行き先迷って未来に願って

 テレビ局が『王女様とその恋人』――かつ、素晴らしい視聴率を弾き出してくれる出演者――かつ、『番組への出資者とその未来の夫』のために用意した楽屋。
 ここはまさに貴賓室そのもので、肘を突くテーブルは磨きこまれた木目が美しいラミラス星製の逸品、椅子は、人間工学に基づき最高のデザイナーが生み出した最高級品。かといって内装は豪華絢爛を避け何時間でもくつろげる穏やかな空間としてあり、実際、居心地がいい。
 普段『ニトロ・ポルカト』としての特別扱いを嫌うニトロも、ここは気に入っていた。
 居心地がいいこともあるが、理由はそれだけではない。部屋は一国の王女を迎えるためだけあってセキュリティが充実しており、常に待機しているアンドロイドは当然のごとく警備用の最高スペック――加えて、ニトロがこの部屋にいる時はその制御権を全て、彼のA.I.が握ることを許可されているがために。
 だが、漫才の収録を控えた現在、居心地のいい気に入りの場所にいるというのにニトロの顔からはほとんど表情が消え、代わりに険しさにも似た影が満ちていた。
 ロイヤルミルクティーが注がれたティーカップに口をつける度、その時だけは頬をほころばせているが、それ以外はむしろ虚ろに近い瞳で、彼は手にする板晶画面ボードスクリーンを見つめ続けていた。
「―― 」
 音にならぬほど小さく息を吐いて、ニトロは板晶画面ボードスクリーンをカップの横に置いた。その眼は相変わらず画面に固定されている。腕を組み、かすかに顔をしかめたニトロは、まるで画面に表示されている文面から宇宙の真理を見出そうとしているかのようでもあった。
(……悩んでいますねぇ)
 テーブルを挟みニトロの対面に座る友人は、彼の様子を眺め胸中にそうこぼした。
「んふふ」
 と、ふいに、テーブルの端から小さな笑いがこぼれた。
 ハラキリはニトロがそれを一瞥したのを見たが、しかし彼はそれ以上の反応は見せず、またボードスクリーンに目を落とした。彼の傍らには中性に形造られたアンドロイドが楚々として立ち控えている。
 今。一度セキュリティが間違った方向に作動すれば救援が内に入ることができなくなる楽屋には、四人の人間がいる。皆々テーブルの前にいて、ニトロ、その対面にハラキリ、そして大きく空白を置いてニトロの横にセミロングの女性、その対面にその女執事と座している。
 身を乗り出し手を伸ばせば互いが触れ合える距離だ。無論、ティディアが一足飛びでニトロに抱きつくことができる間合いでもある。
 にも関わらず、この状況でニトロが全く警戒心を持たず、無防備とも言える様子で最凶の天敵をよそに目の前の難問に意識を集中できているのはひとえにそのアンドロイドの存在があればこそだった。
 アンドロイドはニトロとティディアの間にいつでも割り入れる絶妙な位置に陣取り、立ち居からは警戒心を微塵とも感じることはできないが、その人間よりも数多くの情報を拾える眼はもくもくと一心不乱に口を動かす女二人を油断なく監視している。
 ――それでも以前は、これと同じ状況であっても、ニトロは警戒心を剥き出しにしていたものだ。芍薬という献身的なオリジナルA.I.の実力を知ってはいても、肉食獣と同じ檻に入れられた草食動物のごとく、そわそわと落ち着きもなく。
 だが、その面影はどこにもない。
 それは彼が以前よりも心身ともに強くなったからか、それとも芍薬への信頼をより強いものとしたためか……あるいは、その両方か。
 ハラキリは、ロイヤルミルクティーを一口喉に流した。上品な香りと朗らかな甘味とが、胃も肺も心も潤していく。
(うん)
 美味しいと、ハラキリは思った。
 芍薬が自分のA.I.のサポートであった時は、茶のような嗜好品に関する技量は皆無に等しかった。当時はそれを必要とすることもなかったから、芍薬自身興味もなかったはずだ。
 それがニトロのA.I.になった後、撫子に色々と教わりに来ていたことは知っている。しかし、今日初めて飲んだ芍薬の淹れたロイヤルミルクティーのこの味は撫子のレシピにはないものだった。むしろ芍薬の『母』の味よりも、ニトロの部屋を訪れた時に出されたハーブティーに感心したことを思い出させられる。
「ふふ」
 横手から幸福を噛み締める吐息が再びこぼれた。
 ……彼女が噛み締めているのは、ニトロの味
 ハラキリはロイヤルミルクティーをもう一度含み、芍薬が手に入れたポルカト家の味を悠々と堪能した。
「……」
 ニトロは相変わらず板晶画面ボードスクリーンを見つめ続けている。
 例え穴が開くほど見つめたところで、見つめるだけでそこに答えが書き込まれることはないと解っているだろうに。
「適当に、合格圏内の大学名でも書いておけばいいんじゃないですか」
 なんとなく気分が良く、ハラキリは言った。
「ニトロ君は『とりあえず大学』でしょう?」
 ニトロは、親友のその問いかけが意外だと目を丸くした。
 画面上で白々と輝き頭を悩ませ続ける文書ファイル……それは、先週クラスの担任から配布された進路面談の日程通知書、同時に、進路志望書だった。
 高校三年生となって一ヶ月あまり。二年生時の志望書には『進学希望(理系・文系)』や『就職希望』程度にでも書いておけば許された進路も、志望する進路によってカリキュラムが区別される後期授業に向けて具体的にしていかねばならない時期だ。少なくとも進学なら希望する大学名を、就職ならば希望する職種や会社名をと、明確な――実現可能な――目標を書き出さねばならない。
