ニトロは釈然としない。
納得できようはずもない。
今、彼は地上50mの高台にいた。
背後には切り立った崖の縁がある。そこからせり出す骨組みに敷かれたメッシュ床が、彼の足場だ。およそ2m四方の
ニトロは思う。
――確か、今日はチャリティイベントのゲストとして呼ばれたはずだった。
そのイベント会場はここから良く見える。
山の麓に広がる野原に大勢の人が併せて良く見える。
この日のために設営された舞台の天幕が白く輝き、広場の周りに展開する休憩所や屋台の屋根もまた白い。
野原の向こうには朱色の屋根を並べる街並みが森を右手に広がっている。左手には山から続く丘陵を望み、地平線まで開けた空は青く澄んでいて、吹き千切れたようにぽつぽつと浮かぶ白雲が街並みの朱を引き立てている。
その街を教区に含むアデムメデス国教会のラッチェ支部が今回のイベントの主催者だ。
この土地に着いたのは、およそ10分前だったろうか。イベント会場に直接乗り付けるものと思った飛行車は切り立った崖の上に着陸し、そこにはイベントのスタッフジャンパーを着た人々がいて、打ち合わせもせぬまま追い立てられるようにハーネスを付けられ、そしてここに立たされた。衣装は車の中で着てあった。スーツだ。不思議と芍薬は沈黙していた。ということは明らかにイベントに関わることであるのだろう。
だが、何故、俺はここにこうして風に吹かれてバカ女と金網の上に立っているのだろう? 俺はこの土地に『漫才』をしに来たはずなのだ。
「えーっと、これはどういうこと?」
彼は説明を求めた。
すると周囲を飛び回っていた空撮用のマルチコプターが目の前にやってきて、
「これから『バンジーダイブ』をして頂きます? うん、だろうね。何の意味があるのか解らないけど、別にいいよ? で、俺のゴムロープは?」
ちらりとニトロは隣で胸を張って腰に手を当てて立つティディアを見る。彼女はハーネスを着けていて、枷をはめられたような足には丈夫そうなゴムロープが繋がれている。一方、自分にはハーネスはあるものの、そこから延びるのは細いワイヤーで、しかも短く、先端のカラビナは足場の手すりに繋がっていた。つまりこれは単なるこの場における命綱でしかない。
マルチコプターは字幕を切り替える。それを見た瞬間、ニトロは素っ頓狂に叫んだ。
「何ですとぉ!?」
画面にはこうある。
――<ポルカト氏にロープはありません。ティディア様とご一緒に飛んでいただきます。タンデム用の装備はありませんので、落下中はティディア様と強く抱き締め合ってください>
ニトロは叫ぶ。
「何考えてんだ! そんな危険なこと――」
字幕が変わる。
――<よろしくね(^▽^)>
「顔文字このやろう! つうかね、理解できないんだ、その説明をしてくれよ、一体何故そんなことをする意味が!?」
「そりゃもちろん、寄付金を集めるためよ」
と、これまで黙っていたティディアがふいに言った。
ニトロは彼女に食ってかかる。こんなバカげたことを考えるのはそりゃもちろんこいつしかいない。
「それで何でンな危険な条件で『アベックダイブ』をしなきゃいけないんだって聞いてるんだ! 俺達は『漫才コンビ』だろ? 舞台に立って、ネタを披露して、そうやってチャリティに貢献するのが筋だろ? なのに、何故!!」
ティディアは肩をすくめる。
「筋とかそういうのはどうでもいいの。漫才は方々でやっているけど、これは初めてでしょ? 注目を集めるじゃない」
ちょっと強い風が吹き上げてきて、不意を突かれたニトロはよろけて手すりを握る。ティディアは不動のままでニトロに笑いかけていた。彼は問う。
「それで?」
「そうして集めるのよ、金を」
「金か」
「そう、金よ」
にっと笑って、彼女は続ける。
「金が集まればなんでもいいの。オチようが飛ぼうがお涙頂戴だろうが――」
ティディアは、そしてすっとニトロに手を伸ばす。その意図を察した彼は、この狭く危険な場所で彼女の手から逃れる。枷にかけられているような足を巧みによちよちと動かして彼女は彼ににじり寄りながら、さらに言う。
「売名行為だろうが腹蔵持った企画だろうがね」
「清々しく言い切りやがったなコンチクショウ!」
