後吉

(「現在」は『敵を知って己を知って』の後、『行き先迷って未来に願って』の前)

 王太子の旗を掲げた王軍騎兵隊が煌びやかに行進する。その後を黒い護衛車に挟まれて一台の白い車が堂々と道を行く。
 沿道には大衆が山をなしている。警察の規制を踏み越えんばかりにつめかけて、熱狂的に手を振っている。
 熱狂が轟いていた。
 ――そのピュアホワイトの車に乗る人は、民の目を眩ませて敷かれようとしていた税の罠を暴き、そうすることによって己も身銭を切ることになるにも関わらず、それを仕掛けようとしていた連中と真っ向から対決して下さっている。我々のために!
 ティディア姫! 王女様! ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!
 帰依を誓うに等しい歓声が街にこだましていた。
 初春に霞む青空から柔らかな光を受けて、純白の走行車ランナーは民と同じ地平を行く。
 大衆の群がそれを追って波打ち、呼び声もまた大きく波打つ。
 ティディアはあくびをした。
 眼前の交差点を右側から純白の走行車ランナーが通り過ぎていくと、大衆の声もまた車を負って左側の建物の陰に消えていく。後衛を務める勇壮な騎兵と白馬が蹄を鳴らしてそれを追いかける。
 新しい第一王位継承者の行啓叶った『朝隷暮解通りチェンジングストリート』――朝に奴隷として連れられて行った人々が覇王の奴隷解放令を受けて暮れには平民として戻った歴史的な道。それに沿ってぞろぞろと雁首を運ぶ連中には、横道に佇む第一王位継承者本人に気がつく素振りは一つとて見当たらない。
 失神した女が何人も群集から引きずり出されて道端で介抱を受けていた。どうやら車窓に影を映すあの王女様は私に手を振って下さったのだ、と思い込むや興奮の極地に至って気をやったらしい。今度は新たに男が引きずり出されている。
「ふうん」
 まあ、あの車には実際に王女がいる。姉の身代わりとして、体格から何から諸々の差を誤魔化すために一生懸命振舞っている第二王位継承者が。
 ティディアは頭の後ろで手を組むと、踵を返してのんびり歩き出し――
「……」
 突如響いた怒声に気を引かれ、振り返る。
 例の失神者を介抱する者達と、それらを撮影する者達がもめていた。ある女はスカートがめくれ上がっていて、彼女の友達らしい女が特別大きな声で撮影者らを怒鳴りつけている。それでもやからは撮影を止めない。露骨に携帯モバイルのカメラを向ける者、明確にカメラは向けていなくとも間違いなく装身型ウェアラブルで撮影している者。中にはリアルタイムでネットに視野を垂れ流している者もいるだろう。そのアップロード先がその手の材を検出して自動削除・追放する運営元ならまだいいが、アンダーグラウンドに行けば厄介だ。そこでもデータを追跡・削除していく商売もあるし、それ専用に特化したA.I.もいるが、それもローカル保存されればなかなか手が出せない。であればこそ女の怒号はいよいよ激しくなり、周囲にも非難の声が広まっていく。それでも撮影は止まなかった。こうなるとカメラは怒る介抱者や周囲の“偽善者”をネタにしているのだろう。すると、いずこから現れた少年達が失神した者と介抱する者達を取り囲むようにして、無数のカメラの前に立ち塞がった。
 その少年達は20人を超えていた。それぞれの年齢は中学生から高校生といったところ。中には小学生くらいの者もいるだろうか。この地域の不良集団というわけではなさそうで、平均的な中流から下の家庭の空気を感じる集団だが、その顔つきは凄まじい。今にも噛みつきそうな様相でカメラを向ける者達と言い争いを始める。介抱する者と周囲の人間は少年達を応援する。騒ぎに気づいた警官が――あちこちでトラブルが多発しているから明らかに手が足りていない――飛行単車エアバイクで駆けつけてくる。撮影者の何人かが慌てて逃げていく。
 少年達がなおも撮影を続ける者達と言い争いを繰り広げているところに警官が割って入っていった。それを機に、少年グループが言い争いを続ける者と、介抱を手伝う者とに分裂する。友達のスカートを直している女は礼を言っているようだ。少年達は失礼にならないようそちらを見ないようにして、それに応じている。
 ティディアはすぐ傍のハイティーン向けの服を展示する店に身を寄せて、そのショーウィンドウに興味津々とばかりに携帯モバイルを取り出した。カメラを起動させる。
 少年達は失神した者に、その介抱者に次々と声をかけていく。手伝いが必要かどうか聞いている風で、その実、手伝う気はないらしい。少し立ち止まって取り囲んでは声をかけ、ほんの少し位置を変えるくらいのことには手を貸してもすぐに移動する。
 ティディアは商品の拡張情報ARタグに夢中になっているように見せかけながら歩き出す。
 その少年達は最後に失神した男をどうにか安全なところに引きずり出すだけで疲労困憊となってしまった介抱者に声をかけた。年長者らしい二人が疲れたその男を励ましている背後で、体の小さな少年達がこそこそと作業をしている。先ほどからバッグやバックポケットにカードケースが覗けばそっと抜き出し、なければ潔く退く――それを今回も。
 なかなか手馴れている。
 おそらく手の平側にはスプレー式の衛生手袋をつけているだろう。
 ティディアはふいにショーウィンドウから離れ、それを激写した。
 隠し撮りではない、堂々と正面から撮影した。
 すると無論、気づかれてしまった。
 人当たりの好い顔で失神した者達を心配する一方、周囲への警戒を怠らないでいた年長者の一人と目が合った。
