後吉+

(『2019後吉』の直後)

 サキソフォンの男子学生プレイヤーが演奏を終えると、近場にいた人々がぱらぱらと拍手を送った。楽器をケースに入れる彼に話しかける者はない。それでも彼は見るからに上機嫌に、まるで仕事の後の一杯とでもいうようにコーヒーショップへ入っていった。
 ニトロ・ポルカトは用のなくなったこの場から去ろうと腰を持ち上げかけ、そこで連れ合い達の立ち上がろうとすらしない気配に気がついた。
 隣のティディアは組んだ足に片肘を突き、テクノスタイルのサングラスのおかげで目を窺うことはできないが、どうやら中央のパフォーマンス・スペースをじっと眺めている。そこは多くのギャラリーに囲まれていて、ここからその全貌を窺うことはできないが、ただ人の垣根の内側に天に向けて伸びるふくらはぎと、ピンと伸びた左右のつま先の上でステッキが跳ね回っているのが見えた。素晴らしい大道芸人の技に喝采が起こっている。
 同じくテクノスタイルのサングラスをかけて、ティディアの右隣に背を丸めて座るハラキリは、右側のスペースで既にパフォーマンスを終え、残った数分をファンやサポーターとの交流に当てているヴァイオリニストを眺めているらしい。すると彼はおもむろにスーツの内ポケットを探り、
「はい」
 と、相変わらず笑顔も眩しいヴァイオリニストを眺めたまま、何かをティディアに渡した。そのうち一つを取った彼女は、
「ほい」
 と、もう一つをニトロに渡してくる。
「……」
 彼もまたテクノスタイルのサングラス越しに確認すれば、それは直径3cmほどのクリーム入れだった。
 ティディアはそれを開けて中のゲルを耳と鼻、眉と顎のラインに撫でつけている。その指を目で追っているうちにニトロは彼女の頬がわずかに膨らんでいることに気がついた。いつの間に……彼女は『含み綿』をしていたらしい。大昔から存在し、今でも俳優が使うことのある化粧法。加えて彼女の肌と同化していく変装用のゲルが、耳と鼻、眉と顎のラインを変えていく。これで耳朶や鼻梁の形をアプリによって照合されても彼女が『王女』だとは知られない。もう少し待てば体温もゲルに浸透して、赤外線等によって本来の輪郭を認識されることもないだろう。
 見ればハラキリも簡易なその変装を完了していた。
「……」
 二人のようにその手の擬態が得意ではないが、ひとまず従っていたほうが良さそうなので、ニトロも人目を気にしながらゲルをちょいちょいと塗っていく。
「ほい、ガム」
 と、ゲルを塗り終えたニトロにティディアが手渡してきたのは実際二つばかりの粒ガム――外見上は確かにガムであった。
「……」
 警戒心を覗かせるニトロを促すようにハラキリが咳払いをする。
「『ワンコ・ソヴァ』ってのがありましてね?」
「ソヴァ?――そういや最近食べてないな、また作ってくれよ」
「そのうち。で、『ワンコ・ソヴァ』ってのがありまして」
 間違いなく地球ちたま日本にちほんネタである。ここでそれを持ってくるからには不安しかないのだが、ひとまずニトロは訊く。
「何それ」
「こう、掌サイズのお椀に、ソヴァを入れる→ソヴァを食べる→問答無用でおかわりを入れる→食べる→入れる→食べる→入れる→食べてお腹一杯→でも入れる→食べないと包丁で刺されるので食べる→即座に入れる、というものなのですが」
「拷問?」
「大昔のフォアグラってそうやって作っていたでしょう?」
「うん、包丁では……いや、刺されるか」
「似てますよね」
「似てるけど……なに、その疑似体験とでもいうのか? 食材の気持ちになってみようとか?」
「その可能性もあるかなーと」
「違うんじゃないかあ? 多分大食い的ななんかじゃないのかな、ほら、此星うちにもポリディッシュ・スピンドルトマテがあるじゃん」
「ということで」
 と言ったのはティディアである。
「は?」
 ニトロが疑問符を吐き出す傍らで彼女は立ち上がり、ハラキリに手を差し出した。するとハラキリは空になったファイバーコップを手渡した。彼女はそれと自分のコップを近くのダストボックスに捨てに行く。その様を見て、彼女があの無敵の王女だと思いつく者はいるだろうか。
 ニトロはまだ残っていた中身を確かめるようにコップに口をつけた。
 ハラキリが小さく指を動かして促してくる。
 指し示されたのはヴァイオリニストのいなくなったパフォーマンス・スペースであった。