ニトロはティディアの意図をそこで完全に確認して怒声を上げた。そして非難の目で彼女の動きを予測しながら足場を移動し――命綱が邪魔なので一度外して(崖の上から何やら多くの声が聞こえてきた)逆の手すりに繋げ直す。
「それはあれだ、いわゆるところは偽善ってやつじゃねぇのか!?」
ニトロの言葉に、足枷から延びるゴムロープを絡ませないよう気をつけながらティディアは振り返り、拳を握って彼に突きつける。
「偽善も善も、ついでに悪であろうが結果良ければ全て善し!」
「まああた清々しく言い切りおったなコンチクショウ!……いや、肯定はせんぞ、絶対に全面的には肯定はせんぞお!」
突きつけた拳をパッと開いてティディアがニトロに掴みかかる。しかしニトロは巧みに
「てことは一面的には肯定するのね?」
体を入れ替えたはずのニトロの正面に素早く回りこみ、ティディアは笑う。
「つか俺はそれを完全否定できるような善人じゃあない」
ニトロは命綱を手すりから外しては繋げ、繋げては外し、ティディアのロープに足を引っ掛けないよう細心の注意を払いながら逃げ回る。
「そんなニトロが私は大好きです」
ハーネスをつけた(ミニ)スカートスーツ姿の王女様はよちよちと追いかける。
「俺はそんなティディアが大嫌いだ!」
「一面的にはねー」
「都合よく取り扱うなボケェ!」
外から見ると二人の動作ははさながらスローモーション風味のコントのようでもあった。
崖から突き出た50mの高台で、動き回りながらもニトロの顔に怯えはない。しかし恐怖はある。しかしそれは高所に立つプレッシャーでも危険なバンジーダイブに対するものでもない。純粋にその危険なダイブの“条件”への恐怖を顔に浮かべて彼は逃げる。それを嬉々として追いかけ回すティディアの顔は嗜虐心にも富み、内実はどうあれ、やはりそれは外から見ると単純にバンジーダイブを怖がる羊を歯牙にかけようとするサディスティックな魔女の様相であった。
その光景に満足そうなのが、崖の上に立つチャリティイベントのスタッフ達だ。そこにはカメラがあり、指向性と集音性に秀でたマイクがある。このやり取りが、まず間違いなくイベント会場にも中継されているであろうことをニトロは悟った。きっと、スリリングな映像となっていることだろう。モニターと実際を交互に見比べながら満面の笑みを浮かべるヴィタを見ても、その出来が良く分かる。そして、その隣で芍薬が――王城からそのまま持ってきた警備アンドロイドが、臍を噛むような顔で堪えている様子からも。……しかし、一体何が芍薬を“拘束”しているのだろう?
「つうかな! 一番腹が立つのはだ!」
次第に、かつ確実にこちらを追いつめてくるティディアを懸命に避けながら、ニトロは叫ぶ。
「どうせ飛ぶなら一人で飛ぶわ! ていうか一人でならいくらでも飛んでやるわ! な・ん・で! お前とアベックで飛ばにゃならないんだ!」
「『私達』が個別で飛んだところでそれこそ意味がないじゃない」
「ああもう分かってるよ! だから余計に腹立つんだこのヤロウ!」
「私は女よ!」
「古典的な反論をありがとうバカ女!――その上! バンジー中の俺の命綱が“お前にしがみついておくこと”っていう要努力案件はどういうことだ!」
「万一落ちても下は水深50mのラッチェ地方名物ビッテリ湖があるから大丈夫!」
「大丈夫なわけねぇだろ!? こんな高さから落ちたら下が水だろうが深かろうが人は死ぬ!」
「飛び込みのアデムメデス記録は71mよ?」
「言っちゃ悪いがそりゃ訓練を積んだ馬鹿が達成した大記録だろうがあ!」
「ニトロならいける!」
「確かに逝ける! いいか! もう一度付け加えて言うが! 落差1cmだろうと打ち所が悪ければ人は死ぬ! その5000倍なら言わずもがなである!」
「だからそれが嫌なら私を抱き締めていてくれればいいだけじゃないのよぅ」
「だからそれが嫌だっつってんだ! ていうかこっからのダイブならゴムが伸びきった時の衝撃も絶対凄いよな、それでも抱き締め続けるって簡単じゃないよな、無理だろ!」
「愛の力に無理はない!」
「愛に無理強いしても愛は応えないと思うなあ!」
