ノデラ公園噴水広場のグッドナイトサマー・フェスティバル会場は、戦慄と、恐怖と、そして怖気を掻き立てる嫌悪と混乱に襲われた後、やがて恐ろしいほどの静寂に覆われた。
唐突に広場の明かりが全て消え、いつの間にか噴水も止まっている。
人々を監視するようにそこかしこに蠢く小蜘蛛の尖った足先が広場の石畳をコツコツと掻く音と、火にかけられたままの肉が焼ける音とが、やけに調和した不協和音で黙する者達の耳を擦っている。それが静寂を際立たせている。
噴水と露店の間の広場には蜘蛛の糸が撒き散らされ、その一面は先の乱れた筆を何度も走らせたように粗く白く染められていた。所々に糸が集中的に吹き付けられた場所があり、そこには餌食がいる。大人も子どもも無差別に捕らえられ、重ねられた糸が日没に向けて急速に暗みを増していく中で異様に輝いて見える。
屋根のある店々の中にまでは幸い被害が及んでいないが、そこにいる自由であるはずの人々も、足元で動き回る小蜘蛛の機嫌を損ねぬように動けなくなっていた。
まるで魔法だった。
誰もが、息を詰めるようにして、一点を見つめていた。
それとも誰もが息を殺してどこか安全地帯へ逃れようと目だけを走らせていた。
それなのに、その目も結局は一点に集められる。
それどころか、やがては自由であるはずの人々が自ら安全地帯を捨てて危険に満ちた蜘蛛の糸の間近に集まり始める。
怖いもの見たさで命綱も着けず崖の下を覗く人のように、あるいは死に満ちた凄惨な事故現場に引き寄せられるように、どうしても湧き上がる好奇心に突き動かされるように、それとも不可視の蜘蛛の糸に引き寄せられるように。いくらかの人間は反射的にか、感覚の欠如のためか、早速カメラを構えてさえある。
衆人環視の中、ふいに空から降りてきた妖女は、その名を叫んだ少年に瞬く間に糸を巻きつけると、今はさながら繭のごとき哀れな虜囚を胸に抱え、小蜘蛛がステージに張り終えた巨大な巣を音もなく這い登った。それから宝物を扱うように、その繭を巣の中心にそっと貼り付ける。
繭の中からはくぐもった声が漏れ出していた。繭に、巣に、妖女に完全に囚われてからも、虜囚は脱出を試み続けて1〜2センチの幅でギッコンバッタンと全身をくねらせている。エビフライの尾のように外へ突き出すダークブラウンのスニーカーもぱたぱたと激しく動かしているのだが、されど悲しいことにそれらが何かをなせることは一つもない。繭の内部から響く声は、時に電撃を受けたカエルのような悲鳴に変じることがあった。それはまるで繭の内側に仕込まれた不定期に飛び出す針にふいに刺されて悶えているかのようだった。
その様子が、妖女の頬に怖気立つほど魅惑的な笑みを刻んでいた。
そしてその笑みが、おぞましい姿をしてなお蠱惑的なその美しさが――そこに存在するだけで、嗚呼、理不尽なことにも人心を惹きつけてやまない。
すると人々の注目を集める半人
「御機嫌よう、明るい世界に生きる暗愚ども」
優雅ながらも凄みのある声が、響いた。
「この広場は妾が支配した。
お前達が頼みにする王子も、これ、このように妾の手の内だ。
そして――」
す、す、と、ステージの支柱に渡された八角形の網を上方へと、金属の光沢を持つ鋭い毛に覆われた八本の足をそれぞれが独立して生きているかのように動かしながら、
「もはや勇者も魔法使いもない。
彼らは去った。
道理の解らぬ者の悪罵に殺され、消え去った」
巣の頂点でホホホと笑い、妖女はしなやかに両腕を広げて胸を誇る。薄暮の光をぬめらせる湿度の中に鎖骨の隆起が生々しく艶めく。
「宣託する、お前達になせることは何もない。
宣告する、お前達はただ妾と妾の小蜘蛛どもの腹を満たせばよい。
宣言する、さすれば妾は、お前達に蕩けるような永遠の悦楽を与えてやろう」
その時だった。
蜘蛛の糸によって地に縛り付けられた女性が――それは囚われる直前にニトロが見た女性だった――ふいに我に返ったように鋭く叫んだ。
「嫌!」
と、足元に張り付く蜘蛛への嫌悪を露骨に表したその一声は、妖女の他は沈黙する者達の中にあって、異様なほどに鋭く響き渡った。
「嫌?」
つ、つ、と巣を
女性は、はたと目を上げた。その顔がざっと青褪める。
既に、大人達は理解していた。
これは『クレイジー・プリンセス』の戯れなのだと。
それも相当に性質の悪い戯れなのだと!
