グッドナイトサマー・フェスティバル

(第二部『幕間話3』と『幕間話4』の間)

 アデムメデス中央大陸東部、君主の住まう王都ジスカルラは四季を通じて過ごしやすい。――が、それでも気象は酷な気まぐれを起こすことがあるもので、王都はこの年、実に半世紀ぶりに気温35度を記録した。
 慎ましやかに身内のみで祝われると言われているのに広く世の話題を集める末の王子の誕生日を翌日に控えた、八月の終わりであった。
 例年であれば既に秋が踏み込んで来ている頃合いに、半ば去りかけていた夏が急に踵を返して真っ赤な顔で戻ってきたのである。
 昨日の雨をもたらした前線がどうとか、いつも王都を快適に保つ西風が鈍くてどうとか、王座洋スロウンに発達した高気圧がどうとか、テレビ各局の気象予報士達は昨夜からそれぞれの話術を駆使して視聴者達の興味を引こうとしているが、実際、ニトロにはそんなことはどうでもよかった。前線とか風とか高気圧とか、そんなことよりも重要なことはただひたすらに、この実感――
(暑いなぁ)
 息を止めた西空に傾いてなお太陽は張り切って、夕映え近づくこの時刻が普段よりも明るく感じるのは気のせいだろうか。風もなく雲も動かぬ空の下にはねっとりとした湿気がじっと居座っている。熱吸収も輻射熱も少ない素材が使われているはずの路面からも、くぐもった熱気が吹き上げてくるような気がしてならない。
(風が出てくれるといいんだけど)
 目深に被ったスポーツキャップの陰からそろそろと空を見上げると、遠くにそびえる入道雲は徐々に縁取りを朱に染め出しながら、まさに天に浮かぶ雪山の如き威容を誇る。ニトロの足元に濃い影を落とす街路樹の葉は、彼の進む方向とは逆に走り去った大型トラックの起こした風によってのみ怠惰に揺れる。しかしその風も、風というよりは熱気をかき混ぜただけの有様で、それをまともに食らった道行く人はむしろ不快感を掻き立てられて眉間に陰を刻んだ。
 ニトロはうなだれて道を行く。その足は棒のようだった。彼の前を進みながら時折呻き声を上げる中太りのサラリーマンの、シャツだけでなくインナーまで汗まみれの背中を追って、彼は足をぎこちなく動かしながらひたすら進む。サラリーマンの前にはうんざりとした顔の子どもを抱きかかえて重い足を進める母親がいる。その前には恋人と手をつなぎながらも言葉をなくした男女が黙々とまた前方の人間に続き、ニトロの後方にも幾人もの人々が、さながら苦役の列をなして歩いている。この中で、どうやらサラリーマンだけが行方を違えているらしい。その他はニトロも含めて全員が同じ目的地を目指していた。
(……ここでこんなんじゃあ、先が思いやられるな)
 一歩ごとに顔の一部を引き攣らせながらニトロは小さく息をつく。
 足を動かす度に大腿四頭筋が、ヒラメ筋が、痛む。
 腕を振る度に上腕二頭筋が、三頭筋が、大胸筋までが痛む。
 体を捻ろうものならもう色んなところが痛んで錆びついたバネのようにギシリと固まってしまう。
 つまり、ニトロは全身これ筋肉痛であった。
 これは全身、くまなく強度に、しかも上限一杯に痛めつけられての賜り物であった。
 ニトロは一歩一歩を踏みしめる。柔軟性を失った肉が各関節の邪魔をして、足を踏み出すごとに脚と胴体を貫く心棒がつっかえたかのように体がカクカクと揺らぐ。タオル地のハンカチをデニムの尻ポケットから取り出して汗を拭く、それだけでもなかなかに苦行である。
 彼は道の脇に退き、足を止めた。
 小さな娘の手を引いた父親が横を通り過ぎていく。次に現れた女性の髪の色には少々ぎょっとさせられたが、ニトロは、内心吐息をつきながら、ポケットから携帯電話モバイルをぎこちない動きで取り出した。
「……」
 王家広報のWebサイトにアクセスし、何度も確かめたことを今一度確認して、今度は胸を小さく動かして息をつく。
 本日の第一王位継承者のスケジュールは、やはり朝から晩までぎっちりだ。急遽変更されたこともなく、無論、変更された場合には即座に連絡してくる芍薬からのコールに気がつかずにいたなんてこともない。
 ――この筋肉痛は、そのためにこそ作られたのだ。
 これまでもジムのトレーニングにおいて筋肉痛になったことは度々あるし、筋力を上げるためには必ずしも筋肉痛になることが必要ではないにしても、むしろ軽度の筋肉痛がないと何となく寂しくなる程度には付き合いを深めている。
 しかし、今回は違う。これまでのものとは話も内容も全く違う。
 昨日は一日かけてじっくりと、じっくりと追い込まれた。
 誰に?
 ハラキリにである。
 彼の指示で、昨日はトレーニングメニューを変更して、ニトロの肉体は許容限界一杯にいじめ抜かれたのだ。
――「ニトロ君がトレーニングを始めてから三ヶ月。明日は何の用事もないことですから、ここらでどこまでできるようになったかの確認も兼ねてドンとイってみましょう」
 と、そう言った親友の背後には、勤勉なトレーニーを思う存分可愛がりたいトレーナー達の明るすぎる笑顔が並んでいた。
 地獄だった。
