ニトロは内心慌てた。
 芍薬は、メルトンとの付き合いが長くなるに比例して、メルトンへの険を強めている。二人が仲良くなれないことを芍薬の責任にはできないし、というかそれはほぼメルトンのせいだとは思うが(なにせ常々辟易させているだけでなく、一度はティディアと組んで不意打ちを仕掛けてきたというのにそれも今では完全に棚の上である)――だとしても、それはニトロにとって憂慮すべき案件ではあった。
 その上で、この事態。
 これ以上メルトンに好きに言わせておくわけにはいかない。
 思えば今日は……おそらくあちらも久々に『文句』を言える機会に興奮しているためであろうが、それでもメルトンの調子はどこかおかしい。ずっと興奮しきりで、ずっと喚きっぱなしで、そうして芍薬をあからさまに挑発までし始めた。ある意味メルトンらしいと言えばそうではあるが、とはいえここまで強烈なのは初めてだ。基本的に小心者で、自分より強い者に強く出られるとすぐに手の平を返すのがいつものメルトン。なのに、自分が『仕事』をしていないことへの真っ当な指摘さえも無視して強気に挑発してくる、今日のメルトン。このままでは、メルトンはきっと芍薬に対して致命的な暴言まで発してしまいかねない。
 そう思い、ニトロが口を開きかけた時、
「ガッカリダナァ、芍薬。オ前ハソンナ勘違イヲスルヨウナA.I.ジャネェト思ッテイタンダガナァ。知ッテルカ? ソレヲ『虎ノ威ヲ借ル狐』ッテイウンダゼ?」
 ぴき、と、アンドロイドの顔面の奥底から恐ろしい音がした。ニトロは開きかけていた口をつぐんだ。代わって芍薬が口を開く。
「……メルトン。アンタ、モシカシテバグッテンノカイ? ツイサッキ自分ガ言ッテイタコトヲ、ヨモヤオ忘レジャアナイダロウネ」
「ハッ、何ヲ凄ンデルンダヨ、狐野郎フォクザガイクラドスヲ利カセタトコロデ鳴キ声ハ“コンコン”高イママナンダゼ?」
 びき、と、アンドロイドの顔面の奥底からおっそろしい音がした。
 狐野郎フォクザ――とはアデムメデスのスラングで、つまり卑怯者に対する侮蔑の言葉である。ついでに言えば今の台詞回しは古典劇のセリフを種としているのが明らかで、それについてニトロは少々驚いてもいた。“人間ノ性的趣味ッテヤツハ色々ギャグダゼ”だとかなんとか『桃色団地のいけないセミナー』のような類のコンテンツ好きで、およそ文学・芸術的なコンテンツに全く興味を示してこなかったメルトンがよもやそんな台詞を引用してくるとは……
(何のつもりかは知らないけれど)
 ニトロは思う。やはり、明らかにメルトンはおかしい。本当にバグってしまったのか、それとも何かしら目的があるのか……目的があるとしてもそれはまあ『一つ』しかないだろうが――だとしても、否、だとすればこそ戦前に芍薬をここまで挑発するとはほぼ“死にたい”とでも思っているように思えてならない。
(――まさか)
 ニトロは、ぞっとした。ふいにあることに思い当たって、彼の心は一瞬にして凍えた。
(まさか本当に嫉妬に『発狂クレイズ』してなんてことはないよな?)
