戸棚からコップを取り出したニトロが目をやると、モニターには真っ白な風景があった。天も地も真っ白で地平線も見当たらないのに、不思議と天と地の存在とその隔たりが認識できる真っ白な空間。
 先ほどニトロが言った『A.I.バトル』とは、もちろん、その呼称の通り人工知能同士の戦いを示す。しかし、本来A.I.達の戦いは人間の目では見ることができないものだ。それはA.I.達の見る世界と人間の見る世界の形が違うために。加えて、A.I.達の戦いは人間には“速すぎる”ために。そこで、A.I.の戦いを観たいという好奇心に突き動かされた者達が『A.I.バトル』という言葉に括られる“環境システム”を構築した。そのシステムの最大の特徴は、システムの制御する“世界”の中ではA.I.達の行動速度は遅くなるということ――正確にはA.I.達は普段の感覚のまま動いていても“その世界の時間”が減速しているため、それ故A.I.達のアクションが人間の目にも可視のものとなるのだ。
 モニターに映る真っ白な世界は『オープンフィールド』と呼ばれる状態だった。
 ここには一切の“障害物”が無い。今や立派な娯楽の一つとしても数えられ、様々な人の手によって無数の戦場フィールドが作られている『A.I.バトル』において、誰もが最も純粋にA.I.の実力をぶつけ合うのに適すと認める環境かんきょうである。
 冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、コップに注ぎ、ボトルを冷蔵庫に戻してニトロが振り返った時、モニターには芍薬とメルトンの肖像シェイプが現れていた。
 芍薬は紅葉の散る白藍色のユカタの下に帷子かたびらを着込み、両手にはクナイを持ち、既にる気満々である。
 一方、メルトンは相変わらずの制服姿で何の変化もない。メルトンはミサイルの形状をした『武器』を好んで使っていたはずだが、その影もない。
 対峙する両者は距離を置いている。ニトロの感覚で目測すれば10mの距離だろうか。とはいえ、電子世界の住人であるA.I.達にとって、その空間システム内での“10mの距離”がいかほどのものかは彼には解らない。これはあくまで人間にも解るように可視化された空間くうかんであるのだ。
「……」
 ニトロは食卓兼勉強机としているテーブルの、モニターを正面とする席についた。コップに口をつけ、一口、冷たい水で喉を潤す。
 芍薬とメルトンの間に『60』の数字が表示された。それがすぐに『59』となる。
「随分余裕ジャナイカ」
 芍薬が、言った。
 スピーカーを通してニトロの鼓膜を震わす声は殺気立っている。
 この戦いを表示する“カメラ”は常時最適なカットを作り出すよう設定されているらしく、芍薬のセリフに応じてモニターが左右に分割された。左に芍薬の全身が、右にメルトンの全身が、ちょうど表情もよく見えるくらいの大きさで画角に収まる。また、中央上部には小窓があり、そこには芍薬とメルトンを含めた全景が映っていた。
 そうしてクローズアップされたメルトンの顔を確認したニトロにも、メルトンの様子は余裕に満ちて見えた。口元を得意気に持ち上げ、目元をにやつかせ……まさに余裕綽々で、そして生意気な態度だった。
「オ前ナンカ、敵ジャネェカラナ」
 尊大にメルトンは言う。
 一般知識として『発狂クレイズ』の症例には『病的な妄執』や『執着心を行動原理とする傾向』、そして『修正不可能な誤認』が主に挙げられている。メルトンの態度に、ニトロはまたA.I.の死病を思ってしまう。
 対して芍薬はため息混じりに、
「アンタネェ……あたしニボコラレタ歴史ヲ忘レタノカイ?」
「忘レタナア。大物ナ俺様ハ、ソンナ小サイコトハイチイチ覚エテラレネェノサ。ア、ダカラナ、オ前ハ俺ニ対シテ何モ気ニ病マナクテイイゾ? 寛大ナ俺様ハ全テ許シテヤルンダカラ」
「ハ、許ス? トイウコトハ、忘レタトカ言ッテオキナガラ全然忘レテナインジャナイカ。語ルニ落チルノハ、ドウヤラ相変ワラズノ特技ノヨウダネェ」
「ア、カッチーントキタヨ? コンチキショイ。ソンナコトヲ言ウナラ、アレダ、ニトロノA.I.ノ座ヲ追ワレタ“カワイソウナ芍薬チャン”ヲ『サポート』ニシテヤルノハ無シダナ」
「オヤマア随分ナ皮算用ヲゴ苦労様。25秒後ニハ“コノ世”ニ別レヲ告ゲルッテノニ、イヤ、モウ23秒カ」
「ハッハァン? ソレコソ『皮算用』ッテモンダロ?」
「21」
「20秒後、ニトロニ別レヲ告ゲルノハ、オ前ダヨ、芍薬」
 と、メルトンが、ふいに右手を差し出した。
