敵を知って己を知って

「――ぅおぐぇぇぇ…………!」
 クッションの効いた格闘技用トレーニングルームの床の上を、ニトロは腹を押さえてのた打ち回っていた。
「まあ、そこそこ良しです」
 苦悶を噛み締める彼に、どこか気の抜けた調子で声がかけられる。
「……っ、っ、っ、、〜〜っ」
「ちょっと力を入れてみましたが、まずまずついてこれましたね。護身術、としてはそれなりのものになってきていますよ。一年未満でここまでくるなんてたいしたものです。自信を持って下さい。しかしだからといって慢心しないようにして下さいね。それから途中で変なポ」
「デ・ジャ・ヴュ!」
 思い切り顎の付け根に肘を打ち込んだ上に鳩尾みぞおちに膝を鋭利な角度でめり込ませておきながらダウンさせた相手を何も気遣わずつらつらと語るハラキリに、ニトロは床の上に座して抗議の声を上げた。
「なんか前にもこんなことなかったか!?」
「ダウンさせて講義、なんていつものことでしょう」
「いつものことだから言ってるの! もっと弟子に愛を!」
「不要な情は弟子を腐らせるだけです。師弟愛なんてものは基本厳しいと相場が決まっていますよ。それとも、まだ君を育てる厳しい試練あいが足りませんか」
「……ぐぅ……」
 すぱっとぐうの音しか出ない反論を返され、ニトロは口を結んだ。頭部保護のためにつけていたプロテクターを外し、最高の衝撃吸収素材の上から打たれたというのに痛みが滲む顎の付け根をさすり、これがなかったらと思うとぞっとする。
 ハラキリは、
(まあ、別に拙者が与えなくても、試練はいつもそこに転がってますけどね)
 と、プロテクターを眺めながら何か物思いに耽っているニトロを見て、それから見物人に目を移した。
「楽しかったですか?」
「はい」
 すぐ側で体育座りをしている女性がマリンブルーの瞳をキラキラさせてうなずく。
「ニトロ様は技の失敗の仕方もとても面白いです」
 ハラキリは、ヴィタの関心が――意表を突こうとしたのか、ニトロが繰り出そうとした飛びつき膝十字(失敗)に向いていることに、さすが面白好きの嗜好だと内心笑った。
 確かにまあ、途中まで技を仕掛けようとして、途中から戸惑ったように変なポーズで動きを止めた様は間抜けで仕方なかったが、
「そうだ、話の途中でしたね。ニトロ君、あれは一体なんだったんです。技を失敗したにしては不自然ですし、その格好が面白過ぎて思わず爆笑しそうになりましたが……ああ、もしやそれが狙いでしたか? だとしたら駄目ですよ、そんな愉快な作戦。よほど実力があるか、そういう戦い方をし慣れていなければただの間抜けで終わります」
 辛辣な――とはいえ教える者としての厳しさからきたものではあるが――ハラキリの指摘に、ニトロは口を尖らせた。
「作戦とかじゃない。自然と動いたんだ」
 むすっとして手からオープンフィンガーグローブを外し、胃に残る鈍い痛みに顔をしかめながら足を投げ出して言う。
「こういう時はこういう技も! って。でも頭では分かってたけど体が動かなかったんだ。『格闘プログラム』の影響だよ、絶対に」
 ぽん、と、ハラキリが手を打った。
「なるほどそれで。いや、これは失礼しました。それは拙者のミスです」
「……ミス? 何が?」
「ニトロ君の体を動かしたのは、きっと『コレクション』です」
「コレクション……って、ああ、あの色んな技を放り込んだって言っていた?」
 それはハラキリが、「知らぬ技をどういうものか知らぬまま喰らうのは危険だから」と、無意識下の備えになるようにプログラムに組み込んでいたものだった。
 多種多様な格闘技の動きに加え、まず滅多にあることではないだろうが他人種とトラブルになった時に際し、アデムメデス人には実現不可能な技や技術も大量に放り込んだコレクション。
「あれの中にある基本的な技法には体動作用のプログラムも併せておきましたが、それ以外はまだ知っておくだけでいいと併せてなかったんですよ」
