芍薬は、走り去るメルトンの背を完全に消えるまで見送っていた。
 その胸には、傷みがある。
 メルトンに同情したわけではない。
 芍薬の痛みは、締め付けるように苦い
 それはマスターに救われた歓喜と希望の波の後にやってきた。主様の取り成しのお陰で主様のA.I.のままでいられるようになったことは銀河中の喜びの言葉を並べても追いつかないくらいに嬉しい。けれど、その嬉しさと、その嬉しさが呼ぶ主様との“変わらない生活”への希望が大きければ大きいほど、ココロに押し寄せてきたその波は大量の砂までをも運んできたのだ。波が引いた後にも取り残されるその砂の一粒一粒は細かく、刺々しく、苦く、そして、ああ――重い! 主様が取り成してくれたから……けれどそれは、主様に取り成させてしまった己の失態の裏返しだ。苦くて痛い砂の一粒一粒は自己を構成するプログラムの1ビット1ビットに取り付いて、オリジナルA.I.である己という存在そのものを軋ませてくる。
 芍薬は耐え切れないように、声を吐き出した。
「――アノサ!……主様……」
 肖像シェイプを振り返らせた芍薬は、それと同時に肖像と連動させてある“視野”を電脳世界から“人間世界”を見るカメラへと移り変わらせ――瞬間、マスターにずっと見つめられていたことを察してまごついた。うつむき、続けようと思っていた言葉を思わず発声モジュールの中に停留させてしまう。
 ……ニトロは、黙っている。何も言わず、モニター上の芍薬を見つめている。
 芍薬は言葉を待たれていることに気づき、思い切って言った。
「主様。コレデ……本当ニイイノカナ」
「芍薬は、不満?」
「不満ナンカナイヨ!」
 思わず声を張り上げてしまい、はたと芍薬は口をつぐむ。が、今度はすぐに次を紡いだ。
「デモ、あたしニハ甘イ決着ダ」
 ニトロは小さく苦笑する。よく自分は『真面目』だと言われるが……芍薬も、負けず劣らず『真面目』だ。
「そうだね、そうかもしれない。でも結局これが一番いいんだって俺は思ってる。芍薬にもそうだけど、何よりメルトンにとってね」
「メルトンニトッテ?」
「うん。理由はさっきメルトンに言ってた通りだよ。どうしたって俺の事情に対してメルトンじゃあ力不足だ。それに……」
 と、今度はニトロが言いよどむ。
 芍薬は黙ってマスターの言葉を待った。ニトロは言った。
「メルトンのマスター権限は、いずれ両親に譲るから」
「エ!?」
 芍薬は驚いた。突然の話題の転換に加え、ニトロの言葉には何かと配慮も窺える。芍薬は頬を紅潮させ、
「主様、モシカシテあたしノコトヲ気ニシテルノカイ?」
 モニターの中からニトロの瞳を覗き込むようにして、芍薬は言う。
「デモ、ソンナコトハあたしハ本当ニ気ニシテナイヨ。ダカラ――」
「そう言われると、逆に気にしてるって言われてるような気がしちゃうなあ」
 吹き出すようにニトロは苦笑した。言われてみればその通りで、芍薬は恥ずかしそうに唇を閉じ合わせ、マスターを見つめる。芍薬の眼を見返しながら、彼は首を小さく横に振り、
「前から考えてはいたんだ」
 そして、肩をすくめる。
「あいつはさ、多分、『ニトロ・ポルカトのA.I.』ってより『ポルカト夫妻のA.I.』だっていう思いが心のどこかにあると思うんだよ」
 ニトロの言葉にまた驚いて、芍薬が声を上げる。
「ソンナコト――」
 それを目で制してニトロは言う。
「メルトンが言ってたろ? 『引き続き、俺様はパパさんママさんのA.I.』だって。
 ――引き続き
 挑発含みとはいえ芍薬には『本当のマスターは、今でもニトロ』だって熱弁振るってたくせにさ。もちろん、あの流れで“引き続き”って言うのは自然なことではあるんだけどね? だからこれは単なる揚げ足取りなのかもしれない。だけど、きっと、あいつの本音は今でも両親のA.I.なんだ」
「……」
「……ティディアの、あのはた迷惑な『映画』の準備で、両親が死んだと思わされた時」
「御意」
「メルトンは……あのメルトンがしばらく口も利けないほど、死ぬほど落ち込んでた。俺も落ち込んでいた。けれど、一緒に落ち込める奴がいたから俺は助かった。しばらくしたらメルトンは落ち込みっぱなしの俺をからかいだしてさ、まあ、それはそれであいつなりの紛らわし方だったんだろうけど……それでお互い、わりと早いうちに元気を取り戻せた」
「……御意」
