撫子が去ってから、やや時を置き、
「……さて」
一つ決心するように意気を込め、ニトロは携帯電話を操作し、通話機能のロックを解除した。着信履歴からティディアに音声オンリーで掛け直す。その胸中には彼女へ『濡れ衣』を被せた呵責があった。
受話口からコール音が一つ、ふた
<もしもし!?>
ニトロは面食らった。その声は異常なまでに明るかった。
「……もしもし?」
<良かったー。拒否された後は繋がりもしないし、ひょっとして嫌われちゃったのかと不安になっていたの!>
「いや嫌われちゃったんじゃなくて事実嫌われているわけだが」
<そんなことはどうでもいいの>
「ぅおい」
<さっきは都合の悪い時にかけちゃったかしら。だとしたら、ごめんね?>
う、と、ニトロは良心の内部で呵責が暴れるのを感じた。そしてそれが、声に表れた。
「ああ、うん。ちょっと、間が悪かったんだ。こっちこそ、ごめん」
言葉自体には嘘はない。しかしその心持ちには偽りがある。
<……>
少し、間があった。
ニトロは確信した。
(勘付かれた……)
間違いない。何はともあれこちらがティディアへの悪い感情を突沸的に抱き、実際に間が悪かったとしても、根本的にはその心持ちこそが先の通話拒否を招いたのだということを確実に悟られた!
ニトロは即座にティディアが『何をどうしてそう思ったのか』を巧みな話術で聞き出しに来るだろうと覚悟した。ティディアのそういう力は、よく知っている。ここにきて誤魔化すのは何だかまた変な気持ちもする。とはいえ全部をしゃべるわけにはいかない。何しろこれは“内部情報”……芍薬も、己の失態を、マスターに、よりにもよってティディアにべらべら話されては傷つくだろう。そう、これは芍薬の名誉にも関わることなのだ。
ティディアの追求をどうやって切り抜けたものかと待ち構え、かつその上で上手く謝るにはどうしたものかと困難極まっているニトロの耳を、ティディアの声が叩いた。
<エッチなことしていた?>
「ぶ」
ニトロは吹いた。これが吹かずにいられるものか。
<言い換えるとオ「言い換えんな!」
<ね? すっきりした?>
「うるさい!」
<それともまだビンビンにボッ「だからうるさい! っつーかシモネタやめい!」
<えー? 別に私はシモネタだとは思わないけどなあ>
「な・ぜ・に!」
<だってー、それって当たり前の生理現象じゃない? それに、ニトロにだって秘密にしたいことの一つや二つはあるでしょう?>
う、と、再び内心でニトロはうめいた。
ティディアは愉快気に続ける。
<男の子が秘密にしたいことって、やっぱりそういう類だと決め付けたいのよ。年下の男の子にとってもエッチなことされたいお姉さんとし・て・は♪>
あからさまなからかい口調であった。もちろんティディアの“からかいの真意”が他にあることを、ニトロは解っていた。そのセリフにはツッコミどころがあるのに、それ故に彼は何も言えない。脳裏を埋めるのは、ただ一言。
(やられた)
音声通信をつなぐケーブルの先で、ティディアはくすくすと笑っている。
ニトロはため息をつき、
「ああ。お陰で、すっきりしたよ」
色んな意味で。
ティディアは、そう、と相槌を挟み、
<それで、用件なんだけど、来月のエリンクス古代劇場のタイムテーブルに変更があったから、その連絡>
言うティディアからは妙に落ち着いた余裕が感じられる。
――その“余裕”は、ニトロにとって久しぶりに感じるものであった。
そして、それは……ちょうど自分が『道具』として愛されていた頃には良く示されていたものでもあった。最近はこのような“余裕”は感じられず、逆にこちらを戸惑わせる反応が目立っていたものだ。しかし、では、あの頃の感覚が全て蘇ったのか? と言われれば、それは違う。
<『
「てことは二本やるのか?」
<ちょうど新作ができたからね。テキストを送っておくからチェックしておいてくれる? 明日から練習したいから>
「解った。けど、
『
<事故った>
「じ――」
ニトロは息を飲んだ。事故――その言葉だけで、もう解りに解る。冷や汗が額に浮かぶ。
<練習中に『パートナー』のサーベルファングライオンちゃんが急に野性に帰っちゃったんだって>
「……程度は?」
<頭齧られた。けれど「恥ずかしくてお見せできない。修行し直してきます」って涙ながらに辞退を申し出られるくらいには元気>
「ああ、そりゃ不幸中の幸いで」
<もう少しで脳の一部を再生治療しないといけなかったみたいだけどね>
「ぅおいッ?」
<やー、本当に不幸中の幸いだったわー。ざっくりイかれていたら折角のイベントに影が差しちゃうところだったもの>
「いや……お前ね」
<冗談よ>
「冗談には聞こえないんだがな」
<やー、見損なわないでよねー>
冗談めかせて言うティディアは朗らかな調子で、声にも笑みを含ませながらも真剣である。ニトロは非難を止め、代わりに、
「スケジュールの変更点は、そこだけか?」
<ええ、仕事の後はトリの『アイウォンと平和の鐘』を観て――そうそう、劇場の打ち上げに“飛び入り”しようと思っているんだけど、ニトロもやる?>
企み声でティディアは言う。ニトロの目には彼女のニヤリとしている顔がまざまざと浮かんだ。
――そして、
(……メルトンが言ってたのは、この劇のだったな)
芍薬を挑発する時に使っていた古典劇の文句。古めかしい比喩。メルトンらしからぬ趣味とは思っていたが、もしやそれは『マスター』の観る劇を予習してのことだったのだろうか。
(……)
<ニトロ?>
問われ、はたと我に返って、ニトロは言った。
「『やる』も何も、既に織り込み済みなんだろ?」
<流石>
ティディアが嬉しそうに微笑んでいるのが、ニトロの目に浮かぶ。
「……いいよ。先方もきっと喜んでくれるだろうから、そういうのなら、嫌じゃない」
ニトロが言うと、ティディアは小さく歓声を上げた。そして、
<そういうことで、以上、よろしくね?>
ティディアが突然口にしたそれは、まるきり会話を打ち切るセリフであった。ニトロは眉をひそめ、
「ん?」
思わず、疑念が音になる。