 『格闘プログラム』は意心没入式マインドスライドを利用した仮想空間でのシミュレーションと併せて、体につけた電極から筋肉にどういう動きをしろという信号が送られる。それで脳が思う体の動かし方と身体が思う体の動かし方を一致させ、例えば最適なパンチの打ち方を短時間で覚えることができる。
 無論それはその後に練習を積み、覚えた脳の動作・体の動作ともに心身へしっかりと染みこませねば一過の内に剥がれるただのメッキとなってしまうのだが、それでも入門には十分なものだ。
 しかしどれだけ情報を脳に刷り込んでいても、体へそれと一致する刺激を与えていないケースであれば、
「だから当然、ニトロ君が失敗した技を、君の体は覚えていません。それでも使えるとどこかで判断したということは、今の実力ではもうそのような技を選択肢に加え、使いこなせると君自身が判断したということでしょうね」
「えっと、つまり……俺は頭の中の感覚だけで技を覚えたつもりになってて、それが暴発した――でいいのかな?」
「ええ。それでも結構です。比較的アクロバティックな技でしたからね、そうでなければちゃんとできていたかもしれませんが」
「……できてたら、かかった?」
「拙者に?」
「うん」
「びっくりくらいはしましたよ」
 そう軽く言われては立つ瀬がないが……まあ、ハラキリが未熟な奇襲にひっかかるはずもあるまい。ニトロは『まるで無駄』とまで言われなかっただけマシかと思い直した。
「今後、同じミスが出ないようにそのあたりの補正プログラムを追加しておきますね」
「うん、よろしく」
 ニトロがうなずくと、ふいにハラキリが考え込んだ。
「?」
 何を考えているのかと問おうとするニトロに、ハラキリが期待に満ちた目を見せる。
「……なんだよ」
 嫌な予感を感じて、ニトロは身を引いた。
「ついでだから、全ての技にも対応できるようにしておきましょう」
「ふざけんな!」
 一瞬でハラキリの意図を理解して、ニトロは叫んだ。
「いくら対応できるようにしたってできるわけないだろ! 六臂人アスラインの関節技なんて腕がまず足りねえし! 獣人ビースターの尻尾を使った動きなんか不可能だし!」
 ハラキリが放り込んだと言っていたものを断片的に思い出しながら、言う。
「ああ、そうだ。全部っつったらあれだ、尖耳人エルフカインド超能力サイオニクス使ったものもあったろ! 無理だ無理! 俺に空は飛べない! 地球ちたまのニンジァーみたいに分裂もできない! てかそれとも何だ、『プログラム』使ってりゃ分裂もできるようになるってのか!?」
「そりゃ無理です」
「ほらみろ!」
「でも何だかニトロ君ならできそうな気がするんです」
「目から怪光線などもですか?」
 ヴィタが瞳をいっそう輝かせて話に割り込んでくる。ニトロは即座に彼女にびしっと指を差し向け、
「こらそこ! 阿呆な期待はしない!」
「ですがわたくしもニトロ様ならできると思うのです」
「できるか! お前ら俺を一体何だと思ってるんだ!」
「「えー」」
「声を揃えて残念がるなーーー!」
 ニトロは立ち上がっていた。突き上げた両の拳はわなわなと震え……やおら、がくりと彼は肩を落とした。
「とりあえずさ、師匠。バカを撃退するのに必要なものだけでいいから」
「おひいさんは普段から何をやってくるか分からない人ですよ? ならニトロ君も普段から何をしでかすか分からないようになれば」
「いや限度があるし。そりゃ、ティディアが目から怪光線を出すってんなら俺も努力するよ。でもそうじゃないだろ?」
「……ふむ。
 どうでしょう」
 ハラキリはこの上なく真剣な眼差しをヴィタに向けた。
「残念ながら」
 ヴィタは唇を噛み、心の底から無念そうに目を伏せた。
