ノデラ公園は、ニトロとハラキリの通う高校から地下鉄で三駅離れた場所にある。規模としてはやや中規模の公園で、大昔はここにノッンロディラという名を与えられた伯爵の大邸宅があった。その貴族が世継ぎもなく、養子も取らずに途絶えた時、どういう経緯があったのかは不明だが敷地の一部が公園として市民に提供されることになったのである。噂によると最後の当主が庭園の噴水を偏愛し、死後もこの噴水だけは形を変えずに遺したいと執念を貫いたらしい。その噂がまた噂を呼んで、実はその噴水には何らかの秘密があると当時の人に語られたものだ――よくあることで主に財宝の秘密が隠されている、と。
 確かに、当主の死後に噴水の地下に秘密の室があることが判明した。とはいえそこはまた地下の池、ミニチュア鍾乳洞とでも言うべきものがあるだけだったにも関わらず、それがまた噂に妙な信憑性を与えたことで、ノデラ公園噴水広場の財宝伝説は未だに人の口に語られている。ノッンロディラの名が発音の難しさから『ノデラ』と変わってしまったように、否定されて久しい伝説も、噴水を支える彫像達のどこかに地図が埋め込まれているとか、その襤衣らんいを纏って踊り回る男女のポーズそのものにヒントがあるのだとか次々に形を変えながら。もう一つの伝説――これもよくあることだが、噴水を愛するあまりに今も当主が時折亡霊となって人気のない夜中に池の辺に立っているとか、財宝を守るために噴水に人が近寄らぬよう脅かすために現れるのだとか、そういう話と一緒になって。
 ニトロは、その噴水の前に立っていた。
 池の中央で、今にも本当に踊り出しそうな石造りの男女の熱気に押し上げられるように水が絶え間なく吹き上がり、絶え間なく弧を描いて落ちている。飛沫は沈みかけた太陽の光を受けてきらめいて、それを精巧な彫像達の立つ円盆の縁からも溢れ出す水の幕が受け止めて、すると水の粒などなかったかのように痕跡は即座に消え去りながら、しかし絶え間なくまた空にきらめきが生まれ、またしかし瞬時に消え去り、そうして巡り続ける水を眺めているとつい時間を忘れかけてしまう。
 ところが現在はフェスティバルの真っ最中である。
 噴水の西方には屋根付きのステージが設けられ、そこで素人趣味のカルテットが陽気な音楽を奏でている。露店は噴水を中心とした同心円状の四本のラインに沿って大広場一杯に並んでいて、飲食物を提供する店や、フェスティバルならではの玩具屋、それから古着や手作り石鹸、はたまた場所柄に合わせてお化けや怪物、魔法使いの仮装セットといったホビーグッズを扱うフリーマーケットの店がそれぞれの売り場で客を引き寄せようと魅力を振りまいている。
 そこで最も盛り上がっているのが、北方の一画だった。
 そこには共通のテーマを持つ店が軒を連ねている。
 そのテーマとは、肉を扱っていること。
 通称『ミートパーティー』と呼ばれるその一画では肉こそ正義であり、夏と夏の疲れに別れを告げるために肉を食い、秋の収穫物と秋から冬にかけての寒さを迎えるために肉を食い、夏痩せしたのなら太るために肉を食い、夏太りしたのなら痩せるために肉を食う。酒を勧める者は罪人である、酒を入れる隙間があるなら肉を詰め込め。野菜を勧める者は悪人である、草の汁より肉の汁で喉を潤せ! 何、ノデラの財宝が欲しい? ならば肉を食え。何、ノデラの亡霊が怖い? ならば肉を食え!
