「ファールカップもつけてください。マウスピースもしっかりと。グローブはお好みでお着けください。芍薬さんが持ってきてくださったプロテクターは必須です」
マドネルを見ると、彼は分厚い
「一体、ハラキリはどんな指示を?」
準備運動で温まった体が、一気に冷えていくような気がする。『居つけば死ぬ』――撫子からの伝言を思い出す――死ぬ――し・ぬ。
「伝言ナンバーツー」
指が上がらないので大胸筋を二回ぴくつかせてマドネルは言う。
「『ちょっと本気で二対一からすっかり本気で一対一に変更です』」
ニトロの頬がひくつく。
すっかり本気?
元プロの
「ナンバースリー」
と、現役ボディビルダーは背中の筋肉を誇るダブルバイセプスのポーズを取り、肩越しに振り返り白い歯を見せて言う。
「『積める経験は積んでおきましょう。上には上がいるように、上には上があることも実感しておきましょう。危険なところで殺さないように、安全なところで殺しておきましょう』――ジジさんは哲学的なことを言いますね。私からは一言です。ポルカトさん、先に謝罪しておきます、私はポルカトさんを非道く苦しめるでしょう。胸のマッスルが痛みます。ですが最大の苦しみの先にこそ明日の大いなるマッスルがあるのです。おっと、一言が長くなってしまいました。では、よろしいですか? よろしければそれらをお着け下さい」
ニトロは……うなずいた。
やはり心配そうではあるが、芍薬は黙してマスターがプロテクターを着けるのを手伝う。
マシンジムに臨むガラス張りの壁が、マドネルの
緊張が
オープンフィンガーグローブを着けたニトロが最後にヘッドギアを被ろうとする直前、芍薬が囁くように言った。
「気ヲツケテネ」
ニトロはうなずき、トレーニングルーム中央に佇む巨漢の前に立った。――いつもより、彼が大きく見えた。
「ではルールを説明します。こちらはカテゴリー2・A。ポルカトさんは、0です」
「……」
その区分はハラキリが便宜上作ったものであり、カテゴリー2・Aは首への関節技、目突き、噛み付き、金的を禁止し、その他は何でもあり。倒れた相手の頭部への蹴りも踏みつけも有効だ。カテゴリー0は、無論、全ての制約がゼロである。
「よろしいですね?」
「はい」
ニトロは、うなずいた。その声の力強さにマドネルもにこやかにうなずいた。
常なるドルドンド・マドネルは、スパーリングでニトロをにこやかに追いつめる。にこにこと笑いながら容赦のない攻撃を以てトレーニーに地獄を見せる。
「では始めましょう」
にこやかな声が途切れ、そして、ニトロは息を飲んだ。
「!」
反射的に腕を上げ、それが構えとも防御ともつかない形を作る。
その時にはマドネルが猛牛の突進のごとく間合いを詰めていた。
ニトロの知らぬ顔が、そこにあった。
マドネルの左膝が上がったと思う。
それをニトロは視界の下辺に捉えたと思う。
だが、動けない。
マドネルの巨体が、
ごう、と。
嵐が通り過ぎる音が耳に聞こえた気がした。
――否。
それは、マドネルの足底が
その場に根を張った木のように居ついていたニトロの体が、刹那、吹き飛ばされる!
