予報通り、王都ジスカルラには夕刻から雨が降り出した。昨日の猛暑は影も残さず既に去り、今となっては肌寒いくらいの涼気が地表を覆っている。
 しかし、ニトロが昼から居座る地下室には雨音はなく、涼気も機械の力で快適に整えられていた。
 この室はヨジョーハンと言ったか、チャシツと言ったか、どちらだったか忘れたが、とにかく簡素で狭い部屋だ。ゴザなる草で編まれた布――セスカニアンこく絹竹織ウェヌシルフで代用してあるが――の敷き詰められた部屋の一角にはトコヤとかいう壁の凹んだ箇所があり、そこには一幅の絵が架かっている。モノクロの前衛的な風景画であった。前衛的過ぎて意味が解らず、特に説明もなかったのでそのままうっちゃっている。そこで持参したスウェットに身を包み、チャブダイの前の四角く薄いクッションにどっかと腰を下ろしたニトロは、先ほどハラキリが淹れていったグリーンティーを飲みながら、ひたすら宙映画面エア・モニターに映るニュース番組を注視していた。
 今まで見ていた番組が流行のスイーツ特集を始めたところで、即座にチャンネルを変える。
 すると画面にロディアーナ宮殿を背景にして立つ女性リポーターが現れた。
 彼女の言葉によると副王都セドカルラでは雲間から月が覗いているらしい。
 実際にカメラがその青い輝きを一時いっとき見つめる。
 次にリポーターとスタジオの間で交わされる会話と共に、南大陸で行われたアデムメデス国教の叙任式から昼過ぎに戻ってきた王・王妃夫妻がロディアーナ宮殿にてミリュウ姫の出迎えを受ける様子が紹介され、ややあって、中央大陸北東部に位置するグイネヴァ領領都から急ぎ帰ってきた第一王位継承者がロディアーナ宮殿に入っていく様子が続けて映し出された。
 ファンサービスのように角度をつけた飛行車スカイカーの中から群集に手を振って見せる王女は、グイネヴァ領領主の娘の結婚式から着替える間もなく真っ直ぐ駆けつけてきたらしい。その姿は、そのまま姉が弟をどれだけ大切に思っているかを示している。――と、レポーターがそう語っているのを、彼は固い眼差しで見つめていた。
「……ヴィタさんが、どこにもいない」
 話題が振れたのを幸いに、レポーターから主役の座を取り戻したキャスターがグイネヴァ領で行われた結婚式の模様を伝え出している。領主の娘と二十一歳年齢の離れた一般男性との結婚は諸々の事情により話題を集めており、そこにさらに話題を集める第一王位継承者が主賓としてやってきたものだから、式はほとんど領都を上げての一大セレモニーとして執り行われていた。まさにお祭騒ぎである。諸々の事情を抱えた新郎新婦は楽しげで、それを見守る眼差しも千差万別バラエティに富んでいる。――しかし、そういった“見もの”を好む麗人がどこにもいない。画面を見つめるニトロの目は、さらに厳しさを増していく。
「そんなに警戒することはないと思いますよ」
「昨日の今日だから警戒せずにはいられないさ」
 番組が芸能情報ゴシップへ移ったところで宙映画面エア・モニターを消し、ニトロは横手から声をかけてきた友へと振り返る。すると台所から戻ってきたハラキリは肩をすくめ、
「気持ちは解りますが、無闇にストレスを高めるのは心身に良くありません。リラックスできる時はそうしてください」
「それでもなあ」
「でないと、またノイローゼと仮契約の握手をすることになりますよ?」
「ぅ」
 痛いところを突かれて渋面を刻むニトロへ小さな笑みを見せ、ハラキリは運んできた大盆をチャブダイの上に置いた。中ぶりの陶器製の鍋と白い食材の載る皿、それと小皿やスティックスが盆から下ろされる。ハラキリの後についてきていた二体の小さなアンドロイドの片方がチャブダイの上にポータブルクッキングヒーターを置き、もう片方が御櫃チェスツをチャブダイの足元に置いて、揃ってぺこりと頭を下げて去っていく。引き戸が閉められて、それだけで静かな室がまた一段静かになる。