 そこに、タンクトップ姿の女性が台車を押して現れる。
 彼女もまたテクノスタイルのサングラスをしていた。そのタンクトップとストレッチ生地のパンツは共に太いストライプ模様。チャコールグレイの髪はオールバックに撫でつけられて、うなじから毛先にかけては孔雀の羽根のように頭の後ろで広がっている。しかしその髪型よりも目を引くのは何よりタンクトップから抜き出す肩と腕であった。
 その筋肉。
 鍛えこまれた細身の体は一本のレイピアを思わせる。
 ――ところで台車にはパフォーマンス用の道具らしきシロモノが見えるのだが、その中に大きな寸胴鍋があるのはどういうことだ?
「……」
 ともかく、これはどうやら“持ち場”があるようだ。ニトロはカプチーノを飲み干し、粒ガムを口に入れた。すると予想通りに粒が形を変え始めたので、一つを左の、一つを右の頬と奥歯の間に舌で押し込む。その素子生命ナノマシンの塊はそこで適切な形に変形していった。これがティディアの『含み綿』の正体だった。それは適切に型を取った薄型マウスピースのように頬の内側に密着しつつ、頬の外見を膨らませる。もしニトロが鏡を見たら、そこにいつもより顔の丸みを帯びた己を見ただろう。
「で?」
「君は給仕です。ポリディッシュ・スピンドルトマテのね」
 思わず、ニトロは苦笑した。
 ティディアは先にパフォーマンス・スペースに行ってあのマッチョレディを手伝っていた。使用可能範囲を示す半円状に他と色の違うタイルの敷き詰められたスペース、その脇に立つ背の低いポールに、次のパフォーマンス時間まで残り一分を報せるライトが灯っている。
 二人の女は早速注目を集めているが、そのざわつきにはニューカマーへの疑念と期待とが錯綜していた。
 半円状のスペースの両端に、スピーカー兼据置式のミラーボールが一つずつ置かれる。スペースの奥側中央には透明な天板一枚が浮遊するテーブル、そこに簡素な折り畳み式スツールも。頭上にはドローンタイプの照明器具が、両端のスピーカーとちょうど二等辺三角形の頂点を結ぶ付近で波に揺れる船のように小さな円を描いて飛んでいる。
 テーブルには透明なスープボウルが一つとスプーンが一本、それからそこらの売店で買える未開封のミネラルウォーターのボトルが一本置かれていた。テーブルに向かって左側にはあの寸胴鍋がある。
 今宵、この場の空気も既に馴染んだせいか、ニトロは大人しく寸胴鍋を受け持った。蓋をずらして見てみれば、やはりそこに満ちているのはトマトベースのソースの絡んだネジのような形をしたショートパスタ。粒状の黄色いスパイスが特有の香りを立ち昇らせて食欲をそそる。これぞまさしく西大陸南岸の郷土料理“スピンドルトマテ”――そしてポリディッシュ・スピンドルトマテとは、これを先ほど聞いた『ワンコ・ソヴァ』のごとく絶え間なく食わせる伝統的な大食い料理である。
 ハラキリはテーブルを挟んで向こう側に立ち、何やら大判の板晶画面ボードスクリーンを手にしていた。
「……やあ」
 ニトロが声をかけると、スツールに腰を下ろしたマッチョレディが微笑し、サングラスの隙間からマリンブルーの瞳を上目遣いに見せてくる。
「……」
 準備を終えたところで、ティディアはマッチョレディと向き合うようにしてテーブルの前に立った。興味を引かれたらしい数人が近くでこちらを見つめている。彼女はオーディエンスに背を向けて、その腰の上で手を組んでいる。唇には微笑み。ニトロは、サングラスに隠れる瞳の動きを見ずとも、彼女がこちらを見つめているのを感じ取っていた。
「時間ニナリマシタ、演技ヲ、開始シテ下サイ」
 パフォーマンス・スペースを管理するA.I.が無色透明な声で言う。
 あまり気は乗らないが――ニトロは寸胴鍋の蓋を開け、湯気と匂いの立つ中に手を伸ばした。スピンドルトマテに埋もれるようにして柄を突き出していたレードルは、鍋の中で蒸されていたにも関わらず、その素材のお陰で手に熱を伝えず握りこめる。蓋は置き場がないので左手に持っておく。
 ニトロは再びティディアの眼差しを感じ、マッチョレディの前に据えられたスープボウルに専用のレードルで一杯、スピンドルトマテを入れた。有名な大食いイベントでも供されることがある料理なので、それだけで何が行われるかと気づいた者が数人いたようだ。そしてそのうち一人は見飽きたとばかりにそっぽを向いてどこかに行ってしまう。