ならば、この事態を治めてくれるはずの頼みの綱はこの場にいれども、そう、既に無力化されていることをも、年長者達は皆、無論その女性も、骨身に沁みるほど理解しないわけにはいかなかった。
すると、その女性の絶望が契機となったのか、それまで急激な場の変化に理解が及ばず呆然としていた子ども達がついにすすり泣きを始めた。中には大声で泣き出した者もいる。その中で、悠然と蜘蛛の腹をゆすりながら妖女は問う。
「嫌?」
繰り返された一言は静かで、穏やかであった。
しかし、だからこそ恐ろしい。
しかし、恐ろしいのに、何故だろうか、やがて子ども達が泣き止んでいった。
それは恐ろしさのあまりのためか? それとも大人達が恐怖の中にあってなお彼女からどうしても感じてしまう魅力を、子供心にも、いや子供心にこそ敏感に感じ取ってのためであろうか。
その魔力。
その重力。
ホホホと、妖女は笑った。
女性の頬が引き攣れて、彼女もまた笑顔となった。
「安心いたせ。
すぐに嫌と言えなくなる。
すぐに、お前自ら求めるようになる!」
その言葉と共に、それまで閉じられていた六つの赤い複眼が彼女の顔にぎょろりと見開かれた。
「ひ!」
獲物とされた女性が短い悲鳴を上げる。
「助けを求めるのなら求めるが良い」
促された女性は必死に左右を見渡す。しかし誰も動かない、動けない。女性の目の下に絶望が濃い影を落とす。
「猛き勇者はもはや生まれず。
魔法を継ぐ者、途絶えて消えた」
歌う妖女の指の動きに合わせて女性の胸に一匹の小蜘蛛が飛び乗った。小蜘蛛は音を立てて大きな顎を開き、金切り声を上げる女性の首に噛みついた。
広場が、震えた。
悲鳴とも抗議ともつかぬ喚声の中、首を噛まれた女性がびくりと痙攣し、そして――笑い出した。初めは忍び笑いを漏らすように、やがて、全身を震わせながらゲラゲラと大声を上げて笑い出した。それは蜘蛛への生理的嫌悪とは別に、人に怖気を誘うものだった。喚声が止み、変わって子ども達の泣き声が戻り、それにも増して女性の哄笑が広場を乱す。巣に囚われた繭が激しく悶える。
「ああ!」
女性は恍惚として、時折嘆声を上げながら笑い続けた。半ば白目を向いて頭を前後に揺らし、小蜘蛛によって足に絡んだ糸を切られて自由となると、激しい快感に身悶えながら踊り狂う。開け放たれた口からはよだれが垂れ、短いスカートに構わず大股を開き、完全に羞恥をなくし、突然倒れたかと思うと近くにいた蜘蛛を掻き抱いてその不気味な顎に口を寄せて、そこから垂れる粘液を甘露のごとく飲み下す。その返礼を求めた蜘蛛にむしゃぶりつかれると嬉しそうに笑い声を高め、そこへ複数の蜘蛛が加わり四肢を噛まれて甘く絶叫する。
異様で、異常な光景に気を飲まれて再び周囲が沈黙する中、妖女は一対の主眼と三対の複眼を喜悦に歪め、そうして次の獲物を探して首を左右に彷徨わせていた。「次は誰かな」との呟きに震える獲物達を、舌なめずりして選んでいた。
「やはり次は男にしようか」
妖女の視線の先には、露店の下から広場の中に踏み込んできた青年がいた。彼は何やら歓声を上げて広場に踏み込むなり蜘蛛の糸の粘着力に足を捕られてつんのめり、膝から倒れて四つん這いとなる。が、彼はすぐに力任せに立ち上がり、粘つく糸の上を必死に歩きながら期待に輝く瞳を妖女の尊顔へと向けた。その意図を明確に悟った女は、しかし嘲るように目を他へやった。蜘蛛に噛まれやすいようシャツを脱ぎ捨てていた希望者は大きな失望を得て足を止めたが、一方で、彼女の嘲りが己一人に向けられたものだということに頬を赤らめてもいた。
その青年の傍らでは、膝を突いた女性と、その女性に庇われるように肩を抱かれた幼い女の子が蜘蛛の糸に囚われている。女児はひきつけを起こしそうに顔を凍らせ、足元をかさかさと這い回る小蜘蛛を目で追っている。その小さな肩を抱く母は、何か懸命に娘に囁きかけていた。
「――幼子こそ滋味に
と、日に焼けた肌を晒す青年から目を外した妖女が、その母娘に目を止めて白い歯を見せた。常ならず尖った犬歯が閃く。絶望的に頬を引き攣らせた母親は化け物へ慈悲を求める眼を向ける。だが、それが嗜虐心をくすぐるのだ。
「やはり、そうしてやろう」
妖女が言う。
己に迫る危機を知って声もない娘の後ろで母親が何事かを叫んだ――その時、
「一体何ヲシテイル!」
助けを請う母の声に勝る怒声が、立ち竦む人々と居並ぶ露店の隙を貫き、風のない冷え切った猛暑の中に