 ニトロは、ハラキリが他人の人生に自ら干渉していくような性格ではないことは知っている。それがどうしたことか……いや親友が自分の人生に積極的に関わろうという意志を示してくれたことは正直嬉しいのだが、それがあまりに突然のことだったから戸惑いがどうしても先に立ってしまう。
「いやいや、そんな鳩が豆鉄砲食らったような顔をしなくても」
 ハラキリは苦笑混じりに言うが、ニトロはすぐに言い返した。
「驚くさ。ハラキリ、これもらった時に何て言ったよ」
「なんて言いましたっけ」
「俺がどうしようかなって言ったら『自分で考えて決めるものです』って相談する余地までさっくりばっさり先制攻撃で切り捨ててくれた」
「ああ、あれはやっぱり相談に乗ってくれと促していたんですね」
「やっぱりってお前……っつーか覚えてるじゃないか」
「思い出したんですよ」
 何食わぬ顔でロイヤルミルクティーを飲むハラキリに、ニトロは友達が助言を求めているのに気づいてるんならもう少しこう親切に――などと文句をくれてやりたくなったが、まあここで相談に乗ってくれるならと一つ息を吐いて気を取り直し、ボードスクリーンをとんとんと指で叩いた。
 画面に表示されている文書プリントには、学籍番号順に面談の日時と、それから記入欄が二つ書かれている。
 その一つは面談を日程通りに受けられるか否かを答える欄だ。日程に問題がなければ欄には何も記さず、外せない予定がある場合は理由を明記し代替の希望日を入力するように求められている。ニトロはそこを空欄のままにしていた。
 もう一つは三つに分割されていて、それぞれ進路の第一から第三希望までを記すように求められている。ニトロはそこも空欄のままにしていた。
 文書プリント提出の締め切りは、明日の正午までだ。遅れれば進路指導室に呼び出される。
「……ハラキリは、なんて書いた?」
「ハレイ外国語大学文学部外国文学科 ラトラダ大学教養学部外国文学科 ウェジィ芸術大学文芸学部セスカニアン文学科」
 ハラキリは一息で、ほとんど区切りを入れずに言った。
 思わず、ニトロは呆気に取られた。
 そう自分のことを語らないハラキリのことだ。『なんて書いた?』という問いへの答えは絶対に渋るだろうと思っていたから、完全に意表を突かれてしまった。
 何とか耳に残るハラキリの言葉を頭の中で繰り返し、それらが王都の中で特別有名ではないが無名でもない……ランクで言うなら中と上のボーダーラインにある大学の名だと理解し、同時にそこにあった一貫性にも気づく。
 新鮮な驚きがあった。ニトロは興味津々と目を輝かせ、新しい一面を見せた親友に言った。
「へえ、外国文学が好きだったんだ」
「飛びぬけて好きというわけではありませんけどね」
 ニトロは、眉をひそめた。
「何か引っかかる言い方だな。特に関心はないって言っているように聞こえるんだけど」
「ええ、特別な関心があるわけではありませんから」
「……じゃあ、なんで?」
「拙者はほら、外国語と体育が得意、ということになってますから」
「ああ、そういうことか」
 新鮮な驚きが急速にしわがれていくのを感じながら、ニトロはため息をついた。
 ハラキリの学校での成績は真ん中より少し下。普段自分と話している時は博識な彼のこと、絶対に真の実力は学年トップクラスにあるはずだが、目立つのが嫌いだからと手を抜き続けているのだ。
 さすがに全教科を悪くすれば逆に目立ってしまうので、全科目の成績はバランスよく悪くされている。そして得意科目の一つ程度と外国語だけは頭一つ抜けさせて、また、体操着に着替える時にクラスメートにその引き締まった体を見られるために体育もそこそこ得意ということに調節している。彼の成績表を覗き見た時、その素晴らしいお茶の濁しっぷりに器用なものだと舌を巻いたものだ。
 しかし……それならば確かに、ハラキリが外国文学科を専攻しようというのは至極当然の流れ。担任もクラスメートも誰も不思議に思うまい。当然過ぎて、それ以上の興味を示すこともないだろう。
 ニトロはロイヤルミルクティーのおかわりを芍薬に頼んでいるハラキリを――世間向きには己の本当の実力を巧妙に隠し続ける親友を半眼で眺めて、やおら苦笑した。
「どうしました?」
 ニトロの笑いが自分に向いているものだと察して、ハラキリが問う。
「本当にさ、ハラキリがなりたいものって何だろうなって思ってね」
「突然、なんです」
 今度はハラキリが眉をひそめた。
 ニトロは笑みを誤魔化すようにティーカップに口をつけ、ついでに自分も二杯目をもらおうと楽屋の隅に用意された小さな流し台にいる芍薬へ声をかけた。それからハラキリに向き直り、
「前にハラキリ、『裏の仕事』は廃業って言ってたろ?」
「ええ」
 すぐに返ってきたうなずきに、はたと、ニトロは思った。
「あ、でも、そういや神技の民ドワーフ関係の仕事は続けてるみたいだけど」
 ハラキリはニトロのどこかたしなめるような眼に軽く肩をすくめた。
神技の民ドワーフとのコネがあって悪いことはありませんからね。それに、まあ表立って大声で言えることではありませんが、『裏』と言い切るには少々違うと思いますよ?」
「…………」
 確かに、神技の民ドワーフは全世界において多大な貢献をしている。一方で呪物ナイトメアなんて迷惑千万極まりないものを作り出す危険な集団でもあるが、素子生命ナノマシン、ワープ航法、その他彼らからもたらされた技術無しに現在の宇宙文明の発展は成り立たないと言っても過言ではない。
