早朝。起き抜けに仕事を始めたティディアは、まず王家及び第一王位継承者宛のメールに目を通すことに決めた。ベッドの上に身を横たえたまま眼前に表示させた
「お」
一つ、面白いメールがあった。
アマチュア経済学者が北大陸ホスリニア領の経済政策について苛烈に批判している。自筆の文字の一線一線が彼の怒りをそのまま表現していた。自信満々な筆圧の“10人中2人が身長5mで、8人が1mである時、平均が1.8mだから階段をそれに合わせて作ろうというのは数字だけを見て現実を見ていない糞ッタレである”という例え話はまあその通りだろうが、そう語りながらも彼は様々なデータを“点”で追い、他のデータと結びつけて“線”で考えることがいまいちできていない。“面”や“立方”はなおさらだ。それ故、相手を机上の空論と攻撃する彼自身がその罠にはまっている体はあるものの、力強く展開されるその自説には――学者としてではなく――
(領民討論会の壇上に立たせてみるか)
私からは採用とも不採用とも断じない。ただ場を与えよう。耳の痛い意見に担当者がどう反論するかも注目に値するし、担当者の反論に対して経済充満主義に立ったこのアマチュア学者が“数実一致の経済学”とやらを展開し続けられるかどうかにも興味がある。議論が続けられずに罵倒合戦となったらそれはそれでコメディーだ。もし彼が自説を人に知らしめるべく
ティディアはナイトテーブルからタッチペンを取り上げ、アマチュア学者とホスリニア領主に宛てた自筆の電子メールを素早く作成した。そのデータは執務室へ移動させる。直接は送らない。これは部下を介して送るべきものだ。
それからティディアは100通ばかりに目を通し、そろそろ区切ろうと息をつき――
「お」
また気に留まるメッセージがあった。
「今日は釣果がいいわねー」
それもまた、自筆のメールだった。メーラーで書く際に罫線を表示しなかったらしく、まだ幼い字は頼るべき基準がないため不安定に大きく波を打って流れている。だが、それは奔流であった。
「……ふむ」
その手紙をじっくり読み直したティディアは、天井を仰ぎ見た。しばし考え、
「ふむ」
ティディアは、決めた。妹の実地研修としてもちょうどいい。そうとなれば手にし続けていたタッチペンを再び走らせ、一気呵成に『計画』を書面に起こし、それを手紙のコピーと共にミリュウへ直接送信する。送信完了のアイコンが現れる。ティディアは、にっこりと笑った。含み笑いを喉に忍ばせて、遠い空の下を見つめて囁く。
「それじゃあ、あなたに『夢を忘れられなくする夢』を見せてあげるわ。アニー・フォレスト」
◆ ◆ ◆
おひめさまへ。アニー・フォレストです。ハンナさんにおせわになっています。ハンナさんといっしょにくらすようになってから、1ねんがたちました。ハンナさんはママのふたごのおねえさんです。でも2人はにていません。「二卵性双生児(インターネットでしらべました)」というのだそうです。ママはおうじさまにつれれれてどこかへいってしまいました。パパのことはよくわかりません。ハンサムだったそうです。でもハンサムだっただけだとママは言っていました。ママはハンサムな人としかいっしょにいたことはありません。おひめさまだからだそうです。でもママはおひめさまではありません。そういったらぶたれました。おとこのひとはママをおひめさまといっていたのでママはおひめさまなのかもしれません。でもやっぱりおひめさまはティディアさまとミリュウさまだけみたいです。よくわかりません。