 ニトロはとりあえず二人をぶん殴っておきたい気分になったが、やめた。この二人を相手にするのは、ティディアとヴィタのコンビを相手にするのとはまた別の労力がいる。ただでさえトレーニングで疲れているのだ。これ以上変な具合に疲れたくはない。
 ニトロはのそのそとヴィタの側にある自前のスポーツボトルへ動いた。それに気づいた彼女がボトルを手渡そうとして――
「あら」
 ボトルを再び床に置いた。それから腕時計を操作し、内蔵のコンピューターを通じてドリンクを持ってくるようにとスポーツジムのサービスへ告げる。
 ボトルが空に、それともそれに近いのだと悟ったニトロはヴィタの横に座った。
 ……いつもとは違うトレーニングルーム。
 春休みも終わり、学校が始まってすでに一週間。
 まだスライレンドでの事件の余波が残っていて、周囲が騒がしくあまり学校に行くことができないでいる。トレーニングもさすがにいつものジムでは落ち着いて練習できず、今は芍薬がティディアに要求して費用全額お姫様持ちで借りさせた、要人御用達の会員制スポーツジムを利用していた。
 本当なら横にいるヴィタが――そしてティディアが――気兼ねなく出入りできるこういう場所を使うのは嫌だったが、背に腹は代えられない。
 『天使』が製造中止になったからにはもう『赤と青の魔女』のような危機は二度とないだろうが、しかし別のベクトルの危機は今も傍らで山盛りになっているという実感がある。そうである以上、毎日の鍛錬に抜かりを得ることはできないのだ。
 それに最近はハラキリも熱心に教えてくれる。たまにふらっとどこかに消える彼が教えてくれる機会は、一回たりとて逃したくないという気持ちもあった。
「失礼致します」
 貸し切りのトレーニングルームに高級レストランのウェイターかと思う服装の男性が入ってきた。彼は純銀のトレイに恭しく三本のボトルを載せて歩いてくる。
 一本一万リェンもする――こういうところに来る方々には大抵過ぎたものですよとハラキリが笑って言っていた、ちゃんと負荷の高い運動をしていれば効果のある特製スポーツドリンク。
 さすがに市販の飲料で十分だとニトロは通販で大量購入したハイポトニック飲料の粉末から作ったドリンクを持ち込み、これに手を出すことはなかったが……
「どうぞ」
 男性を出迎えてボトルを受け取ってきたヴィタが差し出してくる。
「……」
 ニトロはそれを受け取り、ハラキリが受け取ったドリンクを飲んでいるのを横目にジムの職員が去るのを待った。
「……ティディアは」
 そしてトレーニングルームにまた三人きりになったのを計り、再び横に座ったヴィタに問う。
「はい」
「まだ、ちゃんと、妹弟さん達と?」
「はい。食事をしています」
「本当に?」
「はい」
 ヴィタはポニーテールにまとめた藍銀あいがねの髪を揺らしてうなずく。恐ろしい怪力を秘めるスレンダーな肢体は左胸にロゴ化したPQKロイヤルタグの入るウェアに包まれて、その特殊加工された生地は彼女がトレーニングルームに来る前に流していた汗をすでに乾かしている。
「……」
 ニトロは正面に座ったハラキリを見た。彼はドリンクを遠慮なく飲み、一息をついている。
 目をヴィタに戻し、ニトロは訊いた。
「……レストランは、近いんだっけ」
「遠くはありません」
「店名は?」
「フォリア・ラ・レモンゾです」
「知ってる?」
 ふいに問われたハラキリは、それでもすぐに肯定を返した。
「知ってますよ。評判のいいセスカニアン料理のレストランです。ここから……そうですね、車で十五分といったところですか」
「十五分……」
 わりとすぐの距離だ。飛行車スカイカーならもっと早い。
 ニトロはヴィタに注意深い眼を向けた。そして、『ティディアの執事』に手渡されたボトルを彼女に差し出す。
「飲んで」
 ヴィタはニトロの嫌疑に少しの間黙してボトルを見つめていたが、しかし反論はせずに彼の手からボトルを受け取り、紅を落とした唇を飲み口に当てると彼によく見えるよう一口二口と飲んでみせた。
