そして今、俺は、宙に浮かぶうっすら透けたおばちゃんの指導の下で、里芋の煮っ転がしを作るはめに陥っている。
「……なあ、サキチ、そろそろ事情を説明してくれてもいいんじゃないか?」
 幽霊のおばちゃんは、まさに“おばちゃん”と言った風体で。小太りの胴の上にころりと丸い頭を乗せ、緩いパーマのかかった短髪の下にそこそこ人の良さそうな笑顔を浮かべている。服はシャツの上に地味な色のカーディガン、それにコットンパンツ。どこか近所の店に買い物に行く、くらいの格好を思わせる。年の頃は五十代。子育てを終えた貫禄が滲んでいる。もしかしたら、うちの母と同い年かもしれない。
 おもしろいのは足がないことだ。実に幽霊らしい。いや、おもしろいと言っては失礼だろうけど、お陰で彼女が本当に幽霊なのだと思うことができる。
「成仏できないそうだ」
 サキチは相変わらずテーブルの上にいて、今は四肢を伸ばしてだらしなく寝転がっている。ドでっかい毛虫みたいだ。丸々肥えてるものだから、怪鳥が見たらきっとヨダレを垂らすだろう。
「それぐらい解る。お前、迷える霊を成仏させるボランティアまでやってたのか?」
「していない。こんな面倒なこと頼まれてもやらん。それに、そもそも滅多にいないからな」
「滅多にいない? 何が?」
「お前達が幽霊と呼ぶものが、だ。ここ五十年で見かけたのは片手で足りるな」
「そうなのか? うちには悪霊がいるぞ?」
「運が悪かったな。人に仇なすものは五十年に一度見るかどうかだ。いや、これは運が良かったと言ってやった方がいいか?」
「余計なお世話だ。それに霊関係の話は世間じゃ結構頻繁に聞くもんだけどな?」
「ああ、そうだな」
 のん気な肯定を受けて一度里芋の皮を剥く手を止めて振り返ると、サキチはあくびをしていた。
「そんなに霊が見える人間がいるなら、吾が輩は今頃見世物小屋のスタァだろうな」
「それは、妙にコメントに困る言い方だな」
「そうか? だが、だから、そういうことさ」
 続けて、“だから”その手の商売には引っかかるなよ、お前は引っかかりやすそうだからな。と、サキチはニーッと思わせぶりな笑みを見せる。
 俺はさらにコメントに困り、変な形の笑顔だけを返すと作業に戻った。ひとまず買ってきた里芋の全ての皮を剥き終えて、さて、と隣でふわふわ浮いているおばちゃんに声をかける。
「それで、次は?」
「そうなのよねぇ。松島さんったら、あんなに霊感があるんだって言ってたのに、私のことにちっとも気づいてくれないんだから」
 声が、頭に直接響くようにして聞こえてくる。初めはこそばゆいような感覚を覚えたけれど、今ではもう慣れた。
「……え?」
「やぁねぇ、幽霊が見える見えないの話よっ。お兄さん若いのにもうボケが始まっちゃってるの?」
 わりあい早口に、ちょっと人を攻めるような口ぶりで、けれどまぁ悪気は皆無の調子でおばちゃんは言う。それにしても、死んでいて、さらに成仏できないでいるというわりにはやけに明るい幽霊だ。
「そりゃあめったにお化けが見える、なんてことは言わなかったけどね? 松島さんたらあの有名な占い師は詐欺師だ、こっちの雑誌の人が本物だ、なんて自信満々に言ってたのに」
「いや、そうじゃなくて。次はどうすればいいんです?」
「え? あ、ああ! あらやだ、そうね、お仕事頼んでるのに勝手に話を進めちゃってごめんなさいねぇ?」
 この際それはいいのだけれども。困惑する俺をよそにおばちゃんは、これだからおばちゃんはうるさいとか言われちゃうのよね、とかまた話を一人進めている。
 こうして俺が“おばちゃん”を見て、声を聞くことができるのは言うまでもなくサキチの仕業だ。妖術か魔術か超能力かは知らないしそれを使う姿を見せてもらったこともないが、しかしこの事実は、改めてサキチがただ人語を理解するただの怠惰なデブ猫ではないと再認識させてくれる。実際不思議なので、本音を言えば一度妖術だか何だかを使う瞬間を見せてもらいたいと思うのだけれど――だけれども、今はそんなこと、どうでもいい。
「お父さんからも言われてたのよぉ。お前は人の話を聞かないって。そんなことないって言ってたんだけど、やっぱりそうだったのねぇ。お父さんの言うこと、もっと聞いてあげればよかったわぁ」
「はぁ、そうですか」
 何となく、サキチが面倒臭そうにしていた理由が分かった気がする。俺にマツタケを要望しながら、帰宅が夕飯時を過ぎていた理由も。