 財宝伝説も亡霊談も水の循環への忘我も何もかもが、ここにいる限り肉の焼ける強烈な匂いによって覚醒させられる。
讃えよ、肉をウィーモ・ロ・ミーモ!」
 どこかで合唱が起こった。このフェスティバルを始めた者の出身地の古語での、このフェスタの合言葉のようなものだった。
(肉、凄いな)
 ニトロは思わず苦笑していた。
 フェスティバルの人出は、最盛にはまだまだ届かない。やはり夕闇迫り、噴水の涼気を傍にしても汗の止まらぬこの暑さが集客を妨げているのだ。それなのに『ミートパーティー』の周辺だけは既に出来上がっている。反面、その分他の場所の寂しさが弥増いやましている。ステージ付近と噴水周りの広場はともかく、北と東・南の格差にはすさまじいものがあった。
 ニトロは人の少ない南側で、噴水を背にし、水を湛える池の縁にそろそろと腰を下ろした。露店で買ってきたゴノバというハーブ飲料の瓶に口をつける。冷たくて、ほのりとした甘みと苦みが喉を弾けながら滑り落ちていき、弾けた泡に閉じ込められていた数種のボタニカルの香りが鼻腔をくすぐって、食欲増進の薬効を持つハーブのエキスが炭酸と共に胃を刺激する。
(ハラキリの奴、まさか食前酒を買ってきたりしないだろうな)
 彼なら堂々とやりかねないと思いながら、友を待つ。
「……」
 ――思えばこの夏休み、こうして友達と夏らしいイベントを純粋に楽しむのは、今日だけだ。
 ティディアとのあれこれでクラスメートは遠慮して誘いをかけてこず、こちらもあのバカとのあれこれでクラスメートを誘うには気が引けて、お陰でトレーニング以外では暇を持て余すばかり。一度は『グループデート』の誘いもあったが、それもウェジィで奴に鉢合わせてぽしゃってしまった。それからハラキリが帰ってきて、ハラキリが持って返ってきた騒動は一方では『映画』の良い宣伝にもなってしまって、そのせいであれは未だに上映ランキングの上位を走って大ヒット継続中。そうこうしている内に、おそらく、己の運命を決める日が間近となってきた。来月は――そう、来月こそは……
 いや。
 今はそれを考えまい。
 今夜はこのお祭りを存分に楽しもう。
「……」
 ニトロの前を、小さな息子に手を引かれて若い両親が笑いながら過ぎていく。子はフラッペを食べたがっていた。親の手にはそれぞれ肉の連なる串がある。前を見ていない息子が初老の男性にぶつかりそうになって、父親が謝り、母親が叱りつける。
 目の先にある露店ではフレッシュフルーツや野菜を使ったジュース屋が列を作っていた。『ミートパーティー』内では肉こそ正義でも、そこから一歩出れば正義は変わる。ジュース屋の掲げる板晶画面ボードスクリーンには健康を謳ったメニューが列記され、肉食後の胃腸に優しい、脂肪の吸収を和らげる――といった文句が特に強調されていた。これを飲んだからまた食べても太らないよね、と言い合いながら、女性のグループが敢然と肉煙の中へ戻っていく。
「……」
 ゴノバを飲み終えたニトロは膝に手を当て、うっかり倒れて池に落ちないよう慎重に立ち上がった。近場のダストボックスに瓶を捨てる。楽の音が止んだ。ステージへ振り返ると、秋めいた美しい夕焼けを背景に、今まで演奏していたカルテットが汗だくの笑顔で舞台袖へ下がっていっていた。
 まだ日の光があるとはいえ周囲は次第に暗くなりつつあり、露店の明かりははや煌々と輝き、ステージのスポットライトも三分の一が灯っている。完全に暗くなれば噴水の底の照明にも火が点けられて、亡き伯爵の形見を照らし上げることだろう。
 ニトロは携帯を取り出し、ステージにカメラを向けてアプリケーションを動かした。すると画面に演目情報が表示される。次はミシェル・ビップという女性による一人芝居、怪談物を行うようだ。この場に最適だと思うし、この暑さにもちょうどいい題目だろう。それにハラキリが来るまでの暇潰しにもちょうど良さそうだ、と、ニトロが携帯から目を外そうとした――その時、
「?」
 突然、画面の上部にアイコンが現れた。それはあらゆる通信が不可となった事を知らせる印だった。
「!?」
 それとほぼ同時に、携帯の向こうに、何かの影が落ちてきた。
 パンフォーカスのカメラのピントが合わぬほど近く、目深にスポーツキャップを被っていたニトロにとっては死角から現れた、否、この場にいる全ての者が注意を向けるはずもない場所から落ちてきた、その大きな影――
「!!?」
 それが何かをニトロが悟った瞬間、悟ったが故に彼は酷い混乱に陥った。
 その混乱は一瞬のことであったが、致命的だった。
 体も動かない。
 元よりの筋肉痛が動きを制限するところに、思考の停止がそのまま彼の神経を麻痺させ、彼は彼の友に厳に戒められている『その場での居付き』を犯してしまっていた。
 だが、それも無理はないだろう。
 なにしろここは公園の広場である。天井はない。それなのに、その女は成層圏まで何も遮るもののない上空から逆さまに降りてきて、しかも彼の前にぴたりと制止してみせたのだから!