 その姿をじっと見ていたニトロはヴィタが返してきたボトルを受け取り、『毒』は入っていないようだとようやく安心してボトルに口をつけた。
 ほんのり甘味と酸味のある口当たりのいい液体が口腔を満たし――
「間接キス」
「ぶはを!」
 ぼそりとヴィタがつぶやいた一言に、ニトロは盛大にドリンクを吹き出した。
「強要なさるなんて……ニトロ様ったら」
 口振りに恥じらいを含ませて、そのくせ顔は涼しげなままニトロを見つめてヴィタは言う。
「ななな何でそういうことを言いますかな!」
 動揺のせいか口調もおかしいニトロの姿にハラキリが笑った。
「うぶですねぇ」
「からかうな!」
「その程度で動揺しているようじゃ心の鍛錬はまだ不十分ですかね」
「そういう問題じゃないだろ、いきなり女の人からそんなこと言われたらドキッとするじゃないか!」
 そのセリフがおかしかったのか、それともニトロが顔を赤くして言うのがツボに入ったのか、ハラキリは声を上げて笑った。ヴィタも顔を背けて震えている。
「…………」
 二人の笑いはやまない。
 ――ニトロは、唇をへの字にして押し黙った。
「おや」
 ハラキリが笑い声を止めた。むすっとして視線を落とすニトロが完全にヘソを曲げていると気づいて、頬を掻く。
「とりあえず」
 ニトロはハラキリが自分に言葉をかけているのは気づいていたが、押し黙ったまま応えなかった。
 ハラキリはそれでも続けた。
「ご忠告。今後、毒見をさせるなら完全な味方か、それとも検知機能を備えたアンドロイドにさせなさい。人だと投薬用素子生命ナノマシンに解毒剤など持たせて予防可能ですから」
「あ」
 うめき、ニトロはヴィタを振り向き見た。
 麗人は涼しげな面に微笑みを刻んだ。
「誓って何も入っていません。もし入っていましたら、ニトロ様の目の前で死んでご覧にいれましょう」
「……」
 ニトロは、そっぽを向いた。
 風向きが悪い。
 ティディアはいないとはいえ、ティディアと同じ性質たちのヴィタに楽しまれているのは何となく面白くない。ハラキリも害がないと判断すれば悪乗りするし、芍薬はこのジムのセキュリティの関係で中に入って来られないから全面的な味方はいない。
 ならば何を言っても逆手に取られていじられるだけだ。
 風向きを変えるには、沈黙、それが一番いい。
 そう思ってニトロが黙ったのを、ハラキリは察していた。
 あまりからかうのも何だから、ここら辺で風向きを変えてやろうとヴィタに目を向ける。
「それで、拙者らはそろそろ切り上げますが」
「もうですか?」
 王女の執事は明らかに物足りないという態度を見せる。ハラキリはうなずき、
「ここに長居をしては彼女も来るでしょう? なんなら、一緒に運動しよう、とでも言って下の二人も連れて」
「はい」
 躊躇いなく肯定したヴィタにニトロが鋭い眼光を向ける。ヴィタはそれを涼しい顔で受け流した。
「ならばなおのこと、そろそろ。
 ヴィタさんはどうされますか? 店に行くというならお送りしますよ」
「お気遣いなく。合流まで自由にと、そう言われていますので」
「そうですか」
 ハラキリは立ち上がった。一度屈伸し、ニトロへ言う。
「ニトロ君、もう一戦やっておきましょうか。それで今日は終了です」
「……それならさ」
 ニトロは、ハラキリの提案に異を返した。
「折角だから、頼んでもいいかな」
 その言葉はヴィタに向けられていた。ヴィタが怪訝にニトロを見、ニトロは彼女から視線をハラキリへと戻して言う。
「ハラキリとヴィタさんの試合を見てみたいんだ」
 ハラキリの眉が跳ねた。ヴィタも少しの驚きを面に表している。
「前にも言った通り、拙者はヴィタさんに肉弾戦では敵いませんよ?」
「それでも『やってみなくちゃ分からない』って、ハラキリはいつもそう言ってるだろ? それに『師匠』が負けるところも一度この目で見てみたいし」