「愛は愛する故に愛だから例え無理にでも愛は応えようとしてくれる!」
「応えようとしてくれるってのは可能を担保しねぇし無理にでもってそりゃもう無理じゃねぇか! もっと愛を愛してやれよ! そしてお前は頭のネジを締め直せ!」
「もー。分かったわよ。そんなに言うなら安心させてあげるわよ。
ニトロのその命綱」
ピッとティディアがニトロと手すりを繋ぐワイヤーを指差す。
「それを私のハーネスに引っ掛けるわ。それできっと大丈夫」
「きっと?」
「きっと」
「テストは?」
「今から」
「……」
「……」
ニトロはカッと目を見開いた。
「この阿呆!」
「阿呆じゃないわよぅ! だってこんなほっそいワイヤーより私達の愛の方が強い!」
「だから愛に無理言うなっつってんだ! わりと脆くもあるみたいだよ? 愛って!」
「それなら私を信じなさい!」
「はあ? ここにきて何を言ってんだ?」
「私はニトロを離さない! 絶対に、落とさない! 私はニトロを愛している! そして何よりオトすのはニトロの役目!」
「何だその根拠! これは漫才じゃありません!」
「その通り! 愛の試練のアベックダイブです!」
ニトロは地団太を踏んだ。ガッシャンガッシャンと金網が鳴って台が大揺れする。
「ああ、もう、こぉのバカ姫がぁあぁ。何度も愛だの持ち出して、色々理由もつけてやがるがなッ、結局お前は俺と抱き締め合いたいだけだろう!?」
「わー、自信たっぷりー、やだ、ニトロったらぁ」
「ッこおおおおおおのド畜生がああぁぁあああアッッ」
歯噛み、頭を抱え、呻きながら、しかしニトロは理解していた。悔しくも理解せざるを得なかった。ティディアの言う通り、今の自分の言葉は視聴者にはそのように捉えられてしまうであろうことを。
己の失言に悶えるニトロに、ティディアが胸を合わせてくる。
「捕まえた」
そして素早く彼の命綱のカラビナを手すりから外し、自分のハーネスに掛ける。彼女はニトロの背に手を回し、言った。
「さてさて、ここで種明かし」
「――種明かし?」
「これはドッキリの体裁も取っているの。この中継はインターネットでどこででも見られる。このチャレンジはね、二時間前に詳細が明かされて、一部では『クレイジー・プリンセス』の暴挙って言われている。そう、ニトロ・ポルカトの危険度は高い。だから注目を集めている。皆にはこの光景はどう見えているでしょうね? スリリングかしら、面白いかしら、ハラハラしているかしら、笑っているかしら、私に罵詈雑言を浴びせているかしら、ニトロを応援しているかしら……いずれにせよ、何をどう思おうが皆は想像する、予想して楽しむ、ニトロ・ポルカトの選択はどちらだろう? 飛ぶか、否か。あなたは勇敢か、臆病か、はたまた無謀か、あるいは賢明か。
ここで逃げることを、私達は否定しない。
ニトロ、ここからは真面目に聞くわ。
飛ぶ?
それとも退く?」
空撮用のマルチコプターが近くを飛んでいる。
また風が吹き上げる。
ニトロは、ティディアの指が不思議な動きをするのを背中に感じた。
マルチコプターが“引き”の画を撮るため遠ざかっていく。
するとティディアがニトロの耳に唇を寄せ、口早に囁いた。
「芍薬ちゃんには、拒否だろうが何だろうがニトロの最終決断を認めると言ってある。その約束を破ったら私は明日にでも『破局宣言』を出す――誓約書も書いて、芍薬ちゃんに渡してある」
だから芍薬はあんな顔をしながら沈黙を守っているのかと、ニトロは納得する。
「けれど、ニトロ」
きゅっとニトロを抱く腕に力を込めながら、ティディアはさらに小さな声で囁く。
「あなたが飛べばもっと注目される。イベント名が繰り返し広報されて、きっと寄付金は例年よりずっと集まる。それでどれだけの慈善活動が実行されるかしら? どれだけの困窮者が助かるかしら」
ニトロは、頬を引き攣らせた。
ティディアの肩を掴み、引き剥がすように遠ざける。
彼女の顔には、蠱惑の笑みがあった。挑みかかるような、誘いかけるような、そうして心の底から浮かべられる笑みが。それはこの状況で、傍から見れば恋人を勇気付ける笑顔に見えるのかもしれない。しかしこれは悪魔の笑みである!
