本番を前にした舞台袖。
空気は、その感触を感じられるはずはないのに、硬い。今にも切れてしまいそうな鋼線に触れているかのように、危うく、緊迫している。
『王女とその恋人』が披露する漫才を今か今かと待ち焦がれる観客のざわめきが全身にまとわりついてくる。
「もし面白くなかったら、遠慮なく笑わないで下さいね」
警備員を兼ねて袖口に控えるヴィタと芍薬の乗り込むアンドロイドの向こう、舞台から前説の声が聞こえてくる。そのスタッフが観客に呼びかける、ティディア謹製の『注意事項』がさらに心を圧迫する。
(…………)
これまで何度も何度も人前で漫才をしてきたが、それでもこの本番直前の緊張感は慣れないものだ。
今回の衣装のスーツをぎこちなく身に纏ったニトロは、揃いの――男物のスーツを見事に着こなすティディアの隣で幾度も深呼吸を繰り返していた。
……それに、今日はハラキリが客席にいる。
ネタ合わせに付き合ってくれては遠慮なくダメ出ししてくれる、ヴィタと並び最も自分達の漫才に厳しい客が。
彼を笑わさなければ、今日の舞台は――
(っ)
ニトロは、内心で舌を打った。
余計なことを考えた。
ハラキリが客席に来るのはこれが初めてではない。それなのに、『彼を笑わさなければ今日の舞台は失敗だ』と、そう思ってしまった瞬間、いつもの緊張の上にそれとはまた別の重圧が身に圧し掛かってきた。
無駄な力が体を縛る。肩が張り、息苦しさを覚える。
「ところで」
ふと、ニトロとは素晴らしいほど対照的に落ち着き払ったティディアが、彼に声をかけた。
「何だよ」
こんな時に何を言い出す気だとニトロが顔を向けると、ティディアは訝しみの眼を彼へ投げていた。
「さっきニトロ、子どもの頃からサラリーマンに……って言ってたけど、『宇宙生物探査チーム』に入って新種の生物を見つけたいって思ったこともあるんじゃなかったの?」
今度は、ニトロが怪訝にティディアを見た。
「何の話だ?」
「卒園文集に書いてたじゃない」
「卒園、文集?」
ニトロは一体何のことだと眉根を寄せて思いを巡らせ――やがて、はっと眼を見開いた。
「あ……っ」
うめき、その途端、苦虫を噛み潰したような顔をして目を逸らす。
「あー……あれは……幼心に単純だったというか……一時の勢いというか……気の迷いというか……うん、そういうもんだ」
そこで話は終わりだと宣言するようにニトロはぐっと唇を結んだ。ティディアはしばし黙する彼の横顔を見つめた後、ふふぅんとわざとらしく鼻を鳴らし、
「ニトロが幼稚園卒業する頃って、宇宙生物学者のドキュメンタリーが話題になってたわね。ひょっとしてドーン博士と自分の名前が一緒ってことだけで『僕も新種の生物見つけられる』と思ったのかしら。それで一時のマイブーム? その最中に書いたのがアレ、とか」
「…………」
ニトロは答えない。苦虫の後に年代物の炭を齧らされている面持ちで沈黙している。
「それとも、幼心に見栄を張っちゃったのかしら。何か皆がお〜って言うようなのって」
ニトロは、答えない。苦味に加えて渋みそのものを口の中に突っ込まれたように、険しく眉間に皺を刻んで頬を小刻みに震わせる。
「……当たり?」
「…………つーかな」
固く結んでいた唇を開き、ニトロはティディアを睨みつけた。
「大体、何で卒園文集の中身を知ってるんだ」
「『映画』を作る時にちょっとねー。結局
「どうやってそれを手に入れたんだよ」
「ん? 簡単なことだと思わない?」
ティディアは得意気に言う。
ニトロは渋面を刻んだまま、また目を逸らした。
「当たりだったのね」
「……」
問いに答えぬままさらに体ごと顔を背けるニトロの姿に、ティディアはピンときた。
「それも全部『当たり』だったりして」
ニトロの耳が赤くなった。それを見たティディアは胸がきゅんっとなって思わず身を震わせた。
「ぃやん、もうニトロってば可愛いっ」
「っお前、」
たまらず振り返り、舞台へ響かぬよう抑えた怒りをティディアに浴びせようとしたニトロは、しかしそれ以上の言葉を継ぐことはできなかった。
振り返った先には、真摯な眼差しでこちらを見つめているティディアの顔があった。
思いもよらぬその表情に不意を突かれて、ニトロはそのまま怒りを飲み込んでしまった。
「今は迷っていても、いつかニトロはニトロにしか持てない夢を持つわ」
囁くティディアの声音は優しく、微笑みは慈愛の奥に妖艶を秘め、唇を甘く割る彼女の言葉はまるで人でないモノの予言のように響く。
「そして、それを必ず叶える」
「…………」
「だから安心して今は迷いなさい。迷うことで苦しむかもしれないけれど、それは必ず、未来のあなたの力になるから」
二人並ぶ舞台袖。
舞台から、スタッフの気の利いたセリフに観客の――漫才を観に来たという一方で、どうしても抱えてしまう『ティディア姫を前にすることへの緊張感』がほぐれていく様子が伝わってくる。
ティディアはニトロを見つめたまま。
ニトロはティディアを見つめたまま――やおら、鼻で笑った。
「最大の悩みの種がよくもぬけぬけと……
第一、その未来、俺の横にティディアはいないからな」
それをティディアは軽く肩をすくめて受け流した。その全身には余裕が溢れ、彼女の態度はニトロの指摘など全く意に介す必要もないと言葉以上に物語る。ニトロは間違っている、その時、あなたの横には私がいるとそう断言するように。
「本当に、厄介な奴」
ニトロは息をついて肩を落とした。しかしすぐに大きく息を吸い、気合を入れ直す。
舞台で行われている前説は、もう終わる。
出番は、すぐだ。
(……ふふ)
傍らで胸を張る愛しい少年を横目にして、ティディアは内心に笑みをこぼした。しかし面にはそれを微塵たりとて表さず、余分な力が抜け、立ち居に良い雰囲気を纏わせるニトロと共に気を引き締める。
彼女の胸にはこの舞台も成功に終わるという確信が満ち、そして、どんなことをしても対応してくれる
――舞台から、説明を行っていたスタッフが駆け戻ってくる。
しばしの間が置かれ、機を計り、袖口のヴィタが出した合図でニトロとティディアは足を踏み出した。
歩を合わせようとする必要はない。何度も繰り返しコンビの息を合わせたスピードは、自然と二人を喝采が待つ場所へ押し出していく。
ヴィタと芍薬の間を颯爽と通り抜け、ニトロとティディアはスポットライトの中へと飛び込んでいった。
「「はい どうもー!」」