「それじゃ」
 と、ティディアがつぶやいた。
 マッチョレディがうなずいた。
 ヒィィン、とスピーカーが、前触れとばかりに高音を発した。
 そしてバスドラムを重く響かせて、しかし軽く明るいレトロフューチャーなダンスミュージックが流れ出す。
 頭上で小さな円を描いて飛ぶ照明器具がカクテル光線を降らせると、その光を受けたミラーボールが不規則にその光線の色に応じた星を3Dりったいてきに飛び散らせる。
 わっと、周囲の人々が声を上げた。
 その声に合わせて、びくん、と、ティディアの両肩が跳ねた。
 またわっと声。
 またびくんと誇張されて揺れる肩。
 テクノスタイルのサングラスをかけ、太いストライプのスーツに抜群のボディラインを透かしたその女は、しだいに四つ打ちリズムに合わせて軽やかにステップを刻み出す。
 と、それに呼応してマッチョレディがボウルを空にした。
 一瞬遅れて、大量の疑問符がそこかしこに現れた。もしこれが仮想空間オルタナリアルで、オーソドックスなエフェクトを採用しているスペースだったとしたら、オーディエンス一人一人の頭上に『?』が林立していただろう。
 そう、ほとんどの者が彼女の食事を見逃していた。
 目撃していた者にしても、それがあまりに速すぎて、即座に認識することができなかったらしい。ちょうど真正面で目を剥いている少女は、同じ制服を着る隣の少女に自分の見たことを確認しようとこちらから視線を離さぬままに問いかけている。
 そこに前触れもなくテーブルの最前に立つ女が――ダンサーが跳んだ。
 ふわりと、着地音もなく、まるでバレエのように。
 音楽のジャンルとはイメージのかけ離れたその動作はオーディエンスの感覚に妙な齟齬を生んだらしく、それが、まるで平手打ちを食らわせたかのように皆の心を疑念から復帰させる。
 一方、ニトロはもちろんヴィタの早食いに驚くことはなかったが、しかし何の説明も受けていないのだ、この状況からこの“持ち場”での“演技内容”を把握するために時間がかかり、しばらく硬直していたところ、彼もようやく全てを飲み込んで動き出した。
 無言でレードルを動かし空のボウルにスピンドルトマテを注ぐ。
 直後、マッチョレディはスピンドルトマテを一匙・一口・一飲みにする。
 給仕ニトロは注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
 ダンサーが再びジャンプする。それはただその場で跳ねただけであったが、その大きな動きで今一度オーディエンスの目を引きつけると、彼女は即座にロボットと化した。
 分かりやすく、今度はミュージックに合わせて、オールドファッションながらも実に見事なロボットダンス。
 オーディエンスから歓声が上がる。
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
 ダンサーはかくかくと上半身を動かしながら――まさしくロボットのように上半身と下半身を別の命令系統で制御させているかのように――機械的なムーンウォークでオーディエンスの一人に近づくと投げキスを送り、それに戸惑う中年男性に「カモン」と手招きをする。キスを返せと。周りにも煽られて恥ずかしそうに中年男性が投げキスを返すと、瞬間、ダンサーの心臓がドッキンと跳ねた。そう、本当に心臓が爆発したかのようにその胸は見えた。
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
胸はダンサーの意志から離れてドッキンドッキンと跳ね続ける。
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
そこでダンサーはロボットからやがて人間に戻っていく。
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
人間に戻りながら、人間離れした不可思議な動きでダンスは加速していく。
 マッチョレディは食べる。
 マッチョレディは食べる。
つい直前には古式オールドであったダンスもそれに伴い現代の技術に追いついていく。
 オーディエンスは歓声を上げ続ける。
 そこには感嘆の吐息も混じっていようか?
