我が家の風変わりな居候は、気がつけば部屋の中にいたり、部屋から出ていったりする。いくら巨漢とはいえ猫には重過ぎる玄関をどうにかして開けているのか――それとも通り抜けているのか――解らないけれど、とにかく独りで出入りできる。
 それなのに、よく人の手を煩わせてくれるのだ。インターホンを決まった間隔で二度押して、それからトムントムンと、開けろ開けろと肉球でドアをノックする。
「黙って入ってこいよ」
「それが一仕事終えた相手に言うことか」
「俺はお前に仕事帰りに労ってもらった覚えはないぞ?」
「いつもお仕事ごくろうなことだ」
 いちいち人を逆なでする言い方をしやがる化け猫は、ふふんと鼻を鳴らして内に入り、開けたドアを支える俺の足下をするりと抜けるとシューズボックス脇に向かい、そこに常備してあるウェットティッシュを爪で器用に引き抜くと丁寧に足の裏を拭き……そこでまたふんふんと鼻を鳴らした。
「金木犀か」
「ああ」
「随分簡単だが生け花とは、ヨシユキにしては風流なことをするな」
「そんなんじゃないよ」
 後ろ手に玄関の鍵を閉め、サキチの後を追うように部屋に戻る。サキチはテーブルの上の100円ショップで買ってきた花瓶に挿された金木犀の枝に顔を近づけ、珍しく穏やかな笑みを浮かべていた。
 そういえば、あいつはフローラルな香りが好きだったか。
「あのおばちゃんは?」
「成仏したよ」
「そうか。それじゃあ、無事に未練が晴れたんだな」
 俺が安堵の息をつくと、サキチはまたふんと鼻を鳴らした。
「未練なく逝ける者はそれこそ滅多にないさ」
「え? でも、成仏したんだろ? それなら未練がなくなったんじゃあ……」
「未練は尽きぬものだ、ヨシユキ。一つなくせば次が出る。もし未練ある者全てが迷うのならば、今頃この世は死で溢れかえっているだろう」
 金木犀の香りが心をそよがせるのか、また珍しくサキチは穏やかに言う。一度顔を洗うように顔を撫で、
「あの中年女も後ろ髪引かれる思いのまま、逝ったよ」
「……」
「だが、後ろ髪を引く思いもあれば、背中を押してくれる思いもあるものさ。何も杯に目一杯の酒だけが満足をもたらすものではない……だろう?」
「……何か、今日は妙に饒舌だな」
「今日は月が美しい。月に心浮かれるのは、何も人や狼だけではないのさ」
 ……いや。
 サキチは、何かサキチにとって何か心慰むものを見てきたのだ。
 何となくだけど、そう思う。
「おばちゃんは、旦那さんに会えたのか?」
 俺は台所に向かいながら聞いてみた。
「ああ」
 しゃがれた声が頷きを伝えてくる。
「それじゃあ、感動の別れだったろう」
「そうでもないな。中年女はずっと“あの”調子だった」
「そうなのか?」
 晩酌の用意をする手を止め、振り返るとサキチは窓の傍へと歩いていた。後ろから見ると、まるで泥を掴んでから丸めた巨大な月見団子だ。
「お前の思うのはキネマのようなシーンだろう?」
「……悪いか?」
「悪くはないがな」
 窓際に腰を落ち着け、そこから見えるらしい月を見上げて尻尾を一振り。
 語って聞かせるつもりはないという意思表示だろう。それなのに強いて事の詳細を、人の死に別れの話を好奇心から聞き出そうというのは下世話なことか。知りたいと思う気持ちを吐息でごまかすと、それに応えるようにサキチの尻尾が再び振られた。思わず苦笑いが浮かんでしまう。
 俺は冷蔵庫から日本酒の小瓶を取り出し……テーブルにサキチを呼ぼうかと思ったけれど、やめた。盆に小瓶とお猪口を一つ載せ、そこに加えてレンジで温めなおした酒肴を中皿で二つ。どちらの皿も盛られた品は同じ。ただ、作り方を変えてある。
