その日の晩、温かいはずなのに薄ら寒い毛布の中――タダシは夢を見た。
何度も見る夢だった。
国道を直進していく紺色の軽自動車。昨年買い換えたばかりで、それまで十年乗り込んできた車に比べて静かだの燃費がいいだのスピーカーの音が全然違うだの、分かったようなことを妻は言っていた。流行の音楽は解らないと言いながら、気の早いことに、幼稚園に通う孫娘が年頃になった時に話題についていけるようにとヒットチャート上位の曲をレンタルしてきてはかけ流し、たまにアイドルのアップテンポな曲に調子っぱずれな鼻歌をあわせて同乗している夫を辟易させていた。
タダシは紺色の軽自動車を歩道から眺めている。運転席には妻がいる。だが、顔は見えない。下の娘にダサいから新しい美容院に行きなよと言われながら、馴染みの年寄りが集まる美容院でつくろった髪だけが見える。
タダシは叫んだ。
赤だ!
軽自動車は進んでいく。真っ直ぐ、道を進んでいく。
ブレーキ! ブレーキ! おい、赤だ! 赤だぞ!
タダシは必死に叫ぶが、車は止まらない。周囲にはアイドルの曲が大きく響く、彼の声を消し去るように。
悪かった! 俺が間違っていた! だから止まってくれ、ミツコ!
タダシは悲鳴を上げた。
赤信号を無視して交差点に入っていった小さな車に、同時に交差点に入ってきた大きな車が迫る。妻のいる運転席が、恨めしくもタイミング良く、減速する必要も――その暇もなく青信号を直進してきたトラックに……潰される。
音はなかった。
何の音もなくなっていた。
衝突音も、妻の悲鳴もない。せめて、妻の悲鳴だけでも聞こえればよかった。いや、聞かねばならなかった。
タダシは霊安室に置かれた妻の死体を前に茫然と突き立ち、つぶやいた。
俺が殺したんだ。
「そんなわけがないじゃない!」
その時、ベッドに静かに横たわっていた死体が勢いよく体を起こし、怒鳴った。怒鳴られたタダシは驚きのあまり腰を抜かすことも出来ず呆然と突っ立ったまま、見慣れた猫のアップリケがついたエプロン姿のミツコを見つめていた。
「わたしがお父さんに殺されるなんて、そんなことがあるわけないじゃないの」
タダシはリビングにいた。いつの間にかイスに座っていて、目の前のテーブルには食べかけの目玉焼きがあり、リビングから見える台所に、妻がいた。腰に手を当て、仁王立ちで。彼女の前にはことことと音を立てる小鍋がある。醤油の匂いと、覚えのある食物の匂い。
ああ、と、タダシは理解した。
ここは、事故のあった日の朝だ。これは夢なのだから、時間が巻き戻ってもおかしいことなんてない。
「なんでそんなひどいことを言うの」
あの日と同じように顔に怒りを滲ませる妻は、しかし、あの日とは違い悲しそうに言う。どうやら巻き戻っているのは時間だけで、妻は自分が死んだことを理解しているらしい。彼女の脇でコンロにかけられた鍋が湯気を立てている。煮込まれているのは里芋の煮っ転がしだ。特に里芋が旬だと売り出される秋になると妻が必ず作る品、あれは味が良くないから好きじゃない。葬式だ何だと慌しく、あの鍋の中のものは結局悪くしてしまった。捨てる時、食べておけば良かったと激しく後悔した。
「ねぇ、お父さん。わたしはお父さんのせいなんかで死んだんじゃない。全部、わたしのせいでしょう?」
「いや、いやだが、俺が……」
タダシはようやく妻に声を返し、すぐに言葉に詰まった。
夢だと理解しながらも、不思議なことに目の前にいる妻を“夢の中の妻”だとは思えない。本物の妻の――信じられないことだが――幽霊を前にしているようで、妙に気後れしてしまう。悔恨と懺悔の念から、口が粘ついてうまく動かない。
「……お前は、お前は、ビールを……」
「そう、ビールを買っていた。それで?」
「転がったんだろう? お前はそれを拾おうとして」
「あたりよ、お父さんったら変なところで勘が働くんだからもう」
「だったら――」
「だったら、何? これがジュースだったらどう? リンゴだったら? タマネギだったら? 全然別のものだったら? お父さんのことだからどうせ『俺が買い物に行っておけば』とか言い出すんでしょう。違うわ、全然違う。わたしのせいよ。わたしが注意不足だったの。エコバッグを忘れちゃってスーパーの有料のを買うのがもったいなくて一枚だけ買って、一つの袋に目一杯詰めすぎちゃたのが失敗、ケチらずもう一枚買ってちゃんと分けなおせば良かった、袋をちゃんと置いてなかったのも失敗、崩れそうになっていることは分かってたのに横着して直さなかったのも失敗、ビールが足下に転がってきたのは運が悪かったけど、それだって慌てず止まってから拾えば良かった。どう? これでもお父さんのせい? どこがお父さんのせい? わたしの行動は全部お父さんのせいでなけりゃいけないのかしらね? ひょっとしたらスーパーの袋が有料になったのもお父さんのせいなのかしら。だって有料じゃなかったらわたしはちゃんと二つに袋詰めして死んでなかったかも」
