「主様ハ――主様!?」
 風を纏って現れた、白いツナギに似た服を着た女性型のそのアンドロイドは、ステージにかかる蜘蛛の巣の中央でぐねぐねとよじれる繭を目視するや、瞬間、その機構に許される限界にまなじりを引き上げた。
「今スグニ主様ヲ解放シロ! バカ姫!」
 突如として舞台に登場したアンドロイドはその人へ罵声を浴びせただけでなく、広場に撒かれた粘着物を物ともせずに小蜘蛛を蹴散らしながらどすどすと音を立てて進む。その様に周囲の者達は瞠目し、蜘蛛の巣に陣を取る蜘蛛女は六つの複眼をぎょろつかせる。そして二つの主眼を弓なりに緩めて妖女は言った。
「流石に天は仕事が速い。
 よもや戦乙女を送り込むとは思わなんだ」
「何?」
 思わぬ――それも鷹揚としたセリフに、戦乙女は歩を止めぬままに眉をひそめる。
 妖女は、いやらしく目を細め、
「しかし、お前では役に立たぬ。
 あるいは天も耄碌したものか?」
「役ニ立タナイカドウカ――」
 相手の意図はともかく、逆鱗に触れられた戦乙女が凄まじい形相を作り――しかしそこで動きを止めた。
 戦乙女と蜘蛛の巣の間に、割り込んできた影があった。
 それは五人の子どもであった。
 彼ら彼女らはいずれも小蜘蛛を背負い、焦点の合わぬ目を宙にさまよわせている。
 芍薬はすぐに事を理解し、人工臼歯を激しく軋らせた。
 子ども達はふいに奇声を上げると芍薬に向かって駆け出した。蜘蛛の仲間となったためであろうか、そこら中に敷き詰められた粘着性の糸に足を捕られることもなく、機械人形へ向かって躊躇なく襲いかかっていく。
「ッ!」
 芍薬は、惑った。己の操るアンドロイドは公園近くのレンタロイド屋で手に入れたもので、馬力は人間より上でも特別な武器はなく、それ以前に戦闘用でも警備用でもない。何かしらの異常があったことに気づいて駆け付けてきたのはいいものの、公園内には通信障害が発生し、備え付けの監視システムも全て死んでいる、そのため情報を得られず、現時点ではマスターが魔物に囚われていることと、魔物に扮したバカ女がまた人に迷惑をかけていること以外の状況は掴めていない。この状態で、しかも相手が子どもとなれば乱暴な手段は使えない。子ども達はその動きから何の強化も受けていない生身と知れるからなおさらに。せめてマスターの意向が分かれば対処のしようもあるが、そのマスターは糸に巻き込まれてくねくねと身をよじるばかり。となれば、
「エエイ――ッ!」
 芍薬は、後退した。屈辱を感じながら、伸びてくる子どもの手から逃れ、囚われのマスターから遠ざかった。その間にも周囲に目を配って『彼』を探す。どうやら何らかの意図を持って沈黙を守っているようだが、ここにいることは解っているのだ。『彼』と接触さえすれば――例えハラキリ・ジジが今回は敵であったとしても道は開けよう。
 すると、芍薬の心中を察したように、大きな腹をゆすりながら蜘蛛女が広場に飛び降りてきた。見た目に反して軽がると地に降り立ち、
「猛き勇者はもはや生まれず。
 魔法を継ぐ者、途絶えて消えた」
 まるで何かを誘うように妖女が歌うと、数拍の間を置いて、芍薬を追っていた子ども達がぴたりと止まった。五人ともが踵を返し、たおやかに腕を広げる妖女の元へと集まっていく。
「動くな、戦乙女よ」
 左の手を小さな女児の頭に、右の手を年長の男児の肩にそれぞれ置いて、半人半蜘蛛の女は静かに言った。
「一歩動けば一人、二歩動けば三人」
 その言葉に従うように、子ども達に取り付いている小蜘蛛達が鋭い足先をそれぞれの宿主の柔らかい首筋にあてがった。
 ――まさか――と、思ったのは、芍薬だけではない。周囲で事の成り行きを見守る者達も、まさかとしか思えなかった。
 妖女が、いや、王女が取ったのは人質である。それも子どもの命を盾にしたのだ。世に『クレイジー・プリンセス』と恐れられる彼女ではあるが、例え今は人事不省となって横たわるあの女性に薬を盛ろうとも(それだけでも重大事ではあるものの)、それでも流石に人の命までは取るまい――誰もがそう思うからこそ、まさかと思ったのであった。
「そら」
 しかし妖女は、至極愉快気に笑いながら肩に手を置いていた男児の小蜘蛛に合図をした。
 その瞬―― 芍薬は考えた。あの子ども達は、どういう手段であのバカの意のままになっているのかはともかく、やはり間違いなくアンドロイドではない。小蜘蛛の足は鋭く、男児の肌を楽に切り裂けるだろう。だが、本当にあのバカは死をもたらすのか? あのバカはとんでもないバカでどこまでも信用できない奴ではあるが、やはりそれでも人死にまでは出すはずがない。しかし、もし、死ななければいいのだとあのバカが気楽にそう考えていたとしたらどうだろう? そう、あの『映画』で自ら致命傷を負って見せたように、万が一のリスクも己のように軽んじて、死にさえしなければいいのだ、と考えていたとしたら? ――間、焦燥に突き動かされて芍薬は叫んだ!
