「お前は、誰に、何を願いたい?」
 彼の意志が伝わり、パトネトがゆっくりと手を離そうとして、と、もう一度手を強く握ってから手を離す。
 ティディアは小首を傾げるようにして頑固な想い人を見つめていた。
 しかし、彼女も弟と同じくやがて諦め、言った。
「私が願うのは、あなたに」
 華やかな声が無音のホールに響く。
 誘われるように一瞬、周囲がさわめく。既に皆、今日この場での“ご成婚”の確約がないことは承知している。先の余興でのやり取りから、姫君はあくまで恋人が己を――才媛という言葉では追いつかない希代の王女を――納得させるプロポーズをしてくれることを待っていて、おのずから恋人に結婚を求める意志のないことは明らかだ。
 では、この王女は恋人に一体何を願おうと言うのか。
 周囲には期待と不安がある。きっと『ティディア姫』らしく思いもよらない素敵な願いをするのだろうという期待と、『クレイジー・プリンセス』らしく無茶苦茶な願いをするのかもしれないという不安とが。
 周囲の囁きが静まるのを待ち、ニトロは真っ直ぐティディアを見つめる。
「俺に、何を願う?」
 彼は、世辞は言わずとも、この『願い』の件には応えようと心に決めていた。何しろ自分で勝負に乗っておきながら、自分が負けたから拒否する――などとは無様に過ぎる。そんなことをすれば、様々なリスクを背負いながら勝ち切ってみせたティディアに心根までもが完全に敗北してしまう。それは意地とプライドが許さない。
 ティディアは敢然としたニトロの表情にそれを読み取り、目を細めた。
「何でも聞いてくれる?」
「事と次第によっちゃツッコミくれてやる」
 瞳の奥には“覚悟”を刻みながらも、しかし表面上は“いつも通り”のニトロの返しに小さな笑いが起きる。皆、笑いながらも王女の願いを今か今かと待っている。
 ティディアは、一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。つられたように、そこかしこからも深呼吸の音がした。
 そしてティディアは、そのすらりと美しい右手を、そのたおやかな甲を上向けてニトロへと差し出した。
「?」
 ニトロが眉をひそめる。
 怪訝な様子が周囲に満ちる。
 ティディアは声が震えそうになるのを懸命に抑えて、微笑み言った。
「ダンスの、お相手をしてくださる?」
「へ?」
 思わず、ニトロは間抜けに声を上げてしまった。
 そのあまりに慎ましやかな願いを聞いて周囲にも戸惑いの声が上がった。
 しかしティディアには少しも冗談の色はなく、その目には純粋な希望が満ちている。
 ――だからこそ、彼女の願いは、悪い意味で皆の意表を突いた。
 小さからぬ失望の気配が周囲に溢れた。
 ニトロは、それも無理からぬことだと思う。
 あれだけの激闘の報酬がダンスの相手?
 そんなことを望まなくても、これからこのホールでは舞踏会が開かれるだろう。ティディアが策を弄すれば――周囲から見ればティディアは当然――ニトロを相手にいくらでも踊れることだろう。
 それなのに?
 それなのに、そんなことを願うのは愚かに過ぎはしないか?
「これが私のお願いよ、ニトロ・ポルカト。愛しいあなた」
 それでも、駄目押しの言葉を、ティディアは微笑のままに、それどころか少女のように頬を赤らめて言う。
 確かに――ニトロから見れば、その願いはティディアの一つの策に違いなかった。ティディアが策を弄すれば……そう、これこそがその策に違いない。とはいえ、そうは言っても、彼女にとっても滅多にないくらいの絶好機をこんな願いで? ニトロは、周囲とはまた別の意味で深く驚いていた。確かに、こいつは北副王都ノスカルラで『私はニトロと一緒にダンスをする』とかなんとか言っていた。けれど……正直、かなりの無理難題を、それとも相応に涙を呑むことを願われることまで覚悟していたのに……
「……」
 ニトロは、ティディアを見つめた。
 ティディアもニトロを見つめ返す。
 その無言の見つめ合いに、周囲に広がっていた失望の気配が飲み込まれていく。
 王女の瞳には燃えるような色があった。
 その色は、生命の色。
 見れば胸元までほのかに赤らんでいる。
 そうして見つめ合う中、ティディアは己の体が焼けるように火照っていることを自覚していた。
 そして、その熱の中心核に何があるのかも自覚していた。
 ここにきて『弱い私』が息を吹き返したのだ。
 さっきはあんなに熱く斬り結んでいた彼に今は熱く見つめられて、心臓が早鐘を打ち、身を震わせる『弱い私』が私の膝をも震わせているのだ。
(……そうね)
 しかし、ティディアはその心を、その自分の真心を押さえつけることはしなかった。
 北副王都で一度認めたように、改めて『弱い私』を認める。
 確かにお前がいると、色々邪魔だ。ニトロと戦っていた時のような昂揚や幸福は味わえない。
 だが一方で、『弱い私』がいなければ彼に恋することもできないのだ。こうして熱い想念にくらくらしながら、彼に受け止めてもらいたいと期待する……このあまりにも幸福な時間を過ごすこともできはしないのだ。
 だから、『弱い私』――彼とこうしている時は、お前が私を幸せにして欲しい。お前は私が幸せにするから……お前も、確かに私には必要だから。
「……」
 沈黙は長かった。
 いや、時間にすれば十数秒である。
 それでもティディアにはニトロの返答を待つ時間が永遠にも感じられた。
 ――と、ニトロが表情を変えた。

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