 色々と、色々と神技の民ドワーフに関しては文句のあるニトロではあったが、同時にその神技の民が作り出したものに救われてきたのは事実だ。日々の生活をサポートし、この心身を守ってくれる芍薬――オリジナルA.I.も、その作成者が神技の民に迎え入れられたことで世に広められ、また一国一企業に独占されることなく世界中の誰もが手に入れられるものとなった。
 ハラキリの言う通り、その存在を世界の『裏側』ものだと言い切ることは間違いだろう。だとしても、ハラキリも言うように神技の民と関係があることは簡単に他言できることでないのも紛う方なき事実だ。
 神技の民との繋がりは往々にして『国家機密』にされる。それは、それだけその技術が国際的にも重要で希少なもののためであると同時に、その技術には莫大な利益が埋もれているために。そしてそこに群がる連中は、もちろん善人だけではないために。
 ニトロは渋面にも近い顔つきでハラキリを見つめ、言った。
「……ほどほどに」
「節度は守ります」
 ハラキリがそう言うなら、ほのかにある不安もただの杞憂に終わるだろう。ひとまず安心し、ニトロは話を戻した。
「それで廃業って言った時、他にやりたいことがあるって言ってたろ?」
「ええ」
「何?」
「そんな単刀直入な」
 双眸も真剣に真っ直ぐ問いを突きつけられて、ハラキリは困惑に眉を垂れた。
「他人のことより、今は自分のことじゃないんですか?」
「それはそうだけど、参考までに」
「参考になんてなりませんよ」
「参考になるかどうかはこっちが判断することだよ。っていうよりそう言われると余計に知りたくなる」
「それはただの好奇心じゃ……」
「おおとも、好奇心だとも。ハラキリみたいな奴が一体どういう夢を持ってるのか、物凄く知的好奇心をくすぐられるとも」
「私も」
 ぼそっと、コーンスープを飲んでいたティディアがスープカップに口をつけたまま言う。さっきから一言も発さず黙々と主人と同じ弁当を――その箱は主人と違い二つあるが――食べ続けているヴィタも、同意のうなずきを見せていた。
 さて、これはどうやって逃げたものかとハラキリが思案していた時、部屋の隅からアンドロイドが戻ってきた。白磁の上品なティーポットを持ち、ニトロが空にしたカップに煮出し紅茶のミルクティーを注ぎ、次いでハラキリのカップにも茶葉とミルクの香り絡み合い立ち昇る甘やかな液体を注ぐ。
「あたしモ聞キタイ」
 そしてニトロの傍らへの戻り際、芍薬までぼそりと要求した。
 ハラキリは、これは逃げられないなと観念した。正直、自分の情報をあれこれ晒すのは好きではない。真のことならなおさらに。しかし……夢なり目標なりを語り合うのは、それも一つ友達付き合いの醍醐味というものか。
「別に大したことじゃありませんけどね」
 ロイヤルミルクティーを火傷しないよう一口啜り、ハラキリは言った。
「店を開きたいと思っています」
「店?」
 ニトロは、ハラキリの口から飛び出してきた単語を意外な夢だと思ったが、すぐに、むしろ彼に似合っていると思い直した。彼が一般企業で会社員をしている姿を想像する方が難しい。どちらと言うなら自営業の方が向いているタイプだと思う。
「どんな店?」
 それを問うたのは、ティディアだった。手にしたフォークで弁当箱の中から厚く焼かれた玉子焼きを取り出し、半分齧り、口に広がった程よい甘味に頬をほころばせながら答えを待つ。
「雑貨屋……になるんですかね」
「に、なるんですかね?」
 ティディアに向けられていたハラキリの眼が、言葉尻を繰り返して疑問を投げかけたニトロに戻る。
「銀河中を歩いて、その旅行記をWebサイトで紹介しながら誰も買わないような珍品を展示する……それで一体店主はどうやって採算取ってるんだ? と不思議がられるような店をやりたいんです。だから、多分雑貨屋でしょう。それとも骨董屋か」
「何だそれ」
 ニトロは笑った。
 いや、その内容はハラキリらしいと実に深く納得してしまう。だが、それがあまりに彼らしいから、どうにも笑いが込み上げ自然と口を割ってしまう。
「でも、それじゃあ食っていけないだろう」
「そのためにそれなりの貯金をしてから、のつもりでした。幸運なことに既に目処が立ちましたけどね。お陰様で」
 ハラキリはニトロの好意的な――それはきっと友人の夢を理解しているのであろう笑顔を前に、食事を続けながら聞き耳を向けている二人にも同様の表情があるのを目の端にして微笑んだ。そして、続ける。
「しかし、最近はちょっとそれもどうかなと思い始めています」
「――なんで?」
 微笑みながら自らの言葉を翻すようなことを言われ、ニトロが戸惑う。ハラキリは微笑に少し悪戯っぽさを混ぜ、
「今はニトロ君とお姫さんの漫才を『特等席』で眺め続けるのもいいかなーとも思っていますので、そんな長いことアデムメデスを離れるようなことをしては勿体無いかな? と」
 ニトロから戸惑いが消え、不機嫌が現れた。からかうようなハラキリの物言いに対して口の片端を釣り上げ『コノヤロウ』と目で語る。
「それならやっぱり私の下で働きなさいよぅ」
 優雅にロイヤルミルクティーを飲みながらニトロの眼差しを受け流すハラキリに、ティディアが言った。
「特等席の中でも最高の席よ」
「折角ですが、お断りします」
 面白くなさそうにティディアは唇を尖らせた。食事の手を止め、フォークでくるくると宙に円を描く。
「そんなに魅力がないかしら。給与も弾むし、ハラキリ君が店を持ちたいなら無担保無利子で融資するし、仕事だって何も四六時中拘束はしない。今までと同じようにいてくれればいいんだけど」