 トップダンサーの魅せる技にも劣らぬパフォーマンスが、突然、こんなところに現れるとは?
 見る者が見れば、それは様々なダンスをごった煮にしたものであった。ポッピン、ロック、アニメーション、ブレイク、ビバップ、バレエ、ハウス、宮廷コート、様々なジャンルの垣根を分解して組み合わせ、自由奔放にその身一つで表現する。だが、そんなことはどうでもいい。それらダンスに、それらのジャンルに疎くとも、ただただ皆は彼女に魅了される。その大きなサングラスに隠された目元は無論、唇も基本真一文字に結ばれて表情を感じさせないのに、何故だろう、何故そんなにも楽しそうなのだろう!
 頭上からは光線を、足元からは無数の星屑を浴びて最高峰のダンスは続く。一瞬たりとて目は離せない……そのはずなのに!
「おおおおお?」
 地の底から湧き出すような歓声が、ダンスへの歓声の下から漏れ出でる。
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
最高にノリノリで最高にキレッキレなダンスの背景は、ずっと単調なその光景。
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
四つ打ちリズムに合わせて
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
 マッチョレディは食べる、食べる。
 その勢いは強まることも弱まることもない。
 ただ彼女は食べる。
 ノリノリで食べる。
 キレッキレで飲み込んでいく。
 傍らで男の掲げるボードスクリーンは常に一定のリズムでカウントアップされ、それは既に三桁に突入していた。
「おおおおお!?」
 物凄い。
 なんだこの空間は?
 シュールなのか、それともアートなのか。
 凄まじいレベルのダンサーと、凄まじいレベルの大食者メガイーターと、一体どちらを見れば良いというのだ!?
 その最中、ニトロは必死であった。
 多分、ティディアのダンスは自分でさえ必見のものであるのだろう。
 だが、彼は目の端に彼女の影を感じはしても、それに気を向ける余裕など欠片もなかった。
 マッチョレディは一定のリズムで食べるのだ。『大食いポリディッシュ』の給仕がそのリズムを崩すわけにはいかない。カクテル光線の降り注ぎ、それが地上で砕けて飛沫となる中で、彼はひたすらレードルを振るう。左手に持つ蓋を受け皿として用い、可能な限りソースを飛び散らせないように、しかし素早く的確にボウルの空いたところにスピンドルトマテを注いでいく。そのうちに感覚が狂いそうになってくる。認知も狂い、自分が何をやっているのか分からなくなってくる。手はレードルを掴んでいる。右腕は左右に触れている。四つ打ちリズムと明るいメロディ。歓声? 感嘆? マッチョレディは食べている。自分も食べている? あれ? 左腕と右腕は違うんだっけ?
 その時、ダンサーが再びオールドファッションな、それでいてどこかコミカルな“ロボット”になってテーブルに近づいてきた。
 給仕は注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
 ダンサーが、テーブルの上でずっと手つかずだったミネラルウォーターのボトルに手を伸ばした。
 そしてパントマイム。
 ずっと手つかずだったミネラルウォーターを、うっかりワタシが給仕するのを忘れていたというパントマイム。
 パキッと未開封の蓋の開封される音がする。
 ダンサブルなロボットは、それを、自分で飲んだ。
 朦朧とするニトロの意識の底から声が涌き出る。
いヤオ前が飲ムんカい!
