撫子が、ニトロの許可を得て一時ニトロ宅の全コンピューターを統括し、そして瀕死の芍薬と、半ば瀕死のメルトンを行動できるようになるまで――人間で言うなら集中治療室に入った後に退院できる程度にまで――回復させようとしている。
ニトロはその様子を壁掛けのテレビモニター越しに眺めていた。既にヘッドマウントディスプレイはクローゼットにしまってあり、彼の手元には黒褐色の液体の満ちるコーヒーカップがある。モニターに映っているのは、所々を包帯で巻かれた芍薬と、相変わらず全身を包帯に巻かれたメルトンが並んで横たわる姿。二人の周囲では小さなイチマツが数体、白装束に身を包んだ撫子の指示に従って忙しそうに動き回っている。
撫子の前には、
一方、ニトロにも意味の解るウィンドウが、彼に向けて二つ表示されていた。モニターの両下隅、左右に分けて置かれているそのウィンドウは、それぞれ芍薬とメルトンの“ステータス画面”を表している。それによると、バトル中から治療を開始していたメルトンの方が回復の早いことが一目の下に理解できた。
「……」
現在、芍薬とメルトンの思考回路は止められている。いや、正確には、回復に専念させるため外部情報が届かないよう“遮断”されている。
ふいに、撫子がウィンドウを一つ閉じた。
するとウィンドウそのものが薬になったかのように、やはりニトロに解りやすく外見を整えられた“
軟膏を持ったイチマツは、芍薬のカタナ傷へ透明な薬を塗りつけた。すると傷周りの“歪み”がいくらか安定し、もう一度塗りつけられると完全に固定される。そこにまた新たにやってきたイチマツが絆創膏を貼り付けた。機能としてはギプスに近いのだろう。そうやって芍薬の崩壊を止めているのだ。隣では一度包帯を解かれたメルトンが、全身の火傷に同じような軟膏を塗りつけられて、また包帯を巻かれつつある。その体のどこにも、バトル中に見られた
本来なら、このような治療におけるビジュアル面の演出などしない方が、撫子にとっては楽であるはずだろう。なのにそれをしているのは……他家のコンピューターを使っている以上、何をしているかをいちいち明示してみせようという撫子なりの礼儀というものなのだろうか。あるいは、マスターを安心させるための一手法として取り入れているのだろうか。……何にしても、そのような演出をしながら的確に素早く治していくのだから、その実力にもいちいち感嘆させられてしまう。
ニトロは久しぶりに手ずから
「芍薬は、どうだった?」
撫子が目をニトロへと向けた。その姿は既に傷の一つもない。右手も綺麗に治っているし、バトル終了直後には閉じ気味だった左目も、もうぱちりと開いている。カメラ越しに彼を見つめる撫子は、小首を傾げるように微笑み、
「マダマダ、未熟デス」
「まだまだ? 結構いい線いってると思うんだけどなあ。どう?」
「アラ、私ノ『娘』デスヨ? ニトロ様」
その言い返しは『答え』ではないが、しかし十分である。背中の他の傷についてもイチマツの治療を受け、眠るように横たわる芍薬を見つめる撫子の眼差しは誇りに満ちている。が、ふと、撫子はその眼を伏せ、
「……芍薬ニハ悪イコトヲシマシタ」
ニトロは自分が淹れるより芍薬の淹れてくれた方がずっと美味しいなと思いながらコーヒーをまた一口飲み、
「どっちのこと?」
撫子がニトロを見る。彼はカップを口に当てたまま撫子を見つめ返している。
撫子は、微笑んだ。その微笑みは、ニトロの初めて見る撫子の表情だった。苦笑しているような、喜んでいるような、面映く感じているような、悔やんでいるような、そして、
「オ恥ズカシイ話デスガ」
と、もう一つ、ニトロが感じた“感情”を撫子は口にした。
「私ハ、浮カレテイタヨウデス」
「浮かれていた?」
ニトロはソーサーにカップを置き、注意を深める。芍薬へと目を落として撫子は、
「芍薬ニトッテハ
芍薬を見つめていた撫子が振り返り、ニトロをじっと見つめ、