「貴女の部下になってはこれまでと全く同じとはいかないでしょう。拙者は、貴女と、ニトロ君の『友達』ですから」
「む」
 ティディアはフォークの動きを止めた。『友達』を強調して返してきたハラキリの言い分に、反論はできない。ティディアの配下となればどう理由をつけてもそこにはこれまでとは違う色が付く。その上彼が、友達が友達でいてくれることを望んでくれるなら、それを否定することは彼女の望むところでもなかった。
「それにその席には先客がいますしね」
 ハラキリがそう言うと、ティディアのペースの二倍速で食事を進めるヴィタが、二つ目の弁当箱の蓋を開けながら微笑みうなずいた。それを見て、ティディアは「まあいいか」と言うように吐息をついて食事に戻った。
「そういやヴィタさんは」
 ヴィタに話が振られたことで、ニトロは思い出したように彼女に訊ねた。
「夢とか、ある?」
 彼の問いにヴィタは口に入れたマカロニサラダを咀嚼しつつ思考に目を泳がせ、食べ物を飲み込んでから、
「夢と言うのであれば、今がそうでしょうか」
「今?」
「はい。ティディア様に仕えてから、退屈はありません。仕事はやりがいがあります。ニトロ様もいじれます」
「うをいっ、最後はおかしいだろっ」
「何より、ティディア様とニトロ様が揃えば織り成される愉快な景色を特等席で観られます」
「だからぅをい!」
「私は『面白いこと』が他のどんなことよりも好きです。ですから今が夢そのものです」
 ヴィタは何一つ躊躇うことなく言い切った。涼しげな顔をして、されどマリンブルーの瞳を偽りなく輝かせて。
「――……」
 そこまで目一杯断じられては、ニトロは変に毒気を抜かれてしまって文句を言うことができなかった。いや、その内容はともかく、現実に『夢』を達成していると言うヴィタに心のどこかで羨望を抱いてしまったから、何も言えなくなったのかもしれない。
「ね、ね。ニトロ。私の夢は「却下だ」
 とりあえず嬉々として夢を語り出そうとしたティディアの言葉をニトロは即座に潰した。恨めしそうな視線を感じるが、聞かずとも分かる妄想を聞く余裕はない。今は、ちゃんとした夢を持っていた級友と、夢を叶えている年上の才女を前に、どうにも自分を小さく感じてならず――
「で、ニトロ君は?」
「え?」
 急に話題の矛先を差し向けられ、ニトロはぎょっと目を丸くした。
「いやいや、またそんな鳩がでっかい豆鉄砲食らったような顔をしなくても」
 ハラキリは苦笑混じりに言うが、ニトロは、今度はすぐに言い返すことができなかった。口ごもり、巧い切り返しが思いつかずに沈黙する。
 それをハラキリは不思議な面持ちで眺めていた。ティディアとヴィタは聞き耳を立て、ただ芍薬だけはニトロの心持ちを――おそらくは、その沈黙の原因を――理解していると、落ち着いた様子でマスターの背後に控えている。
 やがて困り顔でうなり出したニトロに、ハラキリは助け舟のつもりで言った。
「夢とか、目標とか、そういうもの。ニトロ君にもあるでしょう?」
 ニトロは――
 それは何よりも急所を突く一撃だったらしい、力なくうなだれてしまった。顔を伏せたまま首を傾げ、ぼやく。
「それが、こう……はっきりとしたのはないんだ」
 どこか自己嫌悪とかすかにハラキリへの羨望を含めて、顔を上げたニトロは苦笑いを浮かべた。
「全く、何もですか?」
「さすがにそこまでじゃないよ。ただ昔っから……ハラキリみたいに店を持ちたいとか、例えば星間航空機スペースシップのパイロットになりたいとか、そういうものがなくてさ。なんとなく、多分普通にサラリーマンになって、家庭を持つんじゃないかな? くらいで」
「それはちゃんとした、立派な夢」
 甘酢の餡に絡められたミートボールを口に運びながら、ティディアが横からそれだけを言った。それだけを言って、ニトロが視線をやったのに意に介さぬとまたもくもくと食事を続ける。エビピラフを食べては好みの味なのかうふふと笑った。
「拙者も、それは何も恥ずかしくない目標だと思いますけどね」
 ――ティディアと、ハラキリ。
 それぞれに『一般人』とは違う世界を見ることのできる二人にそう言われると、それはとても誇らしい目的なのだという妙に重い説得力を感じるが……しかし、
「うん……」
 ニトロは、煮え切らないうめき声を上げた。
「別に専門的な職に就くとか、それとも何か大仰なことを言うことばかりが夢ではないでしょう」
「俺もそうは思うけどね。……まあ、ちょっとしたコンプレックスみたいなもんだったんだ。子どもの頃から友達が『パイロットになるんだ』とか『お姫様の側仕えになる』って言ってる横で、俺は普通にサラリーマンになるんだろうなーなんて思ってる自分が嫌に冷めてる感じがしてさ」
「解らなくはないですけどね」
 ハラキリがニトロのため息混じりのセリフに小さく肩を揺らす。
「それで、まだそのコンプレックスで進路を迷っていると?」
「いや、今は、別にそれが嫌なわけじゃない。サラリーマンになるってのは……公務員だから会社員とはちょっと違うけど、うちの親の楽しそうな姿を見てきているし、それが悪いなんて一つも思っていない」
「では大学進学で、就職に向いていそうな学科に行けばいいじゃないですか」
「……うん……」
 ハラキリはニトロの煮え切らない態度に困惑の色を浮かべた。