 その声は、奇妙な響きを伴ってスペースに溢れた。
 その声もまた“ロボット”であった。
 どうやら『含み綿』に仕込まれていた機能らしい。ツッコまれた“ロボット”はパントマイムで驚愕を表現する。最早完全に意識を掴まれているオーディエンス達は大きな笑い声を上げていた。
 と、ダンサーは水をもう一口含むと“ロボット”から人間に戻り、踵を返すやランウェイを歩くトップモデルのように歩を進め、いつしかオーディエンスによって隙間なく囲まれたパフォーマンス・スペースの中心に立つと、上を向いた。
 は!――と、ニトロは鍋に蓋を被せた。視界の左隅には杯数をカウントしているボードスクリーンでテーブルを隠す動きが見えた。
 次の瞬間、ダンサーが空に向けて水を噴き出した。
 霧状に噴き出されたそれにカクテル光線が幻想的に沁み込んで、宙に一瞬のオーロラが現れる。わ! と一瞬の、ため息のような大きな歓声。そしてまた一瞬の後には、幻想的な輝きはほんの僅かな風に吹き散らされて消えていく。
 風下にはその霧のかかった者もあったように思うが、それを気にする者は――いや、それを嫌に思うような心理は既にこの場から追放されていた。だが、もしそれがあの王女の唇を経たものだと知れば、その人々はどのような心持ちになっていただろう?
 冷静さを取り戻したニトロは再び開放されたボウルにスピンドルトマテを注ぐ。
 マッチョレディは食べる。
 ダンサーは踊る。
 歓声が上がる。
 大気が揺れる!
 いつしかオーディエンスの壁は十重二十重、コーヒーショップの店員までもが持ち場を離れ、周囲にはカメラのフラッシュ、動画撮影にかざされるモバイルの光、美しく汗を流すダンサーを見つめる眼には溢れる涙、汗一つかかぬメガイーターを凝視する者の頬には驚嘆の汗。
 やがて、パフォーマンス時間の終了まで残り一分を告げるライトが点いた。
 それに期せずしてため息が起こり、追ってブーイングが起こった。
 するとダンサーが踊りを止めて手を打ち出した。それはオーディエンスに手拍子を要求するものであった。
 オーディエンス達はそれがシステムを管理するA.I.へ時間延長を要求するものであるのだと誤解した。
 皆がダンサーに応じて手拍子を鳴らしだす中、マッチョレディがふいに食べる口を止めると、
「片付けを」
 ほんの小声でニトロに言った。
 ニトロは訳が分からなくとも、それに従った。
 レードルを、信じられぬほど減ってしまったスピンドルトマテの中に突っ込んで蓋を閉め、先んじて動いていたハラキリが転がしてきた台車に寸胴鍋を置く。浮遊式のテーブルの天板が積まれ、天板の下の浮遊ポイントを支持するための装置も積まれる。その作業をオーディエンスは拍手を打ちながら不思議そうに見ていた。しかしダンサーは無表情のままに手を叩く。その表情の無いところに、オーディエンス達は勝手に自分達の願望を投影していた。そうだ、これは間違いなく時間延長のための行為であるのだ。後ろの仲間達は片付けているが、ダンサーに退場の意図は見られない。後ろの大食い女だってまだ何かしようとばかりに元気じゃないか。男の一人はモバイルを操作している、それは管理システムへの交渉であるはずだ!
