プール・スーサイド

(番外編『夜の美術館』と『知らぬ顔』の間)

 ニトロは50mプールの滑らかな水面を見渡し、大きく、ゆっくりと呼吸した。
 燃え盛っている――体が。
 普段より格段に厳しいサーキットトレーニングに励んでいた、つい三分前まで、彼は。
 それは腕立て伏せ、スクワット、腹筋、懸垂、ジャンプ等々、何種もの課目を繰り返すトレーニングである。課目それぞれの負荷や回数は少ないが、休みなく次から次へと移行するために、苦しい。いくらか呼吸を整える時間をもらえたとしてもそれは次なる苦しみのためのバネを自ら巻き上げる行為に過ぎない、過酷なトレーニング。
 苦しい、苦しい。
 汗は滝となる。
 滝となった汗は足元に溜まる。
 シャツに染みこんだ汗もいつしか蒸気と化して消えた。
 そして苦しみ抜いた末にメニューを完遂したニトロは、すぐさまトレーニングルームから追いたてられた。労いの言葉をかけられることもなく、一刻も無駄にするなとばかりに階段を駆け降りさせられ、さらにほんの一分で水着に着替えさせられるとカラスよりも早くシャワーを浴びさせられ、そうして今、彼はスタート台の上に立たされていた。
 汗が顎の先から滴り落ちる。
 一度洗い流した後にも吹き出して止まない汗は水中に没するまでもなく全身をずぶ濡れにしている。
 まったく、普通なら、こんな状態でプールに飛び込むなんてマナー違反も甚だしい。
 ……静かだ。
 それにしても静かであった。
 冷やかな白灯ライトの照らし出すプールは凪ぎ、広々としてプールサイドに打ちつけられる波の音もなく、レーンを分けるコースロープもひっそりと水面に浮かんでいる。
 ニトロは目に落ちかかる汗を指で拭い、ゴーグルをかけた。
 プール内にも、プールサイドにも、人一人いない。
 この後に行われる撮影のため、このスポーツジムは貸し切りにされているのだ。
 見慣れぬ天井が水に映りこんでいる。
 このジムは彼のいつも利用する場所ではなかった。だが、トレーニング内容に関してはいつも以上にハードであった。
「いつまで休んでいるんです」
 ニトロの背後で鬼が言う。
「ちゃっちゃと5往復。もう5秒も休んだら倍ですよ」
「マジで!?」
「あと3秒」
「うわあ!?」
 慌ててスタート台の縁に足の指をかけるや否や、ニトロは跳んだ。
『師匠』はマジである。そんなペナルティはごめんである。ニトロはこの地獄を早く終わらせたかった。元よりこの地獄はまた別のさらなる地獄に落ちぬがために自ら望んだことではあるが、それでも苦しみは短い方が幸いである。もちろん良い効果を増すハードトレーニングにならばいくらでも労を払おう。が、ただ単に苦を増すだけの罰金ならば支払いは断然拒否したい。
 そもそも今日のトレーニングは全てがおかしかった。
 水面へ向かって空を飛び、ニトロは思う。
 このハードにハードを重ねたハードトレーニングは、今日に限って言えば、半ばハラキリの不満から来ているのではなかろうか?
 原因は例のごとくティディアである。
 この後の撮影――それはつまり『ニトロ・ポルカト』のプロモーションビデオのため、ひいては『ティディア&ニトロ』のデビューに向けたキャンペーンのために行われるものだ。
 通常、ハラキリがそのような事を承認するはずはなかった。彼は目立つのが嫌いだし、それに最近は熱心にこちらを鍛えてくれている。『ティディア&ニトロ』の活動が本格化する前に弟子をもう少し“できる”ようにしておきたいのだろう、トレーニングの時間が削られることに対して面白くなさそうな素振りもよく見せるようになった。それは自分にとっては非常にありがたく、また同感なこと。何しろ今回の撮影プランときたらトレーニングとは名ばかりに実質デートである。王女と少年が戯れるように泳ぐシーンから始まり、談笑しながらエアロバイクを漕ぐ二人、合間に言い訳するようにストイックなマシントレーニングを一つ二つ挟んで、いちゃつくようなストレッチの後は庶民的なレストランで庶民的なディナーを楽しむ……
 ……それで未来の危機をどうして防げるものかッ!
 ハラキリがジムに先入りしてのトレーニングを提案してきた時、ニトロは一も二もなくそれに応じた。
 しかしそれにしたってここまでハードにしごかれるとは思ってもみなかった。
 撮影には『師匠』もコーチ役として参加する。驚愕である。おそらくよっぽどバカ姫にしつこく強請ようせいされたか、よっぽど大きな取引でも持ちかけられたのだろう。
 ――スタート台から着水するまでの間、ニトロの脳裏にはそれだけのことがよぎった。あるいは、それは走馬灯に近いものであったのかもしれない。
 着水する寸前、水面から水中へ切り込むように鋭く腕を伸ばし、ぐっと顎を引いた彼は見た。
 ほんの刹那の間に、確かに見た。
 穿いた時には確かに膝上まであった競泳水着のその裾が、ボロボロに溶け出していることを。
「!?」
 ニトロは仰天した。