 ニトロの言葉だけを並べると何も迷いはないと思える。コンプレックスとてそれはもはや過去の思い出程度に消化していると、明言はせずとも彼はそう言っている。なのに――
 それとも、何か口に出したくない悩みの本質でも抱え込んでいるのだろうか。
「何をそんなに、悩んでいるので?」
 ニトロは渋いものを噛むように言った。
「っつーかね、今さら俺に『普通』ってあると思うか?」
「無いです」
 さらっと断言して、はっと、ハラキリは目を見開いた。
「そうか……」
 ハラキリは、二学年時におおよその進路を調べるための志望書を配られた時、クラスメートに進路を訊かれたニトロが『夢も希望もないよ』と答えていたことを知っている。
 だが、その時の夢や希望の無さはティディアの『結婚会見』を前にしてのもの……もしその会見を成功させてしまえば、世間の圧力も強まりティディアとの結婚から逃れられなくなる絶望を前にしてのものだった。
 だが――今は違う。
 会見に乱入し、ティディアに結婚宣言をさせず、ひとまず世の気配も『王女様の恋の行方を見守る(楽しむ)モード』に落ち着かせた現状では、その恋の結果として『破局』という名の選択肢きぼうを彼は手にしている。
 ――ハラキリは、ニトロが『夢も希望もないよ』と言っていたことを知っていた。
 そしてそのセリフの重みが、今、変わった。
 希望がある中で、夢も希望もない。
 彼がおぼろげながらも思っていた、普通にサラリーマンになって……その未来の、大前提の崩壊
 ティディアと結婚しようが破局しようが、これまで様々な騒動を――その極めつけとでも言うべき『赤と青の魔女』の事件を経て存在感を示してきた『ニトロ・ポルカト』が、今さら元の通りに戻れるはずもない。望みがあるとするならば破局の線だが、それでも世間の記憶から消えるには長い長い年月が必要となるだろう。
 なるほどそりゃあニトロが煮え切らないのもうなずける。選考の基準となるべきところが崩れていたら、何を決めることもできはしまい。
 ハラキリは、固まった肺から息を無理矢理搾り出すように言った。
「それは……困りましたね……」
「困るだろう?」
 袋小路にはまったような面持ちで、ニトロはため息をついた。しかし彼の顔色は、胸を塞いでいた悩みを親友に理解してもらったことで気が楽になったか、いくばくか明るさを取り戻していた。
「――それなら、自営業はどうです? 飲食店とか」
 ニトロとは逆に肩に変な重みを載せられたような気がして眉を垂れるハラキリは、苦し紛れに言った。
「ニトロ君、料理得意じゃないですか」
 ハラキリが目線を隣へ動かすと、ニトロもそれを追って顔をティディアとヴィタに向けた。
 ……どうやら、二人も会話の中にあった重大性に気づいているらしい。
 ティディアはどことなく肩をすくめて身を固め、ヴィタは先まで髪の中に伏せてあった耳をピンと立て、触らぬ神に祟りなしと揃ってあさっての方向へ顔を背けている。
 ニトロはそれでも食事だけは続ける二人に何か意地悪なことを言ってやろうかと思ったが、辞めた。ハラキリの見る弁当箱を一瞥し、彼に向き直って言う。
「売り物にできるほどじゃないって。家庭料理だし」
 ティディアとヴィタが食べている弁当は、ニトロの手作りだった。
 無論、ニトロが彼女らに頼まれたくらいで……特にティディアが喜ぶと判っていて、手間暇かけて手作り弁当を持ってくるはずはない。
 それなのに弁当を作ってくるようになったきっかけは、三ヶ月前のこと。ニトロの実家に、大型のオーブンが備え付けられたこと。
 以前から大きなピザやパンも焼けるオーブンを欲しがりながら、それにはキッチンのリフォームも必要だからと断念していたニトロの父に、去年の末、妻と息子はそのための費用を贈った。そしてリフォームが終わった三ヶ月前の連休に、念願のオーブンを手に入れた父は使用感を確かめるためにもと早速パンを焼いたのだ。
 食べに来いと言われて実家に行ったニトロを待っていたのは、むせ返るほどの芳ばしい焼きたてのパンの香り――そう、むせ返るほどのパンの香りだった。
 種類も様々にパンが並べられたリビングは、まさにベーカリーショップ然として。そこでは喜色満面の父が息子の来訪を喜んで、その横には嬉しそうな夫が嬉しくて満面の笑みの母。
 ニトロはメルトンに言った。なぜ止めなかったと。
 メルトンは答えた。止められるわけねーじゃんと。
 確かに、家に着いた時でさえ、父はパンを焼き続けていた。聞けば次にはデザートにタルトを焼くと言う。えっらい笑顔で得意気に語る父とにこにこうなずく母を見れば、そりゃあこの夫婦を止めるためには、例え実力行使を用いてでも動きを止めてとくとくと説教する必要があったことは明白だった。
 メルトンにそれはできない。というかそもそもそこまで努力しやがらない。
 それができるのは、これだけパンを焼いたら後でどうなるかを考えていない――いや、例え初めは考えていたとしても作ってるうちに楽しくなっちゃってキレイサッパリ加減というものを忘却するような両親にツッコミ慣れた息子だけだ。
 実際、至極冷静にニトロに一言「どうするの?」と咎められた両親は、そこでようやく愕然としてどうしようと言った。
 結局、ニトロは両親と共に出来立てのパンの詰め合わせを近所に配って回り、夕食に三人で食べられるだけ食べ、それでも残ったパンは車に詰め込み途中ハラキリの家に寄って少し荷を減らしてから自宅に持ち帰り、冷凍保存できるパンはそうして、冷蔵庫に入りきらなかったパンや保存の利かないものは翌日が『漫才』の収録日だったことをこれ幸いと、小腹を空かせた人もたくさんいるテレビ局に搬送した。