 犯行がバレたこと、その証拠を撮られたことに気づいた少年が顔色を変え、仲間に声をかける。失神した男の周りにいた少年達がバッと彼女に振り向いた。
 彼女は、ビクリと肩を震わせた。
 そして一目散に逃げ出した。
「おい!」
 と、声が聞こえた。
 バラバラと足音が聞こえる。
 肩越しに一瞥すると、彼女に気づいた少年が犯行グループのうち四人を引き連れ追いかけてきていた。その向こうでは事態を飲み込めていない警官がぼうっとこちらを見ていて、同じく失神者達を撮影していた輩もこちらを眺め、その隙に、それらと言い争っていた少年達が静かに人ごみに紛れていく。
 彼女は前方に振り返り、いかにも「とんでもないことをしてしまった!」といわんばかりの調子で走った。
 少年達が追ってくる、怒声を上げないのは警官の耳を気にしてのことだろう。
 彼女は少年達からは見えないその顔を、にんまりと歪ませていた。

 地元の有名なお嬢様学校の制服に身を包んだその少女は、少年達の追跡から逃れようと密集する建物の間に入り込み、すると蜘蛛の巣のような路地に迷い、先回りされ、袋小路に追いつめられた。
 そこは古いアパルトマンと最近建て替えられたらしい新式の低層ビルの合間、古い時代と新しい時代のどちらにつこうか迷っているうちにどちらにも見向きされなくなってしまったような空き地であった。
 ひび割れた煉瓦壁をコケが侵食している。
 昼間でも薄暗く、すえた臭いがした。
 アパルトマン側の隅にはゴミ箱なのか用具入れなのか分からないものがあり、そのすぐ傍らに雨樋とハシゴがある。塗装のはげたハシゴは二階のベランダに向かって伸びているが、その出入り口は鋼線で硬く塞がれ、使用禁止と書かれたシールだけが真新しい。
「おい!」
 息も荒れた怒鳴り声が、崩れるように反響した。
 追いつめられた少女は行く手を塞ぐ古いアパルトマンの壁をじっと見上げていた。そこに窓はない。左右の壁にも窓はあっても締め切られていて、ビル側はもとよりアパルトマンのガラスも現代に即して防音性には特別気を配っているらしい。
「おい」
 今や怒りより優越感の勝る少年の太い声。
 少女は、ゆっくりと振り返った。
 その時、一斉に少年達の息を飲む音がした。
 少女は美しかった。
 追っている時はよく見えなかったその顔に、全員が一目で心を奪われていた。
「すげぇかわいいじゃねえか」
 と、横に広い体格の少年が、盗撮に気づいたあの少年に言う。二人は同級生か、それとも、少女のブレザーを押し上げる胸の膨らみから細い腰、そして短いスカートからすらりと伸びる両脚へと舐めるように視線を動かすその少年の方が一つ年上か。先ほども警戒を怠っていなかったリーダー格らしいあの少年は好色な笑みを浮かべる仲間に目配せする。その二人の様子には何か新しいものを発見したような気配があった。短く目で語り合い、周囲を見回し、激しい欲望が二人の間に交錯すると、横に広い体格の少年が背後の年の近そうな一人に何かを命令した。命令された少年は一度はこの場に留まりたいという態度を見せたが、年長者達の意図に気づくや卑しい笑みを浮かべて袋小路の出口まで走っていった。
「おい」
 リーダー格が一歩近づきながら言う。
「よこせ」
「何を?」
 少女の声は華やかで、心に直接響いてくるような力があった。だからこそ余計にリーダー格は苛立ったらしい。
「決まってんだろ!」
 いきなり声を張り上げ、乱暴に手を差し出す。
携帯モバイルをよこせ!」
「何故?」
「撮りやがっただろう! 俺達を!」
「窃盗を?」
 少年の顔が憤怒に歪む。それは他の少年達にも伝播して、見張りに向かった少年すら我慢できずにこちらに駆け戻ってこようという勢いであった。少女は悠々として、
「だけどもうアップした後だとは思わない? 外部と同期したとは? もしかしたらカメラはSNSと常時接続しているのかも」
「うるせぇ!――そんなら」
 と、そこでふいに冷静になったように少年は立ち止まり、言う。
「即行削除して、そいつが『悪戯』だったって投稿しろ。そして……その後でお前の恥ずかしい写真が常時投稿されたくなきゃ、今のうちに設定を変えとくんだな」
「小悪党すぎて最高」
「はあッ?」
「あー、ゾクゾクしちゃう。ねえ、フィクションでありがちなことが目の前に現れると夢みたいな気持ちになると思わない?」
「――ああ?」
「もー、レス悪いわねー。“それが悪夢でも?”くらいは言いなさいよ」
 追いつめられてなお平然としているどころか急にダメ出ししてきた相手に対し、少年達は唖然とする。しかしそれは毒気を抜かれたというよりもさらなる爆発の前兆であった。されど少女は止まらない。
「それにしても腹が立つのはあなた達のその目よ。私をそんなに見つめておきながら気がつかないってのはどういうこと? 飾りなの? ウンコなの? それとも女の裸しか見えないのかしら色ボケしているお前は特に!」
 と、指を差されたのは横に広い体格の少年である。その顔が見る見る上気する。今にも飛びかからんばかりにその太い足を踏み出した瞬間、
「ビクロ・フィネガン・ゲッチェリオ!」
 突然の名指しに声を上げたのは見張りに立つ少年であった。同時に他の少年達も驚愕する。少女はなおも叫ぶ。
「貴様! 貴族の誇りをどこの犬に喰わせた! いや、父のゴネガンも知っているのかな? 奴にケツを拭かせているのか」
 見張りの少年がぶるぶる震えながらやってくる。その無様な姿を見ているのは少女だけだった。他の少年達は今や少女から目を離せずにいる。その声は――それだけで服従を強いてくるのに、一方で神の手になる楽器のように魂を優しく愛撫してくるその声は……その女の正体は!