「それはまた意地悪なお願いですねぇ」
 からかわれた仕返しだとばかりに言うニトロへ苦笑を返し、ハラキリはヴィタを見た。
 ヴィタは立ち上がり、ストレッチを始めていた。
「私は構いません。ハラキリ様とは一度お手合わせしておきたいと思っていました」
しておきたい、とはまた妙な言い方ですね」
「私はティディア様の護衛でもありますから」
「拙者はおひいさんを暗殺しようなんて思ってませんよ」
「共に守ることはあるかもしれません。その時のために手を合わせ実力を肌で感じておきたい、と」
 ハラキリはふむとうなった。ニトロはヴィタの意図が掴めず、小首を傾げている。ややあって、ハラキリはため息混じりに問うた。
「もしやお姫さん、まだ拙者を配下に加えたいと?」
「そのお望みは持っておられます」
「断ったはずですよ」
「そうおっしゃられていました。しかし、諦めてはいません」
「まあ、お姫さんの諦めの悪さは重々承知していますけどね」
 ハラキリはニトロを一瞥し、それから大きくうなずいた。
「分かりました。やりましょう。ルールはどうしますか?」
「実戦的に」
「なんでもありですね」
「はい。目突きも噛みつきも、どのようなことも問題ありません」
「素手で? それともグローブを?」
「はめましょう」
「了解しました」
 ヴィタはストレッチを続けながら腕時計を操作し、オープンフィンガーグローブを持ってくるようジムのサービスへと連絡する。
 彼女と対峙するハラキリも悠然とストレッチを始めていた。ニトロの相手をして温まっている体を、さらに上のギアに合わせようとするかのように。
 やおら、今度は女性の職員が、ヴィタがジムに登録しているサイズのものを持ってきた。
「言い出しておいて何だけどさ、怪我はしないようにね」
 係りの女性が去るのを傍目に腕時計を外したヴィタへ手を差し出してニトロが言う。彼女は彼の意を悟り、その手に腕時計を預けて微笑んだ。
「お心遣い感謝します」
 二人が平然と交わしたルールは厳しいものだ。グローブというプロテクターがあることと武器がないこと、それ以外は限りなく実戦そのもの。
 危ないのではないか? という不安とともに、そのルールでも問題なく戦えるであろう強者がどのような試合を見せるのかと胸が高まる。格闘技の頂点を極める決勝戦前……それにも似た、張り詰めた期待感がニトロにはあった。
「ああ、きっとニトロ君のご期待には添えませんよ?」
 と、そこにタイミングよく。
 こちらの心を見透かしたようにハラキリが口にしたセリフが意外で、ニトロはきょとんとして彼を見た。
「え? なんで?」
 頭の中から喉を通らず素通りしてきたような『弟子』の疑問に、ハラキリはほくそ笑むように白歯を見せた。
「なにせ、すぐに終わりますから」

 ハラキリとヴィタの試合は、本当にすぐに終わった。
 始めの十数秒は互いに見合って動かず、次の十数秒は獣人ビースター特有のしなやかさと敏捷性を活かしたヴィタの猛攻を、やや大きめに間合いを取ったハラキリがひたすら逃げ回るだけだった。
 大きく試合が動いたのは、三十秒をいくばくか過ぎたあたり――何の変哲もないヴィタのジャブをハラキリが不用意にもらった時。
 ジャブとはいえ王女の護衛を努められる実力を持ち、あまつさえアデムメデス人よりも遥かに強い筋力を誇る六臂人アスラインの肉体を備えたヴィタの一撃だ。彼女の拳を頬に受けたハラキリはぐらつき倒れ、彼女の足にすがった。
 そしてその直後、ヴィタがハラキリの腕を取り力任せに振り回し、それがただ力だけに頼ったものであればハラキリに逃れられてしまっただろうが、最後は流麗な所作で肘を極め――
 そこで、試合は終わった。

 言われた通りとはいえ試合はあまりに短く、短いだけならまだしも内容は正直呆気に取られるもので。
 ニトロは何をどう捉えればいいのか分からず、唖然として握手を交わす二人の強者をただ見つめていた。
