かと思った。だが、錯覚ではない。それは実体であり、腹部にも指先を下に向ける手が間違いなく存在していた。
 ふ、と、ニトロの耳朶を吐息が打った。
 雷がびりびりと骨を軋ませた。
 彼の背中には柔らかな体温がある。心臓に心臓を重ねるように押し付けられた乳房は形を崩して密着していた。右肩に触れるのは顎先だろう。花のような香りがニトロの鼻をくすぐり、網膜から浸透する得も言われぬ官能に重ねて胸の愛撫が彼を捉える。浸透する毒が脳の髄を痺れさせる。痺れが、本能を立ち上がらせようとする。
「ねえ、ニトロ」
 甘い囁きが鼓膜を揺らした。
「私達もぁいだたたたたたた!」
 甘くない悲鳴が、裸婦画の並ぶフロアを揺らした。
「痛い痛い折れちゃう指が折れちゃう!」
「折られたくなかったら、さっさと離れろ」
 胸を愛撫していた右手の人差し指をさかに捻り上げるニトロがそう言うと、彼の右肩をトトトンとティディアの顎が突いた。うなずいているらしい。そのわりに左手はツツツと下へ向かっている。ニトロは指をさらに曲げてやった。
「ひやーーーーー!」
 一際甲高い悲鳴を上げてティディアが飛びのく。彼女は折れる寸前だった指を押さえて涙目でニトロを見やる。いつの間にか警備アンドロイドが彼の隣にいた。もし飛びのくのがあと一秒でも遅ければ後頭部をごつりとやられていたかもしれない。後ろの通路の奥側でマリンブルーの光が二つちらりと閃いて、すぐに音も無く消えていく。
「……あれぇ?」
 ティディアは指をさすりながら、首を傾げた。
「大チャンス到来!――って思ったんだけど、違ったかしら?」
 ニトロは、ぐ、と息を抑え、それから肺の中で固まった息を大きく吐き出した。そうすることで平常心を完全に取り戻し、
「お陰で貴重な体験をさせてもらったっていうのに……」
 思えばうまく相手に乗せられ過ぎていた気もする。思考の志向を相手に委ねすぎていたとなれば己の失態だ。そのことに忸怩たる思いを抱きながら、だからこそ余計に目を尖らせて彼は言う。
「どうしてお前は結局こうなのかな?」
 にへらと笑ってティディアは答える。
「というよりも、初めっからこうなのよ」
「開き直りやがってコンチクショウ」
 苦々しく、そして吐き捨てるようにニトロは言った。
「いつもいっつも悪びれもなく人を騙しやがって」
 しかしティディアはやはり笑って応える。
「やー、騙してなんかいないわよぅ」
 ニトロの双眸が鋭さを増す。
「どこがだ?」
 するとティディアは少し乱れたドレスを直しながら、
「じゃあ聞くけど、私はいつニトロを騙したかしら?」
「デートじゃないと言ったろ?」
「ええ、私はデートしていたつもりはないわ」
「形を変えた練習ってのは?」
「実際、そうしていたわね。何だかんだでニトロは素直だから教えがいもあるしねー、ハラキリ君が結局真剣に教え始めたのもよく解るわ」
「気分転換ってのは?」
「気分を変えて私を抱いてみない? 私の体も、芸術的よ?」
 ニトロの片頬が引き上がり、噛み締められた歯が覗く。彼はさらに言葉を重ねようとしたが、駄目だ、何も言葉が出てこない。
 ティディアはニトロのその様子をほくそ笑むように見つめた後、
「だけどそう思ったのは、ニトロが思った以上に作品に入り込んでいたから。誓ってこれは初めから考えていたことではないし、狙っていたわけでもない。でも」
 そこまで言われて、ニトロは続きを目で問うた。そこで彼女は笑った――いやらしく。
それまではそのままずっと絵画鑑賞をしていくつもりだったのに、ニトロがあんな顔をするから我慢できなくなっちゃったのよ」
 一瞬にして顔が発熱するのをニトロは自覚した。ティディアの笑みが深くなる。
「大チャンス到来! そう確信したのになー。まったく、ニトロの貞操はどれだけしぶといのよ」
 残念そうに言いながらも彼女には新たな愉悦を咀嚼するような明るさがあった。
「けど、芍薬ちゃんが私をすぐに引き離すかどうか躊躇っていたくらいだからやっぱり大チャンスだったと思うんだけど……どうかしら?」
 ニトロは答えない。答えられるはずもない。頬の熱が羞恥から憤慨に変わり、その眼光は冷気を帯びる。それでもティディアは調子を変えずに言う。
「それにしてもちょっと手ほどきをしただけでニトロがあんなにものめり込んでくれるとは思っていなかったわ。これはニトロの感受性が素晴らしいからなのかしら、それともやっぱりニトロも男の子だからなのかしら。年頃の男の子が官能に酔いしれる女に引かれるのは、自然なことだものね?」
 そのセリフに、ニトロは怒声を上げる代わりに大きく息を吐いた。肩を落とし、踵を返す。
「あら? どこに行くの?」
 ニトロは肩越しに振り返り、間抜けな問いを投げかけてきたバカ女を睨みつけ、
「帰るんだ。もう練習も十分だろう? どうやら才気溢れる王女様からお褒めの言葉も頂いたことだしな」
「やー、刺々しすぎて逆に痺れちゃう」
