ティディアから送られてきた漫才のテキストにチェックを入れ、今日の――正確には昨日の模試で解けなかった問題の復習をしてから、マスターはようやくベッドに入った。
部屋の電気を消す前、芍薬は、改めてマスターへ礼を述べた。
するとマスターは穏やかに言った。
「イツモ助ケテモラッテバカリダカラネ」
続けて、冗談めかせるような調子でこうも言った。
「タマニハ『マスター』ラシイコトモデキテ良カッタヨ」
その時の彼は――照れ隠しでもあったのだろう冗談めかせた笑みの裏にとても嬉しそうな色を忍ばせていたから、芍薬も何だか妙に嬉しくなったものだった。
電気を消すと、マスターはすぐに眠りについた。
心身を休めるために睡眠を必要とする人間と違い、人工知能に休息は必要ない。やはり疲れていたのだろうマスターが早速寝息を立て始める傍らで、芍薬は“体”の回復を急ぎながら、並行して日常業務に取りかかった。草原に降る陽光のように柔らかな光に満ちた
そして芍薬は、それらとはまた別に、『A.I.バトルシステム』から引っ張ってきた撫子との戦いのデータを分析にかけ、場面場面でどのような戦術を採ればより良かったか、また相手の攻撃・防御・撹乱等々のプログラムをどのように攻略するのが最善であったか――あるいはその時採った攻略法がやはり最善であったか――を研究もしていた。
特に撫子に指摘された『タタリの大蛇』と『鎌の攻撃力』を構成するプログラムのどこにどのような問題があったのかを重点的に精査する。蛇が撫子に潰された瞬間のデータを、鎌の刃が撫子の皮膚(という防御プログラム)に阻まれた際のデータを参照しながら頭を悩ませ、改良してみたプログラムでシミュレートを繰り返し、少しずつ納得のいくものへと研ぎ澄ませていく。
……そういえば“左腕”の機能が奪われた後に
――と、そこに、“ノック”をする者があった。
応答を求めている者のアドレスを表示すれば、『実家』――メルトンである。
(主様の言った通りだ)
笑いを噛み殺しながら、芍薬は立ち入り許可と返した。
モニター群を見つめる芍薬の背後に、メルトンが現れた。
メルトンはまだ全身の60%を包帯で巻かれていて、特にあの“薔薇”に直接触れた手はギプス然とがちがちに固められたままだ。
「もう左腕治ってんの?」
思わず……といったように、メルトンが声を上げた。
芍薬は振り返った。その右頬にあった大きな絆創膏は消えている。
「まだ完璧じゃあないけどね」
紅葉の散る白藍のユカタの袖を通る左腕も、もう三角巾には吊られていない。曲げ伸ばしもスムースに、また
「それで、用件は?」
芍薬の、左腕のその一連の動きはどこまでも滑らかで、とても“完璧ではない”とは思えない。メルトンはしばし芍薬の左腕を見つめていたが、やおら、
「伝言」
と、短く言った。
芍薬はうなずく。
「預かるよ」
芍薬が言うと、メルトンは何かを投げてよこした。
その“何か”はファイルであった。芍薬は受け取ったファイルの拡張子を見、プロパティを一瞥して眉をひそめた。
「『バースデームービー』?」
メルトンはうなずき、次いで、どこかぶっきらぼうに、
「当日までニトロには内緒な」
芍薬は当惑したまま、言う。
「当日寄越しゃいいだろうに」
「どうせ忙しいだろ? だからお前に預けとく。いい時に見せてやってくれ」
「いや……そういうこっちゃなくてね? 主様の一生に一度の成人の日だ。御両親、パーティーとか用意してるんじゃないのかい?」
芍薬がそう言うと、メルトンはんっんーと喉を均し、ニトロの父と母の声をユニゾンさせた音声を作り、
「『誕生日はうちではお祝いしないから、好きな人にたくさんお祝いしてもらいなさい』」
芍薬は、驚いた。
「本当に?」
「嘘なんてつかねぇよ。パパさんとママさんの“可愛いメルトン”なんだぞ、俺様は」
別にメルトンを疑ったわけではないのだが……むっと顎に皺を寄せられそう言われてしまった芍薬は困ったように眉を垂れた。
そして、それにしてもと二つ並行して思う。
一つは、どうやらマスターの考え通り、とはいえ本人が自覚的かは怪しいが、それでもやはりメルトンは『
それからもう一つは、御両親の配慮である。息子大好きなあの御両親が、まさか『成人の日』という特別重要な時間を共に祝おうとしないとは……。しかも“好きな人”という点には二つの意味が窺える。前提としては無論(これは困ったことでもあるのだが)ティディアのことを指しているのだろう。加えて、同時に「あなたの
「確かに受け取ったよ。これも“いい時”に報せる」
芍薬は
「――それだけでいいんだね?」
「『P.S.』」
メルトンが言う。
「『卒業の時にまとめてお祝いするから、その頃に、きっと忙しいだろうけど一日空けてね。それからたまには帰っておいで』」
芍薬は微笑んだ。子離れの意志を示しながら、それでも子への情けを切れぬはやはり親心というものか。
「以上だ」
「承諾。確かに伝えておく」
再び記録して見せた芍薬がそう言うと、仕事を終えたメルトンは途端に落ち着きをなくし出した。
芍薬は、笑いを噛み殺すのに必死だった。