爽やかな朝だった。
その日、ある大きな公園の広場の真ん中で、若い男がひとり、柔らかな芝生に寝転んで空を眺めたまま、死んでいた。
若い男の死体を発見したのは、老齢の小説家であった。
彼は若き日において、革新的な意欲作を引っさげて世に舌鋒鋭く切り込んだ作家であった。いくつかの挑戦的にして実験的な作品で高評を経た後には大衆向けの作品でベストセラーをも連発し、現在では文壇の重鎮として知られていた。しかし、彼の現在の真なるところを語れば、彼の座る場所は過去という栄光に照らされて伸びる影、つまりは単なる惰性に過ぎない。現在の彼がかくのは胡坐ばかりで、たまに手を動かしても駄文を書き散らしているだけだと嘲られている。それでも彼をその座に押し上げた過去がもたらす金は潤沢であり、潤沢な惰性の流れに任せて彼は悠々自適の日々を送っていた。二度の離婚と三度の結婚、と私生活に波乱はあれども結局は円満な家庭を手に入れ、子に恵まれ、つい先月にはかわいい孫にも恵まれることとなった。誰もが羨む成功者である。彼自身、己は成功者なのだと自信を持ってそう思っている。今後は余生を楽しむのみだと余裕を弄ぶ彼がもはや読者の失望を気に病むことはない。現在の彼にとって、それに人生を賭けていた過去の己が知ったら何と言うか知らないが、小説は完全に余技であった。幸い、気が向いた時に手癖頼りに書いた程度のものであっても原稿を受け取る出版社は未だに多く存在する。ネームバリューという商品価値のおかげもあるが、それだけでなく、例えただ手癖で書き散らしただけの小説であっても、彼がデビュー前、苦しい雌伏の時代に積んだ修練が彼を常に助けているのだ。確かに昔ながらの意欲的な読者は憤懣を募らせて「あの作家は枯れてしまった」と罵ってくる。が、それでも彼の作品は、事実、未だにいわゆるライトユーザーにはそれなりの品質に相応しいそれなりの満足を与えることができる商品であり続けていた。若い女性からのファンレターだって届く。彼は満足だった。そうして作品を発表することで自己顕示欲を慰撫することは、旨い酒肴に興ずることよりも快感であった。彼は、全てにおいて満たされていた。
そんな彼がその死体の第一発見者となったのは、ひとえに、今は余技に駄文を書き散らしているだけだとしてもなお、やはり『小説家』である彼の性のためであった。
その朝、彼は愛犬を連れて日課の散歩を楽しんでいた。まだ太陽の温もりが夜気を払い切らぬ時刻。公園に満ちる豊かな緑が吐き出す濃い酸素を胸一杯に吸い込みながら広場にやってきた時、彼は朝露に濡れる青い芝生の真ん中に大きな黒い染みを発見した。
染みは人の形をしていた。
よく見れば大の字になって空を仰ぐ男であった。
その公園は大きかった。春には大勢の花見客でごった返し、出店も張り切って出張ってくるほどである。地元では有名な遊び場であり、老いた小説家と同じく散歩のために訪れる者も多く、ジョギングのためにやってくる者もまた多い。
当然、朝露の残る早朝にあって、小説家の他にも人目は周囲に多くあった。
しかし、誰も男に声をかけようとはしない。
大の字になって空を仰ぐ男はぴくりとも動かない。
寝ているのだろうか?――きっと寝ているのだろう。
小説家と挨拶を交わした顔馴染みの中年女が、綺麗な服を着せられた小型犬に引っ張られるようにして彼とすれ違いながら、眉をひそめてちらりとそちらを見ていた。汚らわしい者を見る目つきで、同時に、哀れむ目つきで。
広場には体操をする者や、犬を走らせている者もいる。いつもなら広場の中心部にも人がいるのだが、今朝ばかりはぽっかりと穴が開いていた。
小説家は、その男の正体を知っていた。
その男は、若い身空でこの公園に住み着いたホームレスであった。大きく広い公園である。ある点でそのような存在は付き物と言っていい。この公園ではその男の他にも数人のホームレスが植え込みに隠れ住んでいる。時に仮の宿として短い期間を過ごして去る者もある。それらを、多くの人間が、煙たがりながらも慈悲と優越感をもって見逃していた。そして絶対に直接関わろうとはしなかった。
