知らぬ顔

(『ニトロとティディアの年の越し方』のちょっと前)

 ラウンジカフェの緩やかなBGMに携帯電話モバイルの振動音が混じる。ポケットから携帯を取り出したニトロが画面を見ると、撫子から音声オンリーで電話が入っていた。『師匠』を待ちながら飲んでいたスポーツジム運営のカフェが提供する運動前に良いドリンクをテーブルに置き、通話に応じる。と、手短な挨拶の後、撫子は早速告げてきた。
「本日ノトレーニングデスガ、ハラキリニ急用ガ入ッテ――」
 撫子が最後まで言う前にニトロは反射的に問い返していた。
「え、急用?」
「ハイ」
 穏やかな肯定を受け、ニトロは驚きを鎮めて撫子の次の言葉を待つ。撫子もニトロが聞く態度を固めたのを察して言う。
「ドウシテモ外セナイ用件デスノデ、ソチラニ伺ウコトガデキナクナリマシタ。誠ニ申シ訳ゴザイマセン」
 ニトロはうつむいた。昨日、そろそろ年の瀬ですから特別なトレーニングをしましょうとハラキリは楽しげに言っていた(意味不明な理由にはもちろんツッコミを入れた)。それなのに“ドタキャン”をするということは……
「それは、『大変』な事?」
 声を潜めて問うと、受話口からは柔らかな口調が返ってくる。
「ゴ心配感謝イタシマス。シカシゴ案ジナサレルヨウナ事デハアリマセン。――奥方様ノ御友人ヲ案内スルヨウ用命サレタノデス」
「ああ」
 ニトロは小さくうなった。撫子はそう言うが、それは実際『大変』なことだ。
「それじゃあ……しばらく出かけるのかな?」
「イエ、明日ニハ戻リマス」
 その答えに、ニトロは頬が引きつらないようにするのに精一杯だった。
(てことは、来てるのか)
 神技の民ドワーフが、現在、アデムメデスに。それも非公式、あるいは非合法に。
 友人の、場合によっては国際問題に発展してしまうその交友関係については既に何度も耳にしているし理解もしているつもりだが、それでもすぐ傍らの事情として触れると心がすぼまる。ニトロは動揺を抑えながら、訊ねてみた。
「なら、明日は収録に付き合ってもらえるのかな」
「ハイ。ソレハ間違イナク」
 そのテレビ収録は昼にある。異星人を『案内』しながらそれに間違いなく付き合えるというのなら、
(てことは、まさか王都に滞在するのか? 観光でもしていくつもりのか?)
 心の中に冷や汗をかきつつ――明日、王城では王、王妃、さらに第一王位継承者がセスカニアンとラミラスの駐アデムメデス大使も招いて晩餐会を行う(そしてその両星りょうこくは今夏に起きた神技の民ドワーフ呪物ナイトメアの関わる事件によって少々ギスギスしている)――ニトロは無理に笑った。通話先の相手には見えない笑みだが、それでも彼の心を少しでも落ち着かせる効用はある。その少しだけの落ち着きを頼りに思考を切り替えて、彼は言った。
「分かった。それで、今日のトレーニングについて何か言付けはある?」
「変更ニツイテハ既ニマドネル氏ニ伝エテアリマスノデ、彼ノ指示ニ従ウヨウニ、トノコトデス。マタ『怯えて居つけば死ぬだけですよ』ト」
「……ハラキリは、どんな変更をマドネルさんに伝えたの?」
「ドウゾ指示ニオ従イ下サイ」
 さらりと言ってのけられ、ニトロは苦笑した。
「うちの『師匠』はサディストだね」
「ハラキリガコレホド熱心ニ誰カヲ教エルヨウニナルトハ思ッテモミマセンデシタ」
 その言葉にニトロは、少し、何と言っていいか分からなくてまた苦笑した。
「そうだね、それじゃあ死なないように頑張ることにするよ。ハラキリにはまた明日と伝えておいてくれるかな」
「カシコマリマシタ。ソレデハ失礼イタシマス」
 通話が切れ、ニトロが携帯をしまう前に画面をふと一瞥すると、そこにはちょこんと正座をする撫子のデフォルメ肖像シェイプが残っていた。おそらく彼が画面を見るタイミングを見越して作られていたのであろうプログラムが、まさに的確に手をついて辞儀をする。頭を上げた小さな撫子は微笑むや楚々とフスマを閉めながら消えていき、その演出に彼は自然と微笑んでしまった。
「――さて」
 今度こそ携帯をしまい、ドリンクの残りを飲み干して、ニトロはフロントへ向かった。
 受け付けを済ませ、ジムのシステム上のパーソナルデータをアクティブにする。
 ロッカールームの前で靴をシューズボックスに入れ、ドアノブの上の指紋認証リーダーに指をかざす。すると清潔感のあるアイボリーのドアがすっとスライドした。
 目隠しとなっている衝立の横から内に入ると十人程の利用者がいて、間近にいた見覚えのない青年がニトロを見るや驚きの顔で胸を隠した。その一方で顔馴染みの中年男性がたるんだ腹を揺らして挨拶を寄越してくる。定型句のように腹がへこまないことを訴えてくる大食家グルマンに、ニトロは「この前お会いした時より引き締まりましたよ」とこれまた定型句の挨拶と笑顔を返しつつ、個人ロッカーの指紋認証リーダーに指を当てた。ロックの外れる音がする。
「今日はあの友達はいないのかい? ほら、ちょっと年上の、お腹の割れてる」
 腹をさすりながら中年男性が聞いてくる。新顔の青年が興味津々と言った様子で聞き耳を立てていて、他の数人の利用客は各々着替えたり、汗を流すためにシャワー室に向かったりしている。ニトロは問いの中にある誤解はそのままにしておいて、
「用事があって今日は来れないんです」