「待テ!」
 妖女の戒めを破り芍薬が走り出そうとするより速く、小蜘蛛の足が男児の喉笛を切り裂いた。
 まるで無理矢理栓をされていた噴水の水が解放されたかのように、真っ赤な血が驚くほどの勢いで吹き出す。
 これまでにない悲鳴が上がった。
 広場を取り囲む群衆に恐慌が走った。
 もう太陽も地平線にかかる黄昏の薄闇の中、人よりも正確に物事を観ることのできるアンドロイドの人工眼球にも、それはまさしく動脈から吹き上がる血と映った。
 飛び散る鮮血は噴水の池の中にも落ち込んで、夕闇に染まる水を見る間に赤黒く染め上げていく。群衆の中には我先に逃げ出そうとする者が現れ、罵声の混じった絶叫と凄惨な光景に泣き叫ぶ子どもの金切り声とが悲劇を飾り立てる。
 その最中さなか、ドン、と、重い音が轟いた。
 悲鳴と喚き声を諸共に押し潰す、それは重々しい音だった。
 サッと、芍薬の顔色が変わった。
 ザッと、妖女の顔色が変わった。
 アッと、群集の顔色が変わった。
 未だ四人の人質を抱えていた蜘蛛女が上半身を限界まで捻って背後へ振り返る。それと同時に全ての視線が、そこに集まる。
 ステージの下。
 一体どうやったのか、巨大な蜘蛛の巣の拘束を破り、繭が地に落ちていた。
 それも繭から突き出た足で見事に着地し、異様な迫力を纏って直立不動で佇んでいた。
 めしゃめしゃと、繭の中からおかしな音が鳴る。
 メジャジャ! と、不気味な音と共に繭の両脇から腕が貫き出てくる!
「そんな――」
 妖女が、つぶやいた。肌を粟立たせ、彼女は明らかに動揺し、慄いていた。
「まさかそんな体でも――」
 その言葉の意味を理解できたのは、この場において三人だけだった。だが、その意味を他の人間が理解する必要などはなかった。観衆が知れることはただ一つ。繭から突き出た腕が動いて顔があるのだろう辺りに手が当たるや、刹那、そこに開けられた穴の底に光る双眸を見た時――そして繭に包まれたままの彼が足首の力だけでびょんと跳ねた時、おお、妖女の胸を貫いたその恐怖! いくら腕が自由となり視野を得たとはいえ未だ虜囚であるはずの彼のその奇怪な迫力に脅威を感じぬ者などありはしない!
 びょん、と、着地するなり再び飛ぶ繭の姿に誰かが思い出す――『クレイジー・プリンセス・ホールダー』の称号を。
 粘る糸が靴を引きとめようとも意に介せず無人の野を行くがごとく、びょん、びょんと彼が妖女に迫るにつれて皆が思い出す――『トレイの狂戦士』の異名を!
「ティィィディィィアァァァ!」
 それは地獄の穴から轟く鬼の声であった。それを聞く者を無差別に心胆寒からしめる憤怒であった。
「待って!」
 持ち主の恐怖を反映したようにピンと張った八本の足で体を持ち上げ、彼女は叫んだ。
「待って、ニトロ! 駄目! こんなんじゃ駄目!」
 先ほどまでの優雅な凄みはどこへやら、上半身は彼に向けたまま、がさがさと逃げ出しながら妖女は完全に化けの皮を剥がして叫んだ。
「こんな終わり方じゃ駄目なのよ!」
 その悲痛な声に、思わず周囲に同情が沸き起こる。この場に大きな混乱をもたらした身勝手な女に対し、その迷惑な糸に絡め捕られて未だ動けずにいる者すらもが抗いようもなく心を揺さぶられる。
 だが、繭は躊躇わない。
「お願い! ニトロ! 待って待って!」
「待ぁてえええええ!」
「お願いだからそっちこそ待ってえええ!」
 びょんびょんと繭は追う。
 がさがさと蜘蛛女は逃げる。
 と、
「イラッシャイ」
 背後ばかりに気を取られていたティディアは、その声に己の失態を悟った。直後、蜘蛛の足が千々に乱れて無軌道に空を掻き、そのため蜘蛛女は足をもつれさせて大きな蜘蛛の腹と胴とを地に激しく擦りつけてしまった。と、そこに敷かれていた糸が蜘蛛の下半身を絡め取り、それで急ブレーキがかかって人間の上半身だけが振り子の錘のようにつんのめる。
「あ!」
 その王女の悲鳴は、つんのめった上半身まで地に激突せぬように必死に堪えた後に上がった。
 確かに、地への激突に関しては、彼女は堪えきった。
 だが、堪えたところでその姿勢のままアンドロイドに捕まってしまった。形としてはフロントヘッドロックである。身に着けるもののない滑らかな背中を天に向けて、毛むくじゃらの下半身は地に縫われ、冷たく汗ばむ上半身は機械人形に縛られて完全に固定されてしまった。
「ああ!」
 彼女は数秒後の展開を予期して、悲嘆の声を上げた。
 人々は目撃した。
 びよーん、と、この日一番の跳躍を見せた繭を。
 ゆっくりと横回転する繭の脇で遠心力を貪る腕を。
 その先で大きく開かれる手のひらを!
「やぁめぇてぇぇぇ!!」
 断末魔のごとく、ティディアが懇願した。
 だが、怒りの繭は目標に向けて一寸の躊躇もなく降下する。
「このッド阿呆があああ!!」
 そして――
 凄まじい破裂音が、半人半蜘蛛姿のお姫様の背中で炸裂した。

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