「まったく、この髪がいけないのか」
 赤茶けていた髪が黒紫となる。
「それとも瞳?」
 緑がかった瞳が黒紫となる。
「たったこれだけでそんなにも判らないものかしら」
「ティディア様!」
 見張りに立った貴族の少年が叫び、わずかに遅れて他の少年達も揃って叫ぶ。その様に少女はエクスタシーでも感じたように身をよじらせ、片手で額を押さえ、もう片手を持ち上げて、
「んー? 様を付けなかったのは、お前と、お前」
 指差されたのはリーダー格と、五人の内で年少組になる蹴鞠キックアップチームのロゴの入ったシャツを着た少年。
「あら意外。跪くのね。別にいいのに」
 王女がそう声をかけたのは横に広い体格の少年である。彼は顔を伏せていた。他に跪いていたのは貴族の少年だけだったが、それらを見て跪いた方が良いと思ったらしい年少の二人も膝を突く。リーダー格だけは立ったまま、次第に、やがて傲然ごうぜんと胸を張った。
「君も……」
 強張った貴族の声。それがいつも自分にかけられるべき声とは大違いであると感じて、リーダー格の目元が歪む。
「王女様とは驚いた」
 わずかに声を震わせながら、引きつった笑いを浮かべる。その目がギラリとねばつき、半ば破れかぶれで、それ以上に何か有頂天になった顔で、彼は一歩を踏み出した。自ら勢いづけられてもう一歩。その瞳が段々と、段々と、怒り一色に染まっていく。
「だけどよ、こいつは本当に王女様かな? ティディアはさっき『城』に向かっていったはずだぞ?」
 少年にとって王女とは縁遠い存在だった。貴族の跡取りを手下にしているから、その元締めの跡取りと言われたところで敬意もまた縁遠かった。そしていつも仲間に持てはやされて増長した傲慢さと、若さの生み出す万能感が、日々メディアに喧伝される王女の才能を演出だと否定していた。去年第一王位継承者になってからは偉業と奇行にフルスロットルだ、15年間ずっと優等生だった姫はどこに消えただなんだと騒ぎ立てる世間も同様に嘲っていた。まあい女だってことは認めよう。顔は極上、体つきも股に来る。だが自分の世界にいない女より隣の便利な女、それか仮想空間オルタナリアルで交われる相手の方がずっと上等だ。
「それによ、王女様ともあろうお方がこんな一人でのこのこやってくるもんか?」
 そもそも王女だから何だというのだ? 『朝隷暮解通りチェンジングストリート』のバカ騒ぎはマジでバカな騒ぎだ。傑作だった。アホ面が並んでいた。そこを誰が通ろうがいい稼ぎ場ができたというだけだった。いい稼ぎ場を作ってくれるなら王女も馬糞も同じだ。そう思えば思うほど目の前の少女は王女などではなくただの女、ただのムカつく盗撮魔でしかなくなってくる。そして彼は何よりも侮られた自分の怒りに煽られていく。
「いいや、もう本物の王女だろうがどうでもいい。こいつは偽モンだ。王女様をかたるクソアマだ、俺達にはそれでいいじゃないか。剥いちまえば王女もナニもおんなじだ、なあ?」
 女に接近し続ける仲間が己に――初めにソレを示唆した自分に声をかけていることに気づき、もう一人の年長者が真っ青な顔を上げ、何か声をかけた。しかしその声は形にならない。胸に渦巻くものをどう言葉にすればいいか解らなかったのだ。仲間を止めろと理性は言うが、同時に理性は疑念にかられて混乱している。彼は仲間の背中の先にそれを見ていた。あの女は、王女様は、なぜ今になってもそんなに嬉しそうなのだ? 彼女はなんでそんなに笑顔なのだ!? 余裕たっぷりで可愛らしく人差し指を顎に当て、
「そうねー、しかも本物だとしても王女様とヤれた上に脅迫材料も手に入れられるかもしれないものね?」
 その態度、そのセリフをただの虚栄だと思ったらしい、リーダー格はにやりと笑った。すると、急に少女が大きく肩を落とした。彼女は明らかに失望していた。それにまた怒りを煽られた少年が牙を剥くのに先んじて、彼女が言う。
「誰が出ろと言った?」
 ドスの利いた声だった。その声に直接殴られたとでもいうように貴族の少年が小さく悲鳴を上げた。リーダー格も思わず気を飲まれて身を引いてしまい、かっと頬が赤くなる。その最中さなか、唐突に機嫌を損ね、少年達に理解のできぬセリフを発した少女は、少年達の背後へ触れれば切れるような視線を投げ、
「答えろ、誰だ?」
 その問いかけに釣られてリーダー格が背後に振り返り、そこで、彼は硬直した。
 仲間達の最も後ろで跪いたまま動かぬ貴族の少年のさらに後方、そこに、スーツ姿の男と、王女の行啓を観に来たらしいカップルといった出で立ちの二人が音もなく現れていた。
「公爵閣下です」
 応じたのはスーツの男だ。王女は深いため息とともに頭を振り、
「聞いているな? またじっくり話し合おう。お前達の処分は追って通達する」
 三人は表情一つ動かさずに受け入れる。
 王女は苛立たしげに頭を掻くと、ほとんど投げやりな調子でモバイルを手にした。そして、
「リモー・サイジェス」
 その名を聞いて、リーダー格が激しく震えた。
「グリィマデレス・ホッピ」
 もう一人の年長者も絶望的に広い肩を震わせる。
「ニトロ・クラバリー」
 ロゴのシャツの少年が捻り潰されたようにうめく。
「ディマソン・リプス――小学生ねえ」
 ロゴのシャツの少年に隠れるようにしていた最も背の低い少年が泣き出す。
「まあ、これくらいすぐに調べられるんだけど。これで本物だって信じてもらえた?」
 彼女はモバイルをぽいと捨てた。それは湿り気のあるコンクリートに音を立てて落ち、ガラガラと転がって止まった。リーダー格――サイジェスの足元で。
「拾わないの? よこすわ、それ」
 彼は青褪めていた。体は震え、急に現実を目の当たりにしたような顔つきで、膝は今にも折れそうだった。ティディアは再度ため息をついた。
「ねえ」
「……」
「ねえ、リモー・サイジェス」
「ッはい!」
「本物の王女様相手の方が燃えない? さっきは良い調子だったじゃない。ほら、ほら」
 彼女は囃し立てるように手を叩く。
「ほら! こうなったらさっきの続き! 『もはやこれまで』っていきましょう!」
「?」
「ほらほら頑張って! 王女様もナニもおんなじ、一か八か人質に取って、それから王女様を騙るクソアマを剥いちゃって、脅迫材料までレッツトライ!」
「…………」
「……」
「……――」
 ティディアは三度ため息をつき、じっと恨めしそうにリモー・サイジェスを見つめた。彼は泣きそうな顔で一歩後退する。王女は首を振り、やおら気を取り直したようにうなずくと、