 スポーツバッグから有名すぎて一般化してしまったメーカーのトレーニングウェアを取り出し、エアロバイクで10km走ったことを自慢してくる顔馴染みに話を合わせながら着替えを済ませ、畳んだ服とハンガーに掛けたジャケットをロッカーに入れて、逆に取り出したフィットネスシューズを履く。さらにオープンフィンガーグローブとファールカップをバッグに移して、準備が完了した。
「頑張ってくれたまえ、若者よ」
「ええ、頑張ります。そちらもあまり食べ過ぎませんように」
「いやあ、運動の後のビールは格別なんだよ」
 がははと笑う顔馴染みに会釈し、ニトロは肩に掛けたスポーツバッグに携帯を押し込みながら各トレーニングエリアへの通路に出た。フロントで今日のプログラムは格闘技マーシャルアーツだけだと案内されている。格闘技用トレーニングルームへ向かう途中、褐色の肌に白い髪が印象的な女性と行き会った。鍛えこまれ引き締まった体に汗を流す彼女は彼に気づくと軽く片目をつむった。彼は親しみを込めて会釈を返し、また一つタイトルを獲ったテニスプレイヤーに笑顔を向ける。
「おめでとうございます」
「ありがとう。試合前に笑わせてもらったお陰よ」
「それは……」
 ふいに口に現れた苦虫を胃に落とし込み、ニトロはどうにか笑みを保った。
「お役に立てたのなら嬉しいです」
「またよろしくね。応援してるよ」
「ありがとうございます」
 短くそれだけ交わして、互いにすれ違う。
 人いきれとマシンの音に賑わうマシンジムへの入り口を通り過ぎ、そこからすぐ近くのドアから格闘技用トレーニングルームに入ると、急に、ニトロの耳を静寂が覆った。吊るされたサンドバッグは静止し、風を切る縄跳びとリズミカルな足音は消え、パンチングマシーンの反復する音もない。彼の他に利用者はいない。どうやら貸切となっているらしい。
 ただ一人、トレーニングルームの真ん中に胡坐をかいている男がいた。座る彼のシルエットは鎮座する岩のようだ。顔はうつむき、目は半ば閉じている。瞑想でもしているようである。
「やあ、おはようございます、ポルカトさん」
 トレーニーが入ってきたことを察し、男が顔を上げてにこやかに言った。ジムのスタッフは24時間いつでも“おはようございます”だ。
「お待ちしていました。ジジさんが本日来られないのは残念でしたが、しかし特別プログラムについてはしっかり承っていますので、この僧帽筋に乗ったつもりでお任せください」
 格闘技のトレーナー、ドルドンド・マドネルが立ち上がる。岩が大男に変わる。身長187cm・体重121kg・体脂肪率8%の巨漢。タンクトップとハーフパンツから抜き出る四肢は丸太のごとく、話題の僧帽筋から首にかけての盛り上がりは猛牛を思わせる。
「おはようございます、マドネルさん。今日もよろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げたニトロへマドネルが手を差し出してくる。いつものように握手をする。こうしてトレーナーと握手をする度に、ニトロはいつも手が握り潰されるのではないかという感触を得ていた。それは今日も変わらない。――が、
(?)
 ニトロは、なぜか、下腹の底に不可思議なほどの寒気を感じた。いつも通りの手が握り潰されそうな感触と共に、いつもとは違う、例えるなら今にも滑走し始めようというジェットコースターに乗っている時のようなあの寒気が下腹から背筋せすじへ、さらに握られた手へと走ってきた。
「ではまずは体を温めてください」
 解放された手を見ていたニトロに、マドネルはいつもようににこやかに、外見に比してずっとにこやかな声で言う。
「いつもの準備運動で構いません。その間に用意を済ませてしまいますから……芍薬さんは呼べますか?」
「え?」
 常にはないトレーナーからのリクエストに、ニトロは驚いた。
「ええ、多分、大丈夫です」
「それは良かった。
 ジジさんからの伝言ナンバーワン」
 と、マドネルは太い木の根のような指を一本立てて、
「『今日の復習はしっかりと』」
 ニトロの心が一気に引き締まった。
 マドネルの握手に感じた寒気、そしていつもと変わらないのにどこか違和感のあるトレーナー、そして『師匠』の伝言。ナンバーワン――その一つ目からして終わった後を持ち出してきている。
 芍薬は二つ返事でやってきた。これまたマドネルから指定されたアンドロイド、それもジムの医療用アンドロイドを操作して。
「一体、何ヲスルンダイ?」
 トレーニングルームに入ってきたアンドロイドは困惑の顔をしていた、いや、医療用アンドロイドは不安の表情を浮かべられないようにできている。しかしニトロには看護師のお手本のような柔和な顔の裏に、芍薬の眉の垂れた表情がありありと見えた。その両手にはジムのロゴの入った貸し出しのヘッドギアとボディプロテクターがある。
 ニトロは目を丸くした。
 ヘッドギアはスパーリング時によく使う。だが、ボディプロテクターは珍しい。しかもそれほど大仰な物は始めて用意された。フルフェイスタイプのヘッドギアと同じくさほど厚みはないが、現代スポーツ科学の粋を集めたプロテクター。見た目的にはノースリーブの、衝撃吸収プレートを連ねたスケイルアーマーといった様子である。

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