 父のパンは、好評だった。
 ついでにとニトロが作ってきたサンドイッチも好評だった。
 特にサンドイッチは、ティディアに大好評だった。
 その時、ニトロは気づいたのだ。
 自分の作ってきたサンドイッチを食べているティディアは、毎日最高のシェフの料理を食っているんだろうに何をそんなに美味しそうな顔をするのか、ゆっくりじっくり噛み締め黙々として大人しいと。
 ――次の収録日、ニトロは試しに弁当を作ってきて「材料が余った」と一つティディアにやってみた。
 それまで楽屋にいる間は常に『お話したくてたまらないオーラ』を撒き散らし、芍薬の監視下でも隙あらば色仕掛けをしてこようとしていたティディアは、ニトロの手作り弁当に驚喜した後は弁当をもくもくと黙々と食べ続け目を疑うほど静かになった。
 以来、ティディアは収録前には食事を抜いてまで弁当を心待ちにしていて、いつの間にやらそっと二つ弁当箱を重ね合わせて差し出してきたヴィタの分も併せて、ニトロは二人を大人しくさせておけるならと弁当を作り続けている。
 もっとも、冷凍食品を――黎明期の大昔ならともかくプロ並の味を誇る現在の冷凍食品であっても、それを使うと目ざとく手作りじゃないとブーたれる二人の世話をするのはなかなか骨のいる作業であり、やれ今度は何を入れてだの今度はコーンスープも作ってきてだのと要求が増しているのが厄介なところではあるが……
「家庭料理とは言ってもそれを売りにする店もありますし、厨房に引っ込んでいれば素性もばれませんよ? 注文受けるのも運ぶのも芍薬に任せて、他に人を雇わず二人でやれば外に情報も出ないでしょう」
 いいことを思いついたとばかりに言うハラキリにニトロは苦笑して、
「労働基準法に引っかかるんじゃないかな」
 賃金を必要としないアンドロイドを労働力として使用することを無制限に認めてしまえば企業は人を雇わなくなる――アンドロイドが開発され出した当初、その雇用不安のうねりは法に雇用者は人間を雇わねばならないことを約束させた。
 その動きは特定の一国の中だけでなく銀河中で起こっており、ほぼ全ての国で基準は違えど同様の法律が規定されている。アデムメデスでは、事業規模や内容にもよるが、個人経営の飲食店で許可されるのは概ね勤務実体のある被雇用者五人に対してアンドロイドが一体だ。
「それに下手すりゃ王族が常連になる。そうなったら素性もバレバレだよ」
 ニトロが促した先では、あさっての方向に顔を背けたまま王女様が顎を動かしている。
「ああ、そうか。そうでした」
 そこまで考えが及ばなかったとハラキリは天を仰いだ。
 ニトロは、珍しいなと思った。
 博識で頭の回転が早く、いつも飄々として滅多なことでは動じないハラキリが、自分から切り出してきた『相談』に対して変に不器用な面を見せている。不慣れなことに挑戦している人を見ている感じすらある。
「……」
 そうだ。
 ハラキリは他人とこういう相談をすることに、きっと慣れていないのだ。
「就職するにしても色眼鏡はあるでしょうしねえ。引く手数多ではあるでしょうが……
 ……こうなったら、まずはおひいさんを諦めさせるというのは?」
「当面の目標ではあるけど、それを進路や夢にまでするのは何かこう虚しくないか? つーか志望書に書けるこっちゃないし」
「ですよねぇ」
 腕組みをして首を傾げるハラキリの姿に、ニトロは胸中に笑いをこぼしていた。
 友は何か一つはっきりとした『答え』になる結論を導かねばならないと思っているのだろうが、そんなことはない。話を聞いてくれたことだけでも十分だ。
 それに……実際のところ、毎日この件について芍薬と話すうちに『答え』への見当はついていた。なのにそれでも悩み続けていたのは、本当にそれでいいのかと、その思いが心の底でくすぶり続けていたから。
(……そういや……)
 ふと、ニトロはティディアを一瞥した。
 彼女は『普通』を無くした原因への責めがこないことを察して背けていた顔を戻し、エビピラフを数口残すばかりの弁当を熱心に食べている。
 ――いくら手作り弁当を食べている時は大人しいとはいえ、それは不思議なことだった。
 ずっと将来を話題にしているのに、数回くちばしを挟んできたくらいであとは黙っている。こういう場合は『私の夫になって夫婦漫才するのがニトロの進路よ』とでも言ってくるのが彼女の常套だろうに……
「いっそのこと外星がいこくに行くって手もありますが」
「それはダメ」
 ティディアがハラキリに釘を刺す。久々に声を発したが、それ以降は何も言わずエビピラフを食べ終え、果物用に別にしていた容器を開けてイチゴをぱくつく。
 少し……ティディアの口数の少なさが不気味ではあったが、元々何を考えているのか判らない奴だ。ニトロは考えても仕方がないと、いつしか長考に入ったハラキリに意識を戻し、言った。
「まあ、今のところは、適当に合格圏内の大学名でも書くしかないかな。やっぱり」
 ハラキリは目を上げた。ニトロが言ったセリフは、先ほど自分が言った言葉の言い換えだった。
「モラトリアム……だったっけ? 大学に行って四年間じっくりどうするか考えることにするよ」
 ニトロは冗談っぽく笑った。
 芍薬と話すうちに見当が付いていた『答え』は、悪く言えば問題の先延ばしだった。何をどう考えても将来のビジョンにクレイジー・プリンセスが乱入してくる現状では最善の選択はそれしかない、と。
