「待て!」
 と、そう叫んだ自分の声で、タダシは目を醒ました。瞼の向こうにはまだ夜があった。カチ、カチ――と秒針の音が部屋に鳴り、どこからか虫の音が聞こえてくる静かな夜だった。
 何だ、夢か。タダシは思った。妻との再会、会話、そして再びの、本当の別れと同じにあまりにあっけない別れ……そういう夢。
 いつもの悪夢に疲れたのだろう、あれは逃避の夢だ。
 そう思うと、口元には自然と笑みが浮かんでくる。苦笑ではない。情けないと、自嘲する笑みが。
 タダシはため息をつき、床を出た。そういえば玄関の鍵をかけ忘れていたことを思い出したのだ。死んだ妻に夢で言われてやっと気づくなど本当に情けない――と閉められた仏壇を見て、また笑う。
 寝床としている床の間から玄関に通じる廊下に足を踏み出すと、ギシリと音が鳴った。ここだけ踏むと音が鳴る。鳴り出したのは、この家を建ててから三年も過ぎた頃だったろうか。ミツコはその頃からずっと、この音が嫌だと時折思い出したように言っていた。
 玄関の鍵を閉めた後、タダシは水を飲もうと台所に向かった。廊下を戻り、音の鳴る箇所を避けて通ってリビングに入った時……ふと、彼はテーブルの真ん中に見慣れぬものがあることに気がついた。
 電気を点けて見ると、それはタッパーだった。透明な側面に、中にある何か色濃い物が透けて見える。
 タダシは置いた覚えのないものがそこにあることを不気味に思うよりも先に、己の血が粟立つ音を聞いた。まるで失念していたとても大事な約束をふいに思い出したかのように、ぞっと心臓が締めつけられた。
 タダシはテーブルに駆け寄った。
 タッパーを手に取り薄青の蓋を引き千切らんばかりにはぎとると、やはり、そこには予感した通りのものがあった。
「――ミツコ!」
 タダシは叫んでいた。
 夢の中、妻が最後に遺した言葉を思い出す。
 元気でね。
 そんな簡単な、別れの言葉。
 最期にたった一言。
 そうだ、妻はしゃべり出すと止まらないくせに、別れの時には言葉を限る奴だった。震えていた声。全ての感情を込めたかのような言葉、夢ではない、この耳に残っている。そうだ、あれは夢ではないのだ、夢なんかではなかったのだ!
「ミツコ!」
 タダシは確かに傍にいたはずの、会いに来てくれていた妻を探して家中を駆け回った。夜闇に沈む家に彼の足音が騒々しく鳴り響き、電気は片端から付けられた。彼は妻の名を呼ぶ。だが、応える者はない。
 家の中を何周もして、彼は妻を探した。
 だが、いない。
 外にも出て庭も外回りも探し回るが、いない。
 どこにも妻の姿はない。
 最後に床の間に行き、タダシはしっかと手を合わせてから、仏壇を開いた。しかしそこには昨夜、扉を閉じる直前と変わらぬ姿があるばかり。戒名の書かれた位牌が夫をただ見返している。
 静かに仏壇を締め直したタダシは、リビングに戻った。
 椅子に座り、知らぬ間にテーブルに置かれていたタッパーを見る。
 そこにはやけに色の濃い里芋の煮っ転がしが詰められていた。
 昨夜は確かに、絶対に、ここにこんなものはなかった。もちろん誰かが置いたのだろう。でも誰が? もちろん、タダシにそれを疑う余地はなかった。
 彼は少し形が崩れた里芋を一つ摘むと口に放り込んだ。
 “懐かしい味”が、口一杯に広がった。
 間違いない。こんなもの、他に作れる者はない。あえて作ろうという者もない。娘達も作れないこの品を作ることができるのは、もうどこにもいない。
 この世にはいない。
 タダシはため息をついた。
「ああ……やっぱり、いまいちだ」
 二つ目を摘み、口に入れる。
「やっぱり、お前の作る煮っ転がしは、いまいちだなぁ」
 いまいちだ、いまいちだとくり返しながら三つ目を取り、食べる。
 冷めても柔らかい芋の実は、彼の鼻腔に長年連れ添ってきた味を今一度蘇らせる。
「いまいちだ」
 四つ目を取る。それは一際大きい。半分齧る。
 いつしか涙がぼたりぼたりとテーブルに落ちていた。
「ああ……」
 ようやく行き場を見つけた彼の心が次から次へと溢れ出す。鼻水をすすり、残った半分を指ごと放り込むように口に入れ、
「うまい」
 声を上げてタダシは泣いた。

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