「……ッ」
 今夜は日課の漫才の練習はない。今日の模試のため、一昨日から三日間の休みを入れてあるのだ。もちろん、それとは別にあいつが何事かの連絡をするため電話をかけてくる可能性はある。しかし、それにしたってあまりにもタイミングが良過ぎるではないか。ニトロの脳裏に浮かぶのは、つい直前まで脳裏に浮かべていた『思い当たり』を補強する確信。あり得ないと思っていたが――いいや、あり得ないと思うことをしてくるのが『クレイジー・プリンセス』ではなかったか!? 彼は半ば怒りに任せて通話を拒否するボタンを押し、そのまま通話機能も停止させながら叫んだ。
「芍薬!」
 秒数は『4』。
「ナオサラ負ケルモンカ!」
 緊張と覚悟の声を発する芍薬のユカタが、瞬時に変形する。ニトロが度々世話になったあの『戦闘服』と地球ちたま日本にちほんのシノビショーゾクという戦装束を合わせ、マスターと一緒に『格好良くしよう』とアレンジした電脳世界における勝負服へと形を変える。衣の地色も、清らかな白藍から金属性の光沢を帯びる漆黒へと変わっていた。これまで露であった頭部も帷子から伸びてきた覆面が包み込んでいる。服と同様漆黒の覆面から覗く双眸は鋭く、そしてトレードマークのポニーテールは、闘争心の熱に煽られるように揺れている。
 ――『3』
 メルトンが迫力に押されたかのように、たじたじと距離を広げていた。その顔からは余裕が消えていた。今更芍薬への恐れを思い出したかのように、そこには強がりないつもの小心者らしい怯え顔があった。
 しかし、メルトンが今更何を思おうとも、その間にも時はくだる。『2』から『1』――そして、
「イザ!」
 カウントが『0』となるや芍薬はメルトンへ踊りかかった。
 同時、急ぎ、慌てて左の指で右手の平の『逆襲スイッチ』を押し込んだメルトンは、安堵と共にへへと笑った。それは完全に勝利を確信した笑顔であった。そして得意気に顔を上げたメルトンは……そこで凍りついた。
 芍薬が、メルトンの眼前にいた。
 いかに人間にも解るよう可視化されているとはいえ、ニトロにはA.I.達が“その距離”をどのように感じているのかは解らない――が、それでも、両者の距離は、普通なら一息には詰め切れる距離ではなかったのだろう。
 メルトンが、その顔を激しく引きつらせている。
 明らかに驚愕で全身を硬直させている。
 どうやら芍薬の“本気の速度”がこれほどとは思っていなかったのだろう。だからこそ、安全と思い込んでいた距離が一瞬の内に詰め切られたことへの驚愕が増したのだろう。信じられないものを信じたくない思いもあったのか、メルトンは己に迫る鋭いクナイをようやく認め、それを避けるよりも悲鳴を上げる方に意識プログラムが働いたらしくあんぐりと口を開け――と、その瞬間、芍薬のクナイの切っ先がメルトンの眉間に突き刺さる!
「ウワッ!?」
 しかし、次の瞬間、思わぬ苦悶の声を上げていたのは芍薬だった。
 突如、メルトンの『逆襲スイッチ』から溢れ出した無数の『逆襲』の墨文字――大きさも濃淡も様々なそれらが、まるでメルトンを守るバリアのように周囲に展開すると共に芍薬を弾き飛ばしていたのである。
 弾き飛ばされた芍薬は空中で姿勢を整え静かに着地した。そして弾き飛ばされた衝撃がそのまま驚愕として表れたような顔つきでメルトンを――メルトンの、背後を見つめた。
「――エ?」
 芍薬の疑念の声が、モニター越しに決闘を見守るニトロにも疑念を抱かせる。
 目を丸くした芍薬は心の底から驚いている。その瞳には信じられないものを信じたくないと言うような色がある。
(……あのバカの仕業じゃあない?)
 ティディアなら芍薬がここまで驚くことはないだろう。
 ならば、誰だ?
 逆襲! 逆襲! と、メルトンの周囲には無数の墨文字が五月蝿く乱舞していた。五月蝿く乱舞していながら、墨の濃淡が作り出すモノトーンの色彩にはどこか上品な美観があった。そしてその中心では、芍薬のクナイから救われたメルトンが顔を、いや、それこそ全身を輝かせている。切っ先が刺さったのは確からしく、眉間にちょっと傷がついているが、それにも気づかぬメルトンのひたすら歓喜に輝くその姿は、どこか恍惚として神の降臨を見るヒトのそれにも似ている。
 逆襲! 逆襲! 逆襲! と乱舞していた墨文字が、ふいに動きを変え、渦を巻くようにしてメルトンの頭上で折り重なり始めた。そうしていつでもメルトンを守る盾として敵を払えるよう睨みを利かせながら、空の一点に墨色の分厚い円盤を作り上げていく。
 芍薬は、ただただその光景を凝視していた。凝視して、覆面から覗く目とその周囲をニトロが見たこともないくらいに強張らせていた。
 やがて『逆襲』の墨文字が全て重なり合い、と、それが同時に真っ白な空間に穿たれた墨色の穴となった。
 直後、そこからメルトンの武器が飛び出してくる。
 そして。
 地に降り立つその正体を認めた瞬間。
 芍薬も、ニトロも、それぞれに含む色合いは違えども、それでも同じく驚きのあまりに素っ頓狂に叫んでいた。
 武器と呼ぶには似つかわしくない艶やかな袖を、一振り。
 そこに佇むは、そう、間違いなく!
撫子オカシラァ!?」「撫子ぉ!?」

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