ママがいなくなったあとわたしはひとりでくらしていました。いつもみたいひとりでごはんをかいにいったとき、マンションのケイビインさんがわたしにママのことをききました。おおさわぎになりました。わたしはおじいさんとおばあさんの家につれられていきました。おじいさんとおばあさんにさいごに会ったのは2さいのときみたいです。5さいのわたしに「3ねんぶり」と言ってたから5ひく3で2です。おばあさんはわたしに「アンナの小さいころにそっくり」といいました。お口はわらっていましたけれどおめめはわらっていませんでした。そのわらいかたはおこってわたしをぶったあとでわたしにあやまるママのおかおによくにていました。でもそう言うとおこられそうな気がしたのでだまっていました。おじいさんおばあさんはわたしの「親権者(これもインターネットでしらべました)」になりたくないみたいでした。おじさんたちとけんかしていました。わたしは『アニー・グロッサ』のアニーと同じように「しんせき中をたらいまわしにされる」のだと思いました。わたしもアニーです。でもじょうきょうは『マクガーソン家のアンナ』のアンナににてます。よくあるはなしよ、アンナはいっていました。ほんとうによくあるみたいです。アンナはママのなまえですが、ママとアンナはにてないみたいです。
そんなわたしの「親権者」になってくれたのがハンナさんです。ママがいなくなったことを知ったのは1ばんさいごだったそうです。ハンナさんはママと仲がわるかったとおもいます。ママはわたしをぶつときに「おまえみたいのはわたしの子どもなんかじゃない、ハンナのこどもなんだ」と言っていました。とてもひどいわるくちのつもりだったみたいです。ママはいろいろなことをいっていたけれど、おぼえているのはわるくちばかりです。
ハンナさんはおじいさんとおばあさんとおじさんたちとけんかしました。そのあとでハンナさんがわたしをつれていこうとしたとき、止める人はいませんでした。みんなほっとしているようでした。みんなびっくりしているよでした。ハンナさんもびっくりしているみたいでした。わたしのにもつをタクシーのおしりにいれているとき「なんてバカなこと、わたしはほんとうになんてバカなんだ」と言っていました。ハンナさんは「無口」です。はずかしいのですが、わたしがおねしょをしたときも「無口」であわてていました。おねしょをしたわたしをおこることもありませんでした。朝はわたしをみてくれませんでしたが、夜はねむるまえに「だいじょうぶ」といいました。ぎゅっとしてくれました。ママのギュッとはちがいます。それとおねしょをしたときママはたくさんぶちます。ハンナさんはそれからまいにちねむるまえにぎゅっとしてくれました。わたしはだんだんおねしょをしなくなりました。「だいじょうぶ」になりました。だからハンナさんが言ったことをわたしはぜんぶよくおぼえています。はじめての日、ハンナさんは「きょうからここがおうちよ」とちいさなこえで言いましや。「たべれないものはある?」「ベッドはあなたがつかって」わたしのベッドができるまでハンナさんはソファでねていました「おやすみなさい」その日はたくさんいっしょにいたけれと、ハンナさんがちいさなこえで言ったのはそれだけです。それからもハンナさんは「無口」です。「ジェスチャー」がしゅりょくです。でもいまはハンナさんのおめめをみねばわかります。
ハンナさんはジムインさんをしています。おかねはあまりないようです。ママみたいにきれいな服やきらきらした石やアクセサリーはもっていません。おへやにもあまりものがありません。おやすみの日、ハンナさんはいつもソファにすわって、まるくなってインターネットをみています。ハンナさんはなにをみているのかおしえでくれませんが、わたしは知っています。ハンナさんは服がすきみたいです。おけしょうとヘアスタイルにもきょうみがあるです。ファッションサイトです。でもハンナさんはおしゃれをしません。ハンナさんのもっているおけしょうのかずはママの半ぶんの半ぶんよりもっとすくないです。ときどきしっぱいしています。おりょうりもじょうずじゃありません。だから朝はいつもシリアルです。お昼は