老いた小説家もそのような多くの人間の一人であった。普段ならば絶対に関わろうとはしない。だが、その朝はあんまり爽やかで、彼はふと己の余裕に溢れる心の中に一滴の好奇心が蘇るのを感じた。好奇心はこう言った――「ひょっとしたら、彼は寝ているのではなく、死んでいるんじゃないか?」――もしそうなら、ネタになるぞ。
小説家は最近足腰の弱り出したレトリーバーを連れて、普段は通らぬ芝生に向かった。従来の道を外れる主人を、老いた雌犬が不思議そうに見上げていた。
――その若いホームレスは、有名であった。
老いた小説家は、若い男の正体を知っていると信じていた。
――その若いホームレスは季節を問わずいつも黒いジャケットを着て、黒い綿のパンツをはいている。が、まめに公衆トイレで洗濯しているようで臭いはない。とはいえ当然のように服はぼろぼろで、色も褪せて黒はもはや紺に近くなっている。その外見的なみすぼらしさと、どうやら自分で短く刈っているらしい雑な頭髪を除けば全体的に身奇麗であり、おそらく公園内のホームレスの中で最も清潔な人物でもあった。また彼は、大抵は薮のどこかにあるはずのねぐらに引っ込んでいる。彼が目撃されるのはもっぱらそのねぐらでだけであり、他のホームレスと比べてそれ以外の場所での目撃例は非常に少なく、世代によっては「はぐれメタル」などと呼んでいるらしい。彼は他のホームレス達と仲間になることもない。他のホームレス達は仲間意識を発揮して彼に声をかけることもあったようだが、彼は丁寧で礼儀正しい言葉遣いでやんわり断りを入れてくるだけであったという。その話はホームレスに差し入れをする人間の口からやがて広まり、彼がアウトサイダーの中でもはぐれ者であることが知られていた。加えて、極めて稀にベンチに座っていても誰かが来たらすぐに逃げ去る様子などが、まさにかのモンスターにそっくりだ、と。
果たして彼がこの公園にやってきたのはいつだったろうか。二年前? そう二年ほど前だ。若いホームレスは公園にやってきてすぐに他のホームレスよりも多くの人目を集めた。何よりもその若さゆえに。若いからこそ、彼は他のどのホームレスよりも注目された。そしてまた、彼はあまりに痩せていた。現れた当初はまだ常識的な痩身であったが、時を経るにつれて苦行僧のごとく干乾びていき、今では浮浪者など社会のゴミだと相手の面前で言ってのける者でさえぎょっとして言葉を失うほどに痩せていた。それなのに彼の双眸はやけに精気に満ちていた。どこか超然とした目の色をしていた。その瞳の輝きは他のホームレスの誰とも共通しない。若くして異端なる者が有名にならないはずもなかった。
そうと考えると、普段の彼の行動に照らしてみれば、こんなにも爽やかな朝に広場の中心を堂々と占拠しているというのはおかしな話である。
小説家は思った。やはり死んでいるのかもしれない――彼は己の胸にある期待がけして善いものではないとは知りながらも、どうしても期待せざるをえなかった。が、反面、その期待の反対側では己の好奇心が失望に変わることをも期待していた。
やがて小説家は男の傍にやってきた。
公園にいる人間達の目が、老齢の小説家と若いホームレスに向けられていた。
若いホームレスは、空を見上げていた。その瞼は開かれたまま凍りついていた。ずっと空気に晒されていたがために乾き切り、腐乱の予兆を感じさせるほど濁った瞳で、その男はじっと抜けるような青空を見上げ続けていた。呼吸のたびに動くはずの胸は凝固し、肌の色は蒼白を通り越して蝋のように白い。
間違いなく、男は死んでいた。