「痛いわ、ニトロ。ね、そんなに緊張しないで?」
本気で肩に食い込む爪に、しかし顔をしかめずティディアは優しく言う。鬼のようなニトロの目をまっすぐ飲み込んでしまう深い瞳で、微笑みかける。
「……」
ややあって、ニトロはため息をついた。
「ホント、お前はいつか絶対痛い目にあうからな」
「それはきっとニトロにヤられるからでしょうね」
「……できれば神罰に期待したいんだがな」
苦々しく言い、ニトロはとうとうティディアを抱き締めた。崖の上に歓声が上がる。ヴィタがマリンブルーの瞳を太陽にきらめかせ、芍薬が仕方ないとばかりに肩を落とす。マルチコプターが戻ってきた。はるか下方からも、風に乗ってどよもす歓声が聞こえた気がした。
「素敵よ、ニトロ。そんなあなたが、やっぱり大好き」
ニトロを見つめながら、マイクに間違いなく拾われるであろうはっきりとした声でティディアが嬉しげに言う。それに彼は鼻で笑い、
「なぁ、ティディア」
「何?」
「しっかり俺を抱き締めていろよ?」
「ええ、当たり前じゃない」
どれだけの大きさの声ならマイクに拾われて、拾われないのかは解らないが、この際それはどうでもいい。
ニトロはダイブ台の
「気を失われちゃあ、俺の命に関わるからな」
「え?」
ニトロの声は極低音だった。ティディアの鼓膜から下腹部まで轟かせる、怒気だった。
ティディアはニトロを怒らせることは解っていたし、覚悟もしていた。
「いいな? 信じてるぞ」
しかしその覚悟は、
「ちょっと、甘かったかしら?」
「せぇのー!」
ニトロが膝を曲げる。その両腕がティディアを万力のように締めつける。ティディアはぐえっと小さく呻いてから、慌ててニトロを抱き締めながらも叫んだ。
「待って! ちょっと待って!」
それは傍目から見たら、急にティディアが怖気づいたように見えたことだろう。彼女は己の失言に気づき、慌てて印象を操作するためにまた叫ぶ。
「もう一度安全確認を――!」
それは外には急に決断した『恋人』のためを思うバカ姫の言葉として、ニトロに対してはこの締め付けを牽制するための言葉として放たれた。が、無論、有効に働いたのは前者にのみである。
ティディアの体がふわりと浮いた。それはニトロに持ち上げられたからではない。439年前からこのアトラクションに挑む際の合言葉、半ば八つ当たり気味な叫びが崖に反響する。
「バンジーーーッ!!」
心に滾る憤りを燃料にして跳躍するニトロと共に、さあ、空へ。
飛び出した二人は一瞬宙で止まり、一気に落下する!
ティディアの目は自然と裏返りそうになった。ニトロのベア・ハッグは何度も食らっているが、そこに重力加速度が加わると……おお、これは!?
(……いつものことね)
オチていきながら、ティディアは思う。
耳を占めるのは風切り音。
ほんの数秒にも満たないバンジーダイブ。考案したのは南大陸のとある山村で生まれたバンジー氏だ。こんな遊びを考えつくのだから、彼はよっぽど暇だったのだろう。
(そう、いつものこと)
短い落下時間が過ぎていき、薄れる意識の中でティディアは微笑む。
ニトロにこういうことを仕掛ければ、いつだってこうなることは目に見えているのだ。
(でも、癖になっちゃう)
いや、既に癖になっている。だからやめられない。だから、ニトロは素敵なのだ。意識を懸命に保って彼を抱き締める。彼の安全は元より、彼と抱き締め合えるこの奇跡のような時間を気絶などして失ってなるものか。
「ぬを!?」
落下し切った衝撃が二人を襲う。次いで瞬時にゴムの反動で二人は上空へと再度跳び、強烈な衝撃に漏らされたニトロの呻きが後に残されて消える。二人は分解しない。かっちりと噛み合った留め金のように離れない。ティディアは彼を抱き締め、また彼にしがみつかれてよだれをたらし、高速で転倒する視界の中に――刹那――ティディアは薄っすら開いた眼で青い空を見た。白雲の向こうに太陽が、そこには天国が、ああ、光が。
「しあわせ……」
「黙れ変態!」
怒りとも呆れともつかぬニトロの声が耳を叩き、そしてティディアはうへへと笑った。
終