わたしがないていたとき、ママはわたしを「ヒキガエルみたいなこえでなくな」といってわたしをぶちました。そのあとでわたしを「やっぱりおまえはハンナのこどもだ」といってまたぶちました。ということは、ママはハンナさんのこえをヒキガエルさんのようだとおもっていたようです。わたしはそうはおもいません。ハンナさんのこえはとてもきれいなこえです。いちどだけハンナさんがおうたをしたことがあります。わたしはおもわずはくしゅしました。そうしたらハンナさんはおかおをまっかにしておうたをやめてしまいました。そのあとどんなにたのんでもうたってくれません。わたしは『三歳からのピアノアプリ』でピアノをれんしゅうしています(フリーソフトでひょうばんがよかったものです)。わたしがピアノをじょうずにひいたら、きっとハンナさんはおうたをうたってくれるとおもうからです。アプリでひくのもいいとおもいますが、ほんもののピアノでひいたほうがきれいです。おみせできいたとき、おもいました。だからハンナさんのおたんじょうびにほんもののピアノをわたしはひきたいです。だからおこづかいをためています。でもみちはとおいみたいです。
それからわたしははやくおおきくなりたいです。わたしのゆめはメークアップアーティストです。メークアップアーティストになって、ハンナさんにきれいなおけしょうをしてあげたいのです。ハンナさんはいつもうつむいていますが、きれいです。ちょっとおはながおおきいけれど、ママがいうようにぶさいくなんかじゃありません。ハンナさんはもっと「自信」をもっていいとおもうのです。でもそういってもハンナさんはこまったおかおをするだけです。おけしょうをすると「自信」がつくってテレビがいっていました。だからハンナさんはおけしょうをするべきです。ファッションサイトをみているハンナさんはたのしそうです。たのしそうなハンナさんをみているのはうれしいです。ハンナさんがファッションサイトみたいにきれいになってたのしそうにしているのをみれたらもっとうれしくなるとおもいます。だからわたしははやくおおきくなってハンナさんをきれいにしたいのです。わたしはアニーですが、アニーではありませんので、アニーのしたようなおおきな「恩返し」はできないかもしれないけれど、それくらいならできるとおもいます。でもときどきふあんになるのです。わたしはせがちいさいです。はやくおおきくなりたいのになれません。ママの子どもですから、ママみたいになってしまうかもしれません。そしたらハンナさんにきらわれてしまうかもしれません。ハンナさんにきらわれるのはいやです。わたしはハンナさんの子どもになりたいです。ママのじゃなくてハンナさんの子どもがいいのです。でもわたしはママのちいさいころにそっくりなのです。おひめさま、わたしはハンナさんの子どもになれるでしょうか。ハンナさんの子どもになって、ちゃんとおおきくなって、ちゃんとハンナさんにおけしょうすることができるでしょうか。ハンナさんはよろこんでくれるでしょうか。おひめさまはなんでもしってるってハンナさんがいってました。だからおしえてください。よろしくおねがいします。アニー・フォレスト。
ついしん。ハンナさんもフォレストといいます。わたしもおんなじです。
◇ ◇ ◇
アニー・フォレストからの手紙を読み終えたミリュウは、もう何度目かの再読にも関わらず目を潤ませている。
その様を横目に見て、ティディアは頬の裏側で微笑んでいた。
第二王位継承者の涙は下睫毛にせき止められて、手に持つ
「――ミリュウ」
タクシーに偽装した車の中、フードの付いた漆黒の服に身を包んだミリュウは姉の呼びかけを耳にするや顔を上げ、居住まいを正した。
「準備は?」
ミリュウの隣、同じ後部座席に座る姉は黒いスプリングコートをまとっている。その下には特殊な繊維で作られたドレスがある。
「お姉様の計画通りに」