男の死に顔を見た瞬間、小説家は目を見張った。それは彼をここまで駆り立てきた期待感の働きのためではなかった。実際に死体を見れば、例え前もって死体であるのだと予期していたとしても少しは驚くはずであろうが、そのためでもない。彼は、突如として己に襲いかかってきた強烈な疑問のために目を見張っていたのだ。何故ならば、乾いて濁ってしまった双眸に爽やかな青空を映すその若い男は、その痩せこけた頬に、老いた小説家が現実において未だに見たことのなく、また彼が彼の作品の中で描いたこともないほどの穏やかな笑みを遺していたのである。このような死に方にはおよそ相応しくないはずの微笑であり、場違いなまでに幸福を湛える死に顔だった。まるで老いた小説家が「このような顔で死にたい」と思い描く理想が、今ここに寸分違わず具現されているかのようでもあった。
それを疑問に思わずにいられるだろうか。
そして疑問の後に、衝撃を覚えずにいられるだろうか。
初めて嗅ぐ人間の死臭に困惑している愛犬のか細い声がなければ、小説家はその疑問のために己の成すべきことを思い出せなかったかもしれない。
小説家は携帯電話を取り出して、警察に連絡した。オペレーターに状況を説明するために死体を見下ろして、小説家はふと思った。本当に、本当にこの若者は痩せている。ジャケットから突き出る手はまるで鳥の足、手首は節のある枯れ枝だ。髪の毛まで痩せ細って、所々には脱毛の跡も見られる。顔はと言えば頬骨が突き出て眼窩は落ち窪み、微笑みを刻む頬は歯の形が幽かに浮いて見えるほどあまりに薄い。骨と皮、いいや、死するより先に骨となっていたかのようなこの若者の肉体は、よくもこれまで命を保ってきたものだ。
事態を察した人々が集まり出した。
通話を切った小説家は今一度若い男の死体を見下ろした。手を合わせることを忘れていた。それを思い出して手を合わせようとした時、彼はふと、男のジャケットのポケットに何かがあることに気がついた。蓋のなく、小さな消しゴムも削れてなくなったシャープペンシルが収まっている。角度を変えて中を覗き込むと、使い込まれたペンに比べて真新しいリング綴じのメモ帳が見えた。その表紙は空と同じ青い色をしていた。
本来、警察が来るまでは若い男のどこにも手を触れてはならないのだろう。しかし、小説家は自然に手を伸ばしていた。彼の胸の内では先刻からの疑問が燃え盛っていた。その熱が彼を突き動かしていた。この若者は何故このような顔で死んでいるのか。きっとここに回答がある。確信があった。確信があるからには見ずにいられようもなかった。
周囲に集まってきた人々がざわめいている。中には先ほどすれ違った顔馴染みの中年女がいた。彼女は我が子より可愛いという自慢の愛犬を抱いて、嫌悪とも同情とも好奇心ともつかぬ色に目を染めて、老いた小説家と若い死体を見比べている。
小説家は不安げに己を見上げているレトリーバーを一撫でしてから、メモ帳を開いた。
縦書きで、綺麗な文字が几帳面に並んでいた。
小説家は素早く目を通した。書評なども頼まれる職業柄、速読は得意だった。警察が到着すれば遺品を勝手にはできないだろう。その前に読み切ってしまおう。
メモ帳に書かれていた文章は……どうやら簡単な身の上話であるらしい。詳しい出自などは書かれていない。読み始めてすぐ、小説家の唇が嘲笑にも似た形に歪んだ。それがやがて真一文字となり、最後には半ば呆然と開かれた。その短い手記を読み進める速度も落ちていき、最後には、彼は小さく震えていた。その顔はひどくしかめられ、顔色は今にも憤怒を吐き出しそうなほどに真っ赤に染まっていた。彼の見開かれた目は明らかに驚愕を示し、眉の間には軽蔑とも敬意とも取れる影があり、その瞳は定めようのない感情のために揺れていた。頬の強張りは、強烈な否定のためであろうか? 一方、半ば開かれた口元の緩みは畏敬を伴う肯定のためであろうか。
それは、見る者に当惑と疑問をもたらす表情であった。
当惑と疑問の起源が老いた小説家の手にあるメモ帳にあることは明白だった。
では、メモ帳には一体何が書かれているのだろう。
誰かがそれを問いかけようとした時、警察が野次馬の作る輪の中に飛び込んできた。