「仕方ない。じゃあ、ここでみんなに三択クイーズ。どれを選んだら正解でしょーか!」
 一人にこやかにティディアは片手を差し上げた。皆の視線がその示された三本の指に集中したところで、
「1――このまま罰を受ける。ただし普通の罰じゃないわ、私が王権使って面白おかしくしてあげる」
 その真に意味するところを完全に飲み込んだのは貴族の少年だけであった。それでも皆を絶望が支配した。
「2――挑戦してみる。もう解っていると思うけどそこにいるのは、…………まあいいわ、簡単に言えば親衛隊なんだけど、それとケンカして勝てれば無罪放免」
 これも絶望である。誰もが力なく息を吐く。
「3――私を楽しませる」
「?」
「……」
「???」
「もー、だからレス悪いって言っているでしょ? 芸でも笑い話でも何でもいい、それで私が楽しめればそれで良し」
 しばらく待つが、反応はない。
 ティディアは絶望的に深いため息をついた。
「あーあ」
 と、天を仰ぐ。
 そしてしばらくそのまま沈黙し、その沈黙だけで少年達が死にそうになる中、おもむろに、冷やかに言った。
「じゃあ、いいや。ねえ、リモー・サイジェス」
 彼はもう何も考えられない様子でティディアを――去年、第一王位継承権者となってからはまさに偉業と奇行にフルスロットルな王女を見つめる。
「あなたが代表して、私とケンカする?」
「なひぃ?」
 これには流石にサイジェスも反応できた。ティディアは間抜けな顔で素っ頓狂な声を上げた相手に極上の笑顔を送り、
「もしあなたが私に勝てれば、皆して無罪放免。ただし負ければ私の思うがまま」
 あんまりな現実に見失いかけていた怒りが、サイジェスの内に再燃する。
「……あのよぉ、王女様こそ目がお飾りでは?」
「何故?」
「勝てると思ってんのかよ、俺に」
「いいわね、また威勢が良くなってきた。で、勝てるかって? う〜ん、どうかなあ?」
 相手を舐め切った態度で少女は首を傾げる。するとサイジェスは何かにはたと気づいたように目を見開き、彼女に侮蔑の眼差しを投げつけた。
「そうか、どうせ負けそうになったら手下を使うんだな?」
「その心配はいらないわ。私がどんなに劣勢になっても、負けても、それからどんなことされちゃっても手を出さないように命令するから」
「嘘だ」
「命令よ。反すれば私が殺す」
 その言葉に反応し、親衛隊の三人が一斉に敬礼する。
 それを半ば呆然と少年達が見つめ……この王女は本当に頭がおかしくなってるんじゃないかと本気で疑い、それと同時に、彼らは突として希望に目覚めた。崇め奉るような眼差しがサイジェスに集まる。サイジェスは露骨に浅ましい笑みを浮かべた。
「それと、もし私に勝てたら、そのままあなたの女になってあげてもいいわよ?」
「はあ!?」
 と、声を上げたのは誰だったろうか。あまりに想定外の提案に少年達がどよめく中、王女はマイペースに言いのける。
「そうしたらリモー・サイジェス、あなたは私の金も、権力も、この体も、好きに便利に使っていい。全ての責任も私が取ってあげる。どう? 最高でしょ?」
 便利――その言葉を聞いた時、サイジェスは何か彼女に心を見透かされた気がして寒気を覚えた。だが、便利……彼の笑みは現実味を増していく。思わず彼は笑って言った。
「あんたマジで頭がおかしい、いかれてやがる」
「あら、ただ私は私をボコボコにできるような殿方になら、この身も心も、全てを捧げて良いと思っているだけですわ。だってワタクシ、そのような強い殿方が好きなのですもの」
 どこまで本気でどこまで冗談か分からぬ物言いではあるが、その眼差しはどう見ても正気らしい。
 リモー・サイジェスに選択の余地はなかった。何より彼には年下の、それも女に負けることなど想像すらできなかった。
 霧が朝の光と風によって吹き消されたように、彼の目の前は明るく開けていた。心が燃え立っている。希望によって、かつ怒りによって。その怒りも傍若無人な相手にいいように嬲られ続けてきたが故にこれまでになく激しく燃え上がり、行き場を求めて早く早くと急きたてる。
「いいぜ、やってやる。だが後でやっぱり嘘だったとかは無しだからな」
「そっちも反則だとか泣き言を言うのはなしよ?」
 さらに煽り立てられた怒りがサイジェスの脳天を突く。
「どこまでも舐めやがって……ッ!」
 彼は拳を握った。
 ティディアはお嬢様学校の可憐な制服を自慢するように佇んでいる。
 ――ややあって、サイジェスの目が疑惑に染まった。
 王女はいつまで経っても動かない。
 やはり……どこまでもからかわれているだけなのでは? 後ろにいる兵隊にしたって、さっきの命令も実は悪戯の一環で、やっぱり嘘で、危なくなったら助けてもらえるから王女はあんな態度を取れているのでは?
「ねーえ」
 と、ティディアがため息混じりに言った。
「スタート、って言われないと始められないの? このグズ」
 サイジェスは怒号を上げて突進した。
 しかし、それでも彼はまだ盗みを計画し、それを仲間に指示していた時のように理性的であった。まずは一発顔面にぶちこんでやろう。それで怯んだところにまた一発、今度は弱めに。その後は腹だ、その後もずっと腹だ。そのムカつく優越感に満ちたキレイな顔が恐怖に歪んでいくところをじっくり楽しんでやる。ああ、それにしても……それにしてもこんな女とヤれるなんて
 サイジェスは右の拳を振りかぶった。
 その瞬間、彼は左目に衝撃を受けた。
 そして一瞬の闇が左目から消えると、彼は正面にいたはずの王女が視界の左隅に瞬間的に移動していることを知って驚愕した。
「ぅわッ!」
 思わず声が漏れ出し、彼は慌てて左に向き直る。
 そこにまた左目に衝撃。
 さっきと同じく大した衝撃ではない。全然効いちゃいない。ただ少し左目が見づらくなっただけだ。
 それよりも重要なのは女がすぐ手の届くところにいることである。
 彼は狙いを定めて左フックを繰り出した。が、そのほんの直前に女の体が沈み込む。左フックは空を切る。また左目に衝撃!
「あア!!」
 怒鳴り、サイジェスは腕を振り回した。
 女はどこにもいない。――いや、今や視界の左側は不透明な膜を被せたようになっていて、そこから右の鮮明な領域に女の顔が少しずつ入り込んでくる。女は、王女は、つまらなそうにこちらを見ている!