「主様!?」
芍薬の悲鳴が、ニトロにはたわんだ金属板の揺らぐ波形に聞こえた。
世界は回っていた。
天井と床とが何順か巡った後、彼は仰向けに倒れていた。
倒れている――と自覚した瞬間、彼は耐え切れず身を転じ、背を丸めて嘔吐した。吐き出そうとしたマウスピースがヘッドギアの顎を守る部分に引っかかり、それが堤防となって嘔吐物の一部が逆流しそうになる。
「主様!」
全速力で駆けつけてきた芍薬がヘッドギアを奪い取り、ニトロは窒息を免れた。そして、また嘔吐する。
「主様シッカリ!」
ニトロには、今度はその声はまともに聞こえた。が、応えることはできない。嘔吐し、歯を食いしばり、鳩尾に受けた衝撃のあまりに呼吸がままならず苦しみ悶える。脂汗が吹き出した。
視界の隅にマドネルの足が見えた。彼は、待っていた。
ニトロは懸命に苦悶と戦った。横隔膜を萎縮させる激しい鈍痛に抵抗するうちに、どうにか呼吸を取り戻していく。鳩尾に支配された意識を解放していくと、それにつれて酸味と胃酸の喉を焼く痛みが存在を増してくる。ペットボトルが差し出された。苦痛に血走った眼を向けると水を差し出す手の先にアンドロイドの柔和な顔があった。その柔和な顔の裏には、芍薬の厳しい顔が見えた。
何とか礼を言ってニトロはペットボトルを受け取り、がらがらとうがいをした。別のサポートアンドロイドが持ってきたバケツに吐き出し、まだ焼けるように酸っぱい口を腕で拭う。涙と鼻水と脂汗に汚れた顔を芍薬が拭ってくれた。汚れたマウスピースも洗ってくれていた。腹腔内に凝り固まる鈍痛を押し出すように背を逸らし、息を無理矢理整え、彼はマウスピースを口に入れた。反射的にえずくが吐き気を懸命に飲み込み、芍薬が拭き清めてくれたヘッドギアを被る。傍らではサポートアンドロイドが床を綺麗に拭き上げていた。
マスターをじっと見つめた後、芍薬は意を決したように引き下がった。
ニトロは、マドネルの真正面に立った。
――ただの前蹴り。それだけで、
(一度死んだな)
薄まってくれない苦悶を抱え、ニトロは戦慄する。
『怯えて居つけば死ぬだけですよ』
最初の伝言は予言であり、それは実現した。
(これだと『ちょっと本気の二対一』の方がずっと楽だったろうなあ)
そう思うと突然やってきたのであろう
(……よし)
ある程度落ち着いたところで、ニトロはマドネルを真っ直ぐ見つめ、一礼し、構えた。拳は震えていた。
「ポルカトさんは、勇敢だ」
一瞬、にこやかなマドネルが戻ってきた。
だが、次の瞬間、鬼のマドネルの拳がニトロに襲い掛かっていた。
遠間からのあからさまな右フック。
ニトロは今度こそしっかりガードした。が、そのガードは無意味だった。
「!」
凄まじい威力に体が傾ぐ。腕とヘッドギアを挟んでなお衝撃が頭部に伝わってくる。マドネルのグローブが練習用でなければ腕は折れ曲がっていただろう。
体勢を崩したニトロは、ああ、蹴り殺されるな――と思った。
そしてそう思った瞬間、何が見えていたわけではない、彼はただ蹴り殺されることへの恐怖をそのまま力に変えた。恐怖のみに引かれることで思考を止め、一方、体はこれまでのあらゆる練習で染み込ませてきた動作に従わせる。彼は自動的に、意図的に、尻餅をついた。頭上を何か太い物が通り過ぎる。もし立ち止まったままであればハイキックによって首をへし折られていたかもしれない。
(――ぅわ!)
一瞬遅れて事態を理解したニトロは振り上げられたマドネルの足から即座に離れた。
ズドン、と、121kgの体重を乗せた足が床を揺らした。
ニトロは一つ理解した。
マドネルは、これでもまだ手加減をしている。それは多分、追撃を一度で止めて立ち上がる隙を与えてくれたことだけでなく、動きを見えやすくしてくれているのもそうだ。今の踏みつけのように。――きっと、さっきの前蹴りまでも。
しかしそれが解ったからといって何になるだろう?
ゆらゆらと揺れるように構えるマドネルから感じるプレッシャーは変わらない、いや、むしろ増大している。対峙しているだけで怖い。また痛い思いをするかと思えば不安が喉をついて吐き気を催す。
それでもニトロは、息を吸った。
考えても仕方がない。
考える余裕もない。
考えずに体が覚えた動きに身を任せた方が良いこともつい今しがた確認された。
その中で、今、考えるべきはこの特別プログラムに全身全霊を懸けて挑戦することだけ。
これで何が得られるかは解らない。
しかし『師匠』は無意味なことはしない。
生き残れば芽吹く種も花咲く蕾もきっとこの身に宿ることだろう。
恐怖を飲み込み、不安を振り切り、恐ろしい巌へと思い切り踏み込む。自ら仕掛ける!
「ッシ!」
ただの、全力の、内腿へのローキック。
あわよくば入射角を変えて金的を狙う左足。
だが、渾身の蹴りも鉄製のゴムマリとでも言うべき大内転筋に軽く弾かれてしまった。
マドネルの反撃のコンビネーションは鋭く重い。最後のローキックは技術を駆使し威力を最大限削いでなお大腿四頭筋が
およそ未だ知らぬ苦痛の中、ニトロは見た。
マドネルの見知らぬ鬼の顔に深い情けを。
そして繰り出されたレバーブローに、地獄を。