 思わず手が滑って携帯を落としたニトロの肉眼に、よりはっきりとそれの姿が映る。
 それは黒紫の髪を地へ垂らし、息を飲むほど妖しい美貌を彫像のように固めて、ただじっとニトロを見つめていた。キャップのツバがちょうど女の首から上を隠して、彼の目にはほんの鼻先に逆さまの女の生首が浮いているように見える。
 周囲には大きなざわめきが起こっていた。
 ニトロは、それが初めは歓声なのだと誤解した。ふいに、この場に、招かれざるも歓迎すべき貴婦人が現れたことに皆が声を上げたのだと。
 しかし、それは歓声ではなかった。
 悲鳴だった。
 ニトロの視界の隅に、何か地を這う足の多いモノの影が見えた。それらは地下から次から次へと湧き出してきているらしい。その一匹が足元にもいたことに気がつき、その拍子に我知らずけ反っていた彼はバランスを崩して一歩、二歩と後退した。すると視界が大きく開け、彼は眼前にぶら下がるその異形の全てを知った。
 その女は、上半身だけが人間だった。下半身は蜘蛛であり、身の毛のよだつ毛むくじゃらの八本の足が胴に畳まれ、はちきれんばかりに膨らんだ黒い腹の先からは嫌に真っ白な糸が天へと伸びている。女の上半身はその美しい乳房を揉み潰す手にも似た毛皮の他に一糸纏わず、扇情的な陰影を生む腹のラインはヘソのくぼみで一段と濃くなり、もう一度白く映えて下腹部はそのまま蜘蛛の胴に飲み込まれている。
 周囲の悲鳴が一段と音を増す。もはや助けを請う声もある。
 はあ、と、女が息を漏らした。
 それまで腰に当てられていた両腕を頭の下にだらりと垂らし、艶かしく身をよじり、そして眼前の少年へ妖しく微笑む。
「ティ――」
 ティディア、と、叫ぼうとしたニトロの口は、次の瞬間、思わぬ光景に息を飲んでしまった。それが不本意にも見知り過ぎ、また見間違えるはずもない顔だったからこそ、彼は激しく意表を突かれてしまった。その女の明るい額に二つ、その両のコメカミと頬にも一対ずつ、計六つの赤い目が、突然ぎょろりと穴を穿ったのである。確固とした見覚えのある容貌に刻まれたが故の強烈な異形!――蜘蛛の複眼。それをニトロが理解するより先に本能的な恐怖が彼を支配し、背筋を凍りつかせる怖気が喉まで湧き上がっていた激情をも制し、それがまた彼の反応を遅らせてしまった。
 目の端に、群をなす小蜘蛛――と言ってもそれは小型犬ほどある――に襲われた女性が足を糸で絡め取られているのが見える。そして眼前では巨大な蜘蛛女の八本の足が獲物を掴み取るために広げられていく様が、スローモーションのように目に映る。
「――ティディア!」
 ようやく、ニトロは叫んだ。
 スポーツキャップが吹き飛ばされる。
 直後、彼は闇に包まれた。

→グッドナイトサマー・フェスティバル-3へ
←グッドナイトサマー・フェスティバル-1へ
メニューへ