「がアッ!」
 憤怒を足に込め、彼は女のむき出しの膝を蹴り折ろうと試みた。そうだ、まずは動けなくして――
「!?」
 彼は瞠目した。ローキックのために右足を持ち上げた瞬間、女がすっとこちらに近寄ってきた。それがおかしなほどスローモーションに見える。懐に入られ、ローキックはローキックにならず、片足立ちとなった彼の懐には涼しい顔をした女がいて、
「ッ!!」
 サイジェスは股間を打たれ、その凍りつくような恐怖に片足でたたらを踏むように後退し、激しく尻餅をついた。
「……」
 彼は呆然として、尻餅をついたままの格好で、息も乱さぬ王女を見上げた。
 やがて彼はあまりに痛むのは尻ばかりであることに気がつき、股間を――睾丸を打たれたと思ったのは錯覚で、それはただ恥部を触られただけだったのだと悟った。
「やー」
 少女、女、王女――お嬢様学校の制服に身を包むティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、己のまさしくお嬢様らしい白く優美な右手を眺め、苦笑とも嘲笑ともつかぬ顔をする。
「いまいちねー。縮こまっているのかしら」
 すると彼女は何を思ったのか、短く丈を縮めたスカートに両手を伸ばし、そしてふいに恥ずかしげにうつむくと、スカートを、そっとたくし上げた。
「……これで、元気になった?」
 それを見た瞬間、サイジェスは甲高い耳鳴りを聞いた。
 目の前が真っ赤になった。
 彼は咆哮し、突進した。
 立ち上がるのももどかしく、四つん這いから身を起こして駆け出すように。
 その突進は最初のものとは違い、理性はなく、ただ暴力だけがあった。
 左目に衝撃が走る。
 もう左目は見えない。
 だがそんなことはどうでもよかった。
 サイジェスは女に掴みかかった。掴みかかると同時に殴りかかったが、その拳が女の顔面を捉えられないことはすぐに分かった。それも彼にはどうでもよかった。ただ彼は女を捕まえられたことだけでよかった。このまま押し倒せばこっちのものだ。殴る。殴り、殴りに殴り殴り殴って、犯してやる、泣き喚かせてやる!

「それからのことは、今でも信じられません」
 そう言って、質素なデザインの制服を着る少年はため息をついた。
 同じテーブルを挟んで座る一つ年上の相手は、ひたすら呆れた顔をしながらも、その昔話を黙って聞いてくれている。
「僕たちも――あとで話を聞いたらみんなそう言っていたんですが、僕たちはそれでもうリモーが勝ったと思いました。それで、みんな助かると……今思えば腐りきってますね、それは姫様が、そうでなくても女の子が酷い目にあうってことなのに」
 二人の前にあるグラスはもう氷が溶けているばかり。
「僕たちはリモーが姫様を押し倒すのを確かに見ました。けど、次の瞬間には姫様がマウントを取っていたんです。なにがどうしてそうなったのか、誰と確認し合ってもよく判りません。絶対に姫様は魔法が使えるんです。それでリモーを動けなくしたんです。そうでなければあのリモーが、失礼ながら女性である姫様に力で負けるなんて考えられませんから」
 それは筋力差を殺せるほど恐ろしく高度な技術を使っていたから、であろうが、それを魔法と考えるのもあながち間違いではないような気がする。
「その後も一方的でした。姫様は、今度は右目を狙い始めました。リモーが必死になって顔をガードすると、喉を打ちます。おっかなかった。姫様は姫様ではなく姫様みたいなアンドロイドなのかと思いました。右目、喉、喉、右目、目と喉を必死に庇うと今度は耳です。右耳、左耳、左耳、そしてまた目、喉、リモーはとうとう泣き出してしまった」
 そのリモー・サイジェスの仲間であった少年は、まるで今観たばかりの世紀のチャンピオンシップを語るかのように熱を込める。
「僕たちはリモーが泣き喚いて詫びを入れる姿を、まるで夢でも見るように眺めていました。これは悪夢なんだと。だってそうとしか思えませんでした。ボコボコのリモーは親衛隊の方に連れられていきます。これはきっと秘密で処刑されるんだと思いました」
 その言葉に相手が苦笑するのを不思議に思ったようだが、彼は続ける。
「リモーがいなくなった後、姫様は僕たち一人一人にお言葉をかけてくださいました。そしてご下問なさったんです。何故あのような罪を犯したのか。お金が欲しかったのか、スリルが欲しかったのか、考えなしなのか、ちゃんと自分で考えて答えるようにと。僕たちは一人一人、別々に答えました。だって一人一人別々にされていたので。多分、お互いにごまかしあわないようにされたのでしょう。ホッピさんは彼女と遊ぶお金が欲しかったんです。姫様は稼ぎ口を紹介されました。ホッピさんは今もそこで働いています。姫様にしばらく寄付をするように言われていたんですが、それがもう習慣になっちゃったようで、今じゃ毎週教会に行って慈善団体に寄付してます」
 ホッピは……最年長で、横に広い体格の男だったか。
「ニトロは――あ! あの、ニトロ・クラバリーのことです。すいません、ニトロって、僕の友達に他にも一人いるので、はい、いえ、とんでもないです! すいません。で、そのクラバリーは、なんとなくでした。他にやることもやりたいこともないし、家にはいたくない、仮想空間ヴァーチャルは嫌いだから、父親が電子麻薬中毒だったんです、なんとなく仲間といるためにって。姫様はしかるべき団体を動かしてくださいました。クラバリーは今はアンチ電子麻薬プログラムに興味を持って、勉強しています」
 蹴鞠キックアップチームのロゴの少年か。そのシャツもなんとなく着ていたのだろう。
「ビクロはどうなったのかよく分かりません。その時から一度も会ってないんです。ただ、特にお咎めはなかったようです。相続分が減ったとかいう噂を聞いたこともありますけど、今も男爵のままです。ただ、これは今思うとなんですけど、僕たちの本当のリーダーだったのはビクロだったような気がしてます。リモーはうまく乗せられてただけなんじゃないかって、リモーは認めませんけど、ホッピさんは今じゃそう決めつけてます」
 貴族の少年――その父とは昨晩、アデムメデスで奴隷が最後に従事した古城で開かれたレセプションの折に顔を合わせた。王女を歓待する笑顔の裏でどうしようもない恐怖を抱いているようだったが、なるほど、それはそういう事情が絡んでいたのか。同行してくれていた親友によると、その恐怖はそれを与えてくる相手に反旗を翻させるものではなく、命すら捨てさせるほどの絶対服従を強いるものとのことだったが。