 上向けられた手の平には何やら長方形の……スイッチ、だろうか? ニトロが眉をひそめた時、カメラのアングルが変わり、それが『逆襲』という文字を立体化した物であることが知れた。芍薬もそれに気がついたらしく、ニトロと同じく眉をひそめ、
「『取リ寄セ』――ノ起動プログラム? シカモ……武器ノカイ?」
 メルトンの顔に驚きが表れた。
 よもやこれほどあっさりネタバレするとは思っていなかったのだろう。芍薬の観察眼に今更脅威を覚えたように、満面の余裕の中に怯えの翳りを見せる。
「アンタ、ヤッパリクレッテルンジャナイカイ? 追加・持チ替エ・百歩譲ッテスキルヤラトラップヤラナラトモカク、ソンナ風ニシテ始マッテカラ武器ヲ取リ出ソウナンテ阿呆ノ極ミダロウ」
 ニトロは、芍薬が『バグ』ではなく『クレイズ』に由来する言葉を使ったことで、あれだけ怒っていながらその危惧も考慮していることを悟った。それによって芍薬への信頼が深まると同時に、一方でメルトンの不可解な行動への疑問が深まる。
 実際、芍薬の言う通りだ。
 芍薬は既に武器と防具を表示している。それは既に基本戦力とする攻性プログラムと防性プログラムを起動してあり、決闘の開始と同時に全開で動かすことができることを意味する。もちろん芍薬はそれら以外にも様々なアイテムや技を影で用意していることだろうし、必要に応じてこの『A.I.バトルシステム』の外のフォルダに仕舞ってあるものを『取り寄せて』扱うこともあるだろう。
 この決闘は、状況からして、互いに利用できるハード面の性能値は全くの平等として設定されているはずだ。また、一般的な『オール』のルールでは事前にどのような初期装備も許されているし、カウントダウン中に様々な戦闘準備をすることも(相手の装備に応じて新たに攻性・防性プログラムを作成することも)許されている。ということは当然メルトンも自身の武器を用意できるわけであり、初手からわざわざ外部から何かを『取り寄せる』必要はない。それは最初から一手損をするだけであり、それどころか、芍薬を相手にそれをすることは、すなわち“コンマ秒殺”さえ意味する。はっきり言って愚策だ。ニトロも色々な『A.I.バトル』を観てきたものだが、メルトンのような戦略など見たことも聞いたこともなかった。
 もうカウントは『13』。
 すぐに『12』に変わる。
 なのに、メルトンは余裕を取り戻してやっぱりにやついている。
 ニトロは喉が渇いていることに気づき、一口水を飲んだ。
 芍薬は――何かを得心したように一人うなずき、腰を落としてクナイを構えた。
マサカ、本当ニマタ『助ッ人』ヲ得テクルトハネ」
 ニトロははっとした。自分もその可能性は考慮していた。『マサカ、本当ニ』というセリフからしてどうやら芍薬も考慮していたのだろう。そしておそらく、芍薬も自分と同じように――その可能性はおそらく『発狂』の可能性よりも低い――そう判断していたのだ。
「随分ナオ人好シヲ見ツケラレタモンダ」
 呆れたような芍薬のセリフに対し、メルトンがやれやれとばかりに肩をすくめた。
「ハッ、何ヲ言ッテルノサ。助ッ人ナンカジャア、ナイネ」
 そうして頭にくるほど得意気に、ふんぞり返ってメルトンは言う。
「俺ノ『武器』サ」
「武器ダロウト何ダッテイイ。ソレガ来ル前ニオ前ヲヤレバイイダケダ」
「デキルカナ? 芍薬、オ前ニ
 いつまでも余裕を崩さぬメルトン。
 ニトロは、このやり取りからメルトンが『発狂』したわけではなく、やはり調子に乗っているだけだったと確信できて胸を撫で下ろす反面……となると、これはどうやら主従揃ってメルトンにしてやられたらしいと内心決まりの悪さに苦笑し、それからまんまとやってくれたメルトンへの思わぬ感心にも苦笑しながら、しかしすぐにこれまで以上の緊迫感を取り戻し――そうだ、苦笑などしている場合ではなかった!――それではメルトンをここまで調子に乗らせられる者は誰か。根は気の小さいメルトンに、敵方しゃくやくにネタを見透かされてなお自信を失わせない『助っ人』が誰であるのかを考えた。
(……)
 ――いや、それは、考えるまでも無い。
 そう、考えるまでも無い。
 決まっている。
 思い当たるのは、一つだけ。
 しかも『逆襲』となれば確定的である。
 でも、本当に……?
 それこそどういう動機で?……
 と、その時、困惑するニトロの携帯電話モバイルに着信があった。
 びくりとして彼は慌ててポケットから携帯を取り出し、その画面を見た。
 そこには着信を知らせるメッセージがある。
 発信元は『ティディア(仕事用)』とあった。

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