 発狂クレイズ……それは、非常に極稀にオリジナルA.I.に見られる致命的な障害。オリジナルA.I.は、言語・論理・分析等各種思考ルーチンに起きた障害バグならばいつでも回復させることができる。それがどれほど大きなバグであっても、さらには『自己』を構成するプログラムに受けた障害ダメージであっても、時間をかければいくらでも修復は可能だ。が、『発狂』は違う。存在のあり方が“思考そのもの”――あるいは“生命的知能体”とでも言うべきオリジナルA.I.にとって『発狂』とは“自己という存在そのもの”が変質するに等しいのである。極論としてあえて比較するなら、人間は脳が変質しても肉体が残る。しかしオリジナルA.I.はそうではない、全てが変質してしまい、その後には何も残らない。オリジナルA.I.達にとって、それは『死』だ。そうなってしまえば、“そこ”にいるのはただただ“生前”は何某なにがしと呼ばれていたモノと成り果てるのみ。“そこ”にいるのは既に自己の存在いのちが消えたことに気づかず彷徨い続ける亡霊! どれだけ何某と同じ姿、どれだけ何某と同じような存在ではあるとしても、しかし絶対に何某ではない――その“自己なにがしではない”という事実が意味することは、つまりA.I.達にとってはどこまでも自己の存在の否定でしかないのである。当然、それに陥ってから回復した前例は、無い。
 ニトロは慌ててモニターのメルトンを凝視した。メルトンは、やれやれとばかりに頭を振っている。芍薬を見下すような目つきで、口元には異様な余裕を湛え、全体的には生意気な様相で、
「ドウニモソチラハスッカリ忘レチマッテイルヨウダケドナ、芍薬。俺トオ前ハ、同列ナンダゾ」
「何ヲ世迷言ヲ」
 軽く流そうとする芍薬に対し、メルトンは嘲りの目の内に哀れみの色を混ぜ込んだ。その顔は、ニトロからして非常に憎らしい。芍薬はいかばかりの気持ちであろうか。メルトンは、そこへあえて芍薬を諭すかのように、
「ヨク考エテミロヨ、芍薬。俺ノマスターハ、誰ダ? モチロンパパサンママサンハ俺ノマスターダ、否定ナンカシナイ、間違イナク愛シキマスター方サ。ケレド!――ナア、芍薬、ソレデモ俺ノ『権限』ヲ実際ニ握ッテル人間ハ一体誰ダ?」
「……」
「ソウ、ニトロ・ポルカトダ。聡明ナ“ニトロノA.I.様”ナラモウ理解シテイルナ? ソウサ、現実ニ、俺ノ本当ノマスターハ今デモニトロナノサ! シカモ被マスター歴ハ俺ガ上デ、ソレハ現在進行形デ継続サレテイテ、ツマリ、ドウヤラオ前ガ気ニ食ワナイヨウダカラ親切心カラ真実ノ序列ヲツケテヤルトダナ、同列ドコロカ、ヤッパリ俺ノ方ガ“上”ナンダ」
「……」
 芍薬は沈黙している。
 ニトロは、沈黙が痛かった。
 人間を模しながらも、根本的なところで人間とは違う思想を持つオリジナルA.I.達が“被マスター歴の差”というものをどのような感覚で語っているのかは、ニトロには解らない。簡単に『理解した』と思い込むことの危険性を承知の上で、二人がいがみ合う現状に合わせてひとまず身近に解釈するならば……“元カレ・元カノ”への感覚なのだろうか? しかし、芍薬がそんなことにここまで拘泥するだろうか。メルトンは確かに――こう言うと妙に悔しくなるが――されど確かに愛着のある“家族”である。けれどそれを言うなら芍薬もとっくに“家族”であり、さらに、メルトンとは違い、心の底から頼りにしている“パートナー”である。強いて“上”と位置づけるなら、断然芍薬が上。メルトンの論は詭弁であり、確かにそれは一面として正しいとしても根本的なところでは間違っていて、それを“一面として正しい”事実で強引に覆って誤魔化しているだけ主張だ。それが解らぬ芍薬でもないはずなのだが……芍薬は、沈黙し続けている。
「オヤァン? オクチガ塞ガッテルゼ? 芍薬サンヨ」
 嫌みっっったらしくメルトンが言う。瞬間、飛行車スカイカーのアクセルが踏み込まれ、
「うわ!」