どこで息を継いでいるのか分からぬほどの速度で畳みかけられ、タダシはぐうの音も出ず押し黙った。
いつもこうだ。ミツコと言い合うと、このマシンガンに攻められる。だからこちらは負けずと怒鳴り声の大きさを上げ、それが気に食わないとミツコは弾数を増やして一斉掃射、そうしてさらにこちらが声を張り上げる悪循環。
「――分かった。分かった、悪かった。俺が間違っていた」
タダシは、笑いをこらえるようにして、言った。
あの朝の悪循環は極悪だった。ついには声を張り上げられる限界を超えた自分にできたことは、テーブルを殴りつけて食事を残して会社に行くこと。妻は、必ず行っていた見送りをしなかった。
「俺のせいじゃない。分かったよ」
再び、あの朝をくり返すことはない。こうやって、間違っていた自分が折れてやればよかったのだ。
「まったく……馬鹿者が。どれだけの人に迷惑をかけたと思っている。相手の方にとんでもない思いまでさせて」
夫の言葉に、ミツコは――唇を小さくすぼめた。それだけで、タダシは妻がどれだけ悔いているのか理解した。呆れるほどのおしゃべりなくせして、言葉を見つけられない時には妻はああやって口をつぐむのだ。その顔は哀れにも滑稽にも見えて……今は、悲しく見えた。
「それに、それにな、早すぎるだろう。本当に、馬鹿者が」
「ごめんなさい」
「……謝るな」
「そうね。どうせお父さんもいつかこっちにくるんだしね」
一転、ミツコはケロッとして言った。そのあまりの変わり身にタダシは一瞬呆れ、思わず癇癪を起こしそうになり、しかし気を取り直して言い返した。
「何を言うか。俺はそっちには当分いかん。まだこっちでやりたいこともある。定年したら旅行に行きまくるんだ。覚えているか、お前が行きたがっていたパリにだって行く。ミツタカにもヨシコにもケイコにも迷惑かけるジジイになって、孫を思いっきり甘やかして、お前とするはずだったことを存分に楽しんで……お前を悔しがらせてやるんだ、どうだ、ざまあみろ」
「そうね。そうね、お父さん。悔しがらせてみなさいな」
ミツコは微笑み、タダシはぐっと口をへの字に曲げた。
「そうだ、お父さん。わたしのへそくりは見つけた?」
「へそくり?」
「物置にケイコの勉強机があるでしょう? あれの引き出しに80万円入っているわ」
「80……っ!?」
「大変だったのよぉ、コツコツコツコツ、100万貯まったら一気にパーっと使うつもりでね?」
「お、お前なぁ」
タダシが心底呆れた顔をすると、ミツコは笑った。そんなわけがないじゃない、と。老後のもしもの時のため、と。
「それから、これから言うことをちゃんと聞いておいてね。どこに何がしまってあるか、どういう時どうすればいいのか」
「そんなことを気にして出てきたのか? お前はもうそんな心配しなくていい。ゆっくりしていればいいんだ」
「あら、そんなこと言って。これから必要になる湯たんぽがどこにあるかも知らないくせに」
図星を突かれ、タダシは黙する他なかった。それを見たミツコはほらやっぱりと笑い、妻の目尻が作る皺に、それだけ年数を数えてきたんだなと夫は思った。
それからミツコはタダシにいつもの調子のマシンガントークで必要事項を伝えた。一度では不安だからと、二回言った。さすがに二度目ともなると時折脱線するミツコのしゃべりにタダシは辟易とするものがあったが、最後に「さて」と結ばれた時には、ぐっと心を締めつけられ顔を曇らせた。
「待て、もう少し……そうだ、ミツコ、一緒にビールを飲もうじゃないか」
「どこにあるの、そんなもの」
「ある! ここは俺の夢の中だ。そうなんだろう? だったらビールなんてほら、冷蔵庫を開ければ――」
ミツコの脇をすり抜け冷蔵庫の扉を勢いよく開こうとして、タダシは「あ」と声を上げた。彼の手は、冷蔵庫の取っ手を掴むことがなかったのだ。何度掴もうとしても、手は取っ手をすり抜ける。まるでそこにあるように見える立体画を相手にしているようだ。
「夢ね。半分、あたり」
「半分?」
タダシは妻の言葉に、眉根を寄せた。
「親切な……ヒト、がね、お父さんに会わせてくれるって。実はね、情けないんだけど、立派なお葬式まで出してもらっておきながら成仏できないでいてね、実は今までさまよっていたの。また迷惑かけちゃったわ。わたしはホント、だめねぇ」
「そんなことはない!」
「え?」
「だめなんかじゃあない、お前は……」
そこまで言って、タダシはうつむいた。握られた拳は震え、肩は……妻が死んでからというもの落ち込んでいた肩は、怒るように持ち上げられている。
「お父さん。いつも言っていたことだけど、帰ってきたら家の鍵はちゃんと閉めてね? 開け放しは無用心だから。そして――元気でね?」
タダシは、顔を上げた。
そこにはもう、ミツコの姿はなかった。