 眉根に深い皺を刻み、ニトロは眼差しに軽蔑を混ぜる。
「じゃあな」
 殴りつけるように言って、それからずっとティディアを厳しく睨みながら傍に控えていたアンドロイド・芍薬に一瞥を送る。芍薬はうなずき、二人は足を踏み出し、
「でも、勿体無くなあい?」
 去ろうとするニトロの背中に、さして慌てる風もなくティディアは言った。
 ぴたりと、ニトロの足が止まった。
「何がだ?」
「折角この美術館を大勢に煩わされず回れる機会なのに。徹夜したっていいくらいの価値は十分有ると思うわよ? ニトロは絵とか見るのもわりと好きでしょう? もちろんいつだって言ってくれたら私は計らうけれど、どう?」
 ニトロが半身を振り向ける。ティディアは微笑む。その笑みを見て、ニトロは再び背を向けた。
「お前の世話にはならないよ」
 そしてまた一歩踏み出す。
「順路をぐるりと巡って最後にまたあの『咎山を登るオトロ』を眺めたら、きっとこれまでにも増して貴重な体験ができるでしょうね」
 ニトロの足が、再度ぴたりと止まる。
「今回の展示は、そういう風にできている。そしてその予感はもうニトロの胸の中に息づいているはずよ?」
 再びニトロが半身を振り向ける。ティディアは微笑む。その笑みを見てもニトロが背を向けることはない。ただ、ちらりと芍薬に目をやった。芍薬は態度だけでマスターへの恭順を示す。それはマスターが翻意することに不満を抱くことのないことを保証していた。
「今夜は別に私に計らわせているわけじゃないんだから、遠慮なんてしなくていいのよ?」
「そう言われると逆に気になるもんだけどな」
「それは自意識過剰ってものよ」
「それをお前に言われてもなあ」
「なら、私だから言えるのよ」
「……」
 ニトロは吐息をつき、つま先の向きを変えた。逆順に進もうとしていた足を順路に戻す。
「ついてくるなよ?――って言っても、無駄なんだろう?」
「もちろん。それにニトロにとっても私がいた方が絶対に得だと思うわ」
「得?」
「それは既に証明済みのはずだけど? さらには『持ち主』しか知り得ぬ裏話なんてものもあってね……ああ、もちろん作品を鑑賞し共感し理解するのに作者や諸研究の情報は不可欠ではないわよ? それらを邪魔なノイズと切り離してもいいし、むしろそれこそが正しい観照の仕方とも言える。でも関連情報は作品を観賞して解釈して親しむことへのスパイスにもなるし、作者や創作物に関する物語が作品理解への入り口になり得ることも確かなこと。それもまた、今までに証明した通り」
 裏話、スパイス、物語とそれらを口にする度にティディアは語気に微かに力を込めていた。思惑通りニトロは――それが相手の思惑と悟りながらも――反応して考え込んだ。他方で芍薬は目を攻撃的に細めている。
 ティディアは優秀なニトロのA.I.に眼差しを送った。
 両者の目が真正面から鉢合うが、芍薬は、沈黙を守る。
 何故なら、ティディアの意図を潰すことはマスターの好奇心をも潰すことだからだ。それが身の破滅を導くことならば芍薬は身を挺してでもマスターを止めるだろう。しかし、今夜は違う。マスターを辱めるような態度を取った『敵』に良い思いをさせるというデメリットよりも大きなメリット――マスターの見識が広がる機会、それも他には得られないような機会を差し出がましく妨げることは芍薬には断じてできない。それにバカが余計なちょっかいを出すまでは、確かに、本当に、主様は楽しそうだったのだ。だからこそ芍薬の眼差しには怒りがこもる。感情表現技術エモーショナル・テクノロジーの豊かな機体が表す形を目にしてティディアは少し、眉を垂れた。ちらと首を傾げて、それから彼女は眉間の皺を叩いているニトロへ視線を転じ、そして囁く。
「さて?」
 やがてニトロはがりがりと頭を掻いた。
 芍薬を見て、アンドロイドの態度に不変の全権委任の様を認めて天井を仰ぎ、それから『雷神ガルツとソーニア』をしばし眺め……改めて観てみると、性と官能の激しい喜びを通り過ぎた先に、重苦しいほど落ち着いた生そのものへの歓喜と、自己と相手の存在していることへの高らかな讃歌を感じる。貴方に、貴女に、会えて幸せだと。――もしかしたら、それこそがこの絵を傑作足らしめている本質なのかもしれない。そう思うとまた新たに胸に迫るものがある。
 ニトロは最後に、ティディアへと目を転じた。ばちりと彼女と目が合った。慌てて恥じるようにさっと目をそらし、そして不承不承、彼は言った。
「引き続き、よろしく」
(ああ)
 ティディアは胸中に吐息を漏らした。
 その胸は苦しく締め付けられていた。
 キュンキュンと締め付けられていた。
(ああ、ああ、ニトロ、ああ)
 思わず緩みそうな唇を必死に整え、彼女は言った。
「任せて。きっと貴方に、素晴らしい体験を贈ってみせるから」



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