 仰天のあまりバランスを崩し、派手に水面に体表を激突させた。
 ザ・腹打ち。
 束ねた革の鞭を大理石の床に打ちつけたような酷い音がした。
 だが、ニトロは痛みのために一斉蜂起しかけた神経を、それとはまた別の痛みで燃え上がった神経によって強引に征服し、と同時に彼は水上へ浮かび上がるや口と鼻から水を吹き出し怒号を上げた。
「ハラキリィッッ!」
 すると相手はしれっと言った。
「痛そうですね」
「痛いさ主に心が!」
 ニトロはさらに声を張り上げる。されど『師匠』は小首を傾げる。
「はて、何かありましたか?」
「はても何かもッ、一体どういうことだこの水着は!」
「水で溶ける水着です」
「概念がねじ曲がっとる!」
 拳を振り上げ水面を殴り、ほとばしった水飛沫に噛みつくようにニトロは怒鳴る。
「てかそうじゃなくて! 何でこんな水着が用意されていて、しかもそれを着させて、さらにあんなに急いで飛び込ませたのかってことを聞いてんだ!」
「ベタなネタですよねぇ」
「ベタでもやられる方はたまったもんじゃねえの!」
「そこまで言うなら全部解っているのでしょう?」
「だからこそ訊いている!」
「実に良い報酬でした」
 ニトロは言葉にならぬ叫びを上げた。彼を中心にして波紋が立った。その眼孔に焔が揺らめく。揺らめく焔の熱が、スタート台の後ろに立つハラキリに届く。
「つまり友達を売ったんだな!?」
「売ったつもりはありませんが」
「つもりがなくても実際売ってるだろうが! 俺はてっきり――」
 ニトロはそこで言葉に詰まった。歯噛み、息を吸い、別の言葉を叩きつける。
「ティディアの企みには違いねぇだろう!?」
「それ以上こちらには近づかないように」
 一歩を踏み出しかけていたニトロをハラキリが制した。しかしニトロに聞く耳はない。彼は水を圧して歩を進め、そして身を震わせて叫んだ。
「痛ぁ!?!」
 鳩尾の辺りに走ったのはまるで棘付きのキリで突き刺されたかのような激痛だった。反射的にバックステップを踏んだニトロは、しかし地上とは勝手が違い足を滑らせてしまった。ざぶりと頭まで沈みそうになるところをまた反射的に立ち上がり、目を白黒させる。
「え? 何だ今の!?」
「コースを外れないように」
 冷静な、いやニトロには冷徹に聞こえる声が、続ける。
「君のいるコース以外、また君が進んだだけの範囲を微小なクラゲ型生体機械ゴーレムが埋め尽くしています」
「じゃあ今のは……」
 王家ブランドのトレーニングウェアに身を包んだ『師匠』は腕を組み、
「毒はありません。今のは一匹にやられた程度のようですがね、しかし群の中に飛び込んだが最後、何百何千と一時いちどきに刺されれば」
 彼は肩をすくめた。
「例え全裸で無抵抗な君を前にしたお姫さんでも気絶は免れません」
 ごくりと、ニトロは息を飲んだ。その恐ろしい威力と共に、看過できぬ事態に。
「――全裸?」
 ハラキリはまたも肩をすくめた。
「裾から上に向かって溶けていき、TバックTフロントを経て丸出しに至る」
 ニトロは太腿を探った。溶解は進み、きわはそろそろ鼠径部に辿り着きそうである。
「大体3分ほどで全壊だそうです」
 そこで、パン! とハラキリは手を叩いた。びくりとニトロが肩を震わせる。
「急ぎなさい、ニトロ君。ゴールに新たな水着、普通の水着があります。じきに撮影隊もやって来ますよ?」
 ニトロの下っ腹がぞっと冷えた。
 それはつまり、死である。
 彼は身を翻して全力で泳ぎ出した。この忌々しい“水着”が消え去る前におよそ50mを泳ぎきらねばならない。その距離はそのまま我が余命である。初めはスパッツタイプだったのに、今やブーメランパンツとなっているこの“水着”――忌々しくとも頼らねばならぬこの命綱へもっと持ちこたえろと心で叱咤し、己は必死に水をかく、水を蹴る。息継ぎも最小限に、先のトレーニングの疲労も消え去らぬ心臓が爆発しそうになるのを魂で押さえ込む。
 急がねばならない。
 ゴールに辿り着いただけでは駄目だ。
 そう。
 彼は理解していた。
 察していた。
 認識し、既に認めていた。
 残り10m。
 ああ、心もとない。
 食い込みが激しくなっている!
 そして、
「ウェルカぁム! ニ・ト・ロー!」
 ゴール直前、彼の目指すその場所に、いずこから現れたのか絶世の美女がすっくと立ち現れた。実に晴れやかな笑顔であった。
「貴方の求める物はここにある!」
 更衣室にあるべきニトロの制服、そのワイシャツを着たティディアが両手を前に突き出した。両手の指に引っ掛けられて、そこには面積の少ない水着が――どうにか辛うじてブーメランに分類できるであろうパンツが広げられていた。全体はブラック。しかし股間に黄金の太陽が登り、生地に散らされたラメが絶えずキラキラと光を反射している。

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