死んだ若い男の正体を示す物は何もなく、全国のどこにもそれらしき失踪届けもなく、彼の身元はついに判明しなかった。
 老いた小説家は、死んだ若い男の供養を自ら申し出た。簡易なれどもちゃんとした葬式を挙げてやり、無縁墓地への埋葬、その費用を受け持ち、その代わりに遺品を手に入れられるよう交渉したのである。
 希望は叶えられた。
 老いた小説家の家に、公園の薮の中、簡易極まるビニールシート製の屋根の下に残されていた若い男の荷物が運び込まれた。
 ナップザックが一つ。そこには安売りで買ったのか同じデザインの替えの服と下着が二着ずつ、それから最小限の生活用品。話によると彼は死の前夜、レンタルビデオ店に併設されているブックコーナーで数冊の本に紙幣を挟み込むという(これは彼の死を受けて店員が監視カメラを改めたところ発覚した)振る舞いをしていたそうで、去り際には募金箱にコンビニのレシートごと十数枚の硬貨も放り込み、どうやらそこで持ち金を使い切ってしまったらしい。老いた小説家は彼がきっと通帳を持ち歩いていて、それが身元の手がかりになると期待していたのだが、となると口座もとうの昔に解約し、現金は裸で持ち歩いていたのか……いや、まあ、それらはどうでもいい。それよりも、何より小説家にとって重要なのは残りの荷物、二つの大きなトランクケースであった。内側をビニール袋で厳重に裏張りされたその二つには、ぎっしりと、大小様々なノートと、紐で閉じられた原稿用紙の束が詰まっていた。その他には、おそらくこのノート群の以前、パソコンで執筆していた時代のものらしい1GBのメモリーカードを納めたケースと、ブランド物の高級万年筆(インクは切れていて、カートリッジもボトルもどこにもない)、それから手垢で真っ黒になった広辞苑がトランクケースの隅で一まとめにされていた。
 さて、ノートは一体何冊あるだろう。まず百は軽く超えている。その全てが使い切られていた。細かい文字で几帳面にびっしりと、その全てに小説が書かれていた。掌編、ショートショート、短編、中編、長編……メモリーカードの中身も含めれば何作あるだろう。原稿用紙の束はどうやら自信作を清書したもので、万年筆で書かれた字が写経でもしたかのように整然と並んでいた。ノートにも原稿用紙にも、表紙にはタイトルと、それを書き上げたのであろう日付が記されていた。
 老いた小説家は、最も新しい日付の記された作品に目を通し終え、しばらく黙した後に重く深いため息をついた。
 大学ノート二十三冊に渡って綴られた物語。
 青色で統一された二十三冊に偏執的にもびっしりと記された文字は、後半に向かうに従って活き活きと躍動していた。
 しかし、文章もストーリー展開も、とても巧みとは言えなかった。もし老いた小説家がこの作品について書評を頼まれたなら、誉めるべき点は存在するが、お世辞にも面白いとは書けない。全体としては体裁よくまとまっているのだが、斬新・画期的な表現方法を意図して失敗したのか所々に意味不明な箇所があり、技巧を凝らそうとしてかえって稚拙となった文も頻発する。作者の中でのみ意味が通じる描写という基本的な失敗も目立つし、単純な事実誤認は訂正すればいいとしても、単純に訂正するだけでは取り繕えない形で組み込まれた思い違いの思想解釈については関連エピソード全てを大幅に改稿する必要があるだろう。さらに一箇所、最重要ではないものの、とはいえ欠かせない場面での整合性を欠いた独りよがりな展開も無視できない。それなのにこの小説が全体的には体裁よくまとまっているのは、列挙した瑕疵が良くも悪くも本質的には本筋に絡まないことと、何より作者の筆力のためであった。しかし、何とも皮肉なことではあるのだが、その筆力で何とか巧みにまとめられてしまっているからこそ、かえってこの小説は文章もストーリー展開もとても巧みとは言えない代物となってしまっているのだった。
 また、ここに描かれているのは、物語としては悲劇である。
 だが、ここに書き込められているのは、悲劇を悲劇たらしめるものではなく圧倒されるほどの歓喜であった。
 そう、歓喜だ。
 このけして誉められない作品には、作品の質に比して到底不相応な歓喜が漲っていた。
 老いた小説家は、死んだ男の遺したあの青いメモ帳を手に取った。
 唇を固くしてメモ帳を開く。
 青空の下で見た几帳面な文字が、電灯の光の下でも変わらぬ誠実さを――例えそれが歪だったとしても、誠実であることには違いない心を伝えてくる。あの若者は、形はどうあれ、ひどく実直であった。一方で己の書いた悲劇の主人公の行動を自ら真似してしまうくらいの愛嬌もあったらしい。それがまた、老いた小説家の唇を複雑に歪めた。
 老人は改めて読んだ。
 順序が逆になってしまった。
 これは『あとがき』であったのだ。
 この最期の作品の。
 そして栄養不足のためであろう、骨も残さなかったあの若い男の人生の。




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