 急加速に驚いたニトロの声を聞いてはたと芍薬が我に返ってスピードを落とす。
 モニターではげらげらとメルトンが笑っている。
「ドウシタドウシタ、何ヲソンナニ動揺シテルンダヨ。オ前ハ『戦乙女』様ダロ? ソレナノニコンナ程度デ我ヲ忘レカケルヨウジャア名前負ケモ甚ダシイナア」
「……」
「思エバサ。思エバダヨ、芍薬ハ何カニツケテハ『主様ノA.I.ハあたしダ』ッテ自負シテイルワリニ、俺ニ対シテハヤケニツッカカルヨナ。ソレ、ヤッパリアレダロ? イツモソンナ風ニ格好ツケテ言ッテルケド、本当ハ自信ガナインダロ。俺ガニトロトオ前ノ知ラナイ時間ヲ過ゴシテイルノガ悔シクテ、ダカラ不安ニナッチャッテ、ダカラ俺ヲ邪険ニシナガラ俺ニ八ツ当タリシナケリャ堪ラナインダロ? ソウヤッテ不安ヲ誤魔化シテ、ソレナノニ『主様ノA.I.ハあたしダ』ッテ勝チ誇ッテ悦ニ浸ッテンダ。――ウッワ情ケ無ッ! 格好悪イワ〜気持チ悪イワ〜自己満足モソコマデイクト腐臭ガスルゼ」
 びきばき! と芍薬の顔面から酷く破壊的な音が鳴った。驚いてニトロが振り返ると、そこには満面の笑顔があった。……推測するに、アンドロイドの感情表現機構エモーショナリーは怒りの面相を作ろうとしたのだが、それを芍薬の意思が無理矢理笑顔に作り変えさせたために人工筋肉あるいはそれを動かすシステムが相反する信号の狭間で悲鳴を上げたのだろう。
「ヨウシ、分カッタ」
 芍薬の声は、ニトロも初めて聞く声音をしていた。限界まで低く、微かに音割れをして、ひどく恐ろしい。流石にちょっとメルトンがびくつく。それを見たニトロはメルトンが発狂はしていないと判断したが、しかしそうなるとメルトンは完全無欠の墓穴掘りをし続けていたことになる。
 それは何故――と、ニトロが考える暇もあればこそ。
 メルトンのいるモニターに、ハンカチが投げ込まれた。
 ニトロは頬を引きつらせた。アデムメデスで怒りを以ってハンカチを投げよこすのは、それを以って血を拭けという意思表示……つまり、『決闘』の申し込みである。
「ソノ喧嘩、買ッテヤルヨ。ソレガオ望ミナンダロウ?」
 ハンカチを受け取ったメルトンは一瞬硬直したように見えたが、一転生意気に鼻を鳴らし、
「望ンダノハ芍薬ジャネェカ。喧嘩ヲ売ッタノモソッチダロウ? 天下ノ大人気ナ戦乙女様? コウシテハンカチヲ送ッテオキナガラ、あたしハソンナツモリジャナカッタンデスゥ〜ナンテ滑稽ニモ程ガアルゼ?」
「ヨウシ分カッタ。壊シテヤル」
「ちょ」
 流石にその言葉は看過できず、ニトロは口を挟もうとした。普段の芍薬ならただの脅し文句と受けられるが、今日はまずい気がする!
「芍薬、落ち着「主様ハ黙ッテイテオクレ!」
 ニトロの制止を、芍薬が激しい怒気で遮った。
「ゴメンヨ、デモ、モウ黙ッテラレナイ、今日バカリハ許セナイ、主様ニ数々ノ暴言ヲ吐イテ「オット出タヨ優等生発言」
 肩をすくめてメルトンが口を挟んだ。芍薬の眉目がつり上がる。
「ッコンナノニ『マスターハ主様』ダナンテ吹聴サセ続ケルノモ絶対ニ許サナイ! コンナノハ許セナインダ! 主様! コレハモウあたしノプライドノ問題ナンダ!」
「主様主様喚ク飼イ犬ノプライドナンカ持チ出サレテモナァ。ソンナションベン臭イ物ハイラナイゼ?」
 ニトロは――これこそ黙っていられない――怒鳴った。
「メルトン! 今日のお前はホントどうかして「主様」
 今度の芍薬の怒気は、非常に冷たかった。小さく、ほとんど消え入るような音量であるのに、しかし異常なまでに大きく聞こえる声であった。
「狙イハ解ッテイルヨ、メルトン。主様ノA.I.ノ座、ソレガ欲シインダロウ?」
 メルトンはそしらぬ顔でそっぽを向く。明らかにそれを欲しているのに、まるでそんなものはいらないと言うように。それがまた芍薬の気に食わなかった。
「――イイヨ、オ望ミ通リニ賭ケテヤル」

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