「もしかしたら、それは甘えなのかもしれないけど」
 それでもニトロが本当にそれでいいのかと悩んでいたのは、その『甘えているのでは』という自問があったためだった。
 ――自分の身近には凄い奴がいる。
 ハラキリ、ヴィタ……そして、認めざるを得ない、ティディア。
 才覚に溢れ確かな実力を備えた三人が、しかし己が持つ力に溺れず己を磨き上げ続けていることを、ニトロは彼らが交わす会話の端々から悟っていた。
 だから、自分の置かれている状況が例えどんなに厳しいものであっても、それを言い訳にして、自分の将来もはっきりさせられず、その重大な問題を取り残したままひとまず時間的な猶予を得るために大学進学をしようと思うことは、もしかしたらひどく恥ずかしい甘えなのではと思い悩んでいた。
 だが、尊敬する『師匠』に親身になってもらって、おまけに――意地の悪い思い方かもしれないが――自分と同じように結論を出せずにいる姿を見た今は妙に心が軽い。
 ようやく、踏ん切りがついた。
「それで、いいんじゃないですか?」
 ハラキリは小さな笑みを返した。
「しかしそれが甘えだとは、拙者は思いませんけどね」
 ニトロは笑顔を深め、目で小さく感謝の礼をした。その言葉に、そして、相談に乗ってくれたことに。
「さて」
 と、コーンスープを飲み干し弁当箱の蓋を閉め、ティディアが言った。
「それなら王家うちの大学に来ない?」
 軽く腰を浮かして椅子ごとニトロに寄っていき、途中で身を割り込ませてきたアンドロイドに止められたところで腰を落とし、さっきまでの大人しさが嘘のように瞳を輝かせる。
「教授陣も施設も充実してるわよ。あ、学費がちょっと高いけど、でも入学金も何も全部免除しちゃうわ」
「断る」
 ニトロは即答した。しかしティディアは構わず、これまでの沈黙は力を溜め込んでいたからとでも言うようにハイテンションで続ける。
「ニトロの家からだと……片道一時間くらいかしら。それが面倒なら近くのマンションを寮として借り上げるわよ? もちろん家賃はいらない。私が非常勤講師になって授業もしちゃう。楽々単位ゲットよ。ええい! さらに無試験入学でどうだ!」
「どうだって、お前即日売り切らなきゃいけない投げ売り品じゃねえんだから」
 ロイヤルミルクティーを啜り呆れ声で言うニトロとは逆に、ハラキリは大いに興味を示したようだった。
「そのサービスパックは拙者も利用できますか?」
「ん? ええ、いいわよー。でもちょっと質は落ちるわ。そうね、諸経費免除と無試験入学でどう?」
「それはオイシイですねえ」
「てか、お前らそれは裏口入学とかそういうのじゃねーのか」
「そんなことないわよ。費用は私が出せばいいんだし、試験だって私が面接したでオッケーだから」
「そんなわけあるかい」
 ニトロが鼻で嗤うと、ティディアは得意気に柳眉を跳ね上げた。
「それがそんなわけあるのよぅ。毎年無試験で入学できる王家からの推薦枠があるの。どうしても入学させたい人物でそれを理事長と学長も認めることが条件だけど、ニトロとハラキリ君なら問題ないわ」
 からからと笑ってティディアは言うが、どうにも胡散臭くニトロは芍薬に目配せをした。アンドロイドの瞳に通信中の光が灯り、そして、うなずく。
(本当にあるのか……)
 だとしても、それを利用する道はニトロにはない。
「ね、ニトロ。だからうちの大学にしなさい。その方が色々と都合もいいし、ハラキリ君と同じ大学だったら安心でしょう?」
「最後のだけは魅力的だけどな。絶対に御免被る」
「えー、何でよー。セキュリティもしっかりしてるのよ? 騒ぎになりそうだったらすぐに警備が飛んでくる。落ち着いてキャンパスライフを送れるのよ?」
「……お前の授業は受けなくてもいいんだろうな」
「必修だからそれは無理」
「……俺以外にも受講するのはいるだろうな? ハラキリも」
「定員一名だからそれも無理」
 すっと、ニトロとティディアの間にいる芍薬が半歩退いた。
「授業内容は?」
「前期は夫婦漫才の研究」
「後期は」
「夫婦の夜の営み大実践」
「鼻チョップ」
「あ痛ーっ!」
 飛んできたニトロの手刀に打たれ、鼻を押さえてティディアが悲鳴を上げる。いい角度で入った。痛いのだろう。ティディアは涙目でニトロに詰め寄ろうとするが立ち位置を戻したアンドロイドに阻まれ、それでも身を乗り出して抗議する。
「ちょっと痛すぎじゃない!?」
「痛くしたんだ」
「酷いじゃない! 本番まで痛いのはとっておいて本番中なら鼻血が出てもそれで笑いを取るから!」
「文句が間違ってないか?」
「私もちょっとそんな気がした!」
「――とにかくっ。
 俺はお前の世話にはならない。大学も自力で行く」
 そう断じたニトロは板晶画面ボードスクリーンの隅に表示された時刻を一瞥し、
「芍薬、今の成績から合格圏に入りそうなところをリストアップしておいてくれる?」
「ドレクライ上ヲ目指スンダイ?」
(上、か……)
 きーきー文句を言っているティディアは完全に無視し、ニトロは『上』と限定してきた芍薬の――そのマスターに下手な妥協をせぬよう促す問いに答えた。
「芍薬に任せる。少し厳しくても期待に応えられるよう頑張るよ」
「承諾」
 嬉しそうにうなずく芍薬を見て、それからニトロはロイヤルミルクティーを飲み干し、そして板晶画面ボードスクリーンの電源を切るとアンドロイドの影からこちらをじとりと睨んでいる王女に目を移した。
「私の期待には応えてくれないのに……」
「不本意ながら十分応えてるつもりだ。ほら、リハーサルに行くぞ」