「どうでした?」
 ハラキリにそう訊かれても、弱かったね、くらいしか出てこない。
 いや、よく見れば、ヴィタの拳を受けたハラキリの頬には青痣一つなかった。練習用のグローブ越しとはいえ、それでも獣人と六臂人の力を兼ね備えた拳がまともに当たったにしては綺麗すぎる。それに足下もしっかりして、ダメージの一欠けらも見当たらない。
 どうやら……彼は見えざる技術でヴィタのパンチの威力を最大限殺していたようだ。
「私の負けです」
 と、ヴィタがグローブを外しながら言った。汗の一玉も浮かべぬ麗人は何やら十分満足した様子で、彼女のセリフにぽかんとしたニトロへと歩み寄っていく。
「え?」
本物の実戦であれば」
 そして腕時計をニトロから受け取りながら付け加えた一言で、自分の言葉に戸惑いを深めていた『弟子』をさらに困惑させる。
「いやいや、拙者の完敗ですよ」
 スポーツドリンクを飲むハラキリはヴィタの主張をやんわりと否定し己の敗北を清々しく主張する。
 ニトロは堪えきれずに訊ねた。
「解説は?」
「おや、『ただ観るのではなく考えながら観る、観ながら考える』――ともいつも言っているでしょう? もしやそれを怠ったわけじゃないでしょうね」
 ついさっきの『意地悪なお願い』の仕返しだとばかりに言われ、ニトロはハラキリに言葉を返せずぐっとうなった。
「アキレス腱を撫でられました」
 そこに助け舟を出したのはヴィタだった。髪をまとめていた髪留めを取り、美しい長髪を背に流す。
「撫でられた?」
 おうむ返しに言うニトロへマリンブルーの瞳を向け、彼女はうなずいた。
「まるで切るように」
 ニトロは、うなった。
 ハラキリにやりこめられた先とは違い、今度は感嘆を込めて。
「曲者ですね、ハラキリ様は」
 それは実際の近接戦……ナイフ、ガラス片でもいい。何でも使える状況であればハラキリはヴィタの拳をあえて顔面に――それもほぼダメージで――受けてぐらつき倒れ、相手の一瞬の油断、それとも戸惑いの内にアキレス腱を切り裂き勝利を得ていたということだった。
「そういう貴女も」
 やけに感心した目を向ける『弟子』の眼差しに照れ臭さを感じながら、ハラキリはヴィタに言葉を返した。
「ぎりぎり届く間合いを維持し続けていたじゃないですか」
「?」
 ニトロは眉間に皺を寄せた。
 ハラキリの指摘に、ヴィタは目を細めている。
 ……この二人の会話は、王棋の熟練者同士の感想戦を聞いているようによく判らない。
「あのさ」
 解説しろ教えろと訴える声に振り向いたハラキリは、眉間に皺寄せてこちらを凝視しているニトロの形相にぎょっとした。
「何が届くんだよ。ハラキリ、ずっとヴィタさんのリーチ一杯より外にいたじゃないか。手だって足だって届かない」
 そして、ハラキリは『弟子』の眼力に「おや」と感心した。本当によく成長したなと思う。それが解っているなら、彼のレベルでは十分だ。
「爪ですよ」
 成長した彼に答えへ辿り着くよう問答つけて教えるのは失礼だなと、ハラキリは素直に答えた。
「ヴィタさんは『爪』を出せる。その間合いは外させてもらえませんでした」
 ニトロの感嘆が、ヴィタに移った。
 その純朴な『弟子』の眼差しはさすがに照れ臭く、ヴィタは照れを誤魔化すように微笑みを返した。
 ニトロは目の前にいる二人を交互に見比べ、感心し切っていた。
 確かにハラキリの言った通り試合はすぐに終わった。
 だが、けして期待に添わないものではなかった。
 短い攻防に両者がどれだけ探り合っていたかと思うと震えがくる。
 ――ハラキリは逃げ回り、ヴィタの拳をくらい、彼女に捕まってからは圧倒的な腕力の差に成す術も無く関節を極められた。
 ――ヴィタはハラキリを捕らえ切れず、しかしハラキリのミスを逃さず、最後は圧倒的な腕力と確固とした技術を合わせて敵を捕縛した。