 それに、だ。『こんな面倒なこと頼まれてもやらん』と言っていたくせにサキチがおばちゃんの成仏を手伝おうとしているのは、むしろ頼むから成仏してくれとでも思ったからなんだろう。きっと間違いない。それでなぜに俺が里芋の煮っ転がしを作るはめになっているのかは、まだ解らないにしても。
「あらま! また一人で勝手にペラペラしゃべっちゃって、ごめんなさい?」
「……いえ、いいんですけども、えっと」
「塩で揉め」
 闖入してきたのはサキチのしゃがれ声だった。だらしなく寝転んでいた姿はどこへやら、どうやらおばちゃんのペースに我慢が出来なくなったらしい。眉間に皺を寄せた顔で立ち上がると、台所の脇にある電子レンジの上に移動する。そこは、サキチが俺に料理の指導をする時の定位置だ。
「ぬめりを取れ」
 確かに、前に煮っ転がしを作った時、サキチはそう言っていた。料理本にもそう載っていたはずだ。
「あらあら、そんな面倒なことっ」
 が、それを笑顔でおばちゃんは否定した。
「そのまま鍋に入れて、水を入れて?」
 サキチは――何かを言いたそうに首をもたげていたが、本当に何を考えているのか、気を紛らわせるように後ろ脚で(いい加減腹につっかかって届かなくなりそうなのに驚異的な柔軟性で)耳をかくとそのまま黙り込んだ。レンジの上からごろごろと里芋を入れた鍋に水を……おばちゃんに言われるまま、やけに多くの水を注ぐ俺の手元をしかめっ面で見つめてくる。
「ダシはある? 袋で売ってるの」
「袋で?」
 カツオ節なり顆粒なり、大抵のダシの素は袋に入って売られているものだけど……。
「そう袋。ほら、あれよあれ」
「あれと言われても」
「ほらー、あれ、紅茶の」
「紅茶の? ああ、ティーパックタイプ」
「そう! それ!」
 要領の悪いやり取りに、なぜか苛立ちよりも笑いが込み上げてくる。何となく、うちの母とのやり取りを思い出す。
 俺は――サキチは好かぬとそっぽを向くが、手軽さを重宝して常備しているパック式のダシを取り出し、別の鍋を取り出して
「あら、何をしてるの?」
「え? だってダシを取るんじゃ……」
「もちろん取るわよ? ほら、だからそれはそっちに入れるのよ」
 おばちゃんが指差したのは、里芋が並ぶ鍋。
「……下茹では、しないので?」
「あらあらそんな面倒なことはしなくていいのっ。手際良くさっさとやるのよっこういうものは」
「はぁ、そうですか」
 とにかくおばちゃんの言うとおりに俺はダシパックを指定の鍋に放り込んだ。火を点ける。以前、サキチは先にダシを取っておいて、それと下茹でした実を合わせるように言っていたし、料理の手順を省くのが手際の良さなのかどうかは甚だ疑問に感じるけれど、まあこれはこれで“あり”なやり方なのだろう。
「それじゃ、お酒とみりんと砂糖とお醤油、入れましょう」
「え?」
「何?」
 俺の疑問符に続いて、思わずといったようにサキチも疑問符を打った。四つの瞳が向けられた先でおばちゃんは、何か変なことを言ったかしら、とばかりにきょとんとしている。
「早く……ないですかね?」
 火にかけられた鍋はまだ静かなもので、煮立つ気配はまるでない。当然ダシも少しも出ていない。このタイミングで、味付け?
「一気にやったほうが楽じゃない。煮込んでいる間に他のものに取りかかれるし、うちはおばあちゃんの代からこのやり方よ?」
 おばちゃんのおばあちゃんがメインで食事を作っていた時代にパック式のダシがあったかどうかは分からないが、おそらく似たようなやり方ではあったのだろう。
「それがお前の家の味か」
「そうそう、猫ちゃん。その通り」
 猫ちゃん呼ばわりされたおばちゃんよりもずっと年上の化け猫様は閉口したように後ろ脚で耳をかくと、ひとまず役目は終えたとばかりにレンジの上から飛び降りリビングに向かっていった。先月俺用に買ってきたのにいつの間にかサキチの指定席になっていた座椅子に辿り着くと、まるで不貞寝をするように丸くなる。
 正直、サキチが羨ましかった。
 少々疑問を覚える分量・比率の調味料を言われるまま目分量で入れた後、落し蓋もせず中火で里芋を煮込んでいく間、ずっとおばちゃんの世間話に付き合わされるのはもちろん俺だ。
 ダイエットの失敗談だの金木犀の香りが好きだの交友関係の愚痴だの孫が可愛くてしかたないだのとりとめのない上にマシンガントークという常套句が素晴らしく当てはまるおばちゃんの会話にそろそろ撃ち殺されそうになった頃、天の助けのようなタイミングで里芋の煮っ転がしが出来上がってくれた。

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