 ニトロは立ち上がりティディアを促した。彼女も時計を見、立ち上がる。その表情は引き締まり気合が乗っていて、ニトロはそうなった彼女が横に並んでくるのを拒絶しなかった。
 ここからはバカ姫とそれに迷惑するニトロ・ポルカトではない。
 ここからは、漫才コンビのティディアとニトロだ。
「じゃあ行ってくるから。本番は見るんだろ?」
 先導する芍薬に続くニトロに声をかけられて、ハラキリは愉快気に答えた。
「ええ、客席で笑わせてもらいます」
「そうしてもらえるよう努力するよ」
 ひらひらと手を振ってティディアと芍薬とともに楽屋を出て行ったニトロを見送り、ハラキリはロイヤルミルクティーを一口啜るとぼんやりと言った。
「ニトロ君、おひいさんのあしらい方が堂に入ってきましたねぇ」
「はい」
 空になったティディアと自分の弁当箱を揃えながら、ヴィタが同意する。彼女は足元の鞄から可愛らしい紋様が描かれた弁当箱を取り出し、それと揃えた弁当箱を取り替えて、新しい三つをニトロの板晶画面ボードスクリーンの横に置いた。
「……私は、ニトロ様の未来にはティディア様がいて欲しいと願うのですが」
「?」
 ぽつりとつぶやいたヴィタが自分に話しかけているのだと気づいて、ハラキリは彼女に眼をやった。
「それは、貴女の『夢』のためですか? それとも主人のため?」
「どちらも」
「ニトロ君はそれを拒否しますよ」
「はい。ですが、ティディア様にはニトロ様の他に見合う方がいらっしゃらないでしょう」
「それは……興味深い意見ですね」
 ハラキリは居を正してヴィタに半身を向けた。
「彼より優れた男性というのであれば他にもいるでしょう。容姿、家柄、資産、頭脳才能いくらでも。それでもですか?」
「はい」
「断言しますか」
「ティディア様は、ニトロ様といる時は心から楽しそうです」
「拙者もそう思いますよ」
 ハラキリはミルクティーを口にした。ヴィタはテーブルの上にある水筒を取り、蓋を外し中蓋も取ると中身のコーンスープをカップに注いだ。湯気が立ち昇り、コーンの甘い香りが漂う。
「しかしそれは好きな男性といるから、とも。別に『ニトロ・ポルカト』でなくても、好きな男性であればいいんじゃないですかね」
「こと人の間において相性というものは、容姿、家柄、資産、頭脳、才能、他の何にも代えられないと、私はそう思っています」
「……相性、ですか」
 コーンスープを飲む女執事の唇がカップから離れるのを待ち、ハラキリは言った。
「そうですね。こんなことを言ったらニトロ君に怒られそうですが、拙者も二人の相性は良くも悪くも抜群だと思います。しかし、相性がどれほど大事だとしても、それだけで人を結ぶことはできないでしょう」
 カップをソーサーの上に下ろしたヴィタはマリンブルーの瞳をハラキリに向け、同意を示した。しかしすぐに、
「ニトロ様は、『クレイジー・プリンセス』を受け止めることができる方です」
「……ふむ?」
「『クレイジー・プリンセス』を受け止めるだけなら他の方でも可能かもしれません。しかし、ティディア様との相性はいいでしょうか。ニトロ様のようにティディア様の『夫婦漫才』の夢を叶える力を持っているでしょうか。ニトロ様のように、ティディア様をアデムメデスの王女でもクレイジー・プリンセスでもなく『ティディア』として相手をしてくれる方でしょうか」
 ハラキリは、黙した。
 一つ一つの要素を抜き出すなら、条件に合う人間はどこかにいると思う。だが、全てといったら? ――全てに符合する者を探し出せる可能性は、現実的に、ゼロに等しいだろう。
 というか、もしニトロの『馬鹿力』と同じ力を発揮できるという条件まで付けたら確実にゼロだ。
「ニトロ様に合う女性は他にもいると思います。ですが、ティディア様には、きっとニトロ様だけです」
「……それが、おひいさんの執事としての意見ですか」
「はい」
「とても面白く拝聴しました。が、残念ながらとても大事なことが抜け落ちている」
「……それは、どのようなことでしょうか」
 怪訝にこちらを見る麗人に、ハラキリはぴっと指を立てて言った。
「愛が足りない」
 ヴィタは、目を丸くした。
 あまりにと言っては何だが、あまりにハラキリに似合わぬ言葉に虚を突かれ、言葉を失って彼を見つめる。
 そして――
「っ」
 ヴィタは吹き出した。くすくすと肩を揺らして笑い、大きく息を吸って気を落ち着けると笑顔のままでハラキリにうなずいてみせた。
「正直、ヴィタさんの意見を否定することは拙者にはできません。しかしだとしたら、おひいさんも難儀なことですね」
 ハラキリは苦笑するように白歯を覗かせ、
「たった一度の人生で出会えるかどうかも解らない最高の相手に出会ったのに、それに嫌われているんですから」
 ニトロがこの場にいれば自業自得だと言い切っているだろう。当然、それも否定できないことだが。
「……私は、ニトロ様の未来には愛されるティディア様がいて欲しいと、そう願います」
 改めてヴィタが言うのに、ハラキリはぼんやりと宙を眺め、
「お願いしてもこればかりは二人の問題ですからねぇ」
「いえ、私の問題でもあります」
「ああ。そうでした。貴女の夢が続くかどうかもかかっているんでしたね」
「はい」
 ヴィタは力強くうなずいた。それが滑稽なほど力強いものだから、ハラキリは思わず声を上げて笑ってしまった。

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