「今思うことばかりなんですけど、あのままだったら、僕たちは本当にどうしようもないことになっていたと思います。小さい悪いこと……小さいなんて言うこと自体が悪いんでしょうけど、でも思うんです、その時はまだそういうことを楽しんでいただけだったけど、そのうち絶対にエスカレートしたって。姫様を追ったのだって、あれが姫様じゃなかったらと思うと……でも、そういう人間なんです、やっぱり、僕は今もきっと。
 リモーは、驚かないでくださいよ? 一人だけ捕まって起訴猶予になって、今年軍隊に入りました。僕も不思議なんですけどあれ以来すっかり『ティディア・マニア』になっちゃって。絶対親衛隊に配属されるような軍人になって姫様を守るんだって。クラバリーは、リモーは姫様に命令されたいだけなんだって言ってます。ホッピさんは笑いますが、でも、僕もそう思います。だって見ちゃったんです。リモーのライブラリに姫様の『見下し名言リミックス』があるの」
「何それ」
「あ、大丈夫です、海賊版じゃないですよ!」
「いやそういうこっちゃなくてね?」
「そうか! もう売ってないんですよね。プレミアついてたし。それにニトロさんならそんなの「要りもしないからね?」
「わ、ツッコンでもらえた!」
 今ので喜ばれても困るのだが――まあ、話を進めよう。
「それで、君は?」
 その時小学生だったディマソン・リプスは、細い眉毛を八の字にして目を伏せる。
「恥ずかしいことなんですが、僕はその時、よく分かっていませんでした。今思えば、うさばらしだったんだと思います。その頃、僕には妹が生まれていました。母もおばあちゃんもひいおじいちゃんも妹にかかりきりで、僕はそれが面白くなかったんです。
 だけどその時は分かっていませんでした。母にもおばあちゃんにもひいおじいちゃんにも妹を可愛がる良いお兄ちゃんだって言われていたし、母を手伝って良い子だって言われていたので、それで納得しているつもりだったんです。なのに、リモーたちとする悪いことのスリルにハマってしまいました。だから、スリルが欲しかったからと言えば良かったはずなんですけど、体が小さい僕にしかできないことに使えて便利だって言われるのも嬉しかったので、それも違う気がして、だから僕はその時一人だけ嘘をついたんです。姫様にバカな子だと思われたくなくて、見栄をはったんです。それで楽器が欲しかったからって言いました。どの楽器と聞かれ、その時頭に浮かんだものを言いました。ひいおじいちゃんがジャズが好きで」
「それがそのサックス?」
「そうです。姫様はこれをお与え下さいました。そして課題曲を出されました。三週間後に聴かせるように仰られ、もしダメだったら刑務所行きと。一生懸命練習しました。母には教区の普及団体に借りたと言いました。姫様にそう言うように言われていたからで、でも本当に普及団体から借りたことになっていました。三週間後、姫様は本当に聴きにいらっしゃいました。そこはまだ建設中だった御堂でした。母はちょっと気絶しました。おばあちゃんとひいおじいちゃんが死ななかったのは良かったです。姫様は“前に来た時に”って僕とのことを真実と嘘を混ぜてお話しになりました。ぱくぱく口を動かす大人を見て、姫様はとても嬉しそうだったことを覚えています。姫様は妹に祝福もお与えくださいました。……実は、ちょっとそれが今も羨ましくて、悔しいんです。
 僕の演奏の結果はというと、ヘタクソと切り捨てられました。僕はこれで刑務所に行くんだ、家族にも本当のことをバラされるんだと泣いてしまいましたが、姫様は笑って仰るのです『だけど努力は見えたから、それ、これからも貸しておくわ。飽きたら売ってもいいわよ』――もちろん売るはずがありません。ここだけの話、これを姫様に頂いたことを知ってるのは家族だけなんです、仲間には母に買ってもらったことにしてるんです」
「それで、今も吹いてるの?」
「もちろんです。いつか姫様の御前で演奏して、その時こそはご満足いただくことが今の夢です」
 リプスの瞳は輝いている。
 ニトロが彼と出会ったのはつい先刻、人の少ない早朝にちょっと気になっていた史跡たてものを観て帰って来た時のことだった。
 彼は王女とその『恋人』の泊まるホテルの前で、あまりに切羽詰っていた。その形相はそれを目撃したニトロが思わず凝視してしまったほどであった。すると彼は自分が誰かに見られていることに気づき、その相手が『ニトロ・ポルカト』であることにも気づくや話を聞いて欲しいと駆け寄ってきたのである。ニトロは焦った。ホテルの周辺には『ティディア・マニア』も大勢いて、そこで騒ぎになることを恐れたニトロは――渋々指示を出してくれた芍薬に従い――慌てて彼をこの24時間営業のレストランに連れてきた。そして個室に入って腰を落ちつける間もなく彼が話し出したのが、およそ四年前のその話。
 ニトロは訊ねた。
「てことは、俺に聞いて欲しい話ってのはティディアに聴いて欲しいって伝えることかな? だとしたら」
「いいえ!」
 激しく頭を振って、リプスは言う。
「違います。それは僕がいつか実力で!――できたらのことですが……ただニトロさんにもこのお話を知って欲しかったんです。関係者以外に話したらダメだと禁じられているので直接――」
「じゃあダメじゃん」
「え?」
「いや、直接話すしかなかったって言いたいんだろうけど、そもそも関係者以外にはいけないんでしょ?」
「だってニトロさんは関係者ですよ?」
「あー……そういう」
 苦笑するニトロの一方、リプスの顔からは血の気が引き始めていた。
「え? ダメでしたか?」
「うん……ダメだね。その関係者はね、その時だけに限定した『関係者』だよ」
「ええ!?」
 リプスの顔が蒼白となる。
「大変だ! すいません! 僕にはそういうところがあるってリモーにも言われてるんです! あの、ニトロさん……――」
 もはや土気色な顔でこちらを窺うリプスのこの上ない嘆願の眼にニトロは苦笑し、
「いいよ、聞かなかったことにするから」
 そしてリプスの了解の下、後のトラブル防止のために録音機能を働かせていたモバイルに目を移す。その画面には自分と同じく苦笑している芍薬のデフォルメ肖像シェイプがあった。マスターの視線に気づくと芍薬はフキダシを表し、そこに『見下し名言リミックス』の値段を表示する。王家の運営企業から発売されたシリアル付きの正規品は今や7桁を超えていた。芍薬は肩をすくめて頭を左右に振り――それだけだった。
 ニトロはリプスに目を戻し、
「それと君の話に嘘はないって確認取れたから、録音も消しておく」
「本当ですか!?」