ティディアは目で報告を続けるよう促した。ミリュウは即座に応じ、
「ハンナ・フォレストはよく眠っています。各装置の動作確認も完了し、いずれも問題ありません。パティの仕事は完璧です」
ティディアはうなずく。
「先ほど酔い潰れた男性がアパートの入り口に居座っていましたが、既に警察の手で
ティディアはもう一度うなずく。
「ゴコルテ児童福祉局はアニー・フォレストの保護、及び親権者の選択における問題点を認め、関係者の処分を決定しました――が、これについては関係者の処分のみで済ませることなく、組織全体に恒常的な問題が発生していないか、第三者機関による調査を命じておきました。無論、これらはゴコルテ・アスニフを介しています」
ティディアはまたうなずく。
「アンナ・フォレストについては」
ミリュウの声がほんの幽かに固くなった。ティディアはそれを無視する。
「お姉様の計画通りに処置致しました。今後、全ては最適なタイミングで実行されます」
ティディアは自身の予測を言うよう心中で促す。ミリュウはそれを察して告げる。
「――しかし、間違いなく、彼女は駄目でしょう」
事務的な態度を貫こうとするミリュウの声には、一瞬、ほんの幽かに、『我らが子ら』への憐れみがこもっていた。ティディアはそれも無視する。それは私が潰してはならない妹の利点なのだ。ミリュウは報告を続ける。
「また、『実母』が今後何を言おうともアニー及び養母の権利を脅かせないよう手続きを行い、こちらも全て完了し、両者の安全を確保致してあります」
ティディアは満足だった。
ミリュウの働きにも満足だったし、ハンナ・フォレストという女にも満足だった。
三日前、ハンナ・フォレストにはゴコルテ児童福祉局員として優秀な児童福祉士と心理分析官を派遣し、親権委譲時に問題があったことが“問題”となった、そのため改めて話をお聞かせ願いたい――という形を取り繕って面接を受けさせた。
何故アニーを引き取ったのか、その動機を探るためだ。
一見善人のようでも実は悪人だった、などというのは世にごまんと溢れる話である。少々極端だが、アニーの手紙に出てきた『マクガーソン家のアンナ』のような話もある。あれは“第一部”だけなら確かに低年齢向けにも編纂される感動作だが、一方で『続編を読んではいけない』作品としても有名だ。第二部では、確執の末に第一部の最後で和解したはずの伯母が、実は最大の復讐のために和解した振りをしていただけであり、多くの人に裏切られて疲れたアンナが最後に頼ってきたところで本性を現す。伯母は愕然とするアンナを嬉々として罵倒し縁を切る。しかもそれは憎い妹に復讐できない代わりにその娘に復讐する、という動機からだった。最後の最後で信頼する人物からあんまりな裏切りを受けて絶望し切ったアンナは嵐のヒースの荒野へさまよい出ていき、大きな雷が落ちたところで第二部は終わる。これは作者の半自伝的な小説で、実際には三部構成であり、遺されたアイディアノートによると第三部では心身ともにボロボロになったアンナの再生と人生への讃歌が描かれて完結するはずだった。作者は、しかし第三部の冒頭すら書くことなく病に倒れた。
ハンナ・フォレストは、最初は全くの勢いでアニーを引き取ったと言う。この子を見捨てることは両親や兄達の同類に成り下がるという憤り、子どもの気持ちなど関係ない、そこにあったのは己に対する義憤だけだった、と。それは自分の収入なども一向に考慮していない、軽はずみな動機だった。“児童福祉局員”の指摘を受けるまでもなく彼女もそれを自覚していた。けれど、と、ハンナは言った。今思えば、大声で罵り合う大人の間で怯えた目をしながら懸命に笑顔を浮かべる小さな女の子――その腕には幾つも痣があり、顔は確かに大嫌いなアンナにそっくりだけど、同時に昔の自分にもよく似ている女の子を見捨てることはわたしには絶対に出来なかっただろうと、ハンナはそう言っていた。