 盆を持ち、俺はテーブルを素通りして窓際に向かった。
 そんなに月が綺麗なら、月を見ながらがいいだろう。
「煮っ転がしか」
 脇に置かれた盆を見て、サキチはヒゲをそよがせた。
「ああ。言われた通りの間違いなく旬のものだからな。連日は嫌だ、飽きる、とか文句言われても受け付けないぞ」
「言わんよ。時期外れではあるが、月夜には良い風情だろう」
「風情? 何で?」
「何だ? 知らぬのか」
「何だよその言い草は。月夜に里芋の煮っ転がしの何が風情なんだ?」
「ああ面倒臭い。『芋名月』でググって悟れ」
「ググ――っ?」
 よもやの用語が妖怪の口から飛び出て、思わず目が丸くなる。
 サキチは俺からつまらなそうに顔を背けると床に置かれた盆の上、二つの皿を見比べて言った。
「片方は、つい最近見た覚えがあるな」
「せっかくレシピを教わったからな。つっても目分量だから何となくだけど、まぁうまく出来たよ」
「ほう、あの適当なものをよくも再現したものだ。やるではないか、ヨシユキにしては」
 ……本当に……この化け猫は……生意気と言うかふてぶてしいと言うかこんチクショウめ。もっと素直に褒められないのか。
「一方、こちらは初めて見る」
「うちのだよ。母さんに電話で聞いて、作ってみた。ちょっと甘い味付けだから酒に合うかわからないけどな」
「合うだろうさ」
「……ん?」
 サキチは、爪を一本伸ばしておばちゃんのレシピで作った色の濃い里芋を取り、ゆっくりと味わうように腹に収めた。歳経た吐息が一つ、連れ合いを探す秋虫の声に重なる。
「中年女の連れ合いは、お前の作った“家庭の味”を『うまい』と言っていたよ」
「……おばちゃん、喜んでたか?」
「泣いていた」
「……そっか」
 それなら、あのおばちゃんは、後ろ髪を引かれながらも、きっととても幸せな気分で成仏したのだろう。
 それならば、俺も嬉しい。
 あっという間の一時の、何が何やら分からぬ間の付き合いだったけど、多少なりとも触れ合った相手がそうやって逝けたというのなら、それは本当に何よりなことだ。
「なあサキチ。あの金木犀な」
「うむ」
「生け花にするつもりじゃなくて、おばちゃんが好きだと言っていたからもらってきたんだけど……」
「そうか。では明日、現場に案内してやるよ。供えてやればいい」
 現場、か。
 おばちゃんがどうして死んだのか、多分、分かった。やっぱり本当はもっと詳しく――旦那さんとの会話とかも聞いてみたいけれど……やっぱり、やめておこう。
「“ひやおろし”か」
 酒瓶の栓を開け、お猪口に注ぐ俺にサキチが満足そうに言う。
「これも季節物なんだろう? 一番安いやつだけど、我慢しろよ」
 サキチは尻尾を一振りすると、早速酒を舐め出した。
 そして、今度はうちの“おふくろの味”を食べ、何かを思うように顎を上げる。ちらりとこちらを一瞥し、
「お前の母のものはちと甘すぎるな」
「だからそう言ったじゃないか」
「ああ。しかしこれはこれで、なかなか乙だ」
「そ、そうか?」
 意外なサキチの評価に驚き、自分でも驚くほどの嬉しさがこみ上げてきた。母の味を褒められるというのは存外嬉しいものだと初めて知った。
 顔が変ににやけそうになるのを誤魔化そうと、我が家の煮っ転がしを一つ取って口の中に放り込む。味見の時にも思ったが、すうっと懐かしさが喉を落ちていく。
 空を見上げると、歪な円を描く月が、欠けているくせに満月にも増して美しく輝いていた。
「だが――」
 と、サキチが言った。
 目を月からそちらへ落とすと、化け猫は牙を見せて笑っていた。
「中年女の煮っ転がしは、やはりイマイチだ」

←07へ

メニューへ