「うん。信用してもらうしかないけれど……」
「信用します。信用しますけど、できれば誓っていただけたらもっと信用します」
 リプスの着る制服には国教会系の学校によく見る意匠が記されている。『誓い』などと大仰なことを言われてニトロはぎょっとしたが、すぐに納得し、
「いいけど、何に誓おうか。神様でいいのかな」
「正義をしろしめたもう神様はもちろんですけど、偉大な姫様の紅白――じゃなくて!」
 慌ててリプスは頭を振った。
「紅白?」
 問いかけられるや彼の顔は真っ赤に染まる。
「あの、ニトロさんに、すいません! あの……ッこれは僕たちの絶対の誓いで、あの時……ああ、もうこれ以上は!」
 ああ、と、ニトロは悟る。もう苦笑いが顔に貼りつきそうだ。なるほど――目に焼きついちゃっているだけでなく、しかも崇められているのか。それが。
「いいよ別に、俺が気にすることなんてないし」
「ですよね! だって見「慣れてるとかじゃなくてね!」
「わ、またツッコンでもらった!」
 ツッコミというなら関係者云々の方がよっぽどツッコミだったと思うのだが、そちらはカウントすらされていないらしい。リプスは頭を抱えかねない様子のニトロを不思議そうに見ていた。
「よし、誓うより証拠だ」
 頭を抱えるかわりにニトロはモバイルを掴み、リプスに押し付けるように画面を見せる。
「同期も自動バックアップも自動公開もしていない。確認したね? 消すよ?」
「――ああ、安心しました」
 リプスのその言葉で芍薬が仕事を終えたことを知り、ニトロはモバイルをポケットにしまった。
「でも、僕たちは本当にラッキーでした」
 そろそろ話も終える頃だと察したらしいリプスが、深く感慨を込めて言う。
「僕たちは姫様に『もう悪いことをしちゃダメよ』と言われました。姫様は本当に素晴らしいお方です。なぜあんなにもあの方のお声は心に、魂に響くのでしょう。姫様のそのお言葉も魔法でした。僕たちは、このことは皆で確認し合うたびに一致するんですが、僕たちはそのお言葉には絶対に逆らってはいけないと思っているし、それよりもっと……そうです、信じているんです。だから僕たちはあの紅白に誓って悪いことをしていませんし、もうしません」
 ……一度言ってしまったが故にさらに口が軽くなったのだろうが、ニトロは苦笑とツッコミを封印した。
「あの場にいなかった他の仲間たちは、僕たちが何か大変なことに巻き込まれたらしいって自然と離れていきました。今は普通にやっているのが多いですが、なかには本当に後戻りできなくなった奴らもいます。普通にやっているのだって、その普通が本当に普通なのか分からない奴もいます。でも僕たちには信じられるものがあって、それが支えになっています」
「……」
「悪いことをしちゃダメだって、普通で、当たり前のことですよね。その当たり前のことを信じられるって、素晴らしいことだと思うんです」
「そうなのかもね」
「そうなんですよ、ニトロさん!」
 リプスは身を乗り出し、瞳をキラキラと輝かせる。
「だから、だから、あそこに僕がいたのは、ただ一言だけでいいので姫様に、ティディア様に言いたかったからなんです。そのチャンスがないかって、待ってたんです」
「何て言いたかったんだい?」
「ありがとうございますって。姫様は僕たちのことなんてお忘れになったでしょうけど、皆を代表して――僕は皆と相談せずに勝手に来ちゃったんですけど、でもありがとうございますって、聞こえなくてもいいから、聞こえたら最高ですけど、ただどうしても姫様にそうお伝えしたかったんです。いえ、ニトロさんが代わりにお伝えくださらなくても大丈夫です。えっと、そうでした。それで僕がニトロさんにこのお話を聞いて欲しかった一番の理由は、ニトロさんは姫様の大事な方ですから、ただ僕たちの姫様への感謝をお知りいただきたかったからなんです」

 その駅前広場の一角には誰でも使えるパフォーマンス・スペースがあった。
 程よい間隔で三箇所。一回あたりの持ち時間は30分。次に利用希望者がいなければ連続使用も可能である。
 それにしても今夜は盛況だった。昨日から大礼拝堂の落成式、及び各種施設への慰問のために第一王位継承者がこの領都に滞在していることから人出も多く、その耳目を掴むためにどのスペースにも利用希望者が列をなし、大道芸、話芸や一人芝居、ソロプレイヤーからバンドまで、種々様々にも皆々懸命に演じている。その活気は北大陸南岸のゆったりとした晩春の星空の下、まるで今すぐ盛夏を先取りしてしまおうというようだ。
 現在の演者は右端にヴァイオリニスト、中央は交替中、そして左端にサックスプレイヤーである。
 ヴァイオリニストは大ヒット映画のテーマ曲でオーディエンスを集めていた。
 中央は次に大道芸人が立つらしい。ここでは有名な者らしく既に人が集まり始めている。
 サックスプレイヤーはジャズの有名な曲を吹いているが、人はまばらに立ち止まり、立ち去っていく。はっきりとオーディエンスと言えるのは二人だけだ。それも一人は中央の芸の始まるまでの暇潰しのようである。
 ただ、この広場には演者の傍に集まらずとも、そこかしこにあるベンチに座り、あるいは適当な場所に落ち着いてそれぞれのスペースへ耳目を寄せている者も多い。その中に、広場に面する大手チェーンのコーヒーショップからカップを手に出てきた少年が二人、植え込みを背にするベンチに空きを見つけて腰を下ろした。
「あの制服、ここらで一番の進学校のものでした」
「へえ。やっぱり国教会系?」
「そしてお坊ちゃん校でもあるようです」
「あ、そうなんだ」
 サックスプレイヤーを一瞥し、テクノスタイルのサングラスをかけたハラキリが続ける。
「で、どう思います?」
 問われ、こちらもテクノスタイルのサングラスをかけるニトロは考えた。二人して、しかも揃いの太いストライプのスーツ姿で並んでいると順番待ちのパフォーマーのようである。ニトロは音楽に疎い自分の感想が合っているかどうかと自問しながら、いつもより低い声で言う。
「丁寧だと思うよ。――で、どう思う?」
「あれでは音符をなぞっているだけです」
「手厳しいなあ」
「しかし大体同じ感想でしょう?」
 そう言われればそうかもしれない。ニトロはサックスプレイヤーを眺めた。
「……でも、楽しそうだ」
「それは確かに」
 と、その時、二人の間に無理矢理尻をねじ込んでくる女があった。
 ニトロは舌打ちし、座るだけならまだしも肩を寄せてきた相手を押しのけ、
「なんでここにいんだよ」
 するとニトロに押されて自分に迫ってきた女を押し返し、結果として直立した女を挟んでハラキリが目立たぬように言う。