「初めはママと呼ばれることを恐れていました。でも、今はこのままずっとママと呼ばれなかったらと思うと怖いのです」……面接の最後にこぼれた、ハンナの言葉。
軽はずみな動機故の後ろめたさから活用できずにいた自治体の子育て支援制度等の書類を取りまとめた後、児童福祉士も心理分析官も問題なしと報告した。ティディアも同意見だった。根拠が無くてもアニーの不安を取り除くことは可能だが、根拠があればその可能は磐石となる。魔法の言葉は、そう、実際の言葉となるのだ。
車が止まる。深夜二時。車道にも歩道にも人気はない。周囲には安い作りのアパートが目立ち、車の止まった真横にも三階建てのアパートの入り口がある。窓は三階の隅の部屋を覗いて真っ黒だ。アニーとハンナの眠る二階の部屋も真っ暗である。周囲には人っ子一人どころか、足音すらない。
ティディアはミリュウに顔を向けた。これから『黒子』を務めようという妹は、姉の眼差しに真剣な眼を向ける。ティディアは、ふと、微笑んだ。
「ミリュウ。上出来よ」
「そんな――まだ終わっていません。お姉様、そのお言葉はあまりに早すぎます」
生真面目な妹の生真面目な返答に、ティディアは微笑みを絶やさぬまま少しだけ首を傾げてみせる。その様子は妙に
「――それに、あまりに勿体無いお言葉です」
消え入るように言うミリュウの頬へ、ティディアは不意に手を当てた。ミリュウは驚き、硬直する。ティディアの手が金縛りにあったミリュウの頬から
「――」
ミリュウが、吐息を漏らした。
「ごほうび」
惚けたような妹へティディアは笑いかける。そして、にわかに顔を引き締め、
「さあ、それじゃあ行きましょう」
タクシーを運転してきたティディアの執事の『犬』がドアを開ける。すると我に返ったミリュウが力強くうなずき、フードを深くかぶると襟と一体になったマスクを目元まで引き上げ漆黒の影となる。そして二人の『おひめさま』は、人の息の音すら聞こえぬアパートへ足音もなく忍び入った。
「アニー」
ハンナに買ってもらったベッドの上、ハンナに名前を刺繍してもらったケットに温かく包まれながら不安な夢を見ていたアニーは、どこかから聞こえてきた声に薄く目を開けた。
「アニー」
初めは気のせいだと思った。その夢の中から聞こえてくるような華やかな声、夢のような声に、気のせいだと思った。
「アニー」
だが、気のせいではないらしい。アニーは目を開けた。まだぼんやりとしたまま、目をこすり、小さな肩を持ち上げる。
「だれ?」
つぶやくような声に、『声』が応える。
「ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ」
アニーは目をこすっていた。目をこすり、やがてはっと目を醒ました。
「おひめさま!?」
大声を出す。それからはっと口に手を当てて、ハンナを見る。ハンナは安らかに眠っている。アニーは慌てて駆け寄り、ハンナを起こそうと揺さぶった。だが、彼女は起きる気配すらない。
「眠らせておきなさい」
どこからともなく聞こえる王女の声は、微笑んでいる。アニーは驚いていた。おひめさまはどこにもいない。なのに、まるでお部屋の中が見えているようだ。本当に何でも知っているのだ。
「私は外にいる。さあ、アニー、おいでなさい」
アニーは眠るハンナの横顔を見た。
「あなたの手紙を読んでやってきたのよ。素晴らしいお手紙をありがとう。素敵なハンナさんはそのまま寝かせておいて、さあ」
その言葉が、
そして外に出たアニーは、息を飲んだ。
「こんばんは、アニー・フォレスト」
電気の全て消えた真っ暗な廊下の中、不思議と外からの光も見えない闇の中で唯一つ、淡く白く輝くドレスに身を包んだ美しい女性が微笑んでいる。