「ニトロ様、コレガ『親離レ』ヲサレル寂シサトイウモノナノデショウカ」
「さすがに、それがそうだとは俺には言えないよ」
ニトロは“親”ではない。撫子は、己で問いかけておきながらそれもそうでしたと言うように笑い、息をつくように間を置いて、
「芍薬ニ世話ヲカケテシマッタノハ、ツマリ私ノ『子離レ』デキテイナイ心ガ故。ソノ結果、芍薬ヲトテモ傷ツケテシマッタ。私モ、マダマダ、未熟デス」
「うちの両親が言っていたけど、子は親に、親は子に育てられるもんなんだって。そして、それが当たり前なんだってさ」
撫子が両眉を跳ね上げてニトロを見る。少し目の丸いのは驚いたためか、それとも感心のためか。撫子の反応をどこかむず痒く感じ、それを誤魔化すようにニトロは苦笑し、
「だから
撫子は笑った。肩を揺らして、楽しげに。ニトロもその時の呆れた自心を思い出し、そうして不思議と――その時はツッコミ倒したが――今は、面白く笑ってしまう。
やがて笑いも止んだ時、撫子は問うた。
「モウ一方ハ、ドウナサルオツモリデスカ?」
それは、ニトロへの問い返しだった。
撫子の顔にはこれまでとはまた違う真剣味がある。ニトロは撫子の表情を興味深く見つめた。撫子は真剣な顔をしてはいるが、その表情のどこにも罪の意識というものは存在していない。おそらく、こちらについては『悪イコトヲシマシタ』とは思っていないのだろう。何故なら、確かに撫子こそが芍薬にとって絶望的な“結果”をもたらした者である。しかし、その絶望的な結果をもたらした“因”には芍薬の明確な意志と選択が介在している。そう、これは十分に免れ得た事態なのである。されど芍薬はマスターの制止を拒否してまで自らそれを拾った。であれば責を負うのは芍薬。であればこそ撫子は己を責めることはしていないのだ。真剣なその表情は、ただ行く末を見届けようという意志のみが表れた顔。ニトロには、己の態度を当然とする撫子を、ある意味で身勝手にも思えるその態度を、しかし芍薬が責めることは決してないだろうと思えた。芍薬の価値観に撫子の強い影響があることに異論を挟む余地は無い。二人の生き方にとってはこれこそが『当然』であるならば、同時にその価値観の共有は二人の絆ともなるだろう。撫子は一欠片も己を責めぬ一方で、同時に芍薬の誇りを尊重してもいるのだ。――いや、むしろ芍薬への敬意があればこそ、撫子のその態度なのだと言い切ってもいいのだろう。……だが、反面、ニトロには、それでも撫子の真剣なその顔と態度のどこかに、どうしても隠し切れぬ温情を求める意志がこっそりと表れているような気がしてならなかった。そして、それこそが、おそらく『親』の心情というものであるのだろうと彼には思えてならなかった。
「……」
ニトロはコーヒーを一口飲んで間合いを取り……撫子が『親』の心情をも慮らせてくるのなら……それでなくてもどうしても聞いておきたかったことを口にした。
「メルトンからこの話を受けた時。それだけは断ろうとは思わなかった?」
問いへの答えではなく、さらに問いを返された撫子はニトロを窺うように見つめた。
「『理由』については理解したし、やるとなったからには互いに全力……ってのは“らしい”なって思うんだけど、でもその前段階からこの条件でやる気満々だった――とはとても思えない。いや、思いたくないって言おうかな。芍薬に『苦行』を与えるのは本意でないとも言っていたし……それが例え修行とか何とかのために“苦渋にも”って意味だったとしても、そのために『座』を失わせるっていうのはいくらなんでもやりすぎだと思うから。――それともそういうのは俺の幻想で、実際にはメルトンに『兵法』のヒントなんかもあげてたりしてたのかな? 何事にも厳しい『お母さん』は」
ニトロは穏やかに語るが、その台詞回しには棘があり、声の底にも小さな揺らぎがある。撫子は、それが不満・憤りの類であると