 そして、今朝起きた時、ニトロは体のあまりの重さに驚き、筋肉痛の酷さに通り過ぎたはずの地獄が形を変えて戻ってきたことを文字通り痛感したものだ。トレーニングの後にはもちろん十分なケアをしておいたし、朝には筋肉痛を和らげる薬を飲んでもまだこれだから、もしそれらの助けを借りていなかったらと思うとゾッとしてしまう。今日ほどニトロが進歩した現代スポーツ科学の恩恵をこれほど実感し感謝したことはなかった。
(――それにしても)
 携帯をポケットにしまい――腕の痛みで一瞬おかしなポーズで固まってしまったのをすれ違った赤毛の女性に横目で注目されてしまった。それで人目を避けるように道の端を歩き出しながら、ニトロは思った。
(本当、ハラキリは付き合いが良くなったな)
 そう思うようになったのは、つい最近のこと。
 まず、ハラキリは、トレーニングに関しての面倒見が格段に良くなった。あの『映画』のPR活動のために銀河へ旅立つ前は放任主義であり、ふいに抜き打ちチェックに来ることはあっても日を空けずに連続しては様子を見に来なかったし、調子を聞こうともしなかったし、彼自身が親身なトレーナーになることもなかった。なのに、帰星後はもう何回もジムに付き合ってくれている。昨日のハードトレーニングも三日連続一緒に汗を流して後のことだった。
 トレーニングだけではない。
 ハラキリは、つまらない“ダベり”にも付き合ってくれるようになった。もちろん以前にも世間話や無駄話はしていたし、その頃から比べて心理的な距離感が縮まったという気がするわけでもないのだが、何と言えば良いのだろう……そう、質が変わった気がする。距離自体は全く変わらずとも、今はそれが『友達』として自然な距離感となった気がするのだ。
 そこで昨日、ニトロは言ってみた。
――「ノデラの『グッドナイトサマー・フェスティバル』に行かないか? ハラキリの周りも落ち着いたことだし」
 ハラキリ・ジジはこの夏、PR活動しごとの帰路で巻き込まれた神技の民ドワーフ呪物ナイトメアに関わる事件によって一時非常に耳目を集める人間となっていた。特に帰星直後の身辺は非常に騒がしかったものだが、しかし、その事件は非常な重大事であったにも関わらず、アデムメデス人『ハラキリ・ジジ』の果たした役割はあくまでその事件を解決する助手に過ぎなかったために、やがて主役であるセスカニアン人クルー(それも大貴族の子息だという)の派手な武勇伝が星の向こうから伝えられてくる度に彼の名は次第に陰に隠れてゆき、加えて止むことのない星内星外のスキャンダルやゴシップの洪水が『ハラキリ・ジジ』というニュースバリューをようやく泥炭の底に沈めていった。
 とはいえ、そういう事情を背景にしてはいても、ニトロの誘いは、もちろん夏の間気楽に外出することの難しかった友人への同情などではなかった。それは純粋に、他のクラスメートへかける誘いと同じ類のものだった。――少なくともニトロはそう思っていた。だから正直に言うと、ニトロはハラキリの答えに大した期待を持っていなかったのである。厄介なクレイジー・プリンセスやマスメディアを相手にしても気兼ねなく迷惑をかけられる唯一の友人はハラキリしかいないから、という理由を匂わせれば親友は仕方ないとばかりに首肯してくれることが解っていたからこそ……
 しかし、ハラキリは、さらりとうなずいた。
――「いいですよ。あそこには『ミートパーティー』がありますし、たんぱく質を摂取するのもトレーニングの内ですから」
――「いや、そういう意味じゃなくてね?」
 ハラキリの快諾に驚きながらも言ったニトロに、ハラキリは片眉を跳ね上げて、その仕草で冗談交じりに話をまとめてしまった。その後、ニトロは妙に笑ってしまって、それが疲れすぎて力の入らぬ体に本当に心地良く染み渡ったものだ。
 待ち合わせの時間は18:00頃とだけ決めておいた。『ハラキリ・ジジ』は舞台袖に身を潜めても『ニトロ・ポルカト』は表舞台で耳目を集め続けているから、不測の事態も考えて今回は現地集合とした。
 そよと風が吹いた。
 ニトロは顔を上げた。
 目前に迫ったノデラ公園に茂る潅木がさわと揺らいだ。
 たったそれだけのことで、ニトロと行方を共にする苦役の列の雰囲気が和らいだ。
 公園からは名残のセミの声と唱和して、賑やかな音が聞こえてくる。
 高校生であろう男女が数組――ひょっとしたら同じ学校の者かもしれない――息を吹き返したようにはしゃぎながら、うつむいたニトロの横を通り過ぎていく。目的地も近くなり、歩を早める人々から遅れ出したニトロは毛先を金に染めた髪から首に落ちようとする汗を拭き、公園口に近づいたところでまた足を止めた。
(早く着き過ぎちゃったな)
 この体の痛みと相談して家を出てきたのだが、先ほど携帯を見た時点で待ち合わせまで30分も余裕があった。
「……」
 まあ、いい。
 先に会場に行って様子を見ておこう。露店に目星をつけておいて、広場には噴水があるからそこで涼んで待つのもいいだろう。即席のステージではショーも行われているし、それでなくても人の雑踏を眺めていれば飽きることはない。
 ニトロは携帯を取り出し、芍薬に公園に到着したことをメールしてから、鶏頭の花に飾られた入り口から『グッドナイトサマー・フェスティバル』へ向かって歩を進めていった。

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