「あいつが『裏切れた』のは、今思うと、だからじゃないかなって思うんだ。あいつにとっての心の底でのマスターは死んじゃってるから、ティディア一流の口車に乗せられ、あいつ一流の調子にも乗ってエンジン吹かしまくって、そうして通常オリジナルA.I.にゃ考えられないことをしでかした」
「興味深イ説ダシ、筋モ通ッテル気ハスルケド、ソレデモ認メラレナイヨ?」
 ニトロは眉を少し垂れ、そして、
「それに、何より先々のことがある。それを考えたら、やっぱりずっと傍にいる人間が権限を持っていた方がいいからさ。そのためにもメルトンには引き続き父さんと母さんのA.I.のままでいてもらわないとこっちが困るし、だから、これが一番いい決着なんだ」
「……」
 いくらかの思案の後、芍薬はうなずいた。深謀遠慮とまでは言わないが、主様は将来のことを本当に良く考えている。芍薬の『計算』も、それが最適解だと結論を下していた。
「承諾」
 同意を得てニトロもうなずき、
「ところで、『A.I.の座』ってそんなに軽いのかな」
 びくりと、芍薬は体を震わせた。
 不意に襲い掛かってきたマスターの叱責。とても静かな声だが、芍薬はニトロの顔にメルトンの挑発時に浮かべていたものよりずっと大きな怒りがあるのを見て、しゅんとうなだれた。『あたしニ甘イ結果』――けれど、その怒りは、そんな『苦い甘さ』を吹き飛ばして純粋な苦悶だけを与えてくる。
「いくら頭にきたからって、本当に短慮だ。……あいつの喧嘩を買ったのには、もしかしたら、芍薬も『発狂』を真面目に疑っていたところもあるんじゃないかって思っているんだけど?」
 ニトロはその質問に対する答えを知りつつもあえて訊ねた。芍薬は、緩慢にうなずく。その考えがあったのは真実だ。――ダケド――と、芍薬が何かを言う前に、ニトロが言う。
「それなら喧嘩を買ったこと自体は間違いなんて言わないし、むしろ当然だと思う。だけど、いくらプライドの問題でもあったからって、あの短慮は、多分『自分はメルトンに負けるはずがない』っていう驕りからもきてるんだと思う。そりゃ俺も実力に関してはそう思っているし、だからって俺は何が何でも“『座』を賭けた決闘”だけは阻止すべきだったって思うから……本当は、俺は芍薬のことをこんな風に言えないんだけどさ……でも足をすくわれたからには、あれはひどい失態だよ、芍薬。お互い、一緒に反省しよう」
 マスターの指摘はこれ以上ない精度で芍薬の急所を突いていた。そう、メルトンの『発狂』への疑いはあくまで周辺事情。頭にあったとしても片隅に、であった。結局あの時、頭の中心にあったのは、全てにおいて優先していたのは『自分のプライド』なのである。それはマスターを第一にするアタシにとってはあり得ぬこと。それでも自分がそれを優先できたのは……そうだ、驕りのためだ。マスターの言葉は実に的確に反省すべきところを致命的なまでに深く刺している。何よりマスターにまで失態を犯させ、反省までさせてしまったことが!――芍薬のココロを、悲しみと己への怒りのために震わせる。苦しい。もしアタシが人間だったなら、息ができないくらいに喉が締め付けられていただろう。
 さらにマスターは、一度ひどく重たい沈黙を挟み、思い切って言うように、
「芍薬……『約束』を忘れたわけでもないだろう?」
 ――アア、ソレヲ言ワレルト!
「ちょっとね、悲しくもあったよ?」
 その言葉に、嬉しいはずのその言葉に、芍薬のココロは千々に引き裂かれるように痛んだ。声にならない悲鳴が芍薬の中を駆け巡る。存在アタシが潰れてしまいそうな悔恨に襲われ、ひどい“眩暈”にアタシを構成する全てが震える。震えは止まらない。もう全く思考回路が定まらない。それでも、
「ゴメンヨ、主様――主様。……ゴメンナサイ」
 芍薬は一声一声を噛み締めるように、懸命にその言葉を紡いだ。
 ニトロは、目を半ば伏せ、
「今回は良かったけれど、場合によっちゃ芍薬の『命』だって奪われていたかもしれない」
「……」
 芍薬は唇を噛んだ。
 ――アア、怒リナガラ、ソンナコトマデ思ッテイテクレルナンテ……
 しかし、だからこそ自身の短慮がどこまでも浅はかでしかないと痛切に感じ、ますます落ち込んでしまう。
 ニトロは芍薬の姿を見て、そこに自分がこれ以上叱る必要のないことを感じ、それならもう一つの問題に取り組もうと問いかけた。

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