不思議な光景だった。アニーの吐息ですらそよぎそうな薄い布地が折り重なり、その襞の内側から放たれているような光でその人は自ら輝いている。純白の衣に負けぬほどに白いその肌も光を帯びている。非現実的な光が非現実的な闇を押しのけて――その中に美しい女性が凝縮するように、しかしどこまでも膨張するように、それなのに驚くほど静かに佇んでいる。その人はそうやってそこに佇んでいるだけなのに、圧倒的な存在感がアニーの胸に迫る。ああ、人の魂を吸い取る瞳がある。透き通る黒曜石にも似たその瞳がアニーを見つめている。アニーは、その人の衣の上に、衣とその人自身が放つ光の他に、何かもう一つの目に見えない偉大な衣があるような気がしてならなかった。幼いアニーには、それが“威厳”という言葉で表されるものだとはまだ理解できない。しかし、例え言葉としては理解しなくとも、
魅入られたように息を止めるアニーの体の中で、その時、何かが壊れた。それは“おひめさま”と呼ばれた母の姿であった。今『本物』を目の前にして、幼子は過去の幻影を完全に忘れ去ったのである。
「あなたが私に聞きたいことに、答えに来たわ」
部屋の中ではどこからか聞こえた声。しかし、今は目の前に立つ美しいお姫様の唇からこぼれ出た優しい肉声。
「でも、その前に一つだけ、お約束」
「おやくそく?」
アニーが小さく聞き返す。まだ呆然としている少女へ、ティディアは悪戯っぽく片目をつむってみせる。艶めく黒紫の髪が揺れ、直接触れているわけでもないのにアニーは首筋を柔らかな毛先で撫でられたような気がしてぞくりと震える。そこに、王女の言葉が差し込まれる。
「今日、ここで私と会ったことは誰にも言っちゃダメよ? 特にハンナさんには言っちゃダメ」
「どうして?――ですか?」
「私は何でも知っているの。アニー、あなたとハンナさんが言った通りよ。だから私は色んな秘密も知っている。それを今夜はあなたに特別に教えに来た。でもね? 秘密は秘密であるから意味がある。秘密にしておかなければいけないこともあるし、秘密にしているから大切なことを守れることもある。アニーが私と会ったことをしゃべったら、アニーは私から何を聞いたかを話さなくちゃならなくなるでしょう。――あの手紙のことも」
アニーはびくりと肩をすくませた。そう、アニーはあの手紙をハンナには秘密で出している。あの手紙の内容は、ハンナには知られたくないはずだ。そしてこの言葉――ハンナに秘密で手紙を出したことを知っている王女のこの言葉は、アニーの心に決定的な“意味”を与えた。
「だから、秘密にするの。もっとずっと後……例えばアニーが今のハンナさんくらいになってからだったら話してもいいかもしれない。でも、今は秘密」
すっと立てた人差し指を唇に当て、ティディアはアニーを覗き込む。
「私と、約束できる? これは私とあなただけの秘密だって」
アニーは、ティディアの瞳に映る自分の影を見つめながら、意識を奪われたようにぼんやりとうなずいた。
「いい子ね」
目を細め、ティディアは言う。そして、アニーの目を真っ直ぐ見つめたまま、彼女が手紙で質問してきたことに答えていく。
お姫様が言葉を紡ぐ度、アニーの心から不安が消えていく。
お姫様が未来を語る度、アニーの心には希望が増していく。
「――いつか、今は怖くても、大丈夫――あなたがハンナさんを『ママ』と呼べる日は必ず来るわ」
最後に告げられたその言葉に、アニーは自分でもよく解らないまま涙をこぼした。
涙の流れる頬にお姫様の唇が触れる。
唇は別れの言葉をそっと囁いた。
部屋に戻ったアニーは、穏やかに眠るハンナさんにそっと手を触れ、ハンナさんの体温を手に残したままベッドに戻った。
ほのかに甘い香りがした。
アニーは深い眠りに落ちる。
不安な夢はもう見ない。
ただ、眠る前に見た『夢』が、彼女の夢を未来へ運ぶその『夢』が、いつまでも忘れられない温もりとして、彼女の心を愛撫し続けていた。
終