<どうかした?>
 ティディアに問われ――失敗したと思いながらも――ニトロは疑念をそのまま口にした。
「いや、随分手短に切り上げるなと思って……。いつもはどうにかしてでも長電話にしようとしてくるのに」
 そう、例えば日課の漫才の練習後。すぐにあれこれ話題を振ろうとしてくるティディアを振り切って接続を切るのがニトロ(と芍薬)のもう一つの日課ともなっている。
<今日は疲れているでしょ? だから、こうやって声を聞けただけで十分>
 その『疲れている』とは、もちろん模試のことを指しているのだろう。が、裏ではやはりこちらにトラブルがあったことを理解しての思い遣りにも思える。
「……」
 ニトロは、惑っていた。
 思えば、どうにもティディアは、ここ数日で明らかにまた変わったように思えてならなかった。そうだ、特に二人で踊ったあの夜から、ティディアは確かに変わったのだと思えてならない。
 ――彼女が示し続ける、“余裕”。
 それはちょうど自分が『道具』として愛されていた頃にはよく示されていたもので、しかし、あの頃の感覚とはやはり全く違うその“余裕”。
 ニトロには、その何が具体的にどう変わったのかは言葉にできない。
 あえて言うならやけに芯の通った余裕……とでも言おうか、あるいは底を掘り下げた懐の深さとでも言おうか、とにかく強敵がさらに強度を増したような気がしてならず……そしてこちらへの『好意』も増したように思えてならない。
 とかくニトロは惑っていた。
<あ、でも、物足りないっていうなら今からそっちに行ってもいい? それともこっちに来ない? 私、多分安全日なのよ。もっとすっきりさせてあげるから、ね?>
 ――のわりに、変わらないところは、やはり変わらない。
 ニトロは、哂った。
「『多分』って、随分雑な誘い文句じゃねぇか」
<逆に言えば孕ませろと言っている。でなくても私の股で吸い尽くさせろと言っている>
「ド阿呆。そこまで行くと誘い文句もシモネタも通り越してあからさまに下品だ」
<下品がなにさ!>
「うわいきなり何だびっくりした!」
<大体人間ってシモから生まれてくるじゃない? そこには何らかの教訓が秘められていると思うの。下品に隠される神のメッセージなんて神秘的だと思わない!?>
「ああもう、うるさい。ンなもん一人で勝手に読み取っとけ」
<ざっくりそれだけ!?>
「それだけだ。それじゃあ疲れてるから、もう切るぞ。テキストは見ておく」
<よろしく。それから>
「ん?」
<おやすみなさい>
「いくらなんでも早いだろ」
<言っておきたかったのよ>
 ニトロは、笑った。
 思わぬ芍薬とメルトンの諍い、芍薬と撫子の思わぬ戦い、撫子との思わぬおもしろい会話を挟んで、ハラキリの思わぬ行動……そうして思わぬ、ティディアのこの調子。
 今日はどうにも変な日だ。
 彼は大きく息を吸い、それをゆっくり吐き出しながら、
「さっきは、ほんとに、悪かったな」
<? どうしたの? もう済んだことでしょう?>
「ああ、そうだね。
 それじゃあ、おやすみ。また明日
 思わぬニトロからの穏やかな返しに、一瞬の間の後、ティディアが嬉しそうに言葉を返してくる。
 そうして名残惜しそうにティディアが通話を切り、ニトロも、接続を切った。
「……」
 自分を変えることになった『キッカケ』――ティディアとの会話を終えたニトロの脳裏には、『ターニングポイント』の以前と以降が断片的に巡っていた。
 メルトンの言葉を借りれば“腹ハ緩クテポヨント揺レチャッテタ”日々と、“ヤタラ努力家ニ”ならねば『ニトロ・ポルカトという自己』として生きていけなかった日々。
 その日々の断片の中から“変化以前と以降のメルトンと自分との関係”を拾い上げて思い返せば、過去を思い返す際の気恥ずかしさと共に思わず苦笑いをして目を落としてしまう。そこに芍薬と自分との関係を加えて考えてみれば、過去を思い返す際の感傷と共に少し失笑するように天井を見上げてしまう。
 彼は頭を掻くと、何となく部屋を見回した。
 元々あまり物を持たない性でもあるが、何よりいつでも引越しができるよう物の少なく殺風景な部屋。
 そこに、一点、鮮やかな緑がある。
 小さな素焼きの鉢に植えられた、最大でも30cm程度にしかならない極小低木。丸い肉厚の葉を連ねたシルエットは緑の球のようであり、その外観が観葉植物としてもとても良いので室内に置いてあるハーブ。日当たりのよい窓際にちょこんと座しているそれを、ニトロはしばらくじっと見つめた。
 アデムメデス最大の塩湖周辺地域原産のその塩性植物は、当地では“家庭円満”の象徴にされているという。芍薬の手入れによってぴかぴかに艶めいている塩気を含む肉厚の葉は、ドライであれば単独でも塩分を含むハーブソルトとして、あるいは独特の香ばしい風味のために特に癖のある食材の臭み消しとして使え、フレッシュであればそのまま食せる。一般的には主にサラダのアクセントとして用いられ、ベーコンのような食感と共に、乾燥させた後とは違う鮮烈な柑橘系の香りと、しょっぱさの中にもほのかな甘さ、それからほのかな苦みという複雑な味が楽しめる。ニトロの家でもよく使われていたもので、いつだったか、このハーブを入れたサラダを食べながら、この植物を家庭円満の象徴にした原産地の人間の感性について語り合っていた料理好きの父と園芸好きの母は、互いの趣味の観点から意見を違えて極めて珍しく喧嘩になっていた――ニトロはふと思い出した――そう、あれは小学生になる前夜だった。だが、結構な大喧嘩をしながらも、食後にはもう両親はいつもの仲良し夫婦に戻っていた。それが、その頃の自分にはとても不思議に思えたものだった。一方で『弟』のメルトンは、両親が仲直りしたことを素直に喜んでいた。
「……」
 やおらニトロは一つ息をつき、二杯目のコーヒーを淹れに席を立った。
 ……二杯目のコーヒーも、やっぱり、芍薬の淹れる味にはとても及ばなかった。

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