「ヴィタさんの動きがないのは確かに気になりますが、しかし警戒すべきものとまでは思いません」
 クッキングヒーターの上に鍋を置き、ハラキリが言った。
「その心は?」
 ニトロが問う。ハラキリはヒーターのスイッチを入れながら、
「合理的に考えて」
「合理的?」
「拙者も昨日はしてやられましたから偉そうなことを言えませんけどね? ですがこの時間になっても『別働隊』の気配もない。そして今から『別働隊』が動いたところで君を弟様の誕生日会に間に合うよう宮殿に連れて行く時間はありません。なぜなら副王都までの距離以上に、君をここから地上へ引き出すまでに――それもを焦土と化す覚悟があればの話ですが――時間がかかりますからね」
 ハラキリが手を振ると、消えていた宙映画面がもう一度現れ、そこに正座して微動だにしないアンドロイドが二体浮かび上がる。どちらも白装束であり、袖をタスキで留め、片手には三日月形の刃をした槍斧ハルバードを持って玄関の戸をじっと見つめている。どちらもジジ家で『イチマツ』と呼ばれるアンドロイドであるが、片方は絹のような黒髪をストレートに落とし、片方はポニーテールにしてあった。
 それを確認させた後、ハラキリはひらりと片手を振って宙映画面を消し、
「もちろん、おひいさんのことです。弟様の誕生日会とは別にホッとしたところを狙って君をさらいに来るかもしれませんから、依頼を受けた期間中『ジジ家』は警戒を決して緩めません。だから君は大船に乗ったつもりで気楽にしていただけると、君としてはストレスの悪影響を受けずにいられますし、こちらとしては自尊心を満足させることができるわけです」
 その物言いに、ニトロは小さく吹き出した。張り詰めていた肩もストンと落ちる。ハラキリは微笑み、
「さて、食事にしましょうか」
 ニトロは友人の手元に和らいだ目を落とし、ふと眉根をひそめた。
「もしかして、地球ちたま日本にちほんの?」
「ユドーフと言います」
「……」
「ああ、大丈夫ですよ。前の『カボチャ料理』みたいな実験的なものではありません。ずっと前からの母の気に入りですので、ご安心を」
「いや、なんていうか……けどあのカボチャは悪くなかったよ?」
「しかしおひいさんのパンプキンスープとパイに全部持っていかれましたからねえ」
「……。
 で。
 自信があるみたいだから安心しておくけどさ」
 と、ニトロは食材の載った大皿に目をやり、
「今のところ目につくのは豆腐ビーンチーズだけだけど……それも、大豆の?」
「当たりです」
「当たった」
 嬉しそうに笑うニトロへ感心したような一瞥を送ったハラキリは、客と同じく食材に目をやり、
「トウトウ豆、白カラス豆、大豆――と三大豆腐ビーンチーズで試した結果、大豆、それも柔らかく作られたものが最適でした。そしてユドーフは基本的に、この豆腐を鍋で温めるだけの料理です」
「え、それだけ?」
おもしろいでしょう?」
 と、ハラキリは口角を引き上げる。ニトロはうなずきつつも、ふと不安が首をもたげた様子で、
「でも、美味しいのか? いや、豆腐が不味いってんじゃなくてさ、それだけだと淡白すぎない?」
 アデムメデスでは、豆腐は他の食材と共に調理するのがもっぱらだ。ベジタリアンが肉の代わりにステーキや串焼きにするとは聞くが、逆に言うとそれ以外に単独で食べることは少ない。
 ハラキリはニトロの反応を楽しんでいるように口元に笑みを浮かべ、
「それがなかなか乙なんです。母は、特に冬、これで燗にした米酒ライスリカーをきゅっとやるのが好きでしてね」
「ハラキリも?」
「『ドラゴロ』というのがいですよ」
 ニトロは苦笑した。これは完璧に、飲み慣れている。
「本当に同い年か?」
「ひとまず」
「ひとまず、ね」
「ええ、で、ひとまず、こちらを」
「?」



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