 上空にあったカクテル光線が消え、その飛行照明が台車に着陸する。
 最後に音楽が止み、ミラーボールも兼ねていたスピーカーがサポート役に徹していた男二人に抱えられる。
 その間もずっと手拍子が鳴っていた。
 思えば他の二つのパフォーマンス・スペースからは何の気配もない。そこで演じているはずの者達はどうしたのだろう? ここのダンスと大食いに完全に食われてやる気をなくしたのか、それとも今はただ自分達も観客となっているのか。
 ただこの場には手拍子だけが鳴り渡っていた。
 やおら、手拍子をしていたダンサーがオーディエンス達に道を開けるようにジェスチャーをした。
 その口元には微笑が現れていた。
 それまでずっと、どんなに激しい動きをしてもずっと崩れなかった表情に笑みが表れたことで、オーディエンス達の心はまた躍った。
 その微笑は、ああ、美しい。
 訳も分からぬほどに、あるいは性の垣根なく性的な魅惑を伴って魂を掻き立ててくる。
 自然と、オーディエンスの壁の中に道が開いていった。
 それをニトロは奇妙な気分で眺めていた。
 道の先には駐車場の出口があり、出口はこのパフォーマンス広場の横を抜けて大通りに合流する。そこには飛行車スカイカーの発着スペースもあって、そこに、ドアを開けて待つバン型の車がある。
 ダンサーは言った。
「サンキュー」
 それは、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの声によく似ていた
 オーディエンスに動揺が走った。
 それを脇にして、ティディアは台車の荷が崩れぬように抑える少年二人、そして台車を押すマッチョレディを引き連れオーディエンスの壁に開いた道を走り抜けていく。
 ちょうどその時、A.I.がパフォーマンス時間の終わりを告げる。
 そして女の声の“真偽”に心乱され、突然の脱出劇に当惑するオーディエンス達が何の行動もできずにいる十数秒の間に四人はバンに乗り込んで空に舞い上がる。

 そのダンサーが本当にあのクレイジーな姫君であったのか、それを確かめられた者はない。ポリディッシュ・スピンドルトマテの給仕をしていた男が『ニトロ・ポルカト』であったのではとの憶測も立ったが、それを確かめられた者もない。
 だが、そのダンサーが本当にあのティディア姫であったのだと信じぬ者はない。であればやはり彼女にツッコンだあの男は『ニトロ・ポルカト』であったのだと信じぬ者もない。
 一方で、その夜ティディア姫が宿泊していた館には、そのパフォーマー達が場を沸かせていたのと同時刻に王女が確かに居たと証言する者が多数あった。関係者だけではない。その館で予定通り合流したミリュウ姫と一緒にバルコニーに――ほんの僅かな時間ではあるが――立っているところを見たと言う『マニア』もあった。何より、そのパフォーマンスの行われていた時刻以降は人の一人も入っていかなかったその館から、翌早朝、ティディア姫は妹姫と執事、それに数人のSPを連れてなんとジョギングに出てきたのである。
 それでもその時、その会場にいた者達は、あれは間違いなくティディア様で、あれも『ニトロ・ポルカト』であったのだと声を大にした。
 ……結局、その真偽は不明のまま。
 ただ見る者を魅了するダンスと度肝を抜く大食いの動画が世に出回り、ただ伝説だけが生まれた。
 ところでその夜を境に、その翌日も話題のパフォーマンス・スペースに立った一人の演者に、少しの変化があった。
 そこに足繁く通う見物人の中にはその男子学生を見覚えている者があり、大抵は『丁寧だけど退屈』と評価を下していたのだが、その日からは違った。何が変わったのかは明白ではない。相変わらず丁寧に音符をなぞるだけで、特にアレンジを加えることもないのに、それでも聴かせる。聴く気にさせる。
 彼はその日から、ちらほらとオーディエンスを獲得していくようになった。
 数週間後、久しぶりに彼の演奏を聴きに来た友人の一人が状況の変化に驚いてそのわけを聴くと、彼は解らないと答えた。それから彼らの会話は例の伝説のパフォーマーにも及び、その時、真偽不明の動画の二つに関わる若いサックスプレイヤーは、ふと思いついたように友に言った。
「うん、僕はあの方がティディア様だったって信じてるよ。でもティディア様だったにしろ、そうでなかったにしろ、僕は思ったんだ。僕はいつかティディア様に聴いてほしくて、それにただ僕が楽しいから吹き続けてきたけど、僕もいつかあんなふうに人を楽しませてみたいって。もしかしたら、そのせいなのかな?」

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