 そうとしか見えなかった短い間に、ハラキリは『やりようによって』ヴィタが満足する一つの勝利を示し、そしてヴィタは危険な隠し技をわずかにも出さず試合に勝利した。
 もしヴィタが『爪』を使っていたら? それはそれでハラキリは『やりよう』を変えて対抗しただろう。
 鍛え込まれた肉体と技、それらに裏打ちされた策を駆使するハラキリ。
 活かし切られた資質と磨き込まれた技を高い次元で融合させるヴィタ。
 強さのあり方の違う二人。
 違うあり方を見せられたことで二人の奥深さが伝わってくる。
「……私からもニトロ様に、一つ」
 ついさっき見たニトロの不機嫌はどこに行ったのか。
「何?」
 少年の根の素直さを再確認できるそのキラキラとした尊敬の眼に耐え切れなくなったように、それともあまりに感嘆を寄せられほだされてしまったかのように、ヴィタは言った。
「こと技術テクニックに関しては、ティディア様は私の上を行かれます」
「……え?」
 まさに高度な試合を見せつけられた直後にそう言われては、ニトロはあんぐりと口を開けるしかなかった。
「マジで?」
「マジです」
「マジ、で……」
「はい」
「……」
「まあ、別に不思議じゃないでしょう」
 愕然としてニトロが事にうまく対応できないでいると、ハラキリが口を挟んできた。
「おひいさんの多芸っぷりは有名ですし」
 確かに、ティディアの才能についての逸話は多い。
 身体能力に限ってみても、陸上競技や水泳では素晴らしい記録をはじき出し、体操も得意で舞踏も達者、社交ダンスだけでなくクラシックダンスからストリートダンスまで何でもござれだ。軍内で開催された剣術の試合では優勝を飾り、そういえば二・三年前には素性を隠し顔を変え女子ボクシングのプロテストを受け真っ当にライセンスを取得して世間を騒がせたこともあった。
 普段はバカっぷりしか見ていないためについ忘れそうになるが……ティディアは、そう、無敵の王女様。
 半ば呆れを込めて『なんでもいい、もし彼女が本気で打ち込めばトップを取れない世界はないだろう』と言われ、『彼女が王族に生まれなければ、多くの分野で天才として歴史に名を残していただろう』とも賞賛される姫君。
「にしてもヴィタさん、随分実感がこもってましたね。何かお姫さんの実力を体験することでもあったんですか?」
「私はティディア様のトレーニングのお手伝いをさせていただいていますから」
「ああ、それで。でもまさか負かされているわけではないでしょう?」
「『合気』では負けることもあります。剣を持たれては全く敵いません」
「なるほど。では他の――『総合』などではどの程度やりあえてますか?」
「お答えできません」
「おや。それはなぜ?」
「ハラキリ様にこれ以上の情報を与えるには、ティディア様の許可を頂きませんと」
「おや、それは残念」
 抜け目なくティディアの本当の実力を推測するための材料を集めようとしていたところに釘を刺され、しかしハラキリは肩をすくめるだけで口とは裏腹に残念がることもなく話題を変えた。
 その一方で、ニトロは、もはや会話を続ける二人の言葉に耳を傾けてはいなかった。
「…………あぁ……そぉなんだ……」
 小さな小さなかすれ声でつぶやく。自分の中でちょっとだけ大きくなりだしていた自信が背を向けて消沈していくのをまざまざと実感する。
 のっそりと独り整理体操を終え、それからごそごそと荷物をまとめ、ニトロは王女の女執事が奢ってくれたドリンクを飲んだ。
 アミノ酸やらクエン酸やら色々と入っている美味しいスポーツドリンクを一気に飲み干し、そして、ため息をつく。
「もっと頑張ろ」
 分かっちゃいたが……解っちゃいたが自分に襲いかかってくる女の底知れなさを改めて知った今、ニトロが言えることは、それしかなかった。

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