「ボクがご説明の上、ご招待しました」
「おい親友」
「まあまあ、君もボクに喋って『誓い』を破ったんだからいいでしょう?」
「いや破るも何もお前が勝手にほとんど聴いてたんじゃねえか」
 そう、ハラキリはリプスを連れてレストランに逃げ込むニトロを目撃し、念のために跡をつけてきていたのだ。そして盗み聞きしていた。共犯者は芍薬である。だが、それをニトロが怒ることはできない。実際、芍薬の判断通り、その状況で助っ人として適任だったのは親友だけだったし、そもそもいくら騒ぎを恐れたからってリプスをレストランに連れ込むことはなかったのだ。それは彼の判断ミスである。そのミスを誘発したのはもちろんリプスの切羽詰った表情だったのだが……
「で、どう思う?」
 それは、結果としては良かったのだろうか? さらに悪かったのだろうか。リプスの決意を思えば悪かったに違いない。しかし、自分にとってはどうだろうか。問われた女は足を組み、
「やっぱり才能はないわね」
 ニトロは苦く笑った。
「容赦ないな」
「だけど随分上手くなった」
「……」
「進みは牛歩。でもゆっくり緩やかに右肩上がり」
 少年達と同じコーヒーショップのカップを手に、やっぱりテクノスタイルのサングラスにストライプスーツ。三人並ぶといよいよ順番待ちのパフォーマーだ。その中で紅一点は華やかな声をしっとりとしたビロードの声に装い、
「そこにその楽器を始めてすぐ教師が確信するような、それともそれを聴いた人が魅了されるような天賦の才はないけれど」
 少年は次の曲に移る。これもまたニトロも知っているほど有名なジャズの曲。ティディアは微笑み、
「一つのことを熱心に続けられる力もまた才能、って言うわね」
「そう聞きますね」
 ハラキリが合いの手を入れる。
 ティディアはキャラメルラテを一口。
「その才能が“才能のない天性”をぶち壊すことがあれば、それは未来のお楽しみ。でなくとも本人の人生を彩ればそれでよし」
「……」
 ニトロはカプチーノを飲む。ハラキリはブラックコーヒーを。ティディアはキャラメルラテをもう一口飲もうとして、ラメ散る紫のリップを引いた唇を飲み口に触れる直前で止めた。
「すっごく楽しそうなのにねー。なんでそれを音に乗せられないのかしら」
 不満そうな彼女にニトロは思わず笑ってしまう。
 そして彼はしばし黙し、やがてゆっくり息を夜に溶け込ませ、
「そういや、お前がボクシングのプロライセンスを取った頃、色々真偽不明のおっそろしい動画が出回ってたことを思い出したよ」
「未だに色々真偽不明ね、それで?」
「……お前は本当にどうかしてる」
「そういえばあの日、それを聞いた妹は泡を吹いて気絶しそうになっていたわ」
「お前。
 てか、ホントによくお倒れにならなかったな」
「私が『よいしょお』って言ったら『よいしょお』って踏ん張った」
「? 想像できないよ?」
 ティディアは小さく笑う。
「もう、一体何を想像しようとしているの? エッチ」
「いやエッチて。今そんな話はしてないだろ?」
「こっちも想像できないほどおかしい話をした覚えはないもの。てことはやっぱりエッチなの」
「お前。
 いやだからおかしいのはそもそもお前だって話だ。相手も相手にしたってったことは悪辣だし、それに本当に負けたらどうするつもりだったんだよ」
「その時は、もちろんその時で」
 女の唇には姦計と毒気を愉悦でくるんだ笑みがある。少年は、息をついた。
「まあ……お前はそういう奴だよな」
「でもそんなに言うってことは、ひょっとして心配してくれていたの?」
「過去をどうやって心配するんだ?」
「現在からすれば、その過去に不安を抱いてくれるだけで嬉しいものよ。それとも負けていた方が良かった? もしそうなっていたら私があなたと出会う現在は無かったかもしれないから」
「怒るぞ、わりと本気で」
 ティディアはぞくぞくと背筋を撫でられるような快感にたまらずふるりと震え、ぐっと頬を固めた少年をじっと見つめた。すると彼はその視線から顔を背け、ふと嘆息し、
「何だ? 『かもしれない』ってことはそれでも俺を相方にしてた可能性があるってことか?」
「そう思わない?」
「絶対にそう思わない」
「ふふ。ま、安心させたいわけじゃないけれど――その時はきっと兵隊さんが助けてくれていたでしょうね」
「……その助ける相手に殺すと言われているのに?」
「ええ。そしてその相手は確かに殺したでしょう」
「どんな暴君だ」
「確かめてみる?」
「御免被る」
「で、そのお三方にはどんな処分を科したんです?」
 ふいにハラキリが嘴を突っ込んできた。ニトロはそれが気になりつつも問わずにおこうと思っていたのだが、
「頭ガッチガチの上司と一緒に古今東西の『ドッキリ』の名作を1000本、駄作を1000本、それぞれに問題作って言われているのを100本混ぜて。ノンストップで」
「拷問じゃねぇか」
「お陰で今では気が利くようになったわー」
「この暴君が」
「ふっふー。
 ――でもね、もう一つ」
「何だよ、他に何かビックリするようなことでもあんのか? 実は本当に『ドッキリ』で全部仕込みだったとか。つかそれだと今も『ドッキリ』の真っ最中?」
「いいえ、でも仕込みといえば仕込み。さあクイズです。あの時命令されたのは確かに三人だけでした。では?」
「……」
 ニトロはまたも苦く笑う。そういえば、あのズバ抜けて変装上手な女執事はどこにいるのだろう。ここにいるのも三人だけ。ハラキリは愉快そうだ。ティディアも愉快そうに舌を出す。
「もちろん、それを当てにしていたわけじゃないけどね?」
「ああ、そうだろうよ」
 ニトロはカプチーノを飲み、ふいに口角を引き上げる。
「お前の紅白に誓って、信用するさ」
 ティディアはきょとんと呆けた。
 一方でハラキリがコーヒーを噴き出しそうになって慌ててそっぽを向いた。彼にしては珍しいほど必死に笑い声を抑えているのが肩の震え方からよく判る。
 一人取り残されたティディアは、途端にむくれた。
「何よそれ」
 ドスの効いた彼女の声――それを聞けばどれだけの人間が恐れるか判らぬ問いに、ニトロは軽く肩をすくめてみせる。
「ただのクイズだよ」
「やー、何よー」
 面白くなさそうに唇を尖らせティディアはぶぅ垂れる。
 しかしニトロは取り合わず、楽しげにサックスを吹く少年を眺めた。
 夜空に向